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我に取っての新たなペン立てと価値の高い古いプラチナ#3776ー夏休みの工作と万年筆に関する怪談話ー

我に取っての新たなペン立てと価値の高い古いプラチナ#3776ー夏休みの工作と万年筆に関する怪談話ー

 

 

 

 

かうして気候の方がどうも不安定で雨ばかり降るので自転車にて移動する場合にはたまの晴れ間を有効活用し兎に角其の日になんでもやらねばならない。

其れでもって月曜日に久し振りでカインズへ出向くと桐製のブロックー縦拾センチ×横廿センチ程度ーが売られて居て其処には参連でもって八角の穴が開いて居るのでペン立てに出来ると思い其れを購った。Kumimoku 桐ブロック 小 3孔|ホームセンター通販【カインズ】 (cainz.com)

 

色はブラウンの方だが實際には朴材の如くに少し緑がかって居て其れが殊に美しい。

 

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此の色合いの違いが何故生じて居るのかと云うことがまずは疑問である。

緑色の材の方が心材なのだらうか?

 

其の桐のブロックを何とかペン立てにしてみると云うことで本日つい先程迄色色とやって居たのである。

 

尚我はかうして観念人間なので手の方は普段ほとんど動かない。

されど特に此の拾年程は文房具の方から改造をするやうになったので其の物質と戯れることの愉しさを今は知らないでは無い訳だ。

 

世の男性の中には良く手が動く人が居られ中には製作だの改造だのさうして物弄りばかりをして居る人もまた居られる訳だ。

だが我の場合は其れとはまるで違い要するに文具関連でのみたまに手を動かし何かをやって居ることなどがまた多いのだ。

 

 

其の物に関する工作は明らかにホモ・サピエンスに於ける壱つの物質に関する追求の道である。

対してホモ・サピエンスの♀の場合には其の工作に対する興味が壱般に薄いのが特徴である。

 

そんな訳で我は工作其れ自體に対し興味は無いのだが兎に角文房具として間に合い机上に置ける物が是非欲しいので時折は熱心に工作をして居ることなどもまたある訳なのだ。

 

其の八角の穴には万年筆が四本入ることがまず分かる。

其れもモンブランのNo,149並に太い軸の物でも参本は入る。

 

するとまず拾弐本位は万年筆が入る。

問題はあくまで其れが穴なので底が抜けて居ることだ。

 

たまたま机上に何故か中華万年筆JINHAO100のパッケージがあり、其れを良く調べたところ部品として使えることが分かった。

 

1.桐材の底に中敷きの部分を接着剤にて貼り付ける

2.透明なパッケージのカヴァーを加工し桐材に被せるカヴァーと為した

 

 

中敷きにはクッション性まであるので其処は万年筆に取り完璧である。

カヴァーが何故必要かと云うとわたくしの部屋は案外汚いので塵や埃から万年筆を守る為に是非居るのである。

 

我は筆記具の蒐集歴が直に四拾年ともなる位なので兎に角筆記具に関してはすでにありとあらゆることを経験して来て居る訳だ。

其処でもって不満だったのがペン立てや筆筒の類にはカヴァーが付いて居ないことなのだった。

 

勿論使って居るペンを入れるプラ製の書類ケースは五年程前にカーマにてやっとのことで其れを見つけ其処には常に百五拾本位は万年筆やボールペンが入って居る。

但しあくまで其れは使って居るペンを入れるケースなのだ。

 

其の書類ケースはカインズや他のホームセンターには無いものである。

左様に使うペンが多いのでありきたりの物だとまるで間に合わぬ訳である。

 

勿論保管して居る筆記具は桐の小箪笥等にまた別にしかと保存してある。

だから結局は今でも参百本以上の万年筆やボールペン、其れに芯ホルダーの類などと同居して居る訳だが其れはあくまで使用出来る分で使用出来ぬ筆記具もまた弐百本位はある訳だ。

 

 

其のカヴァーを先程セロテープでもって部品同士を貼り付けたりしつつ作り上げ桐のブロックに拾弐本の万年筆を入れカヴァーを付けてみたところ其れがなかなか恰好良いではないか。

其の透明なカヴァーが付いて居るところが結構恰好良いのである。

 

そんな訳で何をやってるんだ?とさう思われるのやもしれぬのだが結構筆記具は汚れて行くものなので愛好家レヴェルともなればさうした工夫を是非せねばならなくなる訳だ。

でもってまさにそんな時に思わぬ物が至極役に立ったりもまたするものなのだ。

 

尚此の新たな桐のペン立てには良く使う万年筆だけが立てられて居る。

其の中の壱本を今机上に置いて居るが其れは米國産の現代の手作り万年筆のやうなもので但し量産品なのでかって送料込みの参、四千円程で求めたものである。

 

大振りの万年筆でもって筆記状態で188ミリもある。

材質はモットルドのエボナイト製であくまで万年筆としては本格性を有する軸の物だ。

 

米國や印度では此の種の本格性を有するエボナイト軸の手作り万年筆が安く売られて居る。

 

日本の場合はエボナイト軸の万年筆自體が壱種ブランド化されて仕舞い普通の樹脂軸の物よりも倍以上は高価なので万単位の物となることが多い。

だが我が今かうして使う万年筆は安くて良いモノなのだ。

 

してみると結局日本社會は概して価値ヒエラルキー化された価値としての場なのだらう。

要するに金さえ出せばキチッとした物が手に入るが其れには最低でも四、五万は出さねばならぬのだ。

 

まだしも食い物などでは例えば250円🍱でも良い物があるにはあるのだが筆記具の世界は特にさうなのか兎に角日本のペンの値段はしかとヒエラルキー化され概して高いのである。

しかもかうして實質賃金が下がって居るのに万年筆は逆に弐倍程もの値段になって居る。-九拾年代と比して-

 

 

尚其の桐製のペン立てには日本の万年筆は壱本だけしか入って居ない。ー全部で拾弐本ながらー

日本の万年筆はかって素晴らしい物が多かったのだが最近は個人的に余り興味が無く要するにJINHAOやかっての英雄だのの中華ブランドと伊太利亜のオマスーすでに廃業したブランドーと其れに印度の手作り万年筆などが多く其処には入る。

 

 

尚其の米國製のエボナイト軸の場合は両用式では無く点眼式で要するに軸に直接インクを入れる百年以上前の萬年筆と同じ吸入方式である。

尤も其れはさうして軸にタップリインクが入るのでインクの出が良く書き易くなる。

 

但し携帯には不向きでありまた軸を立てて置いておかぬとインクが漏れることすらもがまたある。

即ち利便性には欠けるクラシックな万年筆なのだ。

 

其の代わりにある意味自然でありさらに素材の方もまたピカイチである。

 

尚此の万年筆は当初から尻側にキャップが被せられず其れを自らナイフや鑢でもって削り被せられるやうにしたモノである。

だから其の工作の部分の精度だけが悪い。

だがとりあえずはちゃんとかうしてキャップが軸に嵌る。

 

ペン先は同じく米國産である現代のBEXLEYの拾八金ペン先を付けて居る。

フィードーペン芯ーはエボナイト製であり印度や米國の手作り万年筆の場合は其のエボナイト製であることが多いのだが日本製の万年筆の場合は高額なモデルでもエボナイト製とはならない。

 

要するに単なるプラ製となる。

勿論フィードーペン芯ーはエボナイト製である方がよりインクの流れが良くなり望ましい訳だ。

 

また其の点眼式にてインクが多量に軸に入りエボナイト製のペン芯であればさらにより良い物となる。

但し机上に置いてだけは。

 

もしもこんなペンを携帯すればもはや其れはタダ事では済まなくなる。

即ちシャツのポケットにでも挿せばシャツを真っ黑に染め上げ鞄にでも入れて携帯すれば鞄の中身がほとんど真っ黑となることだらう。

 

 

尚今回述べた御話とは實は可成に哲學的なものなのでもまたある。

 

1.所謂利便性はモノの持つ本格性を損なう恐れがあること

2.用途を机上に限定すれば其の安い米國産のアイ・ドロッパー(点眼式)が高く万年筆としての本格性を発揮すること

3.本質的には現代の万年筆が進歩したとは言い切れないこと

 

また我が國に限れば、

4.日本の万年筆は概して高価に過ぎる

 

とのことが言えることかと思う。

 

さて其の壱本だけ此のペン立てに入った日本の万年筆とは果たして何か?

其れはプラチナの#3776の九拾年代物である。ー我はプラチナの万年筆のコレクターなのでもまたあるー

 

但し改造をして居り即ちキャップを同じく九拾年代の英雄の唐木軸の物に替えてある。

其れも改造と云うかキャップを交換しただけのことなのでまた何時でもプラチナ社のキャップに戻すことが出来る。

 

かう云う改造をこそ「上出来の改造」と言うのである。

尚、其のプラチナの#3776の九拾年代物と九拾年代の英雄の唐木軸をほぼ廿年に亘り我は別別に使って居た訳だ。

 

ところが壱箇月程前にたまたま#3776の九拾年代物に九拾年代の英雄の唐木軸のキャップを付けてみたところ何とピッタリと嵌ったのである。

 

しかもキャップを被せるとちゃんとパチッと音がして締まるではないか。

ー#3776の場合はそも篏合式キャップであり押して只キャップを嵌めるだけのタイプであるー

 

 

恐るべきことだが何と#3776の古いタイプの胴軸には其の唐木軸ーおそらくは鉄刀木製か?ーが皆嵌るやうになって居たのである。

 

其のやうにまるで妖怪変化のやうな、又は夏の世の怪談のやうな御話が万年筆の世界にもあちらこちらにまた有るものなのだ。

 

尚、此処日本で#3776の古いタイプの胴軸に九拾年代の英雄の唐木軸のキャップを被せて使って居るのはおそらくは我のみであらう。

と申しますか普通は其のことはまさか考えたりはまた實際にやったりもしないことだらう。

 

ですが我の場合にはかうして如何にも常識外れですので何でもやっちまい其れが良ければあくまで其れでもって行くのだ。

尚#3776は使って居る分だけでも拾本近くもあり、故に此の個體は正直余り使って居ませんでしたのですが今回かうして個性化に成功したので今では壱番良く使う#3776と逆に化して来て居る。

 

また其のこともまた壱種の怪談でせう。

ちなみに我はかって万年筆ライターの時代に首ーペン先ーが長く突き出た改造万年筆の話を書いたことがありまさに其れが万年筆怪談ろくろ首での巻なのでした。

 

ですので此の#3776の場合もあくまで其れは怪談話です。

 

そんな訳で今まさに其の奇妙な#3776でもって文字を書きつつキーボードを叩いて居りました。

其れも古い#3776にしては至極書き易い。

 

其れは何故か?

實はアイ・ドロッパー化(点眼式化)して居ります。

 

其れも改造した訳では無く只軸内に直接インクを垂らし入れインク漏れ防止の為に首軸のネジ部に蜜蠟の如きものを塗っただけのことだ。

ですので此の場合もまた軸内を洗うだけで両用式へと戻せる訳だ。

 

 

さて九拾年代迄のプラチナの#3776はペン芯の出来が余り宜しくは無くインクの流れが左程良くは無かったのです。

ところがむしろ其のこと故にアイ・ドロッパー化(点眼式化)することとは極めて相性が良かった訳だ。

 

ですので他にも何本かの#3776をアイ・ドロッパー化(点眼式化)し使って居るがインクがペン先から漏れ出すこともほぼありません。

 

或は携帯することなども短距離でしたら充分に可能なのかもしれない。

但しアイ・ドロッパー化(点眼式化)した万年筆は寝かすのでは無く立てて置いて置かねばなりません。

 

うーん、まさに調子が良いですね、此れは。

其れと#3776は其の拾四金ペン先の方が非常に良いです。

 

上下にしなるペン先なのでセーラーの廿壱金ペン先などとは違い日本語の筆記に対し眞の意味で向いたものなのだと思う。

 

 

勿論其の部分は今のプラチナの#3776にも踏襲された部分である筈だ。

但し現行の#3776は其のインクの流れ其のものが改善されて居ますので其れをアイ・ドロッパー化(点眼式化)することなどは断じてしないやうに。

 

さて其のアイ・ドロッパー化(点眼式化)すると云うことはあえて進歩を否定し過去を向くと云うことなのでもまたある。

なのですが、事實上此の古い#3776はかうして最高の価値を持つ壱本になりつつある。

 

其れもあくまで外へ持ち出さず運動させぬ限りは。

 

 

さう云うのをまさに「限定思考」と云うのです。

其のやうにあえて機能を退化させ限定した方がより高い価値を発揮する場合が此の世の中にはしかとある。

 

おそらく其れは万年筆に限らず現存在としての精神的な営為の中にもまた存在する筈である。

 

其の逆なのが現代文明による「拡張思想」のことで例えばスマフォだのゲームだのは其の類のものとなることかと思う。

ですが両方共至極體に悪くして高い価値の発揮どころかむしろ価値を低める働きをするのではなからうか。

 

嗚呼、さうか、唯壱利便性に対してだけは其れ等は高い価値を発揮するのでせう。

でも我の場合は其れ等は要らないのだしむしろ此のアイ・ドロッパー化(点眼式化)した#3776があればもう其れでもって充分なのだ。

 

 

我が思想とは哲學的にもまさにさうなのですが「限定」した上で人生自體を己に取りむしろ良い物と化すと云うことです。

よって価値が下がるやうでしたら「限定」する必要などは元より無い。

 

またアナキズム的な共同體主義などもまた其の政治を「限定」せんが為の理想論である訳だ。

 

其のやうに文明による進歩としての営為がどんな場合にも「価値を高める営為」だとはむしろ言えぬことだらう。

壱面からすれば其れは確かにさうであると云う話であるがむしろ其れを否定した方がより個に取り価値が上がると云う場合がかうして明らかに此の世にはあることだらう。