目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

常に「ドッカーン!」と爆発する「眞面目」且つ「非眞面目」なる藝術の世界ーゴッホとゴーガンの藝術上の対立に寄せてー

49.ゴッホとゴーガンの藝術上の対立に寄せて

 

 

 

為末大氏 イーロン・マスク氏の悲観的“日本の未来”に同意「大変厳しい選択を迫られる時がくる」 (msn.com)

 

我もまた日本の未来は悲観的に捉えて居りますが、其処での壱番の問題と云うか課題は前回に述べたやうに「日本人の精神性の崩壊」なのだと考えて来て居る。

故に基本的には日本が貧しくならうが人口が減らうが其れは本質的な問題なので無くつまりは精神が豊かに保たれて居るならばたとえ少少貧乏にならうが少子化しやうが幸福な國家の建設は可能だがもはや自立性無き洗脳されし心の持ち主であるのならばどーのかうの言うよりもまずは其れを治さないと日本の再生はあり得ません。

 

日本の政治家には其の種の長期的で且つ本質論へと踏み込んだ思考が概ね欠けて居るのでほんたうはまずはソコこそが大問題でせう。

要するに政治家に限らず企業家、投資家などにもまた其の長期的視点こそが欠けて居るのでやってることがほぼアホなのです。

 

 

なのでむしろ日本の未来のことなど考えぬ方が精神衛生上は宜しい。

さうしてつまりはまずは自己の価値観の誤りの部分ー其の日本社會による洗脳部ーを変えて行くより他は無い。

 

日本はかって意外と貧乏でしたがまた意外と豊かな精神性に生きた國でもまたあった。

だからむしろ信長公や秀吉公や家康公の治世からしかと學び且つ「諦め」つつ無常を生きる日本の精神性の中でこそ生きて行くべきだ。

 

其のやうな精神性の涵養の中からこそ「未来の日本の幸福と希望」とが見出されやう。

なんですが相も変わらず此れ迄と同じことをやって居ればおそらく其の幸福と希望はむしろ永遠に逃げて行かう筈だ。

 

 

 

さても其のコンビニでの対応の悪さー主に言葉遣いの悪さーからまたもや朝からドッカーン!と爆発せし我ながら今はかうして落ち着いて居るので皆様のことを貶したりはよもや致しません。

本日はまさに其のドッカーン!性に関連したことをまずは述べさせて頂きたい。

 

 

「眞面目、生眞面目、不眞面目、非眞面目。」

 

此のところ丁度ゴッホのことをまた考え始めて居て、其れでもって彼の精神の本質かと思われる「眞面目さとは何か?」と云うことに就き考えて居りました。

ですが、「眞面目とは何か?」に就き考えること自體がもう随分眞面目な訳です。

 

要するに「不眞面目」と云う精神の持ち主はそもさうした本質的問題に就き考えたりはせぬことだらう。

さて何で「眞面目さとは何か?」と云うことに就き考えたのかと申せばゴッホは矢張りと云うべきか眞面目な人だったのだらうとさう思うからです。

 

 

ところで其の眞面目だの生眞面目だのと云うことは壱種の精神的な病の領域のことでもまたある。

ちなみに我は精神病者ではありませんのですが神経症的な傾向はもう長く持ち合わせて居り其れでもってカウンセリングなどにもかってはずっと通っても居りました。

 

其の神経症的な傾向だの或は精神病的な傾向はけだし大抵は頭の出来が良い方に引き起こされることが多い。

また藝術家などはほぼさうした所謂境界層での精神の持ち主でせう。

 

なんですがほんたうに頭が狂えば勿論藝術や論評などを生み出すことは出来ぬ。

要するに常人とキチ外の間位で居ればほぼ其の藝術だの學問の適合領域となる訳だ。

 

 

だから其のカラクリをすでに知って居る我は別に藝術が特段に凄いものでありまた學問の其の全部が高尚なものだなどとは思って居ません。

と申しますかほぼ自分が其の辺りのみを歩んで来て居るので其れはむしろ我に取り当たり前のもので逆に世間でのレヴェルの低い価値観だの思考、嗜好だのの方こそが遥かなる大宇宙の如きつまりは自分から最も遠く離れたまさに得難いもののやうにさえ見えるのです。

 

まあそんなことを若かりし頃の谷川 俊太郎先生なども屡述べられて居たやうだ。

 

ですが結局ゴッホは其の境界層の領域からほんたうのキチ外の世界へと入り込み自ら死んで行ったことでせう。

無論其れは我は大丈夫だと云うことでは無くむしろ次の瞬間に此の自称詩人の気がお狂いになって居る可能性さえもが實は案外高くあるんです。

 

なので僕自身は努めてギャグ化、ユーモア化ー其れもオヤジギャグ化ーすることだけを主に心がけて来て居ます。

 

此れもまたつまりは理窟だの哲學だのは我にとってはむしろ日常の世界のことであり壱番遠いものがむしろギャグであり👩遊びでありええころ加減に生きて行くことなのだ。

でもって結論から申せば其のクソ眞面目なところこそが精神的に融通が利かず壱方向性でありむしろ其処から外れた場合に壊れちゃうー自意識として損傷を受け易い=傷付き易いーと云うことなのだらう。

 

 

なので藝術とはまず不眞面目なやうで居て實はほぼ究極的に眞面目なものなのだ。

なのですが其れは所謂宗教的なクソ眞面目さともまた違うものでもある訳だ。

 

尚僕は宗教的には至って不眞面目です。

かうして佛教徒だと自称しつつも讃美歌などをいつも聴き込んで居るのですから其処は如何にもオカシイ訳だ。

 

 

なのですがこと眞理探究ー其の宗教をも含めーと云う次元となると如何にも壱途でもってクソ眞面目な部分が御座ります。

其れもかうして文人の端くれともなれば流石に壱般の方方とはまた少少違う精神の領域を歩んでも居るのだとさう目されやう。

 

と云うことは其の眞理探究への拘り度が矢張りと云うべきか並のレヴェルでは無いと云うことと必然的になりませう。

 

また其れはええころ加減に生きて行く所謂要領の良い生き方とはおそらく対極的な精神のあり方なのだらう。

ですが僕はそんな心理的性質を威張って見せびらかして居るのでは無論のことありません。

 

もうさう云うのは見飽きて来ても居るのでむしろ不眞面目に生きられる人間の方が至って新鮮に見える訳ですがところが實際にさうした人が目の前に居ますともう腹が立って仕方がありません。

 

要するに根本的な精神の立ち位置即ち認識の仕方や価値観がそも違うのでまさに其れがまるで理解出来ない訳だ。

まさにそんな立ち位置から我は此処にて作文をして来て居ると云うことをまずは御理解頂きたい。

 

 

真面目な人の特徴って?生真面目との違いや性格の見直し方も必見! - ローリエプレス (excite.co.jp)

 

尚其の「眞面目」さの問題に就きこちらが大変為になりました。

我は自分で自分が眞面目だと思うのでどれだけ項目が該当するのか此処で調べてみたら何と全部が該当して居りましたのです。

 

其れもこちらには眞面目な性格と生眞面目な性格の違いなども項目別に出て居て其れも全てチェックしてみたところ相変わらず全項目が該当して居りました。

さらに眞面目過ぎる性格の治し方まで出て居て何と其処に出て居る性質までもが全項目当たって居たのです。

 

またさらにそんな眞面目人間に向く職業として薬剤師や教師などが出て来て居りますがわたくしはかって短期間ですが製薬會社でプロパーもしましたのですしのべ拾年程は家庭教師や塾の講師を務めて居た訳です。

なのでもう完璧に眞面目人間其のものでせう。

 

ですがむしろこんな爺になってからやりたいことをやらうと思い所謂非常識なことばかりをあえて考え続けても来たのでソコで實は其のクソ眞面目なのが壊れてもまた来て居り故にもはや眞面目人間其のものでは無くすでに価値観の変質者としての壱ゲージツ家での域でせう。

 

そんな訳で我が根の方ではあくまでほとんど異常に眞面目な人間であることがしかと判明致しました。

ああ、さうか、だから酒飲んだり👩に触ったりは決してせぬのだな。

 

 

ですがマジで屡👿と対話するやうな奴が果たして「眞面目」人間なのか?

いや普通の人はまさか👿と対話するところまでは確かにイケません。

其れはまさにわたくしの専売特許のやうなもので常人にはまさか出来ぬことだらう藝術的な領域での御話です。

 

 

でもって其のクソ眞面目人間が陥り易いのが所謂完璧主義の部分でせう。

其れもこんなゲージツ家の端くれともなれば其れはもはや俗の域を遥かに凌駕する完璧主義性を確かに我は持ち合わせて居る。

 

でも多くの藝術家が結局其の完璧主義の部分から心を病み或は病を得て早死にするものと相場は決まって居る。

だから我はむしろバランスを取り小学校4年生位まではあったおバカさをあえて取り戻したりも實はして来て居る。

 

 

さうしてキチ外になることを防いでは居りますがだからと言って絶対に大丈夫だとはまさか言えぬことだらう。

なので其のキチ外になったらなったらでもっともっと凄い文とかが書けるのではないか位に努めて思うことにして居るのです。

 

 

真面目すぎる性格をやめたいと思ったら、まず知るべき事 | ほっとヒント (hot-hint.com)

 

こちらなどもまた大いに参考となる。

特に「眞面目過ぎる人はいつも戦って居る」との御指摘などはまさにドンピシャリですね。

 

其処は確かに壱本取られた。

なんだけれども同時に人に受け容れられたいとは全然思っては居らずまた正直なところさうして他人がつくる社會は悪くなって行かざるを得ぬとさうも思って居る。

 

 

  • 他者のことを深く知りたいと思う心の余裕がなくなる
  • ちょっとしたことでも精神的に他者とのつながりを失いやすい

 

真面目すぎる性格をやめたいと思ったら、まず知るべき事 | ほっとヒント (hot-hint.com)より

 

でもちょっと以上の点には引っ掛かりを感じませんか?

正直感じますが他人のことはあくまで他人で別に深く知らうとする必要など無いのではなからうか。

但し確かに其の「繋がらない病」であることだけは壱応認めて置きます。

 

されど究極的には現存在は死の次元に於いて極めて孤独なものですのでまあ其のことを先駆的に受け止め決意性を発揮して居るだけのことなのです。

さてもお前は何故自分を守らんが為に哲學的概念をさうして玩ぶのだ?

 

だってかうして半分位はまんま哲學者なのですもの。

 

 

尚ネット上には「非眞面目」と云う概念までもが屡出て来て居ます。

 

意図的に「非真面目」になる 新しい事を生み出せる人は 常識に疑問を持てる人 真面目過ぎると、この疑問は生まれない 不真面目はネガティブなイメージ でも、時に意図的に真面目に考えないこと それを「|やわらかメガネりょう|noteより

 

此処での説明が的を射たものであるやうに思われる。

「不眞面目」はさうして悪ですが「非眞面目」はさうして悪では無いやうに思われる。

 

むしろ眞面目過ぎる性格の持ち主は其の「非眞面目」をこそ目指すべきであるやうにも思う。

 

其のむしろ「意図的に眞面目に考えない」ことこそが眞面目なことが元来持つ自己閉塞性のやうなものを打ち破る鍵なのやもしれません。

ですが其のこともまた我はすでにやって来て居る訳ですがね。

 

 

例えば組織的に宗教をやって居る人人などにも其の「眞面目」さの怖さを我は常に感じて居ます。

左様に宗教は流石に「眞面目」さの塊なのでもまたある。

 

ですがオウム教ではないですが狂信と眞理とはまさに紙壱重でのものだ。

特に教祖ー人間ーを崇め奉る宗教程其の「眞面目」さが仇となり所謂狂信へと傾いて行き易い。

 

我が今組織的には宗教をやらぬのはそんな人間崇拝からはまさに理性的に離れんが為のことだ。

我はかって宗教活動に勤しみ其処にて教授級の資格までをも取りましたのですが結局は其れと眞理探究とはまた別物での話のことだ。

 

 

尚わたくしが今人間と云う現象に対し探究して居ることとはズバリ理性の力のことです。

其れも人文理性と云うものが人間の社會に対しどんな物言いが出来るのかと云うことばかりを實は考えて来て居る。

 

なので其れはそも其の宗教的自我とは方向性の異なる眞理へのアプローチの仕方なのだ。

ですがまあ宗教の方も常に大事ですので其の重要度は丁度半半と云うところでせうか。

 

 

常識⇔非常識

 

其の宗教を組織的にやりますと此れの左の側が強化される訳ですがあくまで其れは其の宗教内での教義なり人間関係に沿ったものとなりませう。

ですが邪教でも無い限り生活や価値観が整ったりする訳ですので其れが悪いことだと言う積もりはありません。

 

むしろ我等も其のうちにまた組織的な活動に頼ることとなるのやもしれぬ。

なんとなれば所詮人間は弱い生き物であり何かに頼りーつまりは信仰に頼りー生きて行くことが悪いことだとは決して決め付けられぬ訳だ。

 

なんですがたまたま今我はかっては出来ずに居た其の「非常識」=「非眞面目」と云う逆方向性をしかと見詰めて居ることでせう。

だが其れも余りやり過ぎますと其れこそ孤立感が強まりおまけに結局「眞面目」過ぎて気でも狂えば其れこそまた人生航路の上でのドツボにハマる訳なのでなるべく慎重につまりは気を付けつつそんな「非眞面目」なる領域を泳いで来て居るのです。

 

 

さて其のゴッホですが、矢張りと云うべきか如何にも「眞面目」な人だったのだと思われます。

ですが其の「眞面目」さこそがある意味で間口を広げて置きませんと逆に凶器となり自己の精神に襲い来ることとまたなりませう。

 

わたくしもかってはそんな精神的な格闘を経験して来て居り、其ればかりか高校時代の友人が幾人かがそんな自滅のやうなことになったことをも経験して来て居ります。

其れも厄介なのは「眞面目」でしかも頭の出来の良い奴は何だか知らんのですが何時の間にかそんな恐ろしい状況へと追い込まれて行くものだと云うことです。

 

さてもそんなゴッホのことを考えて居るとどうしてもかのゴーガンのことがセットになり出て参ります。

ゴーガンは然し所謂👩好きでした。

 

対してゴッホの場合は🚺に対し明らかに不器用でつまりは👩とは上手くコミュニケーションが取れぬパーソナリティの持ち主だった。

其の生身の👩に対し不器用なところは我もまたゴッホに壱種似て居るのやもしれない。

 

ですが小学校の高学年までは我はむしろ👩好きだったのです。

だから其処はまたゴーガンの気持ちも分からないでは無い。

 

 

ちなみにかねてより我に取りより興味があり好きなのはむしろゴーガンの考え方であり作品の方です。

ゴーガンの考え方であり作品には明らかに樂園への愛の如きものがあり其れはゴーガンが如何に変人であれ認めざるを得ぬ人間に取っての普遍的価値のやうなものなのだと思う。

 

まあ其の変人度に於いてはゴッホにせよゴーガンにせよ互いに壱歩もひけを取りません。

さうしてゴーガンはゴッホよりも社會性があったので何とか気が狂わずに踏みとどまり其れでも晩年の生活は貧しく其れこそ悲惨なものだったともされて居る。

 

其のゴーガンもまた根は「眞面目」なのだと思われます。

何故なら当時欧羅巴文明を批判的に見詰め南海の樂園に逃げて行くなんてのは其れはまさか有り得ぬ程に非常識的な話です。

 

其れこそまさに「眞面目」でしかも「非眞面目」なのの典型例なのではなかったか。

いずれにせよ其の横綱級の変人弐人が暫くは壱緒に生活して居たなどと云うこと自體がすでに奇跡でせう、嗚呼まさに其の奇跡だ。

 

要するにゴッホの方は文明批判をやった訳では無くさうして自己の魂の中での闘いに明け暮れ挙句に其の闘いに負け結局死を選ばざるを得なくなったことだらう。

其処からすると矢張りと云うべきかゴーガンの方が打たれ強いと申しますかさうしてのうのうと生き延び憎たらしくもまたある訳ででも逆に申せばやりたいことをやった挙句に死を迎えられたことでせう。

 

 

尚藝術的な意味での作品の出来はあくまで両者は互角なのだとわたくしは見て居ります。

つまるところはどちらも絵画作品としては壱級品なのだと思う。

 

ですが實人生としての生き様には差が出ました。

ゴッホはさうして内面での闘いの挙句に其れに負け死を選ばざるを得なかった。

 

されどゴーガンはあえて文明を貶しつまりは反抗しつつ南海の樂園へと逃げて行った。

逃げて行き其処で現地妻まで囲いむしろ其のことにより苦しめられもしたが兎に角ゴッホ以上に長生きをした。

 

まさに其のゴーガンのパラダイス指向のやうなものが今の我にはまるでキリスト教の教義の上での天國や浄土教に於ける極楽往生のやうなものでありつまりはまた妙に思想的に癖となる部分なのであり其れもまた現實離れした変なものに限り大好きなわたくしの趣味にはしかと合致しても居るのです。

 

されどわたくしは廿代の頃其のゴッホ展を初めて訪れました。

其のゴッホ展の帰りに何かかう高揚した気分を抑え切れずに昭和区をドライヴして居て其の折に歩道を歩いて居た人に声をかけ其れが其の後長きに亘り付き合うこととなりしK子さんでした。

 

即ち其の👩に対し極めて不器用でまさに気が狂う程に純粋で壱種痛ましい程の心の持ち主であったゴッホの絵を観た直後によりにより我はそんなナンパをして居たのでした。

だから其の複雑な現實の様こそが如何にも不思議なことでせう?

 

でも其れも結局はゴーガンのナンパ魂がまた其処に混入して居てついそんなことになって仕舞ったのだと今思い返せばさう思うのです。

 

 

なんですが他方でまた其の純粋無垢なるゴッホの精神的苦闘には常に惹き付けられても来ました。

特に初期作品に於けるまさに「人間の生活」への接近つまりは人間の生活苦=實存としての生活の苦悩を描き切るかのやうな作品群が好きです。

 

さらに自らの気が狂い其れでも猶絵筆を置くこと無く其の特殊なる精神の苦悩=ほんたうの意味での「眞面目」人間の苦悩を描き切った画業に対し常に尊敬の気持ちを持つことを禁じ得ない。

 

尚僕は屡其の「眞面目」さにも階梯即ち段階があるとさう見て居ります。

ですが通常世間で「眞面目」だとされて居るものは大抵の場合は其の「眞面目」さが中途半端でありよって逆に「不眞面目」の域のものであることが多いのです。

 

 

また先にも述べましたが如くに宗教的な価値にせよ意外と其の「眞面目」さが中途半端でありよって逆に「不眞面目」の域のものであることさえもがまた御座りませう。

まさに其処こそが宗教の怖いところなのだらう。

 

ですが概ね藝術に於ける「眞面目」さは所謂創造的な自我が為せる業のことですので逆に元元非社會化、非眞面目化されて居り要するに概ね眞面目です。

さうして其れはみんなで歩む「眞面目」さでは無いが故にむしろ徹底的に「眞面目」なのだ。

 

でもまた其れも傍から見て居ると、ソコでイキナリ、

 

「ゲージツは爆発だ!」

などと言ってみたりまた挙句には焼身自殺するに及んだ藝術家などもまた居る訳で其の点ではまさに至極危ない領域のことにしか見えない訳だ。

 

 

なんですが、藝術家自身はあくまで其の藝術が日常のことなので別に何の不思議も無くさうして爆発しつつ絵を描いたり音樂をやったり詩を書いて居たりもする訳だ。

但し其れはまさに精神の崩壊と紙壱重のことなのでもまたある。

 

藝術とは人間の精神にとってのそんな離れ業のことです。

尚藝術家は別に無名つまりは自称の藝術家であらうが何だらうが實はほんたうに藝術家なんです。

 

だから僕は其れへの世間の理解の無さに対しいつも腹を立てて居る訳なのでありよって常に「ドカーン!」とさう爆発しても仕舞う訳だ。

 

 

ですので藝術の本質とは心地良いものでもまた豪華なものでも無くより純度が高い内面での闘いのことだ。

其れもむしろ永遠にさうして闘うのです。

 

其の闘いが必然として孤独なものとならざるを得ぬのが其の藝術としての内面的闘争であり逆に社會的にも壱面では開かれて居るものが宗教的な信仰の流れでのことだらう。

尚哲學はむしろ藝術の方により近い内面的闘争なのやもしれません。

 

ですが哲學は常に社會のあり方をこそ論じて行くものです。

哲學はさうして社會化されざるを得ぬ部分を常に抱えて居ります。

 

 

だから哲學者は社會に対してものを申しますが藝術の方ではそんなもんに関わって居ると自己の藝術の世界がむしろ崩れて仕舞うことにも繋がりかねぬので馬鹿らしいと思いあえてやらぬのです。

 

個人的には其の両方に足場を組み是非やって居たいところです。

なんだけれどもさうして両方やってると何やら中途半端となり「コレがワシのゲージツ作品だー!」と言えるやうなものがなかなか世にのこせぬ訳だ。

 

なんですが此処がまさに其のわたくしの「ゲージツ作品」なのです。

わたくしはあくまで人のことをどーだかうだと述べて居るのでは無くおおまさに其の内なる小宇宙のことをかうして述べ続けて来て居る訳だ。

 

つまりは其れがまさに散文詩である。

其れも世間の価値観と永遠に戦い続けるであらう其の散文詩である。

 

 

ドッカーン!

 

何だ、またイキナリ。

だからまさに其れがオレの藝術の爆発だ。

 

眞顔にてイキナリそんな世間離れしたことを言うても誰も分からんではないか。

落ち着け、周りを良く見よ。

 

どうだ、みんなはもっと普通だぞ。

 

さうだったのか!

其処はチョット精神的に力が入り過ぎて居たのかな?

 

 

其の「ゲージツ作品」も良いが君は元教師だらう、其の頃のことを思い出しもっともっと「眞面目」になりなされ。

いや其の「眞面目」さが昂じて「非眞面目」さまでもが入り込み實はこんなんなってます。

 

うーん、確かに複雑な御話だな。

おそらくは其れを解決出来る精神科医などもう此の世には居ないぞ。

 

まあ元元さうだとは思って居りましたので別に残念には思いません。

 

 

ドッカーン!

 

とかってさうゴッホとゴーガンの藝術がぶつかり合い物凄い火花を散らしたのです。

 

挙句にゴッホは自らの耳を切りましたが流石にチョット其れは頭が狂って来て居るかとさう思いますのです。

ではゴーガンはあくまでまともなのか?

 

ゴーガンは自分勝手で所謂嫌な奴だが人類に取っての樂園だけは其の藝術の中に見出しましたのです。

対してゴッホは結局👩に触らぬ潔癖さが災いし自決の道を歩む他は無くなった。

 

 

では👩には触った方が良い?

決して触ってはイケません。

 

其の代わりに是非神佛にこそ触れるべきだ。

 

其れはさうとそんな哲學者よりも藝術家になりたいのだね?

いえ、まるでなりたくは無く今の侭で宜しいです。

 

 

ところでアナタの言って居ることは果たして「眞面目」なのか其れとも「不眞面目」なのか、其のことがそも良く分からない。

ですからわたくしの文學世界とはまさに其のことを目指して居ります。

 

要するに其れが「中性」文學の類であり「中間」文學の流れです。

即ち「眞面目」かと思えば至って「不眞面目」ー非眞面目ーで、逆に「不眞面目」かと言えば實に御勉強になるそんな學びの場こそが此の塾の場のことだ。

 

塾?

もしやアナタは結局読者に対して塾をやってるのですね?

 

さうです、此処こそが其の學びの場である。

また言って居る事が変わって来ましたね。

 

お前は結局何者なのだ?

 

哲學者なのか、其れとも藝術家なのか、はたまた教師なのか?

だから常に其れ等の丁度中間あたりに居る者です。

 

 

だから此処こそが其の「中間」文學の場其のものだ。

で、あくまで君自身はゴッホとゴーガンのどちらがより好きなのか?

 

ズバリゴーガンと言いたかったところですが何せキチ外のゴッホもまた至極魅力的なので其れもまた半半と云うことに是非して置いて下され。

 

では最後に一言だけ申して置きませう。

其れも藝術はね、まさにそんな風に常に「ドッカーン!」だ。