目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さうして行動することで常に気が晴れる人間の心の中

さうして行動することで常に気が晴れる人間の心の中

ー勝ち負け以前での具象的な體験が積めたまさに昨日のことー

 

 

 

 

102歳なのに、畑仕事をしながら一人暮らし! 「人生100年時代のモデル」に学ぶ人生の秘訣 (msn.com)

 

現存在は究極的に此の辺りまで「打たれ強く」生きられたら其れは其れで立派なことです。

尤も皆持って生まれたものがあるので結局其れは誰もが持ち得る「しぶとさ」なのでは無い。

 

丁度🐕でも🐈でもまた🐦でも虫けらでもまさにしぶといのと簡単に死ぬる奴が居るやうに兎に角其の「しぶとさ」には差がある。

尤も最近では人間のしぶとさは「具體的、具象的なものへの親和性」にこそ生まれるのではないかとさう感じて居る。

 

「具體的なものへの親和性」とは「観念にはむしろ生きない」と云う即物性のやうな部分です。

何故なら人間の社會では近代以降「観念としての今」を其の社會的自我は生きて行かざるを得ない。

 

また其のことは価値ヒエラルキーを其の種の観念形式に変換したと云うことでせう。

其の価値ヒエラルキーの観念形式により「勝敗」を決めて居るのはむしろ其の「社會」の方である。

 

なんですが、我我の身の回りのものは實は其の「勝敗」を離れ只其処に現象して居る。

要するに良い悪いは別として只其処に勝ち負けが「ゴタマゼ」の状態として現象する。

 

 

だからむしろ其の「玉石混交」である状態こそが眞實である。

つまりは哲學的宗教的に言えばまさに其れが「實相」である。

 

故に其の「ゴタマゼ」での「玉石混交」であってあくまで良いのです。

ところが近現代社會の価値観が其れを認めず「全部が進歩するんだ」とさう決めて御座る。

 

でも「全部が進歩」すれば果たして此の地球が良くなるのか?

逆にお前等文明の方が地球の調和を乱しつまりは地球をブチ壊しにかかって居るだけの話だらう?

 

もう全く御話にも何にもならない。

 

どだい其の「全部が進歩」すると云う思想は所謂「観念的」な価値のことだ。

つまりは其の「観念的」な価値に寄りかかり経済もまた政治もさらに教育も何でもさう動いて居るではないか。

 

だが自然を観て居るとどうもそんなのとは違うぞ。

自然は極端な話其の「観念」以前での価値を生きて居るのだらう。

 

だから「しぶとい奴」も「すぐ死ぬる奴」も同じやうに同じ土俵で其の具象性をこそ生きるのだ。

 

 

また其の観念ヒエラルキーがおおまさに「地獄の檻」を造りソコへ現存在と云う新型の🐵共を全て閉じ込めて仕舞う!

なので實はカンタンな話なのだ。

 

其の「地獄の檻」=「社會の檻」から如何に個として脱出するかと云うだけの話である。

また其の長生きの御婆さんは「具體的、具象的なものへの親和性」にこそ生きるので単に長生きなのである。

 

 

さて本日は冷たい雨が降り続ける壱日だった。

だが昨日は天気の良い壱日でよって笠寺の笠寺天満宮(東光院) (jinja.nagoya)天林山泉増院(名古屋市南区笠寺町) 大名古屋八十八ヶ所 四十四番札所 - あいちを巡る生活って (dr-leather.com)とを訪れた。

 

興味深い歴史が残る東光院の中の笠寺天満宮 (utusemibiyori.com)

 

此の東光院を自分は初めて訪れた。

要するに其の「笠寺天満宮」の横に笠寺観音の宿坊の壱つとしての「東光院」があった訳だ。

 

此処にかって尾張藩の剣術指南役を目指すかの「宮本 武蔵」が逗留したのである。

其の「宮本 武蔵」は将軍家と尾張藩の双方とも士官することが叶わず但し尾張藩には後に弟子が遣わされ「圓明流」を伝えたともされて居る。

 

「宮本 武蔵」の剣術に對し自分は興味が無いが彼が後世に伝えた藝術の部分にはむしろ大きく興味がある。

 

 

【水墨画の歴史】剣豪宮本武蔵の「古木鳴鵙図」から気迫ある画を考える | 水墨画ナビ|気軽に始めたい楽しみたい水墨画初心者の為のブログ (sui-boku.com)

 

かうしてこちらにはまさに色んなことが書かれて居る。

さうして其の剣豪が描く其の水墨画には確かに禅的な枯淡の境地のやうなものが窺えやう。

 

だけれども宮本 武蔵と云う人はむしろ自己流つまりは「自己を貫いた人」だったのではないか。

其のやうに藝術の分野は自己流が壱番だが士官即ち社會の何処かで働く為にはまた其れとは違う「他に對する配慮」が要る。

 

藝術家タイプの人は何よりそんな「他に對する配慮」こそが嫌いなのだらう。

まずは其の点を自分は考えるので宮本 武蔵が最後まで自分を貫けてむしろ良かったのではないだらうか。ーさうして最期は洞窟にて「五輪の書」をも書き残した訳でありー

 

 

『泉増院』 | おやじのブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

さてこちらには其の泉増院の「生まれ歳守り本尊」の画像と藥師堂の「くす藥師」の画像が共に載せられて居る。

我は藥師堂の「くす藥師」だけが好きで其れに對し合掌し毎年祈る。

 

但し其の「祈り」とはあくまで形式的な祈りであり其の内容はまさに「無病息災、又は壱病息災」との個人的な願い=「観念」である。

ところが「観念」でもって万事が上手く行くかと言えば無論のことさうは行かない。

 

さうして祈念することで病気が治り國が榮えるかと言えば其れはさうでは無く弱い體は結局病気となり弱い國はやがて没落の途を辿る。

其れでも多くの場合其れは「観念」を離れた「行為」として保存されやうから少しは気が樂になる。

 

そんな風に現存在に取り可能なのは如何に「観念」を離れた「行為」として保存され其処にて気休めを得るかと云うことに限られる。

また要するに其の「祈り」とは現象としての縁起的構築物である此の世界の誤りが其れにて正されることでは無くあくまで内面に於ける「気晴らし」のことであるに過ぎぬものだ。

 

だけれども今日我が述べて居ることとは其の「気晴らし」こそが「行為」であり「記録」だと云うことなのだ。

實際に「生臭物」以外での「祈り」なり「願い」にはまさにそんな「行為」であり「記録」の部分が刻まれる。

 

すると「生臭な祈りー現世利益の希求ー」の場合其れはあくまで「観念」で「生臭では無い祈り」=「地球の回復」又は「理性の回復」を祈ることなどは「行為」であり「記録」なのだな。

 

左様である。

 

だが君はあくまで其処で自分の體の回復を願ったな?

何故なら自分の理性は常に此の世と闘わねばならんのだから。

 

むしろ其の「戦闘」の素地としての體の強さが是非とも欲しい訳だ。

 

 

ちなみに笠寺観音には亀の棲む池があるが其処はもう随分と水が汚れて仕舞いもはや🐢の方も余り居ないやうである。

其れでもいまだ本堂にて亀のエサを買い求めることが出来るやうだ。

 

子供の頃には此処に🐢が澤山居て其れが屡池の中の大きな石に攀じ登り日向ぼっこをして居たものだった。

 

笠寺観音の近くに見晴台遺跡がある。ー丁度帰路の方角に其れはあるー

 

 

見晴台遺跡🛖住居跡観察舎 - Bing video

 

今回は半年振り位にこちらの「竪穴式住居ー弥生時代後期の住居を遺跡の上に復元ー」を見學して來た。

尚自分は此の種の「地味」な遺跡なり遺構なりを訪れるのが大好きです。

 

尤もほとんど旅行へは行かぬ人間なのでつまりは地元のこんな所ばかりを巡り訪ねて居たいのだ。

また自分はこんな歴史物に限らず名古屋市科学館 | 科学館を利用する | 展示ガイド | 展示フロアマップ (city.nagoya.jp)などもまた嫌いでは無い。

 

つまりは自然科学にも興味があるが只マッド・サイエンティストに関してはむしろ居ない方が文明に取ってより良いであらう筈だ。

 

 

名古屋市見晴台考古資料館、見晴台遺跡、笠寺公園を撮影 - YouTube

名古屋市見晴台考古資料館で名古屋市民の先祖に会ってきた! #38 - YouTube

 

其れも何故か個の種の地味な地元の遺跡よりの出土品を眺めて居るのが壱番心が休まるのである。

逆に綺麗な姉ちゃんだの酒だのギャンブルだのそんな生臭い物はまるで性に合わぬのだ。

 

ところで名古屋市科学館の展示物に関する動画は無いのかな?と探して居たらこんなものが出て來た。

 

【宝石展】名古屋市科学館で開幕!特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」はネギトルマリンをはじめ東京展と99%同じ出展内容の豪華版 - YouTube

【宝石】【特別】名古屋市科学館で今、開催されている特別展の宝石に行って来た! - YouTube

 

まさにコレが昨年の九月に訪れた💎展の内容です。

尚東京版は以下です。

 

特別展!宝石展💎 in 東京国立科学博物館 | GEM Exhibition in Ueno, Tokyo - YouTube

宝石展に行ってきた!プロ視点での感想をお伝えします。【特別展 宝石 地球がうみだすキセキ】 - YouTube

 

其の💎には相性があるのだと思います。

💎と相性が良い人はもうどうして居ても何時の間にか💎が近くに寄って來ます。

 

で、万年筆の方をやって居りますと其の期間は石とは縁が遠くなり逆に石に狂って居ると筆記具の方はまたどうでも良くなるものなのです。

其のやうに其れ等はまるで別物としての物趣味です。

 

万年筆は文化又は言語と密接に関わる分より観念的なものだともまた言える。

ですが其れは文化又は言語と密接に関わる分より人間的なものだともまた言えることだらう。

 

さて其の人間は「観念」に縛られる動物だ。

其の観念をあえて離れ具象的に「行為」し其れを「記録」することで社會的価値の履行とは別の領域としての個としての體験を積むことが出来る。

 

社會的な価値の行方が如何に混迷の度を深めて居るにせよ其処でまさに個としての具體的體験を積むことは常に可能なのだ。