かうして『ブラック・ジャック』に嵌まりし年末の我ー手塚 治虫氏の作品に於ける理性のあり方としてのバランスの良さー
宗教政党が政権を担う場合の方が政治倫理的には良くなる可能性などもまたある。
要は政権与党に於いて倫理観が麻痺して居ては決してならない。
其処で此の際自民党員を全員公明党の方へでも鞍替えさせたらどうか?
また其処でもって佛法などを學びちゃんとした心の整えをしてから是非政治参加すべきなのではなからうか。
但し公明党の方にもまた問題が無い訳では無い。
何故なら自民党壱党支配體制を継続させて來し責任は公明党が大きく受け持っても居やう。
今後公明党はむしろ宗教政党としての心の潔癖さを第壱義的に國會の場にて訴えて行くべきだ。
即ち政治の世界より惡を根絶せしめおおまさに聖なる大白蓮華の🌸をば政治の世界に是非咲かせるべきである。
佐藤浩市が急激老化?「髪は真っ白、頬も体もやせこけて」撮影現場の見物客が騒然 (msn.com)
まさに此処からも年取ってから痩せることは太ること以上にリスクが高くある。
逆に若い時に太るのは良く無い。
我は40歳位まで腹は出て居なかったので其れが普通である。
尚見た目が若く見える奴は實際に長生きのタイプなのださうだ。
だが自分の場合には何せ頭脳を酷使して来て居るので其処はどうなるものやら分からん。
但し頭は使えば使う程良くなる。
體は使い過ぎるとむしろ老化が早くなるが頭の方はある意味非限定的な概念過程ですのでもう何処までも頭が良くなって行くものだ。
嗚呼、それにしても困ったなあ。
其れも何時の間にかこんなに御利口さんになっちまって。
「寒すぎる」と客や従業員が悲鳴 スギ薬局が店舗に“暖房禁止令”を出していた (msn.com)
此のスギ薬局の意思決定にはそも問題がありよって我はかって五年程其のスギ薬局の意思決定に對し異議を申し立てて来たつまりは個人的にココと喧嘩をして来て居た。
ー但し我は拾年以上に亘りスギ薬局の優待ユーザーだった。だがであるからこそ間違いの考えを正さうとし色色と意見を述べたのである。ー
さて以下に重要な意思決定上の御話をしてみたい。
お金持ちだけが知っている、人生に必要な「6つの豊かさ」 (msn.com)
ー
6つの豊かさ
・お金の豊かさ(マネー・リッチ)……経済的な豊かさや物質的な豊かさ・家・車などの所有物。
・仕事の豊かさ(ワーク・リッチ)……仕事で得られる豊かさ・充実度・キャリア・貢献・自己成長など。
・健康の豊かさ(ヘルス・リッチ)……健康・美容・アンチエイジングなど。外見にも反映される。
・心の豊かさ(マインド・リッチ)……心や魂の豊かさ、自己成長など。マネー・リッチを実現するための土台。
・人間関係の豊かさ(フレンド・リッチ)……人間関係・家族関係・パートナーシップ・所属するコミュニティでの交流や貢献。ワーク・リッチを実現するための土台。
・時間の豊かさ(タイム・リッチ)……時間的ゆとり・やりたいことをやる時間・趣味などに有効に使える時間。ヘルス・リッチを実現するための土台。
ちなみに、「お金」「仕事」「健康」は自分からも人からも目に見える(見えやすい)領域ですね。「お金の豊かさ(マネー・リッチ)」が大きく影響を与える「マネー・リッチ・ゾーン」と呼んでいます。
そして「心」「人間関係」「時間」という他人からは一見、目に見えない(見えにくい)領域。「心の豊かさ(マインド・リッチ)」が大きく影響を与える「マインド・リッチ・ゾーン」と呼んでいます。
「お金の豊かさ(マネー・リッチ)」は「心の豊かさ(マインド・リッチ)」によって支えられています。ー以上より
さてこちらは素晴らしい記事です。
まさに勉強させて頂きました。
要は「心の豊かさ」の方がむしろ大事だと云う視点のことです。
其れも物事を此れだけスッキリと整理し伝えて頂けると心底より其れが分かって来ます。
要するに「心の豊かさ」=實存的な豊かさにより「お金の豊かさ」=社會的な意味での豊かさがしかと支えられて居ると云う事です。
つまりはさうして他人からは見えない部分での豊かさこそが他から見た場合に「幸せ」だとされる豊かさの前提条件となって居ると云う御話です。
但し、
「お金」「仕事」「人間関係」=社會的な価値
「健康」「心」「時間」=實存的な価値
と組み替えても良いやうに個人的には思う。
何故なら元元「人間関係」が煩わしい人などもまた居るのですから。
でも「健康」が煩わしいと思う人は居ないことだらう。
社會的な価値⇔實存的な価値
其のやうに現存在の寄って立つ価値とはとおそらくはさう「分離」されて居ることでせう。
だけれども其のやうな呼応関係、即ち所謂縁起的な相互関係がソコに有ること自體が至って複雑な話です。
ですがどうも動物にせよ植物にせよ其の社會と申すか環境とは切っても切れぬ縁の中に初めから放り込まれて居るのだから何やら生命とは因果なものです。
然し例えば石の場合にも環境とは切っても切れぬ縁の中に初めから放り込まれて居るのだった。
すると「現象する」と云うこと其れ自體に其の関係性が元來仕込まれて居るのやもしれません。
要するに「現象する」こと其れ自體が壱種の「分離」なのだとさうも考えられやう。
逆に「悟る」こととは「現象しない」ことですので「分離」じゃあ無い。
まあ其の哲學的談義は壱旦脇に置くとして、
社會的な価値⇔實存的な価値
今壱度此の関係性のことをしかと考えてみまするに、
つまりは其れが「相剋」し且つ「相即」する関係性を持つが為に、
實は相互に「全否定」出来ぬ要素と化して居る訳だ。
なのでほんたうのほんたうは、實は其の全部を「認め」ないとイケません。
何故なら、
「お金」「仕事」「人間関係」がゼロで「健康」「心」「時間」がタップリですと此れはもう如何にもヤバいですよ。
逆に「お金」「仕事」「人間関係」がタップリで「健康」「心」「時間」がゼロですと此れももう相当にヤバいです。
でもどちらかと言えば藝術系の人は、「健康」「心」「時間」の方がタップリなのかもしれません。
何故なら彼等はさうして「唯我独尊」での境地をこそ生きるからなのだ。
逆に自民党の方方やまた官僚の方方などは、「お金」「仕事」「人間関係」の方がタップリですが「健康」「心」「時間」の方がほとんど無いのやもしれません。
また其れは、
他から見える豊かさ⇔心の豊かさ
とさう言い換えても良いことだらう。
でもって此れもまた實は相互関係があるので、つまりは壱方は他方を全否定することが出来ない。
そりゃさうでせう。
幾ら心が豊かでも金が無いとまた人間関係が無いと生きては行けない。
ですが、上のリンクの記事で著者の方が仰るのは、あくまで「心の豊かさ」の方が前提となり「他から見える豊かさ」の方が其れに支えられて居るとさう仰る訳だ。
すると「他から見える豊かさ」を成就することでむしろ「心の豊かさ」の方を見失い易いとさう言い得るのやもしれません。
ー但し此の記事の望月氏は金持ちには其れが分かって居るとさう仰られて居るが事實上は多くの場合むしろ其れが分かって居ないことの方が多い。即ち金銭的に恵まれると貧乏人の苦しみには共感出来なくなりがちなのだ。ー
また其の「他から見える豊かさ」には無論のこと物質的な豊かさのことが含まれて居ります。
物質的な豊かさを追い求める余りに「心の豊かさ」の方を見失い易いとさう言い得るのやもしれません。
逆に社會的な価値が乏しくとも内面的に充實した価値を生きることは可能である。
即ち夭逝した藝術家の生に価値が無かったとはまさか言えぬ訳だ。
また内面的に充實した価値を生きることと社會的に充實した価値を生きることとはそもまるで別物である。
問題は其の内面的に充實した価値の方こそが見えにくく社會的に充實した価値の方ばかりが目に付き易いと云うことである。
其れは何故か?
何故なら社會の方が個よりも常に大きいからなのだ。
其処を逆転させ見せて居るのが其れこそ「藝術」や「宗教」の分野のことではないか。
即ち釈迦やキリストの教えは逆に社會よりも常に価値がデカい。
であるからこそ藝術もまた宗教もとても大切な内面的領域なのだ。
だからどうも此の記事の筆者の方は此の辺りのことをこそ述べて居られるのではないか。
つまりは其れが「社會的な価値」に對し全的に依存することの危険性をこそかの筆者の方は述べられて居るのである。
其のやうにむしろ「デカいものが齎す価値」に関しては基本的に懐疑的である方が其の「デカさ」に素直に従うだけの心のあり方よりもより望ましいのだと言える。
さて本日わたくしはとても重要な価値認識の上での御話を致しました。
「社會的な価値」に對し全幅の信頼を寄せるのは其れはズバリ言って「洗脳」です。
其の「洗脳」を自ら解き己が理性を発現させんが為にこそ其の「内面世界」が拡がって居る。
だが其の「内面世界」は「表現」されぬ限り周りに見えるものとはならぬ訳だ。
さうして藝術家や宗教家の方方は良いが我我凡人はむしろ非常に「洗脳」され易い人間達なのだと言えることだらう。
故に其の社會の価値観に對し疑問の意を示すことは決して悪いことでは無い。
まず此のやうなことを申せば多くの方方が其処に疑問の思いを抱かれることだらう。
ではあるがあくまで其れが人文學的に半世紀余りを格闘して来たわたくしとしての素の結論なのだ。
さて本年もまた色色とあり全くゴチャゴチャの壱年であったが何とかかうして無事に終わりさうである。
だが先日のミネラルフェアにて五萬円の翡翠の原石を買わなかったことは失敗だった。
代わりに萬年筆を落札したが其れも六~七割方は失敗だった。
結局またやらかしちまった。
だが世間と違うのは我は👩に嵌まったりはしないと云うことであらう。
👩に嵌まりそんな隠し子の居るアナタ、アナタは僕ちゃんなどよりずっと今後が大変ですよ。
尚さうして實は萬年筆仙人ですら過ちをやらかして仕舞う可能性が常にある。
兎に角👩にだけは嵌まらぬやうに。
其れも冬休みに不純なる異性交遊などを決してせず常に聖書か又は御経の内容だけを學んで居るやうに。
もしや「廃墟」などに嵌まっても宜しいのでせうか?
どうぞ、どうぞ、是非「廃墟」を訪れ其の趣に浸り切って來て下され。
むしろ其のカルトなる趣味を最高度に突き詰めやってみて下され。
其れも女體趣味以外ならば何でも良いです。
まあ大酒飲んで死ぬなら其れもまた壱興か。
さてわたくしは今さうかう後悔などをしつつプライム・ヴィデオにて『ブラック・ジャック』に嵌まって居ます。
こちらはプライム会員ですと無料にて視られるものが多い。
其の内容ですがどれも「素晴らしい」と云う他は無い。
今世の中には様様な漫画やアニメの類が溢れて居ることでせうが矢張りと云うべきかかの手塚治虫 - Wikipedia氏ー手塚プロダクションーの作品は別格です。
尚我我還暦世代はまさに其の手塚作品に大きく影響を受けて来た世代となる。
個人的に好きだったのは手塚作品に於ける生の価値其のものに對する向き合い方の眞面目さの部分です。
尤も今の漫画家の作品が不眞面目な訳では無くむしろ部分的にはより表現として掘り下げたテーマの追及が為されて居ることかとも思うのだが兎に角其の生の価値に對する生眞面目さと云うものがかの昭和の時代に共通する共通認識であった気がどうしても今はして居る。
だから今其れ等を読み返してみると「懐かしい」だけでは無く心理描写としての「深い」何かを其処に常に感じさせられる。
要するにまさに其れが「人文學」的な意味での内容の深さなのではなからうか。
尚自分がアニメなどに嵌まったのは「ガンダム」や「北斗の拳」迄でしたが其れ以前に嵌まって居たのが勿論此の手塚作品の数数でした。
尤も自分は両面的人間ですので實は眞面目系の漫画やアニメだけでは無く「カルト物」とされる作品などにもずっと縁して来て居りました。
其の例
白土 三平
ますむら ひろし
高橋 葉介
吾妻 ひでお
等等
また特に好きだと云う程では無いがアノ永井 豪なども凄い漫画家なのだと思う。
ちなみにますむら ひろしと吾妻 ひでおの作品は70年代当時は可成にカルトチックなものであった。
また白土 三平の作品は漫画では無く劇画で要するに時代劇の形にて社會問題を其のテーマとして追及したものでせう。
其れ等と比し手塚作品はまず健全ですが實は健全なばかりなのでもありません。ー壱番不健全なのはズバリ永井 豪の作品だがー
即ち「健全」と云うことは其処に「疑問」を含まないことです。
ですが眞の意味での「健全」さとはむしろ「疑問」ダラケになることなのです。
よって其の眞の意味での「健全」さの部分をこそ藝術や宗教の分野が担って居たりもまたする訳だ。
要するに其の社會的価値に對し疑問を抱き異議を差し挟まぬ優等生では眞の意味での「健全」さに至ることが出来ぬのです。
尚自分の場合は学生時代に其の優等生と劣等生を繰り返し何度もして來て居ります。
だから傍目から見るとドッチなのだかまるで訳が分からんことでせう。
また自分でも其の両面を持って居るとさう思えるのです。
だから馬鹿ー知的な意味での暗愚さーとしての苦しみも分かるのだしインテリの方方の精神的苦痛ー知的であるが故の苦しみーの方も同時に了解される。
そんな手塚作品の中で70年代当時に熱中して読んだのが「火の鳥」や「ブッダ」でした。
尚「鉄腕アトム」はアニメの方は小さい頃にTVにて視たが興味はありませんでした。
還暦世代の理系の學者などは其の「鉄腕アトム」から大きく影響を受けたなどと屡語りますがあくまで自分に取り其れは単なるSFとしてのドタバタ劇でした。
当時よりわたくしは文明の未來に對し懐疑的でありよって生命其のものの意義を追及するかのやうなつまりは人文學的な問いの要素を多分に持つ其れ等の手塚作品に強く惹かれたのだった。
ちなみにわたくしは70~80年代当時SF小説マニアでもまたあり特にスタニスラフ・レムの作品を好んだが他のものの内容はすでにほぼ忘れて仕舞いました。
まさに其の70~80年代当時は他に純文學だの詩の方だのも多くを読み込んで居たのですから今からすれば信じられぬ程の読書量でした。
「火の鳥」や「ブッダ」は如何にも学校の先生が冬休みの課題図書ー課題としての漫画ーとして御勧めしたくなる作品であり其処はわたくしの場合もまさに其れに同意させて頂きます。
要するに自分の子には絶對に読んで欲しい漫画作品なのです。
ですが子が何処にも居ないので其れを読む目もまた何処にもありませんのです。
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さて其のブラック・ジャック作品の中では低評価なのがこちらですが其の全部を視てみたところむしろ素晴らしい作品でした。
要するに「昭和の価値観」が入り過ぎて居て今の若い人等には其れが伝わらないのではなからうか。
特に驚いたのが、
「医師は壱體何の為に人の命を助けるのか?」とのまさに根本の部分での問題提起が其処に為されて居たことです。
要するに其れは、
「人間の寿命が延び人口が増え其の結果自然を破壊するに及ぶのだとして其れでは壱體何の為に医者は居るのか?」と云う要するに哲學的な問いが為されて居ると云うことです。
逆に言えば「寿命はむしろほどほどで良く人口もまたほどほどで良く」もしもさうなのであれば「自然が破壊される」こともまた無いからつまりは医術をも含める科学的な人為的方法論=進歩主義に對する強烈なアンチテーゼとなって居るだらう究極的な「問い」のことです。
ちなみに其の部分に就き個人的には以下のやうに考える。
人類ー文明ーが眞の意味で理性的なものともしもなり得るのであればのべつまくなしに正の価値のみを追求することはしない筈です。
逆に申せば正の価値のみを追求することは眞の意味で理性的な態度ではあり得ない。
其の理性に對する根本での文明による価値の構築の仕方其れ自體に誤りが生じて居る。
故に個として、此の實存としての壱つの理性として、其の文明による価値構築の様になど惑わされて居てはならない。
まさに其のことこそが我が結論でありつまるところ其れは「個としての認識のあり方」にこそ帰結する問題なのだ。
ではむしろ社會に對しさうして疑問ダラケで「反対!」ばかりをして居れば良いの?
まあ其れを信ずるよりはむしろ信じて居ない方がよりベターであらう。
なので其の「信ずるもの」=「信心の対象」其のものがそも間違って居る。
其の究極としての人類=文明が抱える命題を解決する糸口は外部への批判の部分には無くむしろ己の心のあり方を変える=認識を正す部分にこそ存して居る。
じゃあアンタみたくカルト人間化すれば良いのか?
確かに其のカルト趣味もおそらくは大事なことだらう。
但し社會がカルト化すればする程に人類=文明はむしろヤバくもならう。
其れとブラック・ジャックと云う無免許医のある意味ライヴァルとしてDr.キリコなる殺人医師がまた登場する訳だ。
其のDr.キリコの論理とは「此の苦に満ちた世界から契約者を安樂に去らせる」ことにこそある。
其の論理は壱見異常なやうに見えて實は正しいことなのでもまたある。
例えば戦場にて酷い傷を負った兵士を安樂死させることなどは間違いでも何でも無い筈である。
其のやうに手塚作品には生の正と負の側面に於ける對立関係が必ず描写されて居る。
わたくしはまずは其の点が優れて居るのではないかとさう思う。
漫画やアニメに限らず文學でもまた宗教でもさらに繪画や音樂にせよ其の弐面が描かれるものこそが作品表現として本物なのではないか。
實際に生きると云うことはそんな情けない迄に矛盾に直に晒されることである。
むしろ生其れ自體がそんな矛盾としての塊なのだ。
其の矛盾をどう解消するかと云うことこそが哲學と宗教に於ける課題なのであらう。
さうして哲學の場合は其れを観念的に克服しやうとし宗教の場合には其れを心のあり方として乗り越えて行かうとする。
個人的にはまた其れも両面が必要なのだとさう思う。
兎に角価値分別の全てに亘り両面の価値を同時に理解する観念的なまた心理的な態度を是非涵養して置かねばなるまい。
以上の観点より上記の作品に對する個人的な評価は☆☆☆☆☆である。
左様に人間の評価と云うもの其れ自體が何をどう見て居るかと云うことで大きく異なって来る。
価値観と云うものはまさに其のやうなもので實存の個性によりまるで異なるものである。
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對して比較的高評価なのがこちらだが此れは単なるSF映画に近い設定であり先に述べた如き哲學的な問題提起の部分が少し弱いので個人的な評価は☆☆☆止まりである。
所謂言語また言語に寄らぬ「表現」には是非其の生に於ける弐項対立が生じせしめるところでの「何ともならん矛盾」を描き出す部分が欲しい。
だが現實には此の文明と云う社會のあり方が描き出すものとは技術的乃至は制度的な矛盾の様であり逆に其の種の根本としての生に對する問い、現存在其のものに對する問いを発するやうなものなのでは無い。
従ってむしろ「根本でのところでの矛盾」をこそ問うて行かねばならぬのだ。
現代文明の奉ずる価値観はむしろ其の逆方向へと舵を切り歩みつつあるのだと言える。
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うわお、こちらも是非視たい。
何て懐かしいのだ、いや懐かしいだけでは無くまた此れを視て是非文明の意義に就き考えてみたい。
とのことで本年の冬休みの課題は手塚 治虫氏の作品其のものとなり申した。
其れもあくまで自分に取っての課題ですが手塚 治虫作品に對し興味のある方は是非御勉強して置かれると宜しいことかと思う。
兎に角個人的に昭和時代の漫画やアニメなどはとても「バランス」良く纏められて居るものと思う。
其の「バランス」とは畢竟理性としてのバランスの良さのことである。
即ち其れ等は現代的な解釈の如くに合理化壱本槍なのではよもや無いのである。