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文明批判と美と心の探求と

現代社會としての「抽象的幻想性」に對する壱批判ー「サブカルチャー」の視点より読み解く「抽象的幻想」の限界に就いてー

現代社會としての「抽象的幻想性」に對する壱批判ー「サブカルチャー」の視点より読み解く「抽象的幻想」の限界に就いてー

 

 

 

大企業でバリバリ活躍した人ほど危ない…定年後のサラリーマンが急激に老け込む残酷な理由 (msn.com)

 

おそらく此の種の記事を眞面目に読む定年世代が多いことでせう。

でも自分の場合は元元かうして自分軸にて動く人間ですのでさうして老け込まず逆に若返って來て居ます。

 

但し體の方の老化ばかりはもはや何ともなりません。

其れと所謂「非眞面目」な人ですので所謂安定的な老後を送るのでは無くむしろ日日「闘う老後」をこそ突き進んで居る。

 

逆に申せば其の「闘い」だけが生き甲斐だと云う感じだらうか。

でもそんなもんはまさか多くの人人の生き様ではよもや無いことでせう。

 

 

ひろゆきが語る「疲れたら休む」考えが根本的に間違っている理由 (msn.com)

 

さて全面的にこちらでのひろゆき氏の御意見に賛成します。

 

まずは其の「休むことに對する罪悪感」が何処から生じて居るかと云うとつまりは其れが「封建的奉仕精神」からです。

ですがもう日本は封建制國家でもまた戦前の體制の如き全體主義國家なのでも無い。

 

其れもあくまで建前上はさうなのだ。

故につまりは「休む選択は個としての自由」で良いのです。

 

つまりは其れは個としての主體的な判断に委ねられるべき問題だ。

其れを逆に日本人は個をあえて體制化して考える癖がある。

 

つまるところ其れは本質的に社會として「個」が存立して居らず逆に「社會的自我」=「世間」が全ての意思決定をして行く訳だ。

なんだけれども其の「世間の論理」にて正しい意思決定が出来るとは限らずいやむしろ其の「世間の論理」にて社會としての多様性や余力のやうなものがむしろ損なわれて行くのである。

 

要するに「狭い思考」=「井の中の蛙」的に窮屈な社會状況を生んで仕舞う訳だ。

但し今が江戸時代であるのならばむしろ其れは其れで良いのです。

 

 

江戸時代は何せさうして全てを「限定」し上手く世の中を回すやり方にて成功して居ました。

なんですが何度も申しますが今は時代が違います。

 

ところが其の「世間」に洗脳された日本人の何と多いことか。

 

また確かに学校なども宿題を出すのは止めた方が良い。

どだい先生アンタが学校で教えるべきものを家でもってイチイチやらせてどうしますか?

 

そんなことやってるから塾が必要となるのです。

其れも本來なら塾なんぞ要らんが学校の教師がそもダメなので其の必要惡としての塾が榮える訳だ。

 

自分なんぞ昔中学生に因数分解や化学反応式のことを教えて呉れと何度も生徒さん方に言われほんたうに困ったものでした。

どだい数学や化学の教師は何で中学生が皆分かるやうに教えられないのか?

 

 

猶其の「休み」はまさに個人差として必要な人もあればむしろ不要な人もまた居るのではないか。

要するに日本人には「仕事」がむしろ生き甲斐である人なども結構居るのだと思われる。

 

そんな人に限れば「休み」を取っても何をやるか分からない人さえ居る訳です。

自分はむしろ其れとは逆のタイプで「自分」こそがむしろ仕事なんで「仕事」に行くともうまるで仕事が出来ないことにもなるんです。

 

要するに文人タイプでの唯我独尊型人間でせう。

なのであくまで自分の場合には「休み」はまさか休んでなど居られない日である。

 

逆に物凄く忙しいのである。

つまりは「やりたいことをやりたいやうに出来る時間」なので壱分、壱秒ですら無駄には出来ぬ。

 

左様に其れは常に「有限の時」ですので目壱杯に有効活用させねばならない。

但し意図的にやることを放棄しぶらりと出かけるサイクリングや山歩きの時間等も勿論設けて居る。

 

要は謂わば有用と無用の時間が両方ある方がむしろ「合理的」なのだ。

 

まずは「世間的」な価値に洗脳された日本人の時間の使い方には其の両義性の部分が何より欠けて居らう。

 

また「哲學的」な意味での「人生の目標」などはむしろ無いも同然のもの。

最終的に其の「人生の目標」は人それぞれに設定すべきものである。

 

個人的には其れはむしろ「社會的洗脳を解かんが為の理性的努力」であり「文明による破壊を批判せんが為の理性的努力」との点にのみ設定させて頂いて居る。

だから其れは👪主義でも無ければまた宗教的見地なのでも無い。

 

要するに作家的努力のやうなものであるに過ぎない。

 

 

そんな風にそも心理的立ち位置がシフトされて仕舞って居る自分にはそも「休日」に何をやったら良いのかが分からないと云う思い其れ自體がまるで分からない。

どだい其の「休日」こそが藝術を爆発させんが為の時ではないか!!

 

其れもひろゆき氏の御意見以外での世間的価値に毒されし「常識」の部分がまるで分からん。

 

其の「常識」とは所詮「世間體」を維持せんが為の処世術のことだらう。

だが「世間體」ばかりを気にすると其れこそ本質的には「休め」なくなり人生の目標其れ自體が其の「全體主義の履行」ダケになって仕舞う。

 

だがそんな「全體主義の履行」よりも「あえて休んで自らの頭でもって考えやりたいことをやる」ことの方が良くはないか?

何故なら其の「全體主義の履行」をやると、

 

1.大日本帝國の滅亡

2.文明の滅亡

3.地球環境の滅亡

 

などがまずは引き起こされやう。

其の滅亡の中で壱番怖いのが無論のこと3.である。

 

 

またひろゆき氏は書店の話でもって「遠回りのメリット」と云う話をして居られる。

確かに書店でたまたま「凄い本」に出合うことなどが屡ある。

 

要するに必ずしも効率的では無い部分にこそむしろ「本質的な価値」が眠るものなのだ。

其の意味での「偶然が齎す価値」のやうなものはむしろ大事にして置くべきものなのではないか。

 

さて其の「集団主義」としての日本人の意思決定が「世間」寄りにシフトされ過ぎて居る訳だ。

また其の「集団主義」は何せ「全體主義」との相性が良いからつまりは日本人は社會的にむしろ危ない民族なのだとも言えやう。

 

 

さて2月7日15時半よりたまたまEテレにて以下の番組を視た。

 

見逃し・同時配信 - 世界サブカルチャー史 欲望の系譜 - NHK

 

エピソード - 世界サブカルチャー史 欲望の系譜 - NHK

 

此れ等はまさに素晴らしい番組だと言う他は無い。

驚いたのはまさに其の「サブカルチャー」からの視点こそが現代社會の眞實を映し出す鏡としての役割をしかと果たして居る点である。

 

 

「自由と民主主義の実験場」アメリカの夢と悪夢 | アメリカ | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

さて此処では著者の丸山 俊一氏が色色と述べて居られますが其れに就き感じたことを以下に述べてみます。

まずは其の米國のことですが其れは明らかに文明史上初の實験國家です。

 

但し廿世紀にあったのはソヴィエト連邦型の社會主義國家と其の米國型のあくまで文明史上初の實験國家の両方でした。

即ち其処で文明は進歩の手段として社會主義的な統制の形を取るか其れとも自由主義としての限定の解除の方へ向かうかの二者択壱での問いを其処に突き付けられて居たのでした。

 

其の結果として戦後の冷戦構造が生じ其処にどちらが勝つのかまるで分からぬやうな時代が長く続いて居た。

ですがとりあえずは其のソヴィエト連邦型の社會主義國家が崩壊致します。

 

何で其れが崩壊したのかと言えば結局其れは國としての矛盾が酷くなり崩壊したのでせう。

但し社會主義國家であることを止め米國型の市場経済をやれば良いかと言えば其れはさうではありません。

 

何故なら米國型の資本主義経済のあり方はあくまで「抽象的理念に凝り固まった」上での謂わば赤裸裸な形での概念的欲望の解放でしか無い。

また其れはおそらく米國が奉ずるキリスト教の教えにも反することである筈です。

 

ところが米國が奉ずるプロテスタンティズムではあくまで働き稼ぐことは良いことなんです。

だけれども不必要なレヴェルにまで達し働き稼ぐことはむしろ悪いことであり勿論其処はイエス様の場合もさう考えられたことかと思われます。

 

其の「思想」のレヴェルでは東洋の思想の場合には常に「限定」した上での展開となるが米國が奉ずるプロテスタンティズムと申すか資本主義社會では逆に「限定の解除」にこそ価値を置くのです。

 

 

でもって米國社會では「自由」と「民主主義」に基づき其の資本主義の上での成功者となることこそが「夢」なのだ。

と云うことは其の「夢」には何処にも「限定」が無い。

 

對して「アカ」と言われ毛嫌いされて居た社會主義體制の方には「計画経済」と云う「限定」性がしかとあった。

但し壱党独裁の矛盾やら経済成長の停滞などで結局其れも失敗するに及ぶ。

 

なんですがあくまで「限定」はされて居ます。

ですので露西亜人の中には「ソヴィエト連邦型の社會主義國家だった頃の方が良かった」とさう思う人人などもまた居る訳です。

 

 

問題は其の米國式の「人間の限界を解除すること」へのリスクがとても大きく存する部分にこそあると個人的には考える。

よって其の「夢」の實現には「惡への転落」=👿化への契機が多分に含まれて居ることだらう。

 

まさに其れが、

 

最大限の進歩=より豊かな「夢」の實現=米國式の進歩⇔そこそこの進歩=没落と崩壊への道=英國式の進歩

との違いが生み出される。

 

元元英國立憲君主國であるが故に其処からネット社會だの宇宙開発だのの力が生み出されることは無かった。

なので英國は「近代」の勝者として君臨することが出来たがむしろ「現代」では没落の途を辿ることとなる。

 

では英國は失敗國家なのかと言えばさうでは無くむしろ「誇りある没落」を受け容れて行けば良い國家でせう。

従って我が國日本はむしろ其の英國を御手本となしさうして共に「没落」して行けば良いのです。

 

左様に米國は文明の實験場であり謂わば「光」と「影」の側面をくっきりと有する革新國其のものです。

従って其れが絶對的に正しい価値観の上に成り立つものだとはまさか言えません。

 

 

むしろ其の「抽象的」國是の押し付けがましさにより今後は旗色が悪くなって行くことが考えられる。

要するに其れは「やり過ぎ」國家であらう。

 

また記事の方にはかのマルクス・ガブリエル氏の意見なども出て來ますが彼は兎に角米國流の資本主義のあり方には懐疑的な立場を貫く。

いやむしろ米國と云う革新國家其れ自體に對し懐疑的であるのかもしれません。

 

さうしてサブカルチャー云云での話は其の體制史の上での歴史的事實にむしろ其の侭に重なるやうに思われます。

 

 

90年代は「皆が同じものを見た」最後の時代だった | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

此処で著者の丸山 俊一氏はカルチャーの分断と云うことを述べられて居ますが個人的には90年代以降「政治の分断」=「思想的分断」もまた生じたのではないかと考えます。

要するに人類と申すか文明の価値観がすでに壱つには纏められなくなった。

 

ところが其のことを「多様性の實現」だとはまさか言えないのではないか。

むしろ「バラバラ」になっちゃったと云う感じが文人としての我にはして居ります。

 

其の「バラバラ」になっちゃったのは文明の進歩でも調和でも無く其れこそ文明の「崩壊」としての序章のことでせう。

だから次第にかの「ハルマゲドン」が近づいて居るやうな感じがどうしても個人的には致します。

 

なんだけれどもそんな不穏な社會的情勢の中で其れこそ「自由」だけは目壱杯に活用しても良いのではないか。

つまるところ其の米國にせよ日本國にせよ思想や信条は基本的に自由でせう。

 

いやむしろ米國の方では「自由主義」と「民主主義」に對し「全體主義」化して居てよって共産主義者アナキスト等はそんな米國社會では生き辛い訳だが其れでもまるで居ない訳では無いことでせう。

 

さて革新國家米國でもって大問題なのが「価値の抽象化」の問題ではないかと個人的には考える。

即ち米國でもって奉ぜられる価値は須らく「理念的」な価値であり例えば日本の何処其処の遺跡から今回新たに縄文式土器が発掘されたなどとの所謂具象性、具體性を欠いて仕舞って居ることです。

 

また英國だの独逸だのまた御仏蘭西だのさうした欧羅巴の國國でも必ずや何かが其処から発掘される訳だ。ー歴史の壱部としてー

 

ですが米國では米國の原住民であるインデアンの遺構だとかそんなものしか出て來ずよってつまりは其の國自體が歴史に欠けて居る訳です。

だからまさに其の國家としての価値が全て「自由」だの「民主主義」だのと云う理念的価値へと抽象化されて仕舞う訳だ。

 

だがあくまで其の価値は抽象化された価値なのでつまりは分離度が激しい。

他の表現をすれば成功するか其れとも失敗に至るかの弐者択壱でしか無い。

 

なので米國は「自由」だの「民主主義」だのと云う価値を謳う割に格差が激しくありつまりはみんなが幸せになるやうな國では無い。

逆に英國の方はみんなが貴族や王室に搾取され貧乏だが何とか飯は食える訳です。

 

つまるところは米國の國是としての「自由」だの「民主主義」だのと云う価値其のものがまさに矛盾的に實現されて居る訳だ。

また其れを自民党が眞似てさうして米國式にして行けばまた日本國もまた同じやうに「自由」だの「民主主義」だのと云う価値其のものがまさに矛盾的に推進されて行く。

 

故に其の「眞似」だけは止めませう。

何故なら「眞似」に走る國は常に洗脳状態にあり例えば「アベ総理は偉い人」だなどとさう刷り込まれますと其の通りに彼アベが天皇様の次位に偉い御人となるのですから。

 

でもってして日本人の洗脳はさうして「人中心」で進むが米國での洗脳はむしろ「理念」の方でこそ進む。

 

 

90年代米国が罹った「みんな子ども症候群」の正体 | アメリカ | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

其の「みんな子供」との言葉に反応し此の記事を読みましたが其の内容は結構怖いものでした。

其の「経験の間接性」はさうして米國に追随した此処日本でも明らかに起こりつつあることです。

 

ですが日本人の場合要は「本音」と「建て前」が同居するある面では器用な社會ですのでおそらく米國並みに現實と理念との乖離が進んで居るとは言えぬことでせう。

日本人の場合は左様に「具象性」と「抽象性」を立て分けて使いこなす訓練が其れこそ幼い頃から出来て居ることでせう。

 

其れでも90年代以降まるで嘘のやうな猟奇的殺人事件などが複数起きたりもまたして居ます。

 

また其の「経験の間接性」に於ける根本のところでの問題とは確かに「反體制」運動の終焉にこそあったのだと考えられる。

即ち「反體制」運動が失敗したつまりは社會に負けて仕舞ったことです。

 

其の子の世代が「反體制」だと幾らさう叫んでももはや其れが思い描くところでの理想郷などは何処にも無くむしろより強く「経済的な搾取」と「環境破壊」が生み出されるつまりは「惡い社會」となって行かざるを得なかった。

 

なのでそんな社會のあり方ではもはやみんなに「モヤモヤ」した気分が蔓延致します。

其の「モヤモヤ」を解消せんが為に若者が走ったのがある種の「非眞面目」さだったことでせう。

 

猶其の「非眞面目」なのは「不眞面目」とは違うが結果的に其れは「不眞面目」さにも繋がります。

何故なら「皮肉」=「アイロニー」こそが社會と闘った世代の武器であり其れをも捨て去るのであればもはや「非眞面目」となる他は無くなる。

 

なので時折我我還暦世代から見て40代位迄の世代がアホに見えることなども正直申して否めません。

ですが其のアホの始まりが實は我我還暦世代なのでしてよって我我還暦世代は昭和壱桁世代の父ちゃん、母ちゃん達より短命なのですし多分アホなんです。

 

要するに「経験の間接性」=「抽象的幻想性」をこそ我我還暦世代以降は生き始めたのだと言っても良い。

だからまさにアホのやうにべたべたと部屋にアイドルの写眞を貼るわまた✈や🚞の写眞を撮りに行くわ、さらにアニメヲタク=🤓になるわでもうとんでも無く子供臭いのです。

 

さらに比較的高等な趣味であれかうして僕みたくに万年筆ヲタクであり石ヲタクでありさらに哲學ヲタクでありまた社會科学ヲタクです。

 

 

でもってまさに其の様こそが「みんな子供」の症候群である訳です。

さて其処での問題点はズバリ申して此の壱点です。

 

即ち、

 

ー其の「抽象的幻想性」が具體化されればもはや余は満足じゃ。ー

 

但し以上の論理からあえてわたくしは其の「経験の間接性」=「抽象的幻想性」の部分を擁護致します。

何故ならすでに「思想的反抗」其れ自體が不可能にさえなって居る。

 

猶自分は其れでも反抗をして居りますが其れは其れが自分の趣味の壱部だからなのだ。

要するに哲學や社會を論ずることはむしろ自分の趣味其のものなのです。

 

逆に申せば👪主義だのdeepな人間関係などはあくまで自分に取り「経験の直接性」に満ちたものですのでなるべく避けて置くべきものなのだ。

 

其れも怖い話ですがあくまでさうなって居るんでせう。

尤もこんな怖い話こそが好きと言えば好きなのですが。

 

 

但し自分の場合は其の「経験の間接性」=「抽象的幻想」にこそ自ら歯止めをかける=「限定」することこそが眞の意味での理性の働きだとさう述べて來て居る。

従ってむしろなるべく「経験の直接性」=「具象的體験」の部分を生き抜いて行くべきでせう。

 

そんな訳でむしろわたくしの場合には還暦世代→還暦以降の世代の精神のあり様は似たり寄ったりであると最終的には考えて來て居ます。

また其のことを余り惡く捉えぬ方が良いものとさう思います。

 

何故なら逆に惡くなって居るのは其の「文明社會」の方なのだから。

勿論先にも述べたやうにサブカルチャーのやうなものを現實化、具體化して生きる今の若者の価値観を我我還暦世代が理解することなどは確かに難しい。

 

ではあれ例えばかの石破氏などもキャンデーズのコアなファンなのですし同時に軍事ヲタクなのでせう。

またパソコンに頭がやられ始めたのも明らかに我我60代からのことでせう。

 

だから其の「抽象的幻想」に頭がやられた人人はもはやすでにどうしやうも無い訳だ。ーかうして自分をも含めさうですー

逆に申せば「経済的な搾取」と「環境破壊」は其の「抽象的幻想」に頭をやられた人人によりまさに推進されて來たのだとも言える。

 

故に其の國や国際社會が奉じてやまぬ理念的抽象的な価値から個としての意思決定を出來るだけ切り離して置くべきだ。

むしろ其の「個としての選択」の方にこそ其れこそ多様性があり且つ全體主義から逃れ得る可能性すらもが高く存するのではないか。