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文明批判と美と心の探求と

ジョアン・ミロの絵画展ー参 MIROの内面世界ー

ジョアン・ミロの絵画展ー参 MIROの内面世界ー

 

 

 

《月に吠える犬》ジョアン・ミロ|MUSEY[ミュージー]

 

其のMIROの絵には此のやうに所謂深刻さが無い。

果たして其れは何故か?

 

ジョアン・ミロ・農夫のように作品を耕し続けた人生 – SUKORUNI WINE

 

ところがMIROの初期の絵はむしろ深刻と云うか此のやうに極めて神経質である。

また若き頃のMIROの相貌からは其の神経質さが其処に窺え事實彼は18歳の頃より鬱病を病んで居る。

 

かうして藝術家なるものはほぼ頭がオカシクなり易いものと相場は決まって居る。

逆に言えば頭がオカシクならない藝術家などは藝術家としては大した者では無いのである。

 

 

私は色を,
詩を形作る単語のように,
音楽を形作る音符のように
使おうとしている
作品は魂の炎と共に
考えられなくてはならないが
巧みな冷静さで
裁かれなくてはならない
私がキャンバスに向かっている間中,
まったりとした理解から生まれ出
愛と共に,
どうやってそれを愛するように
なり始めているのか感じられる


私は最小の手段で最大の色の彩度を
得る必要性を感じる
これこそが,私の絵に
一層素晴らしい赤裸々さを
加味させてくれているものだ


私の性格は色と同じ
純化のプロセスを経てきた
今ではもう純化されているので,
あらゆる細部に至るまで
表現された時よりも,
もっと人間的なようだ


私にとって,物体は生き物だ
このタバコやこのマッチ箱でさえ,
とある人間たちなどより
ずっと鮮やかな秘められた生を
内包している


私が探し求めているのは…
動かぬ動きだ
それは,沈黙の雄弁さと呼ばれるものと
等しいだろうものだ
もしくは,私が思うに,
十字架のヨハネが「無音の音楽」
ということばで描写されたものだ



ジョアンミロの代表作は?【ミロ展2022】スペインの巨匠、彼の生涯や日本との関係、作品の特徴、ミロが残した名言などを紹介 (nblood.jp)より



まさにこちらでのMIROの発言内容にこそ彼の内面世界への理解への道筋が示されて居ることかと思われる。


まず驚かされる部分が其の「物體」は生き物だとの発言である。

またさうした部分はわたくし自身にもまた無いでは無くだからわたくしは概してモノを大切に扱うことが多い。



さうした意味での物質と精神の区別の曖昧さのやうな部分もまた共感覚者としての典型的な心理なのだと思われる。

共感覚者には所謂「分別概念」の設定が堅固には行われて居ないので良く言えば融通無碍なまた悪く言えば幼稚園児並の感覚世界に生きて居るのである。


だが表現者としてはむしろ並の人間以上の理性的能力が其処に常に要求される訳だ。

であるが故に藝術作品はまた幼稚園児の御絵描きなのでは無くむしろ其の無垢なる感覚世界をイヤと云う程に理性的に見詰めた営為ともまたなるのである。


また其の「無生物」である単なるモノに対し「生命」としての輝きを感ずることは勿論悪いことでは無い。

但し其の感度其のものがまさに感覚として汚れて居る世間の人人には通じぬものであることがまた多い。


謂わば其処には根源的に生ずる壁の如きものが其のピユアーな感覚世界と分別世界との間に生じて仕舞う訳で所謂其れが認識上の「齟齬」であり「軋轢」と云うこととならうかと思う。

よって藝術とはまず其の特殊な認識世界を生きる人に取っての壱つの「解放」の途なのでありある意味では其れが表現者に取り「救済」ともまたなり得るものなのだ。



其の絵画や音樂に限らず例えば文人の方でもさうした意味ではまさに書くこと表現すること自體が其の「解放」であり「救済」たり得る訳だ。

なので本質的には其処で何を語って居るのかと云うことよりもさうして俺が作家であり俺が詩人だとさう宣言しつつ何かを語って居る事自體に作家である彼や詩人である彼の精神の「解放」であり「救済」の場が有るのである。



其の意味でもまさに藝術とは「有」の営為である。

其れは「無い」のでは無く常にさうして「有る」。


但し其れは誰にでも「有る」のでは無くさうして謂わば「持ってる」人だけにさうしてしかと生ずる世界なのだ。



さてもアナタは今其れを持って居ますか?

かうしてしかと持ってます。



其の持ってることはもはやかうして隠しおおせぬことだ。





個人的に此の藝術による世界認識、世界把握の世界こそがまさに宗教的認識にも匹敵する人間に取り高次な精神のあり方の世界なのだとさう考えるに至って来て居る。


宗教は人間の精神の救済を目指すべき精神的営為だが其れと対置される形で此のやうな感覚的に成就される救済の世界が其処にしかと拡がって居ることだらう。

最終的には其の宗教は個としての救済ー自力救済ーを離れて社會的救済ー他力救済ーへと向かうこととなるがあくまで個としての救済を目指す限りは其れが禅や原始佛法と並び立つ形にて藝術の場としての救済が其処に確立されるのである。


では其の藝術を生きれば個は救われるのですか?


其れもあくまで「持ってる」人に限り。

対して「持って無い」人はどう努力しやうと元元持って無い訳ですので藝術にて救われることなどはあり得ません。




それではアナタは今其の「持ってる」人として勝手に藝術を生き自分だけ助からうとさうされて居るのでせうか?

むしろさうでも無いですね。


何かかうソコがやり切れて居ないので「持ってる」癖になんか中途半端な感じでせうか。


で其の「持ってる」人は壱般に精神病體質であり同時に人間嫌いです。

何故なら眼前の此のタバコやマッチ箱が人間よりもずっと「鮮やかで秘めやかな生」を内包して居るなどと感じること其れ自體がまさに常軌を逸した感覚でのことでせう。


もう其れは誰が見てもむしろ異常でせう。

ですが實際に僕も人間のことなどはどうでも良くむしろ身の周りのモノの方が好きであり其処に人生を感じたりもまた致します。



また其の「純化のプロセス」のことだがあくまで其れは彼に取っての感覚的純化の世界のことなのであり要するに其れは「分別概念」規定以前での感覚的原初性への回帰であり其の色や形やさらに時間概念に至るまで分離されること無き未分化状態を其の侭に見て居ると云うことなのだらう。


其のやうな認識に於いてより其の共感覚が強化されモノや色彩が自ら踊り始めるのではなからうか。

もしや其れは命無きもの達の命としての乱舞ですか?



またまるで詩人のやうなことを良くぞ言ったな。


其の「命無きもの達の命としての乱舞」を可能とするものとはつまりは「詩」の世界でのことだ。


「詩」と云う世界の場が其処に生命としての彩りを与えるので必然として其れが命を獲得するのだ。




すると藝術とは藝術家自身が神となり其の創造世界に命を吹き込むことなので?

まあ神其のものでは無いがまるで神の如きものが其の作品に取っての作者である藝術家だらう。


ところで藝術はさうして作品としての命を創造するのですか?

…創造する。

其れもさうならざるを得ぬところへと追い込まれさうなって仕舞う訳だ。




さても其のMIROが探し求めて居たと云う「動かぬ動き」とは壱體何のことでせう?

其の「動かぬ動き」とは言わば其の共感覚を観念の方にも当て嵌めてみたらどうなるかと云うやうなことではないだらうか。


共感覚とは謂わば異質な次元を結び付けることを可能とする感度の高さのことだ。

普通物は物で其れは色彩其のものでは無くまた生きても居ない。

ではあるが其れをより原初的な認識でもって見るとまさに其れが生きて居るかの如くに感ぜられて来る訳だ。


また色彩其のものもまた生きて居て其れが観念ともまたさうして連なって来る。

其の種の全體性のやうなもの、其の全體論的認識が観念上の矛盾、所謂アンチノミーのやうなものですら許容しむしろ其処に豊かな彩りに満ちた命を与えて行く。




其れと藝術に可能なことが生の哀しみをむしろさうして肯定的な段階、まさに生きる歓びへの階梯へと変えて仕舞うことなのではないか。

まさしく其れがポエムとしての藝術にのみ可能なことなのではないか。


ポエムはさうしてあえて場違いな認識をして生の哀しみを消し去って仕舞うのである。

其れは純文學によるシリアスな現實との関わり方とはまた全く違うことだらう言わば禅で言うところでの「寒山拾得」的な「遊び」の境地を指し示すところでのものなのではないか。


謂わば其の老成した概念的理解がむしろ幼子に於ける遊びの世界と結び付くのである。


事實僕などは今やまた小学生の頃に戻った積もりにて此の世界の諸と遊び初めて来ても居るのだ。

わたくしもまた其の人間としての概念としての苦を極めた上でまさに其のやうな境地へと今至って居るのやもしれぬ。



生の哀しみを消し去る方法に弐種があり、壱つは其れが宗教の次元でありいま壱つが藝術の次元である。

当初我は宗教の方をこそ重んじて居たものだったが其れにもまた限界が感ぜられ始めて来た。


なんとなれば宗教は組織的な行いでありよって其の集団の信念乃至は信心の力が何より力を発揮するであらう何かである。

だが藝術に於ける救いはあくまで個を対象とする救いであり解放である。


宗教は救いを齎すがかうして藝術のやうに個を解放に導く訳では無い。

其れも禅宗と原始佛教を除いてはおそらくはさうなのであらう。



よって其のポエムとしてのMIROの音樂性に其の解放者として生きたMIROの創造性にこそむしろ今我は最も惹き付けられ且つ共振して居る最中なのだ。

尚藝術にも合う、合わぬの違いがあり其れは特定の人間が合う、合わぬと云うこととまるで同じで其れが實は論理以前でのフィーリングのやうなものから決定されることなのである。


ちなみにかって我は3Mの画家が好きであり、其れがMIRO及びMATISSE及びMONETであった。

後にREDONが最高の画家として認識されるやうになったが兎に角MIROの絵画は其れこそ小学生の時分より好きであった。




ピカソと並ぶ現代スペインの巨匠・ミロと日本の深い結びつきを紐解く 『ミロ展―日本を夢みて』内覧会レポート | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス (eplus.jp)

こちらも以前の東京展の模様が紹介されて居るが大體こんな風に名古屋展でも展示されて居た。


ミロ展 ―日本を夢みて - Bing video

ミロ展──日本を夢みて|愛知県美術館 (miro2022.jp)


其の名古屋展の模様だがMIROが所謂日本贔屓の人であったことが紹介されて居る。

MIROはさうして所謂天才的な感度を持つ割には無口でもって眞面目な人だったとされて居る。


さうして派手な人では無く元元内面的に沈潜して行くタイプの藝術家でもあった訳だ。

また日本贔屓な割には余り日本的な感性を其の作品より感じ取ることは出来ずあくまでスペイン的な感度の持ち主だったのだと言える。




(365) Pinterest

昔観たMIROの絵画作品の中で壱番インパクトがあったのがまさに此の作品だった。



The Smile of the Flamboyant Wings, 1953 - Joan Miro - WikiArt.org

かう云う作品もまた好きである。



作品詳細|20世紀|作品紹介|国立西洋美術館 (nmwa.go.jp)

其の赤い日の丸の如きものが屡出て来る。
或は禅で云う円相のことか?


『愛知県美術館・絵葉書で綴る展示会(2):『ミロ展』』名古屋(愛知県)の旅行記・ブログ by 旅人のくまさんさん【フォートラベル】 (4travel.jp)

此処でのージョアン・ミロ(1893-1983)『女、鳥、星』1942年 デ・モイン・アートセンター蔵(アメリカ・アイオワ州ーと云う絵葉書は是非欲しい。
現場でつい見落して仕舞って居た。

『女、鳥、星』1942