文學に於ける社會的苦悩とヤフオクでのカルトな御話ー物に纏わるカルトな話ー
さて2月10日は石川橋までサイクリングをし帰りに「七五書店」に寄りますと何と店内に照明が点いて居りました。
其処で店内に入ると「閉店後の応援販売」なるものとして店舗の入り口周辺に売り物の本が並べられて居ました。
まずは大岡 信氏の自選詩集自選 大岡信詩集 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)が目に留まった。
だが岩波新書の方でも夏目漱石と西田幾多郎 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)を発見し結局詩集よりも其の思想史の本の方を選んだ。
いずれにせよまさに「七五書店」で買った最後の本こそが此の本になる。
其れがこんな如何にも御堅い内容の本となり良かった。
ちなみに此の本の栞に「漱石全集」が宣伝されて居るが自分はかって其の岩波版の「漱石全集」を古本屋にて探し出し安く購入したことがある。
其の店は廿年程前迄隣の区の天白区にあった素晴らしい古書店だった。
以前はさうして屡古書店巡りなどをして居り今其のことを思い出すとまさに其れは良い思い出でしか無い。
即ち今はもう望むべくも無い文化の薫りが色濃く漂う良書との出合いの日日だった。
35歳でこの世を去った「芥川龍之介」時代の混迷 「心境小説分野」を確立した志賀直哉も解説 (msn.com)
其の明治期、大正期の文豪の生き様はまさに苛烈其のものだった。
中でも漱石と芥川の場合には所謂「文明社會」への問題提起と云うものが其処に強く展開されて居たやうに思われる。
其れも当然で漱石も芥川も当代切ってのインテリでありよって「文明社會」がしかと見えて居り其れに對する不満などがどうしても心中に渦巻いて居るのである。
即ちさうして所謂「煩悶」して居るのである。
また当時のインテリ層は皆「煩悶」して居り其れでもって壱つ間違うと自決したり気が狂ったりもまたして居たものであった。
尚自分が文學の中で最も熱心に読んだのが其の芥川であり漱石だった。
さて其の「煩悶」はしかしながら自分には「正しい悩み」其のものであったやうな気がしてならない。
對して昭和以降特に戦後の悩みとは所謂「現世利益」に関することであり人間に取っての本質的な問題を捉えるものでは無い。
左様に自分はまんま明治期、大正期の文豪の悩みを現代に於いても奉ずる者でありつまりは「煩悶的懐古趣味でのカルト文人」の壱人である。
まあそんな奴もおそらく東京になら拾人位、また大阪には五人位、さらに此処名古屋には弐、参人程は居ることであらう。
すると其の廿人にも満たぬカルト文人の壱人としてわたくしがかうして代表して意見を述べてやって居る訳だ。
さて其の『河童』は明らかに芥川による強烈なる文明批判としての作品である。
芥川は其れをまさに皮肉たっぷりに描きつまりはある意味で小馬鹿にしつつ其の河童の文明世界を書き描いて居る。
また其の批判は基本的に正しい。
正しいのではあるが其処に救いは無い。
其れは「社會」は変わりやうの無い愚かな認識を繰り返すに過ぎぬものだから常に「救いが無い」のである。
だから宗教の方を考えねばならなくなるが其の宗教もまた結構「救いが無い」ものと相場は決まって居る。
だったらどうするのだ?と作家共は悪戦苦闘しつつ最終的には自分の作品の中に逃げ込むより他は無くなる。
さうなのだ、だから其れこそが文學なのだ。
其の世の救いの無さに對し「作品」を対峙させ闘うこと其のものがむしろ文學の意義であり要諦であらう。
また其の文學に限らず藝術とはまさにさうしたものなのだ。
即ち人間其れ自身と闘うこと。
或はそんなものが藝術の目的であるのやもしれぬ。
但し宗教はまた其れとは違い人間其れ自身を救わんが為のものであらう。
さて七五書店の「応援販売」の本には結構思想関連での本があった。
其処からしても七五書店はそんな「思想」にシフトした言わばカルトな書店だったのだとも言えやう。
そんな書店が立ち行かなくなり閉店したのはあくまで「世の流れ」であり書店としての努力云云以前でのまさに社會的な問題のあり方だらう。
とのことであくまでわたくしの場合には其のことは「こんな社會のせいである」とさうして置くのである。
さて件の志賀 直哉氏もまた藝術家として格闘した人であったことだけは確かである。
だが若き頃に「社會を変えたい」とさう願って止まなかった太宰 治は其の文壇の大家を何より嫌った。
此処まで執拗に其の文壇の大家を攻撃する彼大宰の其の批判根性だけは大したものだ。
また彼大宰は其れ以前にかの川端 康成氏とも壱悶着あったのだった。
要するに偉い作家連中が皆嫌いなのである。
ところが自分は結局自分を持ち堪えることが出来ず薬物やら女やらに走り挙句には心中するのである。
其の大宰が人間的に良いか悪いかは別として確かにある意味では大宰は「弱く正直」なので今でも其の「弱く正直」な庶民の方方に広く読み継がれて居るのであらう。
でも太宰は例えば宗教的にはヤッパシ✖だらう。
だが文學とは👿の方をも含む思考であり行為なので其処から論ずる限り彼は✖とはならず逆に〇となるのである。
但し作家としてのタイプはまるで違うが川端 康成氏や志賀 直哉氏もむしろ生其れ自體を悩んだ作家だったこともまた確かなことだ。
それにつけても此の大宰による恨み節での文章の凄さと言ったら!
尚以下では其の文學の話とは別箇に何処か春めく筆記具の御話を致します。
ヤフオク! - 伊勢桧 伊勢神宮神域の桧 ご用材 一品物 ジェッ... (yahoo.co.jp)
自分は此の伊勢の杢杢工房さんからもかっては多くの銘木ペンを頂いて居ます。
其れで上の御品は大變珍しく杢杢工房のNOMURAさんが銘木ペンのつまみの部分を木材にて作られた物です。
銘木ペンは言わば「渋い大人の男のペン趣味」の物ですがキット金具が重くおまけに銘木其れ自體も重い木の方が多いのでペンが重くなりがちです。
其れもボールペンの場合は確かに重い方が良く万年筆の場合は軽めの方が良い。
ボールペンの場合は所謂「線に抑揚」を付ける書き方では無くつまりは其処で平面的運筆を行う訳ですので軸が重くても良く第壱其の方が「書き心地」の方もまた良くなります。
だけれども「筆記具は軽く作る」ことこそが元來あるであらう常識的な発想です。
何故なら筆記具が重いと所謂書き疲れをすることがある。
其れも澤山字を書くと疲れます。
其れでもって銘木ボールペンのつまみの部分が木材化される方がボールペンの重量バランスとしてはより適切な物となる。
實際に銘木ボールペンの作者で其れを行った人を参人程知って居ます。
但しそんな銘木ボールペンを個人的には壱本持って居るのみです。
其れが以下の物で現在は絶産の品であり2015年に入手した物だ。
無論のこと此れは勿體無くてまだ使えません。
其の使わない筆記具が實は多くそんなものは持って居ないも同然だらうとさう言われさうですが勿論使う時にはまた使います。
また持って居ること自體をすでに忘れて居る筆記具などもまた壱部にはある。
だから結局は余分に物を持ち過ぎて居るのでありまさにそんなところが資本主義による「やり過ぎ」の部分なのだらう。
また惡いことに其の資本主義とコレクター魂とががっちりと嚙み合って仕舞って居る訳だ。
但し「まさか我はこんなものまで持ってたのか!」と感動することなどもまた其の資本主義の御陰で味わうことなども出来る。
ヤフオク! - こぶた工房 木軸シャーペン0.5㎜ ホンジュラスロ... (yahoo.co.jp)
例えばこちらでのやうにペンの前部の方が太い筆記具ーボールペンやシャープペンシルーの方が大抵は書き易くなる。
實は昨年此のタイプの御品をヤフオクにて見つけ其れを落札したが値が張るペンなので其の後求めては居ない。
此のキットのタイプの銘木ボールペンは素晴らしいのですが欠点があり其れは筆記状態で振ると内部の部品が触れ合うのかカチャカチャと音がすることである。
但し其れは少し工夫すれば音が出ぬやうにすることもまた可能である。
筆記全長154ミリ
筆記重量35.5グラム
との諸元となる。
大柄な銘木ボールペンであり筆記上の本格性がある。
要するに此れでもって原稿でも書けさうだ。
左様にボールペンの場合は必然的に筆記角度が高く保たれるが故に所謂「低重心」でもって「軸の前部に太さ」があるタイプの筆記具の方がより合理的である。
さて個人的には「低重心」でもって「軸の前部に太さ」があるタイプの銘木ボールペンを使うことが多く其れは、
1.其のやうに作られた御品を使う
2.軸の前後を反対に付け直し改造した上で其のやうにした御品を使う
ことなどを主にして來て居る。
其のことに就いてはまた後日に詳しく語りたいがすでに亡くなった埼玉県のアマチュアの方で其のやうな軸の物を作る方が居られ7年程前はそんな物ばかりを飽きもせずに集めて居たのである。
其の後其の銘木ボールペンの金具が経年変化にて自然に取れ軸の前後を入れ換えられるやうになった訳だ。
ところがそんなペンは皆大型の物が多くつまりは筆記全長で155ミリ近い物がほとんどである。
其の出品者とはIIJIMAさんである。
結局其のIIJIMAさんの銘木ボールペンが壱番自分には合う。
兎に角自分の場合は次第にそんな大きなサイズのボールペンや万年筆を好むやうになって行った。
其のデカい筆記具の方が主張が強くありつまりは存在感がありより分かり易い。
また其れは筆記具の太さには余り関係が無い。
細身でもさうでは無くても兎に角筆記全長が長くあるペンこそを好む訳だ。
IIJIMAさんの銘木ボールペンは当時から安く其れでもって多くの数を集めることが出來た。
ところが今や其の壱本壱本が自分に取り御宝級の物と化して居るのである。
其処からしても物は単に価格や名前ー銘ーだけでも無いのである。
勿論銘木ボールペンを作るプロ作家の方方の品はより安心が出来るが其の分相場が高くなる。
對してIIJIMAさんの銘木ボールペンは当初若干作りの面で波があったが次第に其れも解消しかうして長きに亘る使用に耐える品となって居る。
値段の方は凡そ壱本弐千円~参千円程だったのだと思う。
さてIIJIMAさんを引き継いで現在も銘木ボールペンを製作されて居られる方が埼玉県に居られる。
此の方もまたアマチュアの方で其のペンの値段は安めである。
ところが此の方のペンも何故か時折非常に良い物が出て來るのである。
此の方もまた以前は150ミリ程度ある長いー大きなー銘木ボールペンを作って居られまた現在でもたまに其のタイプが出品されることがある。
此処数年で求めた此れ等のペンがまさにそんな「当たり」での御品であった。
ロディア 新商品のお知らせ | Brand | News | Quo Vadis Japan
さてこと現在進行形での筆記具趣味の部分から言えば昨年求めた此のRHODIAのマルチペンには大層驚かされた。
此のペンの作りには日本のメーカー品以上のものがある。
但し其の外観が頗る良いペンだと云う御話である。
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確かに此れ以上無く美しいペンである。
でもって勿體無いのでいまだ使えては居ない。
使うのであればJS芯の色芯などを改造し付けてみる積もりなのだが使って居ない物は使って居ないのでいまだ其の侭である。
其の「デッドストック」での価値を我の場合は肯定する。
何故なら拾年、或いは廿年前の筆記具が出て來た時に其れが新品の状態を保つだけでもはや感動的な価値が其処に味わえるのだから。
其のRHODIAのマルチペンはアルミ合金軸である。
ところが其の筆記具に最も適して居ることだらうと思われるアルミ合金の部品が筆記具に其れも本格的な筆記具に用いられることは極稀である。
要するに「何か」が難しいのであらう。
アルミ合金か又はチタン合金の部品か又は軸が筆記具には最も良い物だとさう思われるのに何故か筆記具メーカーは其れをやりたがらない。
ーチタン合金軸の現代の万年筆がかって僅かながら有ったがもはや入手困難である、例えばオマスのパラゴン等に。ー
また其の銘木ボールペンのダヤコムのキットにせよ其れは真鍮製で至極重い物なのだ。
RHODIAのマルチペンはアマゾンの会員価格でも3750円しつまりは高いペンである。
其処は自分も見送ることを何度も考えたが仏蘭西製の筆記具を使ってみたことが無く見た目は兎に角良いので試しに買ってみたが事實とんでも無く格好良いペンだった。
尚たかがボールペンに四千円も払う馬鹿は居ないとさう思う非愛好家の方方には是非此れを御勧めして置きたい。
此のペンは安いし格好も良くさらに色合いが多く選べしかも其のアルミ合金軸である。
其れでもってアマゾンの会員価格であれば443円である。
443円と言えば牛丼の中盛り位の値段であらう。
ところが此のペンが頗る頑丈で何遍床に落としてもまるで壊れずノック式の其の動作が正確である。
其れでもってすでに3本を持つが主にアウトドアー用に使って居る。
即ち雨にも風にも強くさらにインクの量が結構入って居る。
また改造してJS芯を組み込むことなども可能だ。ー但し其れをやったところノック機構が働かなくなったがー
此れこそが今日本國で最も価値ある筆記具なのではないか。
だけれども其のRHODIAのマルチペンはあくまで其れよりも見た目だけは良いのである。
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我が昨年求めたのは此の限定色の「セージ」であるが其れがまた素晴らしい緑色の軸である。
最近は其の緑色の軸のペンを好んで使う傾向が何故か出て來て居る。
ロディア【公式通販】ロディア スクリプト マルチペン・多機能ペン ゴールド-クオバディス・ジャパン オンラインショップ (quovadis.co.jp)
こちらの「シャンパンゴールド」もまた素晴らしい。
兎に角此のペンはアノ御仏蘭西製の適当なペンでは無くとても精巧に作られた見榮えの良い御品である。ー日本製だとネット上にまた書かれて居たりもするー
そんな訳でこと筆記具だの石だのの世界に限れば其の文豪の如くに社會に對し悩んで居る暇などはまるで無くなるのである。
だからさう云うのがまさに實存的體験であり経験値なのでありよってそんな惡い社會に振り回されて居るよりも余程に建設的な具象的価値としての世界であることをこそ我は今述べて居るのである。