目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

此処日本での惡人の正體と「Oversized Doric」に就いて

此処日本での惡人の正體と「Oversized Doric」に就いて

 

 

 

日本の最高学府の「大崩壊」が始まった…京大ほか国公立大で起きている「ヤバすぎる事態」(週刊現代,田中 圭太郎) | マネー現代 | 講談社 (gendai.media)

 

左様にかの國の「教育」其れ自體がすでに壊れかかって來て居る。

ところがかうした事實がむしろ「日本の常識」=「大丈夫だと思う空気」により隠蔽されて來て居る訳だ。

 

しかも大學どころか所謂初等教育もさらに中等教育も壊れかかって來て居る。

でもって其れを誰がそんな風にしたのかと言えば要するに其れは「日本の組織」としてのあり方でありまた「國策としての失敗」=「政治の失敗」なのです。

 

ですが日本國民のみんなは「与党政権の政治は常に正しい」とさう頭の中に刷り込まれて居ます。

要するにさう云うのが「全體主義的な洗脳」の正體です。

 

でもって其の「組織的洗脳」とインテリさん方がまともに向き合いますとまずは體の方が壊れます。

ですので自分もまた半分位體の方が壊れかかって居るがあくまで精神的にはすでに「放棄」の立場に至りつつありますので少しは気が樂なのやもしれません。

 

 

よって還暦を過ぎたら出来れば「社會的闘争」などは止めて是非孫の頭でも撫でて居て下され。

へえっ?孫の頭を撫でることこそがつまりは👪主義こそが日本を沈没させる元凶では無かったの?

 

いやさうなんですが兎に角「事の眞相とまともに向き合わぬと云う知恵」もまた是非必要な部分でせう。

でも日本のインテリ層が「事の眞相とまともに向き合わぬ」からこそそんなんなって行くのでせう?

 

まあ其の通りでありインテリ層にはそも「理性を持って此の世に生まれし責任」が誰しもにあります。

だけれども自分の場合は結局學者では無く壱ゲージツ家ですので逆に申せば此処での此の散文詩こそが僕のゲージツ其のものであり従ってかうして世に對する恨みつらみを書き描きつつも別に悩んで居る訳なのでは無い。

 

なる程、するとアナタの場合には「日本が壊れやうがどうしやうが知ったことか」との気分でもって要するに此処で書きながらさうして遊んで居るだけのことなのかい?

其れも本音でもってさうなんです。

 

其の「政治の失敗」とは日本の組織としての失敗でありつまりは「日本の近代化」の歴史上の流れとしての失敗です。

ですが其の「失敗」はむしろもはや如何ともし難い段階へと至って來て居る。

 

 

其れと實は其れに加え「近代文明の失敗」の方での大問題がまずはあります。

要するに「日本がヤバい」だけのことでは無くむしろ「世界中がヤバい」んです。

 

だから其の弐重苦と向き合うだけでもうアップアップです。

なので其の弐重苦と向き合うことからは逃げるか其れとも問題を逸らすかして行くより他は無い。

 

でも見ていろ日本はまたすぐに羽搏くよ。

必ずや日本は再生しおお其の世界の壱等國へと返り咲くのだ!

 

おい君、馬鹿右翼君。

其の過分な期待だけはもはや捨て置きなされ。

 

何故なら其の「壱等國」になりたがる価値観其のものに問題があるんだ。

じゃあお前らのやうに思想本ばかりを読み挙句にはやれ世界革命だ!ほれ共同體主義でのアナキズムの實現だ!などとそんなインテリ振って訳の分からん理想論を振りかざし何でも反對!とさう叫んで居れば其れでエエのか?

 

だから其れは少なくとも「國策としての失敗」=「政治の失敗」よりはまだしも可能性が展けるだけの御話で其れが絶對的に良い立場だともまた申せません。

個人的に今考えて居りますことはズバリ「抽象的価値の自分化」のことであり「具象的価値の個人化」のことだ。

 

また其れは「イデオロギー以前」での認識論的な転回のことです。

 

ですが佛教哲學の方では「抽象的価値」と「具象的価値」をむしろ弐重否定致します。

勿論さうすることで「悟る」訳ですが其のことは普通の人間にはそも出来ぬことです。

 

またキリスト教に於いても其の「抽象的価値」と「具象的価値」を神の次元ー次の世ーへと丸投げし現世に於ける価値對立を離れませう。

 

要するに現存在に於ける認識其のものが「抽象的価値」と「具象的価値」による矛盾律を生み出す訳だ。

 

 

「抽象的価値」⇔「具象的価値」

 

此の弐項對立こそが人類の文明がまた我が國の政権与党が間違ったことを仕出かして仕舞うことの大元にはある。

 

其れも原理的に説明すれば、

 

國ー組織ーの言わば「デカい論理」がそも「抽象性」の方に傾くので「具象性」が圧迫され此の「相剋し且つ相即する」関係が壊れます。

 

もっと平たく現實的に言えば、

 

國ー組織ーの言わば「デカい論理」が個としての「ちっこい論理」を喰らい尽くす=搾取するに及ぶので「具象性」が圧迫され此の「相剋し且つ相即する」関係が壊れます。

 

でもって其の實例こそが上の記事が取り上げたところでの「高等教育の崩壊」の部分です。

此処での問題とは本質的には、

 

まさに「國が管理する教育」の危うさのことだ。

何と其の京大ですら「全體主義教育」が今後行われて行くとの御話である。

 

また小泉政権~安倍政権への政権与党による意思決定の流れこそが其の「全體主義改革」の流れにこそあった訳だ。

いや其れは中曽根政権の頃からさうであったが其のことがむしろ加速され行われたのが小泉政権以降のことだった訳である。

 

 

さて其の「國」ですが、此れ、實はむしろ無い方が良いんである。

むしろ世界中の國國が無い方が世界はより安定化され社會での争いの規模がより小さくなる。

 

其のことを述べて居たのが古の哲人である老子だった。

 

「デカい論理」⇔「ちっこい論理」

國の論理⇔個での論理

 

實際には其の老子の理想論としての「アナキズム的な共同體主義」は實現不可能な體制であるに過ぎない。

つまりは「世界人口」が多くなるともはや其れは成り立たなくなる。

 

但し此の對立関係を維持せんが為の「思想的転回」だけはおそらく可能である。

ならば「社會の変革」とは政治原理の上でのものではむしろ無く其の「個の個による思想的転回」のものでしかあり得ない。

 

いや其れもより正確には「個の個による認識の転回」其のものなのだ。

結局以上で我が何を述べたのかと言えば社會的価値に洗脳されるが侭に「個の個による認識の転回」は無し得ないと云うことだけを述べた訳だ。

 

 

ほう。すると惡いのは所謂「バカ庶民=大衆」の方なのか?

いや其のバカは元元バカなのでそんなもんはまるで治りゃあせぬ。

 

すると惡いのは所謂「インテリ層の無関心」の方なのか?

いや「無関心」と言うよりは「自己保身」の方ではないか?

 

結局其の「インテリ層の自己保身」により政治家の連中が誤った政策をやるつまりは國策が全て裏目と出て失敗に終わるのだ。

すると其処で、

 

「自己保身に走るインテリ層」⇔「危機を叫び続けるインテリ層」

 

との種別が其処に築き上がる。

 

でもって例えば藝術家の場合にも、

「自己保身に走る藝術家」⇔「危機を叫び続ける藝術家」

 

との種別が生ずる。

 

でもって僕の場合などは其のインテリの度や藝術家の度などが全て半半ですが兎に角「危機を叫び続ける」ことだけはして参りました積もりです。

ところが逆に「自己保身に走る」學者や藝術家、また宗教家が如何に多いことか。

 

結局其の「自己保身」をせんが為に偽善化し「今だけ金だけ自分だけ」で生きてるインテリ層程惡い奴等は居ないこととなる。

 

では何故アホな國民のみんなが救われるので?

だってそも御勉強などまるでして居ないから元元アホなんですもの。

 

アホがアホなのは其れはむしろ当たり前のことでせう。

 

では今回詩人さんの結論として炙り出されて來た惡の正體とは其の偽善者としての似非インテリ層のことなのですね?

まさに其の通りです。

 

其の「似非インテリ層」つまりは偽物としての理性が政権与党の政策にしかと食い込み其れも國策としての大失敗を生んで仕舞うのです。

なる程。

 

其れにしても今回は結構良く考えたものですね。

さうなんです、もう病気になる程に考え抜いてみました。

 

 

では其の「似非インテリ層」の正體を暴きそやつ等が國に関与しないやうにブロックすることこそが今日本がしなくちゃならんことなので?

まあさうでせう、だから其れを是非みんなでもってやって下され。

 

自分はもう年寄りですのでかうして何時の間にか足腰も弱りそんな戦いなどはまさか出来ません。

よって知恵だけは御貸しして置きましたのです。

 

兎に角自分はもう遊びたいだけなのだ。

其れもあんな大宰のやうに只遊びたいだけなのだ。

 

 

太宰治が「異様な身勝手さ」で檀一雄を激怒させた…「熱海事件」の凄絶な全貌をご存知ですか?(千葉 一幹) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社(1/5) (gendai.media)

 

かうして其の大宰の「自己本位」振りもまた徹底して居たものです。

其の大宰の「自己本位」振りは宗教的にまた社會通念の面からすれば勿論✖です。

 

ですが其れを「藝術的に間違って居る」とする考えはむしろ誤りです。

「藝術的に間違って居る」のはむしろ「作品が何処にも無い」ことでありつまりは其れがまんま僕の立場のことなのだ。

 

 

 

工房楔から待望の木軸多機能ペンが登場。グラッソ 徹底レビュー - YouTube

 

さてこちらは至極興味深い木軸多機能ペンでかうしてペンがバカでかく値段の方もまた至極高い。

 

工房 楔 - ステーショナリー パトリオットペン(希少木材) - (setu.jp)

工房 楔 - ステーショナリー パトリオットペン(スタンダード) - (setu.jp)

 

其の工房楔のパトリオットペンは概して値段が高くよって壱本を持つのみです。

ですが工房楔のペンはまさに「思想」が感じられるもので所謂「拘り」の方が強く感じられ其の点では勿論嫌いでは無い。

 

工房 楔 - ステーショナリー クローズド・エンド楔 チタン - (setu.jp)

 

だが其の万年筆の方は「高価過ぎる」の壱言です。

木軸の万年筆は無論のこと好きですが高くても「五~六萬」に価格を抑えないと「藝術品」の方に寄り過ぎて仕舞うやうな気が致します。

 

ですがあくまで木軸の万年筆のやうな木工製品とはつまりは「工芸品」レヴェルでのもので其の「藝術」とは本質的に異なるものでせう。

元元そんなものであるに過ぎぬので高くても「五~六萬」と云うところが妥当です。

 

万年筆はかってよりー弐、参拾年前よりもー値段が高騰して來て居り謂わば壱部の特権的な筆記具と化して來て居る。

要するに金持ち用に特化した「金にあかせて威張る」筆記具となって仕舞って居りつまりは何時の間にかよりイヤらしい物と化して來て仕舞った。

 

故に自分の場合はむしろ千円の中國の万年筆にこそ注目して居る訳だ。

今も左手にJNHAOのX159を持ちつつつまりは其れを時折使いつつ此れを書いて居るがまさに「素晴らしい!」の壱言です。

 

其の値段と云うものは壱つの「ヒエラルキー」を形成する概念であり其れに捉われれば捉われる程にペン趣味其れ自體が所謂本質的な意味での「自由さ」からは遠ざかって行き易い。

 

 

野原工芸オンラインストア|木のボールペン・茶筒・木製品・なぎそねこの制作と販売 (nohara.jp)

 

此の野原工芸の銘木ペンも現在人気があるやうです。

此処の銘木ペンには確かに個性がある。

 

ですが結局「軽く大きい」軸の筆記具を好む自分には此処の「重めで小さい」銘木ペンは合わなかった。

其れもペンのサイズが小さめですので例えば女性などには好まれて居るものらしい。

 

尚我は手が決して大きくは無く普通の掌であり指なのだが兎に角デカいペンの方が合う。

其のJNHAOのX159などは軽く太くデカいペンですので勿論合う。

 

 

ところで万年筆の長さに関しては例えば欧米のアンティー萬年筆などは皆概ね長い。

逆に戦後は万年筆の軸が至って短くなった。

 

しかしながら90年代以降は其れもまた多様化して居ます。

がそれでもアンティー萬年筆の軸と比せば相対的に現代の万年筆の軸は短くなる。

 

尚其のことは文字の書き方其のものが変わり要するに「表情豊かに線に強弱を付け書く書き方」=「カリグラフィーでの書き方」をしなくなったからなのだ。

また其のことを壱言で言い表せば「万年筆による筆記其のものの合理化」が行われた訳だ。

 

 

さうして何時の間にか万年筆の話となって仕舞ったが兎に角野原工芸の銘木ボールペンは弐本を持って居るが其れをまず使いはしないと云うことです。

但し南木曾と云う場所自體は可成に好きで以前は何度も訪れて居ります。

 

其の万年筆にせよさらに銘木ペンにせよあくまで個性が選ぶ品ですので此れが絶對に合うと云うことは言えず従って「評価」はあくまで相対的な基準としかなり得ぬものです。

逆にdeep系での筆記具愛好家の方方は自分の知る限り可成に「自己本位」な筆記具の選択をして居られたりするものです。

 

また自分等もまた明らかに其のdeep系での筆記具愛好家の壱人ですが其処は矢張りと申すべきか「筆記具の選好み」が激しくなりダメとなれば全部がダメで良しとすれば全部が良しですので其の意味では当然ながら趣味の範囲が偏っても來ます。

 

また自分の場合は正統派とカルト派の双方を同時に両方イク筆記具愛好家であり其れだけはむしろなかなか誰にでも出來ることでは無いことでせう。

 

故に別にJNHAOのX159とまた中華産の怪獣文鎮万年筆ダケに凝って居るのでは無くむしろちゃんと順を追い場数も踏んだ上で其の変態的万年筆趣味に嵌まっておるのである。

 

 

ちなみに大宰 治が使って居たのは「Eversharp」のおそらくセルロイド軸の萬年筆です。

 

但し「Wahl-Eversharp」と「Eversharp」のブランド名の違いが其れこそ厳密には御座ります。

以前に調べてみたところでは其の「Wahl-Eversharp」と「Eversharp」のブランド名は年代により入り組んでおりなかなか断定は出来ないが「Eversharp」の方が後代の物と云うのが壱般的な理解でせう。

 

ちなみに自分は以前此の「Wahl-Eversharp」ブランドの専門的なコレクターをして居りました。

 

【気になる】あの文豪が愛用した万年筆 -その1-|time item タイガ|note

 

こちらでの画像が不鮮明で今ひとつ良く分かりませんが此れが面取りの軸のタイプであればズバリDoricモデルです。

但しクリップが短いので女性用か学童用なのではないか。

 

結局のところ小振りの萬年筆である筈です。ーおそらくは1930年代の物ー

ちなみに以下が我がかって蒐集して居た1930年代初め頃の「Wahl-Eversharp Oversize Doric」が参本並んだ画像です。

 

Wahl-Eversharp oversized Doric and Wahl-Eversharp oversized Equipoise-1920~1930年代-

 

廿年程前にたまたま大變綺麗に撮れた画像で個人的に至極気に入って居るのですが何故か萬年筆の全體が写されて居る訳では無い。

Wahl-Eversharp Oversize Doric」は近年eBayの方には出なくなりほぼ幻の御品と化して來て居ますが其れでも母國米國にはまだまだあることでせう。

 

Wahl-Eversharp Oversize Doric」はかうして大層美しい御品であり彼大宰が使って居た「Eversharp」の物よりもずっと大きく価値のあるモデルです。ー当時の最高峰モデルですー

さて其の参本写って居る「Wahl-Eversharp Oversize Doric」のうち赤と緑の軸の物は東京銀座のEuro Boxの藤井氏にかって米國にて探して頂いた物である。

 

兎に角藤井氏には此の「Wahl-Eversharp Oversize Doric」で特に御世話になりましたものです。

自分の半世紀にも亘る萬年筆蒐集の中で壱番嬉しかったのが「米國でもってDoricが出ました!」と藤井さんからメールを頂いた時のことだった。

 

Wahl-Eversharp Oversize Doric」は現在もはや極稀にしか市場には出ない戦前の萬年筆である。

当時ー2000~2005年頃ーにも世界的に評価の高い御品であり相場は8~10萬程はして居たことかと思う。

 

まさに其の御品が幻の品と化して仕舞いました。

ちなみに大宰のペンクラスの物は所謂普及品で今でも比較的入手し易いことかと思われる。ーと自分の作品もロクに無いのに万年筆の上では彼大宰を小バカにしたー

 

でもって黄緑色の「Wahl-Eversharp Oversize Doric」は2010年頃にeBayの方で落としたもので實は相場の半額以下の物でした。

だからニセモノかとも思いましたが届いてみると歴とした本物であった。

 

そんなもんニセモノをもし掴まされて居たらもうエライ事でっせ。

尚万年筆の偽物はまず無く要するに其れが眞面目な趣味だからなのでせう。

 

 

逆に腕時計だの書画骨董などはニセモノだらけですので非常に選択が難しいが筆記具の場合は其の点樂である。

 

MONTEGRAPPA Special Reserve 18K Limited Edition モンテグラッパ スペシャルリザーブ 1996 18金製 限定モデル - ユーロボックス - Euro Box (euro-box.com)

 

Euro Boxはまだやってましたか?と思い久し振りに此処を覗いたらかうしてとんでもない御品を売って居られました。

此のペンですが實は自分も壱本を持って居ます。

 

持って居ますが、色色と部品を抜いて居たりしてすでにまともではありません。ー重過ぎるペンなのでピストン部の真鍮製部品を抜いて居るー

其のMONTEGRAPPAは自分の十八番で其れも此のタイプの金銀製の軸の現代物に限り自分はかって多く集めて居た訳です。

 

で結果的に其の「Doric」も「Spesial Reserve」も面取り軸ですのでいっそのこと面倒なんで壱気に評価させて頂きます。

 

「Doric」ー7

「Spesial Reserve」ー6

(共に拾段階評価で)

 

但し趣味性の面のみで評価すれば、

「Doric」ー9

「Spesial Reserve」ー9

となる。

 

「Doric」の難点=セルロイド軸が経年変化にて分解する虞有り+レヴァーフィラーのゴムサック交換が面倒臭い

「Spesial Reserve」の難点=ピストンフィラーの作りが悪くやがて壊れる+イタリア人職人による手仕事が雑で軸其れ自體に様々な問題が生じる

 

のではあれ兎に角日本の万年筆には絶對に無い「怪しい魅力」を海外のペンはしかと持って居るのです。

其れも感覚的には半分危ないが金髪碧眼の方が結構綺麗に見える、てなものでせうか。

 

まさに其の怪しさ、其れがまた大宰文學の本質的価値ではありませんでせうか。

要するに趣味性の方を満足させんが為に50年代のアメ🚙だのまた伊太利亜製のスーパーカーなどを買ったら高速道路で立ち往生しちゃった、てなものでせう。

 

 

Wahl Eversharp Doric Oversized Green Kashmir 14K Fountain Pen | eBay

 

さてこちらのペンは現代に復活したWahl-Eversharpブランドがこれまた現代に復活させたOversized Doricの新品です。

此の種の試みは英國などでも行われて居ますがー例えばONOTOー其の復刻したペンの本質的性質はあくまで現代の万年筆の物でありかっての萬年筆を其の侭に復活させることなどは出来ない。

 

其れと此の種の現代の万年筆は頗る高価となる。

要するに過去が付加価値として其処に織り込まれたとえ拾萬を超えても良いやうになるのです。

 

此の限定万年筆は多分オリジナルの戦前の「Doric」とは異なり「重い」ことでせう。

其れも吸入部に真鍮の部品のやうなものが使ってあるので。

 

1.不必要に重い

2.素材がチープ

3.単なる量産品

 

であることこそが逆に言えば現代の万年筆が持つであらう限界の部分です。

 

4.金ペン先が鈍ら

 

其れとまさに此の点が問題なのですが此の「Doric」の金ペン先はsuper flex版つまりは所謂「フレキシブル・ニブ」とのことですので或いはプレス工程の仕方などを変えて居る可能性はあります。ー薄い現代の金ペン先にガシガシと筆圧をかけると曲がる虞が大きくあるが故にー

 

ところが此のペンでは逆にインクの吸入が樂となりむしろ安定的に書ける可能性などもある。

だけれども総合的な筆記感は矢張りと言うべきかオリジナルの「Doric」とはまるで別物となるのではないか。

 

 

尚わたくしは現在でもたまにOversized Doricを操り文字を書いたりもまた致します。

先の画像で言えば赤と緑の軸の物をもう拾年以上に亘り使って來て居る。

 

ところが五年程前だったか尻軸に著しい変色が生じセルロイド素材が分解し始めたので其処をCUTし使うが其れでも戦前の萬年筆は本質的に強いので充分使えて居ます。

 

尚Oversized Doric以外での小さいサイズのDoricもまた使って居てこちらは原稿用では無く手帳用でありメモ用と云った趣です。

尚其のセルロイド素材に就いては、

 

5.イタリア製のセルロイド素材はむしろ可成に危なく

6.戦前の米國製のセルロイド素材は半分危なくまた半分は無事

7.日本製のセルロイド素材は最も安心ながら古い品に限れば矢張り危ない

 

との感じを個人的に持つ。

 

なんで實は「Spesial Reserve」の場合も首と尻軸のところが危ないと言えば危ない。

でも自分がもしも今億万長者ならば即此のペンを買います。

 

要するに其の銀製、金製の面取り軸が得難い価値を持つ物だからなのだ。

 

さて其の「Oversized Doric」には確か10号だったと思ったが巨大な「フレキシブル・ニブ」が付いて居る。

其れでもって此の14金ペン先こそが史上最高のデカい「フレキシブル・ニブ」なのだ。

 

たった今書いてみたが筆記感が軽く現代の万年筆とはまるで異なる書き心地が致します。

 

 

「Oversized Doric 緑軸」ー筆記全長173ミリ、筆記重量20グラム

「Oversized Doric 赤軸」ー筆記全長172ミリ、筆記重量20グラム

「スタンダードサイズのDoric」ー筆記全長159ミリ、筆記重量18グラム

 

との仕様諸元です。

 

此れだけ大柄なのにこんなに軽いと筆記バランスもクソもまた無くなる。

尚かって「Doric」には様様な仕様の金ペン先が付きましたが自分の場合は「フレキシブル・ニブ」付きだけを使う。

 

但し「フレキシブル・ニブ」以外の「Doric」をかって壱度だけ入手するチャンスが巡って來たが其れを購入することは無かった。

「Oversized Doric」はそんな訳でかっての「萬年筆黄金時代」の最期を飾るであらう極め付け(横綱級)のペンでした。

 

但し此処日本に限れば愛好家の誰もが知るやうなペンでは無くまさにカルトなペン趣味の人のみが嵌まる「通のペン」なのだった。

對して世界的にはどうかと言えば常に人気が高いペンでハッキリ言って入手すること自體が当時から至極難しいペンでした。

 

であるからこそかうして其の「Oversized Doric」が現代にも復活を遂げて居るのです。

おそらく海外には所謂「カリグラフィー」=「西洋習字」としての文化的伝統があるが故に此の「フレキシブル・ニブ」付きの「Oversized Doric」が高く評価されて居たことでせう。

 

其れと海外の気候は此処日本とは違い乾燥して居るのでセルロイドの軸の分解は進まないことかと思われる。

實は其のセルロイドの軸が水分を吸い其の水にて加水分解するに至るのだ。

 

其のことを我は拾年近くかけ解明しかって全國の万年筆マニアが集う掲示板の主筆として発表などもして居たのである。

 

だけれども今はすでに自分自身が其の分解と言うかポンコツ化して來て居り其れで寛容になったと申しますか要するに其のポンコツだけは治らんことが分かりましたので逆に分解して尻軸を切った赤軸の「Oversized Doric」が愛おしくも感じられむしろ良く使って居ます。

 

兎に角全部軸がやられるとなると金ペン先を他メーカーの軸に付け替えねばなりません。

だから今のうちに使い自分と共にかうして老化して行く訳です。

 

だが正直なところ此の巨大な「フレキシブル・ニブ」だけでも今なら拾萬近い価値があるのではないか。

 

 

例えばJNHAOのX159に此のデカい「フレキシブル・ニブ」を付けると果たしてどうなるのか?

まあかうして米國は中國が大嫌いですのでむしろやってみると面白いのかもしれません。

 

もしや兎に角お互いに嫌い合いつい戦争が始まったりして…。

 

そんな訳で此の春先から万年筆の攻勢の方が強くかうして筆記具のことばかりを考えて居ます。

日本の将來のことなんぞよりそちらの方で気張ることの方がむしろなんぼか有意義なことなのではなからうか。