目覚めよ!

文明批判と心の探求と

夏はこんな氷飲料と寿司とエアコンに限る

夏はこんな氷飲料と寿司とエアコンに限る

 

 

 

 

かうクソ暑い毎日では普通思考の方が停止するのではないかとさう思われますのですがむしろわたくしはかうしてエアコンをガンガンにかけて今沈思黙考ばかりをして居ります。

其のやうな普通人間がやりたいことの逆をあえてやるクセがどうも我にはしかとある。

 

でもってクソ蒸し暑い日に非常に効く飲み物をまた発見致しました。

其れはズバリ麦茶です。

 

其のペットボトル入りの麦茶を冷凍機に入れ凍る寸前に取り出し其れを壱気に飲み干します。

また其れはエアコンをガンガンにかけた部屋にて行われるべきことだ。

 

 

其れをしたところ本屋へ行って来てほてった體が壱気に冷えて来た。

其れも冷え過ぎかと思われる程に冷えて来た。

 

ちなみに所謂清涼飲料水を我は飲みますが其れはデカいペットボトルへと注ぎ込み半分は水を入れ其の侭冷凍機ー冷凍専用機ーにて兎に角冷やします。

其れをやりますと兎に角爽やかな夏用のしかも最高に冷えた飲み物が出来上がる。

 

無論のこと紅茶飲料や珈琲飲料でも其れを致します。

すると其れは半ば氷紅茶や氷珈琲と化しもはや其れだけでこんな夏の極樂の世界としての飲み物が完成する。

 

 

すると今年は氷其れ自體では無く半分氷での氷飲料こそがアナタが目指すところでの究極の清涼飲料水なのですね?

まさに其の通りだ。

 

さうして其れを熱いビーフシシューやまた熱い味噌煮込み饂飩などを食いつつ飲めばまたさらに壱層其の極樂さが味わえると云うものである。

もしやまた弐元対立的な極樂世界での御話ですか?

 

さうです、其の弐元対立的極樂世界にはまた他方にしかと地獄が御座ります。

ですが其れはあくまで文明社會として味わうべき地獄であり我我個が其の地獄に関わり合う必要などはむしろ無いものだ。

 

ですがイザ節電となったらどうするのですか?

其れも中部電力東京電力とは違いおそらくはまだ余裕があると思われるので人のことなんぞどーでも良いことだらう。

 

では中部電力東京電力を助けぬとさう仰るのか?

まあ余力があれば助けますが中部電力以外の電力會社がどうならうがそんなものは知ったことでは無い。

 

でも中部電力も他の電力會社から助けられたことが事實過去に何度もありますよ。

だからあくまで其れは昔の話でせう。

 

だから東京は東京でまた大阪は大阪でもって自分でちゃんとやれよ。

まるで冷たい其れも信長様のやうな御発言で…。

 

 

兎に角中部地方はまた食ってるものもまた違いますしまるでイチローやTOYOTAや藤井君の如くに唯我独尊にてひとり勝ちすると云うそんな土地柄ですので関東や関西がどうならうが基本的には知ったことでは無い。

ですが中部地方の美味い物だけは是非守らねばならぬことだらう。

 

おお、たった今従妹から寿司が差し入れられた!!!

お土産 | お料理 | 札幌 かに本家 (kani-honke.co.jp)

 

しかも此のかに太巻き寿司である。

 

すでに其れをわたくしは食い今満腹である。

しかも其処に若干の菓子と氷飲料までもが入り込みもはや東京のことなどを心配して居る心の余裕などは何処にも無い。

 

いやあ夏はこんな寿司と氷飲料とに限るな。

 

ところで本屋ー七五書店ーでは何を読んで来たのか?

 

 

はい、其れが壱つには此の本です。

知能低下の人類史 - 春秋社 ―考える愉しさを、いつまでも (shunjusha.co.jp)

 

つまりは文明は進歩せずむしろ退化して来て居りしかも人類は総おバカ化して来て居ると云うやうなことが書かれて居り其処が大體に於いて我が意見と近しいものです。

 

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋 昌一郎):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

 

でこちらの本も是非読みたかったが寿司がそろそろ来さうなので家へ帰りアマゾンを視たらもう何年も前に買ってあった本でした。-よって何処かにあります-

 

『知性の限界-不可測性・不確実性・不可知性』(高橋 昌一郎):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

 

なのでこちらの方をまた是非読みたいところです。

其の限界物がわたくしは基本的にとても好きです。

 

 

其の御勉強と云うものは基本的に人知の限界を知る為にこそ為されるべきものだ。

逆に壱旗揚げたいとか良い大學や壱流企業に入る為の所謂現實主義の履行の部分は其の眞の意味での御勉強とはまるで異なるものです。

 

むしろ人間に対し絶望せんが為の御勉強こそが眞の意味での御勉強としての内容である。

 

また宗教なども結局はさうしたことなのである。

人間は其の侭ではダメだから修行したり信仰したりして人間其れ自體を本質的に変えて行かうと云うのが宗教の意義なのでありよって其れは俗世間での欲望に対応するものなのでは基本的に無い。

 

まずは其の社會的欲望は其の種の認識なり価値観とは常に正反対に位置するものであることを個としてしかと知って置いて下され。

 

其の知性にはさうして限界が常に設定されて居るが此の世を駆動させて居るものとは其の知性では無くむしろ欲望ーケモノーの方です。

ケモノがさうして野放図に暴れ回るものだから世界が崩れると云うか事象のバランスを欠き壊して行きます。

 

ところが当の本人さん方はむしろ自分の認識こそが正しいとさう信じても御座る。

 

其の盲信の類を離れるつまりは洗脳を解くことは理性に取り不可能なことなのでは無い。

よってまずは自らの認識ー価値ヒエラルキーとしての認識ーのバカバカしさにまずは気付いて下され。

 

 

其れは大體に於いて文明に対する盲信でありつまるところは進歩主義だの拝金主義だのまた諸の科学的合理化への盲従の様です。

さうして其れに自分の頭がやられまくって居るやうでしたらむしろ引き籠もりだのルンペンにでもなった方がマシと云うものです。

 

其れにしても先程よりどうも眠い。

では寝ます。

…。

 

お早う御座います。

 

高橋昌一郎先生の第一講義「知性の限界」私たちは、世界をどこまで認識出来るのでしょうか?? | 双龍天翔 (comingdragon.com)

 

此処は其の知性のことを可成にお分かりになられた方が書かれて居るものとさうお見受け致します。

 

だけれども其れこそ認識論のことは所謂科学の内部論理だけでは分からぬことなのでせう。

例えば人文的に見詰めればすでに科学は明らかにやり過ぎです。

 

其れもかうして要らぬものをあえて創り其のことでむしろ地球を破壊して行く訳だ。

其れはどんな詩人がまた漱石や芥川がさらに太宰が三島が見ても其の通りでのことです。

 

またMIROから見れば本質的にはさうして樂しい世界である筈の現象界が社會的には何時まで経っても苦しく充たされず逆にドンドン悪くなって行く訳だ。

果たして其れは何ででせう?

要するに人間が社會化されるにつれ其の純心無垢なる心を失って行くからなのだらう。

 

ですから、どうのかうのでは無く科学とは本質的にむしろ要らぬものです。

其れは要らぬから要らぬのであり要ると思って居るのはさうして社會化された大人達だけです。

 

 

其のやうに藝術的な認識論なども組み入れてみますと其れこそ近代科学が信奉するところでの発展の論理がむしろ大間違いであった可能性すらもがまた出て来てだとすれば我我ホモサピエンスは要らぬ価値だけの為にかうしてヒイコラ御勉強してしかも其処で偉さうな理論だのを形作りやって来ましたがおや何処で間違えたのだらう、もはや地球がこんなんなってますがー。

 

バカ、其れはお前等科学者がソコで妄想したからのことだ。

さうか、結局は妄想だったか、此の科学浪漫こそがまさにウソの神だったんだ。

 

だから其れは文學と絵画を見詰めるだけで分かることじゃないですか。

何故其れを見詰めずにそんな妄想ばかりを信じやって来て仕舞ったのだ?

 

なので、

 

人文學<科学技術

なのではなく、

科学技術<人文學

 

とでもしないとむしろ此の世での理性のバランスは狂って仕舞う。

 

 

其のハイデガーによる「世界内存在」の論理ではないが、近代科学其れ自體に其の論理的矛盾を証明する術が無いのであれば其れとは反対の方向を向いて居るものにむしろ其の自身としての存在意義を問うてみて貰えば良いだけのことです。

では果たして人文學や藝術にまた宗教にせよ其処に科学の存在意義を問うだけの論理的整合性が存するのと言えば其れは無く其の代わりに直感力のやうなものが其処に備わるだけです。

 

ですが往往にして其の直感力こそが理論だの論理だののウソを見破ったりもまたする訳だ。

どだい文學はかってあれ程人間をさうして世界を悩みに悩みましたが今でも漱石をまた芥川をさらに太宰を読めば其の人間の苦悩のことだけはしかと分かりませう。

またトルストイをさらにドストエフスキーを読めば人間は合理的には決して定まらぬ複雑な心理を生きる生命であることがたちどころに分かる。

 

従って僕には其の複雑な人間の本質の部分をあえて問わぬやうな合理化こそがかうして世界に余分なるものばかりを蔓延させ挙句には地球をブチ壊すに至るのだとさう思えてならぬ。

要するに理性としての自己矛盾、即ち論理其れ自體が招く矛盾領域にもはや科学技術文明は嵌り込んで居る。

 

 

ですが其処に幼稚園児の如くに清らかな心を持つ詩人が壱人現れかう云うのです。

曰く、「其れウソとちゃうか、其れ要らんとちゃうか?」

 

ウソ臭いー相対論もまた量子論も現實離れした理論の世界のことだー

要らんモノー家電も🚙も✈も🚢も🚀も此れ以上もう要らんー

 

さて三島先生はむしろ日本の未来を信じ切れなかったからこそあれだけのことをなされたのだと個人的には理解して居ます。

また三島先生の予見のやうなものはむしろ当たって居て其れこそ其れは石原先生がかってお書きになられても居たことです。

故に三島先生はさうして滅びゆく日本に対し殉死されたのではなかったか。

 

 

さて其れと言語世界に於ける妄想であり錯覚とは何のことかと言えば人間の大脳新皮質の部分が常に其の相対概念分別の世界=言語的限界を持つ世界だと云うことです。

相対概念分別は基本的に妄想であり錯覚のことです。

 

故に現存在は「世界内存在」であると同時に妄想であり錯覚でしか「今」を生きられぬそも認識論的に且つ存在論的にも矛盾する現象でしかあり得ません。

其の矛盾ーと其処から生じる苦ーをあえて見ないやうにしない限り人間が「今」を元気に生きて行く方策などあり得ません。

 

要するに人間とは其の矛盾的次元を引き摺った侭ウソの今を妄想的に要するに錯覚しつつ生きて居るより他は無い壱つの悪夢としての現象です。

であるからこそ其れを御釈迦様から見たにせよまたイエス様から見てもむしろ間違って居る訳です、何が?其の人間共の認識と現象其のものが…。

 

つまるところはさうして人間とは妄想であり錯覚である今を突き進んで行くことしか出来ぬ者だとのことである。

 

 

さて暑い時にそもアナタ方はどうしますか?

都會へ行きますか、其の摩天楼とタワーとに昇るのか?

 

或は宇宙へ逃げる?

でもそんな金が果たして何処にある?

 

暑い時はそも海と山でせう。

其の海で🐟を獲り山では🐗を仕留め是非其れを食いませう。

 

 

だが海と山には何と冷凍機がありません。

…其れは實に困る。

 

其れにエアコンも無いわ、水洗便所すらもが無い。

さてもみんなはドレを選びますか?

 

 

我は結局自分の部屋でかうして作文する位のことが関の山です。

つまりは現存在の仕出かした過ちを見詰めつつ其れを批判すること位しか出来ない。

 

人文學はかってさうして人間の心の本質に就きもうイヤと云う程に見詰め切りました。

だから人文學にはもはや全てが分かって居たことです。

 

三島先生もまたトルストイもさらに芥川も人間を見詰め切りさうして何故か決まって辛い死に方をされた。

おおおおおおー文學は其の文學はかうして人間にさえも勝った!!

 

勝った?

さう、勝った、温暖化にもかうして勝った。

 

でも違うだらう、其れは?

 

違いました。

温暖化に勝てるのは文學でもお笑い芸人でも無くまた藝術でも宗教でも無くエアコンだけです。

 

まさに其のエアコンと氷飲料とに限るのだよ。

其れと寿司の酢飯なども効きますので其れなども是非御勧めです。