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文明批判と心の探求と

ジョアン・ミロの絵画展ー壱 藝術とは呼べぬ美の世界もまた此の世にはしかとあるー

ジョアン・ミロの絵画展ー壱 藝術とは呼べぬ美の世界もまた此の世にはしかとあるー

 

 

 

室井佑月「疲れた」 (msn.com)

 

いや其の室井 佑月氏の御苦しみなどもまたある意味では我には分かるとでも申しますか兎に角此の社會とまともに向き合うだけでもうヘトヘトになりますのですね。

室井先生などはもっともっと實質的に其の政治的闘争と関わられて居るのやもしれぬのだが僕なんぞはかうして地方都市から其のゴタゴタ劇を眺めて居るだけでもはやこんなヘロヘロの態です。

 

或は作家や自称詩人などの所謂文人は政治や社會とは距離を置き自分の感度の良さの方からだけものを述べて居る方がかうもっと何ぞ建設的な創造世界が拓けて来るのやもしれない。

ですがまあ文人系の方方はかうしてある意味では弱音もまた吐ける訳だが其処は政治家などは流石に其れは出来ませんので其れもまた地獄と言えばもう完全なる地獄界ですな。

 

尚今日僕は久久に藝術と接して参りました。

大変疲れましたが美術展へと出向き其のMIROの絵画と向き合って来た。

 

まずは自転車でもって行きと帰りで弐時間半はかかります。

何故なら股関節の具合からスピードが出せないのでまるで亀のやうにノロい訳だ。

 

 

さうした意味では我はほんたうにもはや爺さんですね。

ですが其の爺さんの生き甲斐こそが孫や組織などでは無く藝術ですので兎に角もう其の美の世界しかありませんのです。

 

其れと仔猫などにもまた癒されては居るがこちらの方は生臭モノの方で所謂✖の方での価値だ。

 

其の藝術はかのショーペンハウアーを始め最近ではマルクス・ガブリエル氏などもまさに壱押しされて居る現存在に取っての最高の趣味でせう。

 

ですが藝術と云うのはアノ👩だらけの美術館とはまた全然違うものだらう。

いつも其れを思うのですが何時訪れても其の美術館が👩だらけでおまけにアノ椅子に腰かけ監視して居るネエチャン達もまた👩ですのでもしや何か自分が違うところへ迷い込んだのかとさう思いますが其れはさうでは無くしかと其の藝術の場に我は今来て居るのです。

 

で、大抵は其のまさに烏合の衆の如き👩共は藝術の本質を其処に感じ取りに来て居るのでは無くむしろ其の藝術の世界なる高尚な何かを今まさにワタシがかうして感じ取って居ると云うつまりは虚栄心の如きもの、まさに其れに寄り掛かりさうしてゴッホだのまたモネだのミロだのをまさにさうして穴の開くが如きに見詰めて御座る。

 

だが此の♀の群れの中で眞の意味で藝術が分かるのはおそらく拾指にも満たぬことでせう。

 

 

愛知芸術文化センター (pref.aichi.jp)

 

さてコレクション展示のやうなものと巡回展としての日洋展なるもの、さらに書展のやうなものもまた観て参りましたがまずは其れの感想を述べます。

壱言で述べて其れ等は概して藝術としての「個性」には欠けタダの装飾品の如きものに感ぜられた。

 

此処からしても藝術とは非常に難しいものなのでもまたある。

 

尚其の藝術に対する我が感度はかうして常に高くあります。

むしろ其れが高過ぎるが故に生きにくくて困って居ります。

 

ですがあくまで現實的にはまさに久し振りに愛知県美術館の方を訪れ結構樂しかった。

 

でもMIROの絵画とコレクション展の方以外は概して其の駄作の連なりであった。

兎に角僕の場合はかうして審美眼の方が常に厳しいのでソコを決してナメて居てはイケません。

 

 

元より藝術作品と工芸美術とはまた違うものであり、でも工芸美術の方でも例えば人間國宝の作品などは藝術作品並にもまたなって来るものです。

さうしたものは其の「個性」などもまた強く出て居て其処はむしろ藝術作品と呼べるやうなものがある筈です。

 

でもまた其れとも違うのです。

要するに「主張」のやうなものにもまた欠けて居るのだと思う。

 

ところが其の「個性」や「主張」が強過ぎると往往にして其の作品は其れこそ時代や大衆の感性からは理解されぬ場合などがまた出て来る。

でも其れが壱流の「個性」や「主張」であることが分かるとさうして世に認められる形にて崇められるやうにもまたなるのです。

 

尚僕自身はまさに表現者として「個性」や「主張」がおそらくは強い方かと思われますが其れを周りが理解することは難しいことだらうともう長くそんな風にも思って来ました。

要するに言ってることが「狂」だの「凶」だのそんなところへもまた踏み込んで行くクセがあるのでコイツはもうアタマがオカシイから視るのを止めやうとさう思われ易いのではないかしら…。

 

 

で、僕はかうして其れこそ直観や直感的解釈に長けて居るので其の場にて「パッ」と何かを掴んで仕舞います。

其の「パッ」と掴むとどうも其の沢山の絵画や書の作品が僕には藝術だとは認められなんだと云うばかりでのことだ。

 

なんですが其の美術館巡りは我が趣味の壱つでもありかうしてクソ暑い中ではありますが其れが出来まさに幸せだったと云うそんな御話だった。

 

帰るともう倒れ込んで仕舞い矢張り目や頭が痛くなります。

其れは暑さでさうなったこともあるがおそらく半分はコロナ・ウイルスの方でせう。

 

 

まああれだけMIRO展に人が来て居ればおそらくはすでに館内には其れが蔓延して居ることだらう。

ですが其れもまた嗽をしさらにアルコール消毒し風邪薬を飲めばかうして回復します。

 

そんな訳で我が美術館遍歴の場合には最近むしろ其の👩共との闘いと云う様相を帯びて来つつもまたある。

またさうしていつも思うのが「何故👩共は藝術が分からぬのにまたあえて其れに群がるクセがあるのか?」と云うまさに其の部分です。

 

其の分かる、分からぬはあくまで其れを本質的に理解して居るかどうかと云うことだ。

根本的に藝術とは群れるものでは無くまさに個として自立しさうして表現するものです。

 

其の表現とは其れこそ「反戦」であれ「詩」であれまた「死」であれ何でも良い訳です。

 

MIROの場合は矢張りどうしても「ポエム」の方を感じて仕舞います。

ですが其の音樂性のやうなもの、其れこそ共感覚的な表現のあり方こそが矢張り独特なものとなる。

 

かうして詩人の場合にはまた大衆とは異なる視点にて其の作品を見詰めて居ることだらうからまた其の点を中心にミロのことを論じてみたいと思って居ます。

ちなみにコンビニへ寄り金をおろすことを忘れて仕舞い図録の方が買えるものか心配でしたが其れも何とか買うことが出来た。

 

さうした高名な画家の絵画展は生涯に何度も観られる訳では無くおそらくはMIROの場合も我に取りおそらくは此れが最後でせう。

だから其の高い値段の図録もまた是非買って置かねばならない。

 

其れと絵葉書の方もいつも弐、参枚程求めます。

 

今回は此の黑い大きな絵画が凄く気に入りましたので其の絵葉書もまたしかと求めて来ましたのです。

 

 

 

ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子ー福岡市美術館


 (fukuoka-art-museum.jp)