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文明批判と美と心の探求と

ジョアン・ミロの絵画展ー弐 所謂藝術と生活とが異なることー

ジョアン・ミロの絵画展ー弐 所謂藝術と生活とが異なることー

 

 

 

さて其の藝術とは果たして何なのか?と云うことですが其れは「夢生と夢死」のことであるとまずわたくしは理解する。

其の「夢生」及び「夢死」とは精神的に達成される境地のことで無論のことながら誰にでも出来ることでは無い。

 

要するに藝術的な感度に対し拓かれた自我の持ち主=藝術家にのみ可能な精神的な意味での死であり其れに至る迄の生の過程のことだ。

 

さうして其れは常に壱部の人間にのみ拓かれることだらう所謂創造的次元に於ける生であり死の形である。

但し其れは壱般者にも充分に縁することが可能なものであり其の点では確かに藝術作品は普遍的に現存在に対し其処に「有る」のである。

 

其れが何故さうして普遍性を獲得して居るかと云うにまさに其れが分別概念を超越する形にて其処に顕現するものだからなのだ。

其の意味では此の世には「無い」もののみならず「有る」ものがまたあると云うそんなまさに分かりにくい御話とならざるを得ない。

 

では何故藝術はさうして「有る」のであるか?

謂わば其れが夢の世界の御話であるが故にむしろ其れは「有る」のである。

 

 

例えば現實の上での所謂現象の本質的規定とは「無い」方にこそある。

でもって皆様は其の「無い」方の価値のことにむしろ掛かり切りだ。

 

かうして学び働き結婚し子が出来孫が出来爺となり死ぬるのが人間である。

だが其の営為の方には實は本質的価値に対し開かれし部分がむしろ「無い」のである。

 

 

また何を仰るのか。

ようやくかうして子も孫も出来しかも部長も勤め上げ爺となったのだ。

 

其れの何処が「無い」?

だからまさに其れが「無い」。

 

人間の生の本質に対し其れはあくまで「無い」。

また気鬱詩人がややこしい哲學の世界に我我善良なる凡人を巻き込もうとして居る。

 

いや気鬱詩人は気鬱詩人として常に「有る」がどうも君の場合は「無い」。

すぐにさうして普通の暮らしを全否定したがるそんなお前の癖などはもう俺らにはお見通しだよ。

 

いやだからどうしてもさうなる。

つまりは君等は此処に本質として「居ない」のである。

 

 

逆に「居る」と云うことは「夢生と夢死」としての本来ならば「無い」ものを生きることにより「有らしめられた」ところでの「居る」であり「有る」なのだ。

また話が難しいと申すか兎に角クドい。

要するに其の理窟其れ自體が兎に角クドい。

 

いやだからどうしてもさうなる。

つまりは君等は此処に本質として「無い」のである。

 

 

では藝術的に其の創造的自我を生きるとすればあくまで其れが「有る」其れも本質として其れが立ち現れて来るとさう仰りたいので?

なんだもう全てが分かってるじゃないか。

 

いいですか、「夢生と夢死」を生きてこそ謂わば世界は其処に創造されるつまりは開闢されるのだ。

 

但し「夢生と夢死」を生きずとも此の世を有らしめる方法はありまさに其れが信仰としての場である。

其の信仰により其処に創造されるつまりは開闢され得やう。

 

 

すると其れは共に現存在に取っての精神的な場だと云うことなのですね?

まさに其の通り。

 

現存在に取って「有る」と云うことはあくまで思考か又は其の対概念としての信仰かである。

では藝術とは其の信仰では無く所謂「美との心中」のやうなものなので?

 

其れもほんたうの意味での「美」との。

其の「美」が名ばかりのもの即ち金銭的価値だのまた名声だのに規定されて居る限りは其れは眞の意味での「美」の世界のものには非ず、だ。

 

では「美」では無い美らしきものがまた此の世には溢れて居るので?

此の世の価値は常に半半であり眞のものと偽りのものがさうして常に同様に満ち溢れて居る。

 

だが「夢生と夢死」を標榜する価値こそが常に其の本物の美としての対象なのだ。

 

 

 

ジョアン・ミロによる絵画作品の一覧|MUSEY[ミュージー]

 

《ハーレクインのカーニバル》ジョアン・ミロ|MUSEY[ミュージー]

 

其のMIROの作品に此の絵があり、我は屡其れを小学生の頃から眺めて居た。

おそらく何らかの図録にて其れを眺めて居たのである。

 

其の折に其の自由闊達さのやうなものがとても印象に残った。

兎に角其の制約の無さのやうな部分と其処に描かれた訳の分からぬもの達がまるで解放されたかのやうに樂し気であることが強く印象に残った。

 

ところが現實としての人間の生活とはむしろ此の絵とは正反対なものとならざるを得ない。

其れも其の通りで子供の頃からさうして勉強させられ大人になると働かねばならなくなる。

 

無論のことまさに其れが社會的な制約に常に晒される形でもって人間を形作ると云うことなのだ。

だがどうも其れとは違う場が何処かにありはしないのか?

 

つまりは此の絵の如くに現實としての場に浮遊し且つ遊んで居る=喜び合って居るやうな人間の生の場が何処かにありはしないのか?

 

でもって結局其れは何処にも無かったが只壱つだけ其のMIROの絵画の中だけには其れが有ったのだった。

だから「有る」とはさうしたことでありまた「無い」とはさうしたことである。

 

 

なる程。

何だか上でややこしく観念論議されて居たことが分かったやうな気がまた致します。

 

だから藝術とはまさに其の「夢生と夢死」の側に己の価値観を全的に投影することこそを言う。

すると夢の如くに生きて且つ夢の如くに死すとさう云うことなのですか?

 

いやだから其れは其の捉われとしての現實上の価値観からすればあくまで其のやうにも見えやうが藝術家自身としてはむしろ其れがたった壱つの生きる術だ。

要するに其のやうに己としての価値観を全的に転換して仕舞って居るのでむしろ其の藝術以外の価値に拘らぬと云うか影響を受けなくなるのである。

 

なる程。

でも其れだとまさに壱歩間違うと危うくもなりますね?

 

まあ其れも藝術に限らず例えば宗教などでも言えることだが確かに壱歩間違うと危うくなることだらう。

だが其れが現實派としての君の論理又は価値観ならば常に正しいだとか救われるだとかさう云うことに役立つことなのではまるで無い訳だ。

 

うーん、するとある面では藝術家の心は常に自由でもってかうして思ったやうに思ったことが描ける訳なので幸せなのかもしれませんね。

さう、つまりは藝術とはそんなあくまで個に取っての幸せのことなのだ。

 

だけれどもさうして藝術が成り立って居れば常に幸せかと言えばさうでも無い。

 

 

事實此の絵を描いた時MIROは貧乏のドン底にあり飯を食う金が無かったのだ。

でも飯も食わずに良くこんな樂し気な絵が描けたものですね?

 

いや最終的には藝術は飯では無く精神の方だ。

つまりは団子よりも常に🌸の方だね。

 

でも飯を食わぬと戦も出来ぬのでせう?

まあさうだ、其れに飯を食わぬと藝術もまた出来ぬ。

だから其の意味ではあくまで其の飯と藝術も相剋し且つ相即する関係性の中にこそある。

 

 

其れと個人的に此の絵はまさに共感覚的な世界を描いたもののやうに思う。

 

即ち彼MIROに取り形態とは音符の如きものなのでありまた色彩もまた樂曲の調べのやうなものであったのやもしれぬ。

 

 

 

日本と両想いの芸術家、ミロの20年ぶりの大規模回顧展 #73 - 辛酸なめ子の「アートセレブ入門」 | SPUR(2) (hpplus.jp)

ミロ展2022日本を夢みての感想と解説!ミロと日本の結びつきを瀧口修造との共作など、130点の作品と資料でたどります! | 絵綴り (eurbee.org)

 

さて此れ等は今年の4月迄東京でMIROが展示された時の其の内容に就き書かれた部分です。

 

尚藝術とはまさに美への殉死であり其の殉死を成り立たせる為にどう今を生きるかとさう云うことなのだと思います。

我もまた其の殉死をこそ乞い願う者ですが其れは何故かと云えば結局はやりたいことをやり切ってさうして美に囲まれた侭で生き死ぬることと社會や👪の為に其の創造的自由を制限若しくは奪い去られて生き死ぬるのとでは其れがまるで違う人生のやうに思えてならぬからなのだ。

 

他方でわたくしは今此の世に地獄を感じ過ぎて居りしかも其れが永遠に続くかのやうな地獄の様ですのでもはやそんな社會の様からは是非逃げ出して逆に永遠に豊かである筈の己が内面世界に籠りたいと常に思って居る。

よって我に取りそんな壱級の藝術作品と接することはまさに其の己の中の決意のやうなものを確認せんが為の行いなのだ。

 

 

藝術とはそんな意味でまさに不死のものでありまた世間的な制約を受けぬと云う意味で本質として自由なものだ。

其の不死であり且つ自由である世界はむしろかうして無邪気さに満ち溢れて居る。

 

其れは世間での強欲な大人達が常にしかめっ面をして居ることとは対照的なことでそんな汚れた欲得の世界とはまるで没交渉なまさに無垢であり無心でもって其れで居て壱つの理性的統制のとれたまるで夢の如き創造としての生死の場のことである。

 

其のやうに其の藝術の場ー創造的世界ーと世間としての場ー非創造的世界ーとの価値観のあり方、価値の置き方は常に異なって居る。

近代社會は壱般に其の差異を其の本質的な意味での価値観としての違いをむしろ曖昧なものと化し所謂藝術其のものを大衆化することへと導きつつある。

 

されど此のやうに壱級の藝術作品と直に接するにつけむしろ其のことが当たり前のことのやうにかうして確認されて来るのである。

其の「夢生と夢死」の間にて展開される創造的自我による自由なる心の乱舞の様がまるで当然のことのやうにかうして確認されて来るのである。

 

 

ミロの最初の大きな一歩、いわば発芽 「アルルカンのカーニバル 」 | きょうの絵画 (洋画:批評・美術史・展覧会) (artartspot.blogspot.com)

 

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