目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

養老先生の思考より考える「文明による価値観の上での洗脳」と「自律的、自立的思考ー価値観ー」に就いて

養老先生の思考より考える「文明による価値観の上での洗脳」と「自律的、自立的思考ー価値観ー」に就いて

 

 

 

 

落語家・笑福亭笑瓶さん死去 66歳 「噂の東京マガジン」など出演 (msn.com)

 

だからかうして65歳前後がむしろほんたうの意味での人間の寿命でせう。

 

茂木健一郎氏“日本病”指摘、テレビ番組や教育バッサリ「『バカの壁』の気持ち悪さが支配」 (msn.com)

 

其の茂木氏の意見はしかし過激だ。ー自分は元元彼が余り好きでは無いがー

 

「日本国民はますますバカになる」

「日本のお笑いは精神年齢の設定が幼い。社会の問題について、大人としてメタ認知を提供するという気概もインテリジェンスもない」

「日本をふたたび輝かせるためには、いつわりのやさしさはいらない。ダメ出しする厳しい愛がなければ、この国はいつまでも立ち直れない。いい加減にした方がいい」茂木健一郎氏“日本病”指摘、テレビ番組や教育バッサリ「『バカの壁』の気持ち悪さが支配」 (msn.com)より

 

だが其の「日本國民のおバカ化」とはほぼ間違いの無いことだらう。

其処で自分が感じて居るのは「日本と云う世間の感情化」のことである。

 

要するに「感情」を柱に据え其の価値観を組み立てるので「理性的批判力」はまず身につかない。

また日本人に取り大事なのはそんな「世間」としての「社會」なのであり「個」の判断は常に其れに従って居なければならない。

 

其れでもって「日本の社會」其れ自體がおバカ化すると其れに従い日本國民も総じておバカ化して行かねばならぬ。

 

だから其れはもう幾らなんでも違うだらう。

其れはもう明らかに✖だらう。

 

では何故日本人がさうしておバカ化するのだらうか?

其れも本來ならば東洋で壱番利口な國民だと云うのに何でそんなバカばっかりになって行くのだらう?

 

 

まさに其れは「精神の自律性、自立性」の部分を鍛えて居ないからでのことだらう。

つまりは其の「偏差値教育」にも大きく問題があるのだらう。

 

尚かって自分は家庭教師と塾でもって「進学壱本槍」では無い「補習」の部分を主に担当して居た。

其れでもって通知表が2のところを3又は4にアップさせる訳だ。

 

また通知表が4や5の子もまた教えては居たが彼等はむしろわたくしより頭が良いので何も教えずとも常に其の4や5なのだった。

だから別に彼等に何かを教えて居たのでは無く「出来ない子を普通に出来る」やうにすることを主に頑張って居た訳だ。

 

其の「補習」の意義は大きく彼等の父兄からいつも大いに感謝されたものだった。

其の意味での「学習塾」や「家庭教師」の意義は兎に角大きい。

 

何故なら学校の先生方はむしろ「出来ない子を普通に出来る」やうにすることは常に難しくなることだらう。

其れは何せ教える子等の数が多いのでイチイチ個別に対応などしては居られないからだ。

 

だから其処からこぼれ落ちた子等をかっての自分が助けてやって居たのである。

其の子等もすでに今では四拾代前半~四拾代後半での年齢となって居る。

 

 

尚其の「日本の輝き」のことは今や口にすべきことでは無いやうに思う。

其れも實質的にはすでに「輝き」どころか須らく「破壊」されるに至って來て居る。

 

其の「破壊」は上記の如きあらゆる努力の意義を無効と化す。

なのでむしろ「日本としての価値」が続いて行くことだけでも御の字なのだらう。

 

其れと「社會」は特に「日本の社會」は弐重にヤバく「御先は眞っ暗」だとさう思って置くより他は無い。

但し「近代型文明」としての価値尺度に照らし合わせてみた場合に限り。

 

「日本の社會」は其の意味で「価値観の上でのコペルニクス的転換」を成し得る絶好の機會を得て居るのだが其れもあくまで「個としての認知力」が確保された上での御話であり「全體主義民族」としての我我個個の日本人の誰もが其れを成し遂げられる訳では勿論無い。

 

いずれにせよ茂木氏の此の厳しい御意見にはむしろ全面的に賛同させて頂きます。

 

 

養老孟司「思い通りにならない時に人は試される」 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

對人⇔對物

其の對人関係ー人間関係ーが嫌いな人はおそらく藝術家などに多いのではないかとも思われる。

 

其れと學者などにもさうした部分がまたあるのではないか。

思うに養老先生は矢張り其の「學者」タイプの方なのだらう。

 

尚自分に限れば「理屈の捏ね回し」と「ブッ飛んだ感度」とが共に得意である。

つまりは右脳と左脳、また大脳新皮質と大脳旧皮質の對立関係がむしろ曖昧で融通無碍に行き來出来るからつまりは両方イケル所謂「両刀使い」の人間なのだ。

 

養老先生はさうして人間をまた現存在を常に「外側」より批判して居られる。

其れも普通は現存在を常に「外側」より批判することは極めて難しい。

 

何故ならあらゆる「バイアス」から離れないと其の種の批判は難しくなる。

現存在は普通其の「社會的バイアス」からはまず離れられない。

 

要するに「理屈」以前に「感情的」な其の場の価値観に縛り付けられて仕舞う。

だから其処での意思決定は概ね「社會的バイアス」が強く働くものとならざるを得ない。

 

ところが養老先生は其れに縛られて居らずよってかうして「社會其れ自體を批判的に捉える理性の力」をお持ちなのだらう。

 

 

尚養老先生は現存在其れも日本人はすでに「對人」ばかりになって居て「對物」の部分がほぼ消え去って居る、と云うやうなことを常に述べられて居るが其の点で自分も同感である。

さて自分は何故か生まれついての人間嫌いで其れこそ幼稚園の頃から「みんなで何かをする」ことが大嫌いだった。

 

故にか元元「對物」の世界のことの方を良く知って居る訳だ。

読書などで培われる観念もまた自然も要するに其の「對物」の世界のものである。

 

其の「對物」の世界はしかしながら豊かな世界を形作る。

藝術は其の豊かさの世界の壱端を我我に示すが其れは己が心と云う鏡に其の世界のあり方の豊かさを其の侭に映じて居る様なのである。

 

ところが「對人」の世界は別に豊かでも何でも無く要するにお仕着せがましく兎に角鬱陶しい。

要するにそっと放って置いて呉れれば良いのに何だかんだと世話を焼きたがりしかも其の価値観は平気で間違って居たりもする。

 

なので「心の純粋さ」を保つ人には「人間界」其のものがとても生き辛く感じられて居るのである。

だが元元ゴチャゴチャした心性の人間に取りさうした部分はまるで理解出来ずつまりは相手もまた自分と同じやうにゴチャゴチャした価値をこそ望んで居るのだと勝手に解釈して居る。

 

でもって彼等がまた彼女等が何を考えて居るかと云うと要するに「同調=同質性」との基準をまずは柱となし其処にて人生上の価値を堅固に組み上げるものだから其れにみ合わぬ価値はそも理解出来ぬのだし「狂った」価値であるともさう決め付けて仕舞う。

 

其のやうに現存在は「集団」となると必ずや「全體主義」の履行者となるから逆に其れが極めて危険である。

 

 

ー社会的・経済的価値のある・なしは、現実と深く関わっています。いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。

なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです。ー「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 (msn.com)より

 

「對人」の世界では左様に「価値が現實化」されて行く訳だ。

其の現代社會が奉ずる価値とは「社會的・経済的価値」=「同質化されし価値」のことだ。

 

さて哲學的、宗教的にむしろ「目に見える今の価値」は「虚妄」とされることの方が多い。

歴史上哲學者や宗教家は其のやうにむしろ「現世利益としての現状認識」を批判的に捉えて來て居る。

 

ところが現代社會ではむしろ「現世利益としての現状認識」に基づき生きて行く方が時代に合って仕舞うのだ。

また其のことはとどのつまり「現世利益としての現状認識」としての極大化の様を意味して居るのだらう。

 

他の言葉で分かり易く其のことを言えば「生其れ自體、観念其れ自體の合理化」であり現金化であり現ナマ主義の蔓延のことである。

また其れは「浪漫の唯物化」なのだとも言えやう。

 

其のことをあえて「感性」の方から捉えると「浪漫のカケラも無い都會の砂漠に咲くいやらしいドドメ色をした欲望の🌸」だけが咲き競って居る感じであらう。

其の「浪漫のカケラも無い都會の砂漠に咲くいやらしいドドメ色をした欲望の🌸」はそも「自然」を感じ取る感性に欠けるのだ。

 

また其れは急にでは無く次第次第にさうなって行く。

よって其れは60年代、70年代、また80年代、90年代、さらに21世紀と云うやうに次第次第にさうなって行く。

 

 

何を言って居るかと云うと文明による「価値観の上での全體主義」により我我現存在の認識其れ自體が謂わば大きく捻じ曲げられまさに其のやうな「洗脳人間」となって行くのである。

またつまりはさうして歴史の上で先哲が築き上げて來しところでの認識上の眞理の部分が反故にされおおまさに誰もが其の「洗脳」を受け容れ「非人間化」して行かざるを得ない。

 

従って今我我現代人がやらねばならぬこととはまさに其の「對人」の部分でのCUT OFFであるつまりは其の文明が奉ずる価値からの心理的離反であり逆に「自然」をどれだけ見詰めて行けるかと云うことのみである。

 

尚価値の對立は、

 

理想⇔現實

浪漫主義⇔現實主義

 

とのことがまずは考えられるが、壱般に文明は「現實」を「理想化」することは不得意で逆に「現實」を「現實化」することこそがむしろ得意である訳だ。

またつまりは「現世利益」に拘り過ぎるからこそさうなって行くのだらう。

 

また「価値ヒエラルキー」に拘り過ぎるからこそ極端な格差が生じて仕舞う。

つまりはそんな現代社會の奉ずる「観念的な価値」に重きを置き過ぎると其れこそ次第に「誰もが生き辛い社會」となって行かざるを得ぬ。

 

ところが其処にて「観念的な価値により達成される進歩」はあくまで正しく且つ「経済成長」も正しいものとさう誤解されて居る。ーとさう洗脳されて居るー

 

だがあくまで實相の方は、

 

抽象的価値⇔具象的価値

 

なのだから其の「具象的価値」としての「自然」や「感覚面」を逆に「抽象的価値」と等価に保つ必要が是非にでもある。

ところが今事實上は「抽象的価値」が大きくあり過ぎまた其れを現代文明が個に對し常に刷り込んで行くのである。

 

なので個の方も普通に都會人をやるだけで實は「洗脳」されて行かざるを得ない。

また其の「自然としての子供」は次第に要らなくなる。

 

但し「自然としての子供」云云以前に文明がより搾取の度を強めもうみんなに金が渡らぬやうにしたので子供が減って居るだけの話でもまたある。

みんなが30年、また半世紀前の倍額の賃金を貰って居れば其れこそもう日本の人口は弐億人を突破して居る筈である。

 

だからまずは「日本社會の馬鹿野郎=政治、行政の馬鹿野郎」が實は此の参拾年で實は倍程にも其の搾取の度を強めて居る事實を決して我我は見逃すべきでは無い。

 

 

其れと兎に角「日本社會の馬鹿野郎=政治、行政の馬鹿野郎」は決まって木を伐り倒したがる。

其処に木がまた林が森があると兎に角其れを伐り倒し開発したがる。

 

でもって開発して良くなるばかりかむしろ壱層自然との価値の乖離が甚だしくなるばかりで實は何壱つ良いことは無い。

またそんなことばかりを仕出かして居るから子等も減って仕舞うのだ。

 

尚個人的にはむしろ将来の日本の人口減は素晴らしいことだとさう思っては居るのだが。

 

 

ー私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。ー「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 (msn.com)より

 

ー人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさら何を驚くことがあるだろうか。『論語』の一節は、そういう反語表現だというのが私の解釈です。正しいかどうかはわかりません。

確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。ー「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 (msn.com)より

 

また最も重要なのが其の「學問の意義」=「御勉強することの意義」に就いての部分です。

でもって問題はさうして「現代社會が奉ずる価値観」にドップリ浸かりつつつまりはモロに「洗脳」されつつ自分は「御勉強」をして來たとさう思い込んで居る人人がむしろ圧倒的に多いことでせう。

 

其の「御勉強」と云うことは最終的に「批判力」の差として認識されることです。

ですから其れは持ってる偏差値の高低などとはむしろ関係が無く要するに如何にして自律的、自立的な思考が出来るかと云うことです。

 

でもって「御勉強」しませんとまさか「批判力」が身に付くことは無い。

何故なら「バカ」を「バカ」として断ずるには其の「バカ」以上の御勉強を重ねて置きませんと其の批判にはまるで説得力が出ない。

 

「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」「バカ」

とさう「バカ」を幾つ重ねても君が御勉強して居ないと其の言葉にはそも眞実味が出ない。

 

其の「御勉強」には現存在としての認識ー心のあり方ーを変えるだけの凄まじいパワーがそもある。

でもってむしろ「御勉強」することでしか「世界観」を変えることなどは出来ない。

 

 

無論のこと何年もの間海外を放浪して來て「世界観」がスッカリ変わることなどもまたある訳ですがむしろ其れが出来ない人の場合は例えば「読書」をすることだけで「世界観」を変えて行くことなどもまた可能です。

 

また「高校講座」の動画などは其の全部を是非視て置くべきでせう。

例えば「美術」の方などもまた随分面白い内容です。

 

さらにユーチューブの方でも物凄く勉強になる動画がもう幾らでもある。

またNHKオンデマンドの方も視ねばならんわ、プライムヴィデオにて映画も視たいわで…。

 

兎に角自分等は生活の全てが其の「御勉強」です。

また趣味の万年筆と石も当然に其の「御勉強」の為の友です。

 

だから飯を食う時もまた「高校講座」の視聴であり後は便所に入る時と寝て居る時だけでせうか、まさに其の「御勉強」のことを忘れて居られるのは。

嗚呼其れと「石採り」の時だけだ、其の「御勉強」のことを忘れて居られるのは。

 

 

さて其の「自分」ですが「自分」は脳味噌にインプットしてまさに「自分」で築き上げるものです。

だから其の「インプットとしての御勉強」をしない人には基本的に「自分」など居ない。

 

其処に居るのはむしろ「洗脳された非自己」ばかりである。

其れもずっと継続的に兎に角死ぬる迄「御勉強」は続くのです。

 

でも其の「御勉強」は例えば「東大京大壱直線!!」と云うやうな偏差値教育のものとは質的に異なり要するに「思考力」を高めんが為の知的努力の場のことなのだ。

 

尚現存在はむしろ「御勉強してナンボ」での生物です。

其のやうに現存在は「知的営為としての今」を生きて居ざるを得ぬ生物です。

 

だから「自然」の方をあえて向くことは出来ても「自然」其のものにはもはや還れない「哀しみ」を併せ持つ現象なのだ。

ですがであるからこそ「持って生まれた理性」をより壱層磨き込んで行かねばなるまい。

 

其の「理性を磨き込む営為」と「現代文明が奉ずる抽象的価値に洗脳されること」とはまるで別物です。

よって養老先生が否定的に語られて居るのは「洗脳されること」の方での観念であり「理性を磨き込む営為」としての観念とはまるで別物の筈です。

 

ですからわたくしの場合も当然に「理性を磨き込む営為」としての観念を〇とし「洗脳されること」を✖として置きたいと思う。

其の持ってる偏差値が異常に高い奴はしかしながら文明に洗脳されて居る可能性などもまた高く御座ります。

 

 

また自分はさう云うのでは無く「唯我独尊にて御勉強を進める」タイプですのでそも「文明」なんぞまるで信用して居らずまた現存在自身に関しても常に懐疑的です。

だけれどもさうしたところからこそ何ぞオリジナリティーに富んだ考えが出て來さうな気がどうしても致して來て居る。

 

さうして己が頭の中身は自分自身で創り上げて行くもののことだ。

其れは学校や塾では決して教えては貰えない自分自身としての思考のことです。