83.共感覚とは眞の意味での豊かな認識への入り口であるー宮澤 賢治と我が持つ共感覚による認識世界ー
NHKオンデマンド|怖い絵本 (nhk-ondemand.jp)
と云う怖い話の映像作品を以前に壱話分だけ視て其れが兎に角ずっと心に残って居たのである。NHKオンデマンド | 怖い絵本 その10「雪ふる夜の奇妙な話」 (nhk-ondemand.jp)
其れは兎に角素晴らしい映像作品だった。
また短い話であることが何より詩的なのでもある。
但し其れが「怖い」かどうかはまた何とも言えない。
怖い映画などは世に満ちて居るのだしほんたうに怖いのは今や此の世界の現實の様でさえある。
其れでも其の種の不思議な世界へ誘われる部分からは矢張り其れは「怖い」ものだとさう言い得るのやもしれぬ。
尚個人的には其れこそ闇の中だの彼方の地獄だのにそんな怖さがあるのでは無くおそらく人間の心の中にのみ恐怖は存在するのだとさう考えて来て居る。
故に恐怖は幻想としてでは無く現實の様として此の世にこそある。
また其れは自然界が用意するものでは無く常に人間の側にのみ有るものだ。
従ってまさにそんな精神的スタンスから我は人間界を見詰め続けて来て居る訳だ。
だから人間を信ずると云う其の当たり前の精神的スタンスからはすでに退いて居るのである。
であるからこそまた人には見えぬ領域のことも見えることがある。
丁度今朝もまた御託宣があり其れは大衆社會を批判する論理であったが其れがピッと壱度に全部が来た。
其れを文字化してみたが便箋に参枚ー表と裏でー程の量のものだった。
さうした直観の世界と其の恐怖の世界はまた連なってでも居るのだらうか?
但し直観とはむしろ恐怖を放逐せんが為の智慧なのではなからうか?
例えば佛陀やキリストの認識に恐怖があるとは思えぬのであり其れは彼等が「正しい認識」に到達したからのことなのであり、イザ其の「正しい認識」を得ることが出来ればもはや迷妄としての恐怖や苦しみの世界に惑わされたりすることも無くなるのではないか。
そんな訳で其の直観と恐怖はむしろ反対の方向性でのことなのやもしれぬ。
でもって人間は其の恐怖が意外と好きである。
要するに其のおどろおどろしい部分がまさに好きなのだ。
或は其れは人間のケモノ性を何より示して居ることなのかもしれない。
我はさうして恐怖とは人間自身が生み出して居ることだとさう思ったりする。
勿論自分が食われる前の獣共の気持ちはまさに其の恐怖其のものだらうが其れが無くなってもいまだ人間の心理の片隅に残って居るものこそが其の恐怖の正體なのやもしれぬ。
或はまたそんな獣の恐怖が変質しより抽象化されしものが人間の場合の恐怖なのだとも言えさうだ。
兎も角そんな具合に其の恐怖の場合も人間の場合は獣的で且つ具象的なものとまた抽象的な次元での恐怖とがゴタ混ぜになりつつ常に発現して居るのだと言い得ることだらう。
だから其れは元よりお釈迦様やイエス様による認識の次元でのことなのでは無い。
尚個人的に怖いのはお化けー異形の者ーや👽ー異星の者ーでは無くズバリ人間である。
まあそんなのが純文學による眼差しと云うことになるのであらう。
だから此の種の恐怖シリーズの動画などよりも其れこそ芥川 龍之介や太宰 治による作品中の人間描写の方が余程に怖い訳だ。
また恐怖映画などでも其れと同じことで、其れ等には純文學並に深い人間解釈はそも無い訳ですので単にグロテスクに怖かったりするだけのことで其処にほんたうの意味での人間の怖さを語るやうなものでは元より無い。
されど近年に限り次第に其の種の枠が外されたりしても亦来ているやうだ。
例えばつい先日こんな映画を視た。Amazon.co.jp: ミッドサマー(吹替版)を観る | Prime Video
此の映画は要するにとあるカルト教団に於ける洗脳の様を描く映画である。
但し批評家からは概して高評価を与えられて居る作品であるさうだ。
只個人的には此れが良い作品であるとはまさか思えず逆に可成に薄気味悪い終わり方での映画だった。
勿論其の意味ではまさに怖い映画であらう。
但し映像の方は可成に凝って造られて居り如何にも美しい。
でも内面的にはどうも気持ちの悪さが残る映画である。ーグロテスクなだけでは無い心理的に気持ちの悪いものが残る映画だー
尚もっと過激にグロテスクさを求める方には所謂食人シリーズの作品などが是非御勧めである。Amazon.co.jp: グリーン・インフェルノ (吹替版)を観る | Prime Video
此れはもう凄いよ。
兎に角人間が食われる其れも人間が人間にバリバリと食われて行く映画です。
つまりは変態チックな意味での趣味性が可成に高いグロテスクな映画である。
でもって、かう云うのから比べるとNHKの「怖い絵本」の方は怖いのでは無くむしろ詩的なものなのでせう。
其処は矢張りNHKでは人間をバリバリと食ったりまた過激な性描写などはまさか出て来ない筈でせう。
だから其れはあくまでポエムなのであり要するに半分位は宮澤 賢治の世界でのものですね。
尚其の宮澤 賢治は如何にも眞面目な宗教詩人でしたが實は其の妖怪変化と云うか不可思議な現象と云うかそんなものへの親和性が高くある人で其れでもって屡登山中に其れを見たなどとも言われて居ます。
ですので詩人の感度なるものはさうして全方向へと常に向けられるものなのだ。
故に聖や善の領域を見詰めると同時に妖異や悪其のものを常にまた見詰めて行く訳だ。
さうして美を見詰めると同時に生に於ける醜さをもまた見詰めて参ります。
其のやうに文人の感度と云うものは此の両義性の世界にこそ常に晒され続けて居ます。
尚、詩人の其の多くはむしろ非常識でありまた精神的な障碍を持つこともまた稀では無いことです。
要するに彼等は元元半分位はキチガイです。
但し其れは詩人以外の人人はまともだと云うことの根拠とはなり得ぬ話です。
逆に申せば詩人以外の人人の感度は明らかにボンクラであると云うことにしかなり得ません。
『解離性障害』 - 宮澤賢治の詩の世界 (ihatov.cc)
宮沢賢治の創造性の源? 「解離性障害―『うしろに誰かいる』の精神病理」 (yumemana.com)
また其のキチガイ級の感度でないと壱級の詩人にはなれぬと云うことでせう。
其れでもって精神科医は上の如くに色色と分析を進めますが、では彼等には果たして宮澤 賢治のやうな詩や童話が書けるのだらうか?
要するに精神科医は精神科医としての近代的分析論を此処でして居るだけのことなのであり其れは文學の世界のものではまるで無いのである。
要するに學問的に分かったやうな気でもって文學を論ずることはまさに人文學としてはタブーなのでせう。
つまるところは世界の分からぬ部分をも包括するものが文學世界なのであり其れは単なる病名では無くあくまで創造の営為としての御話です。
尚若い頃わたくしは其の病跡學なるものに興味を持ち件の福島 章氏の著作なども屡読んで居たものです。
其れでもって藝術家と精神的な病の領域とは常にリンクするものであることをまさに其の時に知った。
ですが重要なことは其の精神的な負い目のやうなものこそが實は創造性を成り立たせて居りよって其れは本質的には貧しいことどころか限りなく豊かな世界へと連なって行く訳です。
謂わば其処ではマイナスに見える領域、其れも常識的解釈からすれば変な部分、病の部分こそがそんな人類の営為としては最上位に位置するであらう創造的世界を成り立たせて居るのです。
さうして其の事は其れこそ壱般人にはまるで見えては参りません。
彼等はさうして狭い認識の地点でむしろ常識に囚われて仕舞って居る。
要するに洗脳人間、牢屋に閉じ込められた認識の持ち主であるより他は無い。
ま、此処まで言いますとまたわたくしを牢に閉じ込めたくもなることかとさう存ずるがでもアナタ方にはあくまで其れは出来ない。
何故ならさうして詩人を牢に閉じ込めると皆に取り悪いことが必ずや起こりませう。
こんな風にわたくしは精神科医と常にやりあう性質ですのでわたくしを収容出来る精神病院などはもはや何処にも無いことでせう。
尚わたくしは廿代、参拾代の頃にカウンセリングを受けた経験を持ちます。
其の折に感じたことを今述べてみます。
1.精神科医又は心理学者は此の人間世界ー文明社會ーは常に正しく、対して心を病んだか又は病みさうな程に心が弱い人人の方が常に悪いとさう規定し物事を判断するが其の判断其れ自體が誤りである。
2.逆に社會自體が病んで居り且つ狂って居る可能性の方が高い。
3.其の精神的障碍とリンクする藝術の力ー創造力ーをバカにすべきでは無い。
そんなことを考えて居りましたものです。
でもって最近は2.の部分がほんたうにさうなりつつあり其れも全く困ったなあとさう思うのであります。
だから僕はかうして論客でもまたある訳ですので精神科医又は心理学者に取ってはまさに手強い敵となることでせう。
もう彼等をボロクソに言ってやっても良いのですが其れをやりますと皆様が不快に思われることでせうから其処は是非自制して置きます。
ちなみに宮澤 賢治もまさにさうなのですが彼は当時の凄いインテリにてしかも教師なのですから勿論精神病者なのでは無く逆に至極理性的な人間です。
但し感度が高くあるので其の人間が元來抱え持つ原生的感覚のやうなものへも常に其れが開かれて居る訳です。
故に其れはむしろ常人には真似の出来ない優れた感覚であり感度のことです。
ですから其の解離性障碍だらうが何だらうが其れは創造的次元を可能とする優れた病としての感覚のことなのだ。
近代科学による分析的思考の弱点の壱つにさうした意味でのマイナス領域の価値への近接が無い点とまさに其れによるプラスの価値の構築への無理解さとが挙げられるかと思う。
其のやうな単線的な価値ヒエラルキーによる概念規定ではおそらく此の複雑且つ怪奇な世界の現實ー實相ーを根本より規定ー把握ーすることは難しくなる。
であるからこそ文學と云う創造の場が其処には是非必要となるのです。
宮澤賢治は霊界や異界を見る特異な霊媒体質の持ち主であったからこそ死後賢治の詩や童話がこれほど評価 - 日本は津波による大きな被害を受けるだろう UFOアガルタのシャンバラ (goo.ne.jp)
其の賢治の神秘体験と云うものはまさに彼の現實として體験されたことであったやうです。
彼は屡色んな変なものを見たとされて居ますが、他方で我はそんなものを見たことはまるでありません。
要するにわたくしが持つ感度は其の宮澤 賢治級のものでは無い訳です。
されど我はかうして夜も明るい都會に住んで居ますので或は戦前の岩手のやうな眞っ暗暗な田舎に居れば或は少しは何かを感じられたのやもしれません。
尚我はかうして社會を批判することだけには長けて居ると申しますか兎に角其れが得意ですので其処は宮澤 賢治などとはまるで違う心性を生きて居るのやもしれず、従って何処へ行っても我には結局お化けの類は見えぬのやもしれません。
どだい我は此の現代社會其のものがお化けだとさう感じられて居り要するに何やら詩人と云うよりは社會改革家であるとか幕末の志士であるとかそんなものの方がより我の實體に近いのやもしれません。
尚以前から申し上げて居るやうにわたくしもまた其の「共感覚 - Wikipedia」の保持者です。
わたくしの場合は数字に色が感じられ其れはアラビア数字でもまた漢数字でも同じことです。
1=白2=赤3=黄4=黑5=空色6=黄土色7=深い靑8=緑9=赤茶10=金11=銀12=紫
と大體決まっては居ますが9以降は気分によるのか色が入れ替わったりもまたします。
また9以降の色合いがスッカリ変わることもある。
但し8まではほぼ固定されて居る。
尚わたくしは其の色に対する感度が特に高くあるやうです。
子供の頃は良く服に色とりどりの洗濯鋏みを付けて歩いて居たりもまたしました。ーまさに其れは普通には非ずー
さて以前ネット上でテストをしてみたところ強い共感覚の保持者とのことで連絡を頂きたいと出ましたが鬱陶しいので其れは止めて置いた。
共感覚診断テストのやり方!共感覚者は数字や音楽に色が見えるってホント? | 大人女子のライフマガジンPinky[ピンキー] (pinky-media.jp)
其れとアルファベットや平仮名などにも色を感じることが出来る。
A=赤B=緑C=黄D=黄土色か橙E=靑系
あ=赤?い=灰色か?う=靑え=黄土色か黄系の色お=緑系
と其のやうにです。
兎に角わたくしの場合はかうして色に対する反応が強くあり其れでもって絵画が大好きなのです。
但しいつも其のやうに数字や文字に色が付いて見える訳では無くでもよーく其れを見る場合には其の色が感じられて来ると云う話です。
私は四拾代終わりの頃だったか初めて自分がそんな特異性質者であることを知り以降は色色と共感覚に就いて調べてもみた。
もしや我は天才なのではないか?
とさうも思いましたがでも近年は結構ありふれた感覚であることが分かって来ても居るやうです。
だけれども誰しもがさうなのではまた無くまた藝術家には高い頻度で発生して居る感覚でもあるとのことだ。
ヤッパリ生まれながらにして我は藝術家なんだ。
と言ったところでせうか。
最終的に其の共感覚とは壱種の感覚上の原始退行現象であり要するに感覚が未分化である乳幼児の感覚的世界に近いものがまたあります。
よって共感覚者とはより原初的な感覚をも保有する人間だと言えることでせう。
またさう云う部分が自閉的気質ーアスペルガー的気質ーなどともまた関わって居ることでせうがこと藝術の分野ではむしろ其のアスペルガー資質が有利に働くことがまた多い訳です。
尚わたくしは其の宮澤 賢治のやうにベートーヴェンを聴きつつ様様な情景や形を見ることなどはありません。
其のベートーヴェンを聴くにせよ彼の「苦悩」が見えるだけで景色などは何も見えない。
さらに言えば其の共感覚とは所謂言語以前での感覚のあり方への回帰である可能性すらもがまたある。
其れが言語以前の経験である限りつまりは其れが論理以前の感覚的経験なのであり壱つの實存的な直感體験なのだとすればまた面白い。
さう直観では無く直感的體験です。
直観は理性の力が無いと可能とはならぬものですが直感の方は誰にでも可能です。
ですが其れも心が汚れた所謂大人の人人には逆に難しいことなのでせう。
宮澤 賢治はそんな大人の貧しい感度を皮肉っていつも「大人はダメだ」とさう述べて居たさうです。
さてそんなこんなで生まれながらにしてわたくしが詩人であることがかうして証明されつつもありますが其れでもって嬉しいのでは無く其れは何でかと申しますと其れは社會科詩人としてはもう何時まで経っても苦しいばかりなので御座ります。
だから其の社會科、まさに其れこそがわたくしをしてかうも苦しめ続ける元凶の如きもので兎に角其れを早う捨てたい訳ですが其れがまた執拗に我が身にかうして襲いかかって来ますのです。
其の様やまるで妖怪変化の如くにです。
全く妖怪変化の如き政治家共やまた頭のオカシイ國の指導者やらさらに訳の分からぬ邪教などがしかと此の世には蔓延りまるで気が抜けぬと申すか兎に角決して心理的に樂では御座りません。
あああー、もうこんな社會に誰がした?
コンコン、さても何でこんなんなってますか?
それはね、お化けが沢山居るからだよ。
何処に?
今此処に。
さうか。
では畢竟文學とは其の妖怪共と闘う場なのですね?
其の通りですよ。
其の化け物共と闘う使命が今アナタにはしかと課せられて居る!
…もうイヤだ、逃げやう。
おいこら、何故敵前逃亡するのだ、此の非國民めが!!
ー 私の中には、一個の色彩のシステムがある。私はこのシステムを使って、いく
つもの小世界--たとえば、子ども部屋の世界と庭の世界をつなぎあわせていく
ことを覚えた。
私の中では、すべてが色彩に変換された。人間たち、言葉、感覚、そして場の
雰囲気。それぞれに固有の色があった。「理解できない」という感覚は、ぼんや
りしたオレンジ色-淡いオレンジ色を通して陽の光が入ってくるような色だった。
「疲れ」-もうこれ以上、理解しようと努めるエネルギーが残っていないという
のは深緑色の感覚で、オレンジ色の光を上から塗りつぶしてしまう。
食堂の世界、台所の世界、玄関の世界。それらはみな、色を使って自分でつな
ぎ合わせることを覚えるまでは、それぞれが互いに何の関係もない、独立した小
世界だった。
(『ずっと「普通」になりたかった』 グニラ・ガーランド)
色彩って本当にすばらしい。私の中に、ありとあらゆる感覚をかきたててくれ
る。濃く、鮮やかな色であるほど、私は深く動かされる。私のお気に入りの色は、
深いエメラルド色、ぐんじょう色、むらさき、ターコイズ・ブルー。そして、こ
れらの中間にある色なら、何でも好き。
そのころの私は、自分が人とどこかちがっていることは知っていたはずだが、
なぜちがうのかはわからなかった。私の世界は、色と音楽にあふれた、とても豊
かなところだった。私が歩けば、色と音楽はどこまでもついてきて、私のまわり
ではじけるのだった。私は、誰もがこんなふうにまわりを見ているのだと思って
いた。でも、みんなは、私のふるまいを見ると、腹を立てたり、私から離れたく
なったりするらしい。
(『私の障害、私の個性。』 ウェンディ・ローソン)
左様に共感覚の世界とはむしろ其の眞の意味での豊かな感覚世界の入り口なのだらう。
ところが心が曇った大人達ー社會的価値観に洗脳されし人人ーには其の眞の意味での豊かな世界が決して見えては来ないことだらう。
尚色彩とは光です。
光は常に此の世に満ち溢れさうして歌を歌いつつ踊って居る。
其れが所謂純なる心にはさう見えるのです。
ですが汚れた心の持ち主達にはもはや其れを見ることが出来ません。
或は先に述べた詩的世界に棲む妖異達も其の純なる心にこそさう見えるものなのであり其れこそ地位だの名誉だの美女だの子だの家だの墓だのを執拗に欲し続ける人間共にはもはやまるで見えはしないものなのやもしれません。
其の光の乱舞の世界こそがまさに詩の世界での出来事です。
わたくしは哀しくなるとさうして常に其の光の乱舞の世界へと逃げて行きます。
まさに其れが其れは其れは豊かな世界でありさうして誰にも奪われることの無い此の世でのたった壱つの夢の場なのだから。