目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん

27.遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん

 

 

 

 

言うまでも無く世界のあり方としてバランスを崩して居るものが人間の認識によるものなのであれば其の誤りを正して行く必要が是非ある。

なんですがまずは其れが誤ったものであるとはなかなか言い切れぬ訳です。

 

例えば宗教的な観点から言えばコレコレかうでココが倫理的では無いので誤って居ますよ、などと言うことは無論のこと可能だ。

また人文學の方から得られた結論としてコレコレかうでココが矛盾して居ますよ、などと言うことは無論のこと可能だ。

 

ですがむしろ文明を進歩させる観点から言えばむしろさう云うのは妄想の如きもので要するに何が人類にとっての価値であるかをまるで分かって居ないことだらうおバカな人人の発言となることでせう。

故に其の進歩思想に対する考え方の違いでほぼ意見が弐元分裂して居る訳だ。

 

 

さうして宗教や人文學による視点はむしろ其の無制限な合理化思想からは隔たって居る場合が多い。

其れと矢張りと言うべきか藝術などもまた明らかにさうでせう。

 

と言うことは宗教や人文學や藝術による視点とは基本的に其の無制限な合理化に対する反抗であり諫めでの部分でせう。

最終的に其れは個の認識がまさに其の合理化により非人間化ー非精神化ーされて仕舞うことに対する反抗であり諫めでの部分でせう。

 

さて皆様は僕などとは違い其れ其れに文明社會を信じて日日を送られて居ることかと存じますが僕個人はほぼ信じてなど居りません。

 

まあ其れはある種極端な思想なのではありますが僕はかうして其の人文の領域にて長年に亘り考え込んで来た人間なのでおそらく其の認識の仕方がチョット違う訳だ。

だけれども其れこそ養老先生や五木先生などの所謂高名な文人の先生方の認識の方向性とはほぼ壱致して来て居るのだと言える。

 

 

なので僕が述べて居ることは所謂世迷い言の類なのでは無くむしろほんたうのことなのだ。

其のほんたうのことを昔から多くの作家や詩人が述べて来た訳ですが其の発言も皆文明の進歩の波に掻き消されすでに今では化石化して居ることでせう。

 

だから我はむしろ其の化石をこそ発掘して其の合理化社會に対し挑みたい訳だ。

要するに其れが社會に対する宣戦布告、なのですよ。

 

ですが其れをやりますと實存的価値の方が制限されるつまりは戦闘ばかりとならざるを得ず其れも其れでもって金を稼げるならまだしもかうして壱銭も貰えぬやうでは嗚呼バカバカしい、もう止めたこんなことは、でせう。

 

其のアホたれ社會が如何にもアホなのですが其れも今僕にはさう見えて居ると云うことに過ぎず逆にみんなー大衆の方方ーにとっては此の上無く正しくしかも樂しい世の中なのやもしれません。

なので僕は悩みに悩んだ挙句に「戦闘ー仕事ーが半分、遊びが半分」で行くことに此の際決めました。

 

 

其れも結論としては合理化社會ー進歩する文明ーをほぼ全否定して居る訳ですので其の思想を其の侭に生きて仕舞いますと其れこそ自分にとっての残りの人生がほぼハルマゲドン化して仕舞う訳なのでまさか其れが樂しいことだとはとても言えぬことだらう。

尚我に取り樂しいこととは精神的に自由に遊んで居られることだ。

其の「遊び」とはまさに不要不急である精神的余裕を常に確保して置くと云うことだ。

 

但し其の「遊び」が本能的に流されるやうなものであってはならない。

要するに其れは👪主義でも無くまた性的エネルギーの発露でも無くさらに侵略主義による力の論理の履行でもまたあってはならない。

 

逆に申せば本能的に成就される其の種の価値ヒエラルキーー利己的な価値観ーこそが破壊を招く元凶です。

だから遊びとは例えば花鳥風月と戯れることであり、また例えば飯を食い其れを喜ぶことであり時には美術館を訪れ名画を鑑賞することであり其れに今日はウンコが沢山出たことを喜ぶそんな至極具象的な身の回りの世界即ち日常をひとつの宇宙と見る視点のことだ。

 

 

ですが元より其の視点はまずみんなには持ち得ぬものです。

其れもみんなは逆方向に心の価値観が振れて居るので逆に酒池肉林の方へと価値観が動いて仕舞います。

 

尚其のことは例えば宗教教団などでもさうで、宗教と名が付いて居るから清廉潔白かと言えばまるでさうでは無くむしろ権威権勢欲だの金の力だのに大きく支配されて居りおまけに其の教祖が何時の間にやら神様として祀り上げられたりもする訳ですので其の様やもうまるで酒池肉林の宴其のものです。

 

よってほんたうの宗教とはむしろそんな社會性により齎されるデカい欲望を離れた精神の仙人の園にこそあるものなのです。

 

 

そんな心の春を生きる尾張の詩人さん、ではアナタは今壱體何を欲しておいでなのですか?

もしや其れが七冠の称号なのですか、其れともイチローみたく弐百億の金を持つことですか?

 

いや其のイチローが何故僕に壱億円を恵んで呉れぬのだらうと其れだけは正直毎日思いますのですね。

第壱イチローやかの大TOYOTAに取り壱億円は単なるはした金ですが其れも僕にとっては我が命を救う大金だと言うのにね。

 

でもアンタ其の人から金をまき上げやうとする魂胆こそが間違って居ます。

確かに間違って居る。

 

間違っては居るが藝術家には是非パトロンが必要だ。

其のパトロンをむしろこちらから決めてやらうと云う話なのだ。

 

 

…話にも何にもなりゃしない、こりゃあ、ダメだ。

 

其の駄目な様こそが無駄であり無駄こそが不要不急の現實であり實存的価値だ。

要するに人間としては無駄ー役立たずーでも良くですが社會としての無駄は要りません。

 

つまりは合理化としての順序がまるで逆です。

其れは制度は合理化出来るが人間はまた自然は合理化などよもや出来ぬと云うことだ。

 

 

また其れが養老先生の仰る「意味化=意識化」された価値からなるべく距離を置いた方が良いと云うことであり何故ならば其れが最終的には人間の心さえをも合理化するに及ぶからなのだ。

例えば前回性に関する自称詩人の見解を述べて置きましたが事實上其の「性」が今壊れかかって居るのださうだ。

 

要するに其れは男性の女性化が進み女性の男性化が加速しつつ進んで居るとされても居て今や其れは生物學的見解としての常識なのださうです。

また其れは現代社會としての所謂ジェンダーレスとしての方向性なのだともまた言えやう。

 

尤も其れが何を意味するかと云うことに就き皆様は考えられたことがおありだらうか。

要するに其れは次第に生殖と云うものがより人工化される即ち合理化されて行くことを指し示す事實です。

 

 

キリスト教原理主義にせよまたイスラーム原理主義にせよさらに東洋の保守的な思想や宗教であるにせよさうした人工的に齎される人間の性のあり方に対し決まって拒否感を抱いて居る筈だ。

ですが自らの頭でもって考えることの無い大衆的価値観の上ではむしろ其のことさえもが批判の対象とはなり得ぬことでせう。

 

大衆の価値観とは元来本能に基づくものなので「戦争反対!」であるのだとは云え實際に戦争になれば志願兵にはこと欠かぬものだ。

あくまで「戦争反対!」なのは左翼思想であり大衆はイザ國が戦争を始めれば容易に「戦争賛成!」へと回るものなのだ。

 

要するに大衆とは「思想」を持って生きるやうな人種では無く其の時代、其の場の雰囲気にてどうにでも流される人間のことだ。

故に大衆には文明を批判する力などは元より無い。

 

文明を批判し得るのは自らの頭でもって考え「思想」に従い生きて居る壱握りの人人のみだ。

 

 

でもこんなに文明に対し闘争的な僕の本心は、「こころの平和」にこそある。

僕はかうして心の平安をこそ長らく追い求めて来た。

 

また僕は其れを「理性的」に成就しやうと心掛けて来た。

例えば養老先生の御考えと僕の考えの異なる点とはまさに其処にある。

 

なんとなれば理性には弐種がある。

其れが合理的理性と非合理的理性である。

 

宗教的自我にせよまた藝術的感性にせよ僕の考えでは全て其の非合理的理性の中に組み込まれて居る。

 

 

ところが現代社會を進歩に導くものとは主に合理的理性である。

即ち進歩とは其の合理的理性による不断なるー間断無きー合理化の履行である。

 

だが其の合理化こそがむしろ人間ー人間性ーを破壊するに及ぶ。

まさに其れが近代文明が目指す合理的価値に於ける古典的理解であらう。

 

故に僕は何も個としての思想を披歴して居るのでは無くむしろ大昔の「文明に対する警戒」の御話をして居る訳だ。

 

非合理的理性は何も「意味」ばかりを求め今を生きて居る訳でも何でも無い。

むしろ其の人生の「無意味」さに気付くことこそが其の非合理的理性の目的なのだらう。

 

第壱何故かって文豪の面面が皆自決するに及んだのか?

そも文學とは単なる自決サイトなのか?

 

まさに其れは「無意味」其のものでの死の羅列である。

だが我は拾年程前に其のことの意味にようやく気付いた。

 

 

其れはむしろ全的な無意味さの履行である。

文學とは最終的に其の全的な人間の生の無意味さを其の侭に履行して行くものだ。

 

文學は其の意味の否定性故にかえって燦然と光り輝いて居る。

文學の本質とは其の人間の悩み其のものであり人間の悩みの履行こそが其の文豪の死である。

 

其処に曰く、「無意味」。

其処に曰く、「不可解」。

 

 

人生と云う其の「無意味」なるものに本来悩む必要は無い。

だけれどもまさに其のことに気付く迄にむしろどんだけ悩まねばならぬことか。

 

其の文學が悩みに悩み仕舞いには自決に及ぶむしろ其の様こそが非合理的理性としての代表格の様だ。

最終的に我は文學を其のやうに位置付け其れを「本能」と対置させることに成功した。

 

よって文學もまた宗教も「本能」の対極を歩むものである。

かっての無頼な作家連中やかっての風狂な禅僧がむしろ滅茶苦茶をやり生きる訳だが其れは本能を生きたのでは無く人間の生の「無意味」さ其のものをむしろ生きたのだ。

 

 

逆に所謂社會性はむしろ極端に「意味化」された現實即ち抽象的価値に彩られた価値世界をこそ形成して行く。

要するに所謂常識人であれば自決や謗法にはよもや走らぬ訳だが彼等は決まって其の意味化の檻に捕えられ自らの認識をむしろ穢すに及ぶ。

 

逆に其の意味化されぬ現實としての捉え方、其の認識のあり方こそが壱種余裕のある心のあり方を形成する。

其の社會の価値観としての抽象的理念、抽象的価値に毒されぬまさに自らのもの、其の實存としてのオンリーワンの価値を逆に照らし出して行く訳だ。

 

故に社會が我我個に対し望む価値に対し従順であってはむしろならぬ。

左様なこととなればやがては自らの価値其のものを破壊されるに至る即ち洗脳されまるでロボットの如くにまた古典的な表現で言えば「社會の歯車のひとつ」と化し最終的には己自身を失う羽目となる。

 

 

其の「己」とは所謂利己主義のことには非ず。

利己主義とはむしろ現代社會が蔓延させて居るもののことだ。

 

其れはあくまで利己主義では無く己を大事にする主義の謂いである。

己を大事にせんが為にはかっての文豪の如くに自決する迄の気概を持たねばならぬ。

 

例えば禅宗には父母を殺してもまた師を殺しても法の灯、また己の灯を消すなと云う過激な教えがある。

其のことがまさに「眞理」を語って居るのである。

 

其の非合理的理性としての「眞理」を前提とする限りは其のやうな過激な文脈をも是非理解して置かねばなるまい。

 

 

かくして人文の理性、即ち非合理的理性がある意味で「死を賭した」精神的闘争の世界であったことを皆様はまず是非知る必要がある。

対して文明の進歩を成り立たせる為の合理的理性は初めからそんな精神的闘争から離れて居る。

 

つまりは科学はよもや悩んだりはしない。

また精神的苦悩からまさか死を選んだりはしない。

 

むしろ僕は其処が問題なのではないかと近頃強く思う。

人文理性がさうして死を重ねつつ問うて来た人間自身に対する問いのことをそも何で今文明は放棄して仕舞ったのか?

 

 

逆に申せば其の放棄こそが「逃げ」である。

だが文豪や宗教家の放棄は「逃げ」では無くむしろ「人間と向き合うこと」だった。

 

尤も其の言葉による其の人間の追求すらもがまた空しい。

空しい、だからこそ文豪は死を選んだ。

 

宗教家にせよ死を選ぶことさえもがまたある。

其れが密教で言われるところでの「即身佛」だ。

 

いずれにせよ合理的理性には其の死への深い認識が概ね欠けて居る。

其れは生物的な死への認識では無く概念的な死への認識が欠けて居るのである。

 

人間の生は本能的に規定されるだけのものには非ず。

人間の生が本能的に規定されるに及べば逆に人間は其処に壊れる。

 

 

人間よ大いに悩め。

事實として此の春は悩ましいばかりでのものだ。

 

其処かしこに御🌸が咲き集い、皆は其のムラムラとした春の肉體の目覚めの中に焚べ入れられやう。

だから自然は其の春の喜びの中を其の侭に生きる。

 

だが人間共よ。

君等は其の通りにはまさか生きられぬ。

 

君等人間共よ、アンタ方はどんなに頑張っても其の🌸の壱輪にさえなれはせぬ。

ザマアミロ、此の不届き者等めが。

 

 

だが悩んだ人は其れなりに報われるぞよ。

サア其れではまた悩む為に古本屋でも行くとするか。

 

でも予定ではまさに明日がゴッホ展となって居りますが。

エッ、さうだったの。

 

其れは其れは御免なさい、スッカリ忘れて居ました。

そんないい加減な生き方で良いのか?

 

其れも君にとっては重要な仕事なのだらう?

自転車でもってゴッホ展へ行き図録も買い其れでもってまたゴッホ論を書くのだらう?

 

うーむ、気が向いたら是非さうしてみます。

でも書けと言われたら最後逆にイヤになるのが自分の性格ですのでソコは是非自由にして置いて下され。

 

其れも我に取り何せ凡そ四拾年振りのゴッホですよ。

と申しましてもゴッホの絵が齢を取った訳では無くわたくし自身が爺となったばかりでのことなのだが。

 

 

また何かを買ったな。

ヘッ?

 

また何かを買ったな。

はい、中国の万年筆をまた買いました。

 

また其れで遊ぶ気だな?

へい、遊ぶ気で御座りまする。

 

かうしてみんなが眞剣に平和を願い神佛に祈りを捧げて居ると云うのに壱體お前は何をやって居るのだ?

ちゃんとかうして論理を組み立てて居ますが…。

 

こんな屁理屈が論理なものか!

まずはお前自身が心を入れ替えよ此の倒錯詩人めが!

 

ですから、是非生の「無意味」さを愉しむ心の余裕を持って下され。

無意味なものにこそ「遊び」が満ちて居り無目的な自由さもまた満ち溢れて居る。

 

其れは自然を観察することで自然と體得される實感である。

其の「遊び」の中にこそ眞の意味での精神の安樂がある。

 

 

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。梁塵秘抄 - Wikipediaより

 

此の歌の解釈もまた色々とあることでせうが個人的には無意味なまた無目的な生に於ける行動をむしろ肯定して居る歌なのだと思います。

但し悪い意味での所謂「大人の遊び」を肯定するものでは必ずしも無いのだと思う。

 

あくまで無意味な行動つまりは分別以前での行動に罪は無いと云うことを述べて居るのだと思う。

其れは本能には罪が無いと云うことに重なるのだと思う。

 

だけれども分別以降での悪行には無論のこと罪が生じて来ます。

分別以降では善行もまた生じるが故に結局は善悪対立の世界観が其処に出来上がって来る。

 

わたくしが述べる「遊び」とは子供の遊びとは異なり意図的に生の「無意味」さを愉しむ理性的態度のことです。

つまりは本能では無い「遊び」のことだ。

 

 

其れをむしろ理性的に選択し其処に遊ぶのだ。

其れが本能では無い限り悪を選択すれば悪い遊びともなるが善き遊びを選択すれば其れが癒しともまたなる。

 

わたくしが選択する遊びはむしろ其の悪い遊びの類を質的に離れたものばかりです。

其の意味では絵画の鑑賞や音樂鑑賞は我に取りまさに其の「遊び」其のものなのですが同時に今や其れが仕事でもある訳ですのでつまりは其れが遊びであると同時に仕事なのだ。

 

其の分別以降での罪の無い「遊び」の中でこそ今やわたくしの心は癒され続けて居る。

また其れは社會が我に対しさうせよと命じたことでは無くまさに我自身がさう選び取った生き方なのだ。