目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

藝術に関する試論ー1 人文學の意義と天才科学者の伝記映画ー

ーさうマイナス領域を見詰めてこその人文學の意義ー

 

 

 

 

ところで自分は「若見え」の方となる。

 

「これで57歳?」…「67年生まれ」童顔男性が公開した10の生活習慣 (msn.com)

 

此の「作家」の男性などもまた自分とは8歳しか違わないのですがどう見ても参拾代迄である。

 

先日スギ薬局の駐車場でひょんなことから婆様と交流があり幾つに見えるかと聞いたら「52歳」だと言われた。

其れで婆さんの方は「80歳」だと云うと實際には「79歳」と可成に正確な判断であった。

 

自分は「人間観察」を可成にして來て居るのでまず見間違うやうなことはしない。

 

でもって何を言いたいのかと言えばまさにニンゲンは其れ其れで「定型的な常識」のやうなものにて全てを判断し得ぬことをこそ述べたい。

また自分はむしろ其の「若見え」の部分がイヤである。

 

何故なら内面がそもこんなにジジイつまりはまず人にはやれぬ程に様様な心的経験を積んで居るのでむしろそちらの方向をこそ人には見て貰いたいからなのだ。

つまり此の男性は「若く居られるやうに努力して」さうなって居る部分が有るが自分は単なる「自閉症スペクトラム障害」者なのでさうなって仕舞うのであらう。

 

また自分は「長生きがしたい」などともほとんど思って居ない。

其れもまあやれることだけはコレ迄にやり尽くして來ても居るのでもはや「悔い」は無いと云うそんな感じである。

 

さらに僕のやうに余りに物事が分かり過ぎると早う「御迎え」が來るやうな気もしないではない。

どだい精神的領域ー哲學や宗教的次元のことーにてほぼやり尽くして來ても居るからもう「彼岸」の方で哲人や宗教家の面面がすでに手招きしてなど居てつい其れにハイハイと引き寄せられる気になったりもまたするのである。

 

だからもう「全てを分かってる」からコレ以上は分かりやうが無い。

もう何も足せないし本質的には「御勉強」なども出來ない。

 

でもあえて「御勉強」をする。

其れは主に表面的知識に関する部分に限られるのだけれども。

 

「3つしかない」ノーベル賞科学者・山中伸弥が明らかにする、意外過ぎる「成功者」になるための裏ワザ (msn.com)

 

其の「天才」は案外世に居るのではないかと個人的には今考えつつある。

其れも「天才」其のものよりも「天才的」な人ともなればむしろ其の辺にでも居ることだらう。

 

だが別段自分は「天才」的能力を所謂崇めたりはして居ない。

何故なら自分にもまた其れが「半分位」あるのだから。

 

ならば無論のこと其の「天才」を毎日其れこそ24時間やれれば「自己實現」することにはおそらく近づくことであらう。

さすればもっともっと根本的に「人生を前向きに生きる」ことが可能となり要するにこんな變なわだかまりやら何やらに患わされずに済み要するにもっと精神的には樂になるのやもしれん。

 

ですがさう常に「變なわだかまりやら何やらに患わされ」つつ要するに限界を突破し得ずウジウジ、メソメソと未練がましく生きることこそが實は自分に取っての「理想の生き様」なのである。

逆にゲージツ家となりつまりは作家となり何かを世の中に對し発信し其れにて對価を得るなどするとわたくしの此の「美しき詩の世界」が穢れ行くやうな気がせんでも無い。

 

だからこんな半分ゲージツ家でもって丁度良い。

どだいなあにが五木 寛之だ、なあにが村上 春樹だ!

 

そんなもんはもうまるで読んどらん。

要するに作家なんぞはほとんど自分に取り役に立たぬ。

 

そんなアナタはアノ「岡本 太郎」氏ばりに独善的だ!!

いや同じ「對極主義者」ですのでさもありなん。

 

兎に角自分は其の「ゲージツ」だの「天才」だのには余り拘らず何故なら其れが「半分」しか無いからなのだ。

逆に申せばもしも自分がプロの大詩人として世に立つことは如何にも怖いこととなる。

 

つまりは其の役目、役割に嵌められて仕舞うことが何だかとても辛いことのやうに思うのだ。

またわたくしはプロだのアマだのそんなことにもほとんど拘っては居ない。

 

何故なら此処の読者の方方にはわたくしが世界に壱人だけの詩的感度の持ち主ー所謂「持ってる人」ーであること位は即分かるのであらうから。

だから其れダケでむしろ良い。

 

そんな大作家となり日日締め切りに追われヒーヒー言いつつ人生を過ごすなんて眞っ平御免なんだ。

だからわたくしの世界にさうあえて何かをくっつけやうとすること自體がどだい無理な話なのだ。

 

何故なら彼はそんな肩書きだの地位だの大金だのには縛られぬ「自由人」なので縛られることと言えばまさに「美の世界」位なもので御前等が其れを「社會」に縛り付けやうとしてもどだい無理な話なんだ。

 

 

でも彼は至って貧乏ですが…。

そりゃペンや石を常に買うから貧乏なのだ。

 

だから其れ等を買わなけりゃコンビニ🍱位はなんとか食える。

またCDを買い歌を聴いたり美術館へ行ったりしなければコンビニ🍱位はなんとか食える。

 

ですがもうすぐ名古屋市美術館東山動植物園の入場料が百円になります。ー市内在住の高齢者の優遇制度にてさうなるー

 

だが大問題が有り「名古屋市美術館」の場合は「常設展」が百円となるだけで観たくなるやうな「特別展」の場合はまるで割引きなど無い部分である。

但し「東山動植物園」の場合は「スカイタワー入場」込みで160円だからコレは如何にも安い。

 

其れもおそらく全國壱安い入園料となることじゃらう。

だからココへすき家の「特盛カルビ丼」を持って行き後は例の「伊右衛門」を自販機ににて買い「御🌸畑」のベンチに座り飲んで食えば宜しい。

 

すると入園料より「すき家の特盛カルビ丼」の方がずっと高いこととなる。

なので「すき家の特盛カルビ丼」の方もまた「高齢者割引き制度」なるものを是非設けて頂きたいものだ。

 

 

科学者についてのベスト映画 (starsinsider.com)

 

さてこんな科学者の伝記映画などを是非視てみたい。

 

テンプル・グランディン 自閉症とともに (2010) -

テスラ エジソンが恐れた天才 (2020) -

アレクサンドリア (2009) -

クリエイション (2009) -

ケロッグ博士(1994) -

'Radioactive' (2019) -

科学者の道 (1936) -

 

 

アンドロメダ (1971) -

地球に落ちて来た男 (1976) -

 

但し其の「アンドロメダ」と「地球に落ちて来た男」はSF作品なのですでに視て居ます。

視てみたいのはむしろ上での科学者の伝記映画の方となる。

 

尚「科学」もまたまさに其の「天才的」能力が創り上げる価値のことだらう。

ですが近代的な「科学技術」には所謂「罪深い」ものがまた多い。

 

何故さうなるのかと言えばおそらくは「人文學的な発想」が失われて仕舞うからなのではないか。

 

自然科学⇔人文科学

 

無論のこと其れは對極的価値でありまた其れも等価であることこそがむしろ望ましい訳だ。

ところが近代以降特に戦後世界では其のバランスが崩れ「自然科学」の方が優勢となりつつある。

 

ですが其のバランスが崩れると實はエライこととなりませう。

「自然科学」は「有」としての「現實」をのみ對象とする世界観のことですので認識上「片手落ち」となり易い。

 

つまるところは「無」としての人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解が無くば現存在の認識は常に「壱方通行」に陥ることであらう。

尚わたくしがむしろ「有」だと述べるのはあくまで人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解の上での「有」の範囲のこととなる。

 

つまりは「無」としての「有」のことをさう述べて居るのです。

いま少し平たく申しますと、

 

人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解はむしろ好んで此の世に於ける「マイナス面」をこそ見詰めて行く。

さらに「文學」などでは小説でもって主人公の悲劇的生涯が描かれたり詩や哲學により實存的不安の様が語られたりもまたする。

 

「人文學」はさう金儲けにも進歩にも与せぬが「ニンゲンをマイナス面より」さう見届けて來て居る。

ですが所謂数理的解釈にて「唯物的」に世界を解釈するだらう「自然科学」の世界ではそんな「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうには世界を捉えはしない。

 

 

個人的にはむしろ其れが「大間違い」なのだと思います。

現存在はむしろそんな「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうなマイナス領域をこそ生き続ける者でありまさか「小さな神様」などではあり得ぬ。

 

またニンゲンに限らず動植物の世界であれむしろ其の全てが「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうなマイナス領域の所持者である。

また其のことをあえて文學的に表現すれば生命其のものにそんな「悲劇性」が宿されて居るのである。

 

ところが近現代文明はむしろそんな「生命の持つ悲劇性」のところにあえて蓋をし實際俺等は何でもやれるからやっちゃえ、てなもので兎に角なんでもやっちまいます。

要するに其処に「歯止め」が効かぬ訳だ。

 

問題は其の生の「悲劇性」に對する感度が現代人は大幅に鈍って居る可能性が高くあることでせう。

ですからむしろ彼等ホモ・サピエンスは「人文學」をこそ學ぶべきなのです。

 

ところがたとえ「人文學」をやったにせよ其れこそ金にもまた進歩にもならぬので次第に文明社會は「人文離れ」を助長させて行くこととなる。

だがまずは其れが「間違い」です。

 

また「自然科学」をどんなに深く學んだにせよ「ニンゲン」其れ自體の解明にはまるで繋がらない。

其れは「自然科学」が「ニンゲン」其れ自體を探求するものでは無く「物的現實」の世界を数理的に規定するものであるからに過ぎないからだ。

 

 

人文詩人さん、ではニンゲンはあえて「不幸」や「苦悩」をこそ見詰めて行かねばならんのか。

そんな戦前の「文學」みたいな認識世界は余りにも大時代的なものでこんな合理化社會にはまるでそぐわぬものでせう?

 

いやさうでは無い。

合理化社會にもまた「不幸」や「苦悩」が澤山ある。

 

いやむしろ「不幸」や「苦悩」のみなんだ。

 

どだい「岡田 有希子」や「藤 圭子」などもあんな🏢から飛び降りて死んだのだし。

また其れはしかしながら怖いぞー。

 

もう宇宙壱怖い話である。

さう言えば芸能人で自殺する人は結構多いぞよ。

 

人文詩人さん、ではニンゲンはあえて「不幸」や「苦悩」をこそ見詰め最終的には「自然科学」への崇拝を止め「神」か又は「佛」への帰依により是非心を救われるべきなのでせうか?

まあさうなりませうが其の前に「自然科学」による「洗脳」を是非解くべきです。

 

但し「自然科学」はまた頗る面白い。

面白いが其れが現存在としての認識上の「バランスを欠く」が故に危ういこととなる。

 

でも實際「オウム教」の方がずっと怖いじゃないか。

まあ同程度に危ないことでせう、其の宗教もまた科学も。

 

 

「人文詩人」としてまずは言いたいのがまさに其の「不幸」や「苦悩」、また「不安」と云った「マイナス面」を忌避してはならないと云うことです。

何故ならそんな「マイナス面」の凝視こそが生の實相を見詰めるに足る認識であり要するに「精神的眞理」へと至る道程となるからのことなのです。

 

唯物的眞理⇔精神的眞理

 

まずは此のことがさう分かれます。

またつまるところ「眞理」は壱つでは無い、むしろ弐極が有る。

 

其の両方を出來得れば見詰めて下され。

さすれば「唯物的眞理」は半分の価値でしか無いことがしかと分からう。