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文明批判と美と心の探求と

さやうなら「七五書店」でも僕の心には永遠なる人文の灯りが点った

さやうなら「七五書店」でも僕の心には永遠なる人文の灯りが点った

 

 

 

 

芥川賞・直木賞、ともにダブル受賞…芥川賞の井戸川さんと佐藤さんは初の候補 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

 

其の井戸川氏は中原 中也賞詩人でもってしてしかも芥川賞作家だ!

彼女は壱體全體どんなことを日頃考えつつ生きて居るのでせう?

 

でも案外自分の方が難しいことを考えつつ生きて居たりもしてね。

さうして世間の評価はまた別物ですので余り其れには振り回されずに自己本位を貫く方が「良く出来ました賞」が頂ける可能性はむしろ高くなるのだと思う。

 

普段は書店で働く芥川賞作家「筆一本で食うのは、いかに困難か」…ノミネート時は「鳥肌立った」 (msn.com)

 

でもって芥川賞作家でもかうして書店員が居る訳でしてまさに其れは世間の何処にでも知性的に凄い人が居る訳です。

ですが芥川賞H氏賞を貰う人は常に限られて居ますのでさうしてアナタがバカにして居る自称作家がバカだとは限りません。

 

えっ、僕ですか?

僕はもう芥川賞なんぞは突き抜けて仕舞って居り従って文藝どうのかうのでは無く「文明の滅亡」に関しての問いだけがもう何処迄をも大きくなりまさに其れどころでは御座りません。

 

どだい僕は「物語」や「人間」が共に嫌いです。

「物語」や「人間」は嘘臭いのでかう何と申しますか兎に角「生臭い」のです。

 

そんな壱種突き抜けた感度を持つ自称の詩人ですので勿論「並み」じゃあ無い。

「並み」じゃあ無いですが其れももはやトシでせう。

 

 

特に最近はなんかかう小学生に戻ったみたいな感じで次第に幼稚化して來ても居ます。

其れでもまあ詩ぐらいなら何とか書けそうで事實たまに書けたりもしますが其の詩の言葉以上に文明の現在ー原罪ーの方が兎に角リアルでもって要するに深刻ですので常に其の書いた詩其のものがアホらしくも感ぜられる。

 

さて本日は「七五書店」の最終営業日とのことで、でもって昼の13時位の頃にまた立ち寄ってみました。

すると相変わらず人で混んで居て自分としてはあくまで「?」と云う感じがした。

 

つまりは「終わるものに群がるな、此の馬鹿!!」と云う感じでせうか?

しかも取材陣まで繰り出して居て何かを撮影などして居りますのです。

 

そんな訳で無論のこと哲學書の立ち読みなどは出来ず其れでもって空いて居る方へと逃げると其処は漫画本のコーナーだった。

「七五書店」で其の漫画本のコーナーを見たことが無く結果的に良い経験が出来ました。

 

特に「諸星 大二郎」や「吾妻 ひでお」などが置いてあり其の点では矢張りと云うべきか結構カルトな品揃えです。

ところで其の「吾妻 ひでお」はまだ生きて居ますか?

 

 

吾妻ひでお - Wikipedia

 

かやうにすでに四年も前に死んでました。

尤も「吾妻 ひでお」がすでにヤバい状態にあることはずっと以前より分かって居たことです。

 

1989年11月 - 1990年2月[30][注釈 3]。一日中酒を飲んでは寝るという生活を繰り返しているうちにうつが重くなり、山で首つり自殺をしようとしたが失敗[31][32]。最そのまま埼玉県入間市[31]雑木林ホームレス生活を始める。初めは食糧にも困っていたが、やがて毎日大量の廃棄の食物が捨てられるスーパーのゴミ捨て場を知り、失踪前より太るほどの食事にありつけることとなった。深夜に駅前でシケモクを拾っていたとき、警官に発見・保護された。ー吾妻ひでお - Wikipediaより

 

此の人は結局「不器用」系のカルト漫画家だったことでせう。

しかしながら曲りなりにも「壱流」とされる漫画家が何でこんな「ホームレス」などをやりますか?

 

多分彼は純粋過ぎ其れでもって上手く世の中を渡る力にはおそらく欠けて居たことでせう。

 

ー1992年4月 - 1992年8月[30]ごろ、大塚英志に『夜の魚』(太田出版)のあとがき『夜を歩く』(『失踪日記』の最初のエピソード)を宅配便で送ったその足で再び失踪する(西東京市東伏見または小金井公園近辺[33]において)[34]。同年8月ごろ、アル中の上森さん(仮称)にスカウトされて東京ガスの孫受け会社で配管工として働きはじめる。肉体労働をしていると芸術活動がしたくなり、社内報に四コマ漫画を投稿し採用された。ー吾妻ひでお - Wikipediaより

 

でもって突然彼は「配管工」となるのです。

だから何でまた漫画家が「配管工」とならねばならんのか?

 

1980年代半ばから盛んに飲酒し、「アル中」と自称していたが、吾妻の場合は2回の失踪を挟んだこともあって、一般的なアルコール依存症患者よりも症状の進行が遅かった。しかし1997年の暮れには手に震えが来るようになっており[38]、1998年春までには重症のアルコール依存症、すなわち眠っている時以外は酒が手離せなくなるという「連続飲酒」状態になっていた[39]。その状態が半年続き、しだいに奇行が多くなりまた自殺未遂なども行う様になり[40][41][42]、同年12月25日、家族によって三鷹市の某病院[注釈 4]強制入院させられる[43]。ー吾妻ひでお - Wikipediaより

 

しかもかうして「アル中」です。

最終的には所謂「精神病院」にまで入ることとなる。

 

もう此処迄で彼「吾妻 ひでお」が「普通の漫画家」では無いことは明らかです。

だけれども其の滅茶苦茶な彼が描き上げる漫画だけはまさに壱級品でした。

 

 

2005年3月、『失踪日記』を出版。1度目の失踪を描いた「夜を歩く」、2度目の失踪を描いた「街を歩く」、アルコール依存と治療の時期を描いた「アル中病棟」を収録している。出版とともに各メディアで話題となり、第34回日本漫画家協会賞大賞、第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第37回日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。なお、「漫画三賞」といわれる、日本漫画家協会賞大賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞を3賞とも受賞したのは、2007年時点で吾妻だけであった[47]。ー吾妻ひでお - Wikipediaより

 

尚我はすでに四拾年余りに亘り「吾妻 ひでお」が描く漫画の世界のファンです。

「吾妻 ひでお」を最も読んだのは大學時代から廿代の後半の頃でした。

 

当時我はSF小説のファンでまさに其の関係からSFを描く吾妻作品のファンとなった。

尤も小学生の頃から「ふたりと5人 - Wikipedia」を少年誌にて愛読して居り其処に登場する「哲學的先輩」なるキャラのコアなファンでもあった。

 

やけくそ天使 - Wikipedia

 

此の「やけくそ天使」なる作品もまさに思い出深い作品です。

思うに此れは👩の本質を描く作品であり其の🚺の本質とは「エロ」にこそある。

 

尤も世間では其れを「エロ」だとは捉えぬのかもしれないがつまるところ哲學的にはあくまで其れは「エロ」=「生臭さ」である。

「吾妻 ひでお」もまた生涯に亘り其の「エロス」の世界と闘った?漫画家の壱人でした。

 

だけれども「吾妻 ひでお」が描く「エロ」は眞の意味でのグロテスクさには常に欠けて居る。

對して画家などではまさに其の「エロス」の世界をグロテスクな迄に表現した人がすでに何人か居ます。

 

 

不条理日記 - Wikipedia

 

こちらなども昔屡読みました。

其の生の「不条理」な様其れ自體を漫画にて描く漫画家は数少ないことかと思われる。

 

でもって其の漫画の作者自身も其の「生の不条理性」に深く蝕まれさうして失踪したりアル中となったりする訳です。

さうしたものは結局「弱い藝術家」としての姿其のものですがまさに其の種の「逸脱行為」が逆に正直なものにも感ぜられてならない。

 

要するに「偉い藝術家」然として威張ること無く其れこそ死の間際まで生の営みと格闘し続けた彼「吾妻 ひでお」のことをなによりもまずわたくしは尊敬致します。

藝術家とは其のやうに「権威」や「名声」のうちに埋没するものでは無く常に生の営みと格闘し続けて居なければならない。

 

左様に生きて居るうちは藝術家に取り全部が闘いなのだ。

其の闘いからの解放とはまさに「死」でこそしかない。

 

 

書籍詳細 - カオスノート|イースト・プレス (eastpress.co.jp)

 

今壱階へと移動させた我が書棚には此の『カオスノート』が入って居ます。

漫画乃至は劇画の類には所謂「物語」が必ずと言って良い程あるものですが此の『カオスノート』が示す生の「不条理劇場」には「物語」らしき物語が無い。

 

まさに其処からして即ち作品其れ自體がすでに「不条理劇」其のものなのだ。

其の意味で「吾妻 ひでお」は矢張りと云うべきか「天才漫画家」の壱人でした。

 

されど其れはかの「手塚 治虫」や「永井 豪」やはたまた「諸星 大二郎」の如き物語の漫画の天才とはまた別ジャンルでの天才なのです。

「吾妻 ひでお」の作品は左様に至極哲學的でもあり壱般性には欠けて居り常に難解です。

 

ちなみに上の漫画本を我は吾妻氏の「遺作」として読み込んで居ます。

其の読後感が所謂「さわやか」では無くむしろ気分が悪くなるやうな「生の不条理さ」に満ちた作品群ですがでもだからこそ価値があるのだと個人的には思う。

 

また彼吾妻氏は作画が上手つまりは絵が上手く描ける作家ですので「可愛い」かったりまた「親しみ易く」もまたあるのですが作品の本質部はあくまで壱般性を離れた観点より描かれて居る。

 

 

『吾妻ひでおの不自由帖』吾妻ひでおSFギャグ漫画★私設ファンコーナー54で~す (biglobe.ne.jp)

 

つまりは可成にカルトな漫画家だったと言えることでせう。

また彼は所謂「ロリコン漫画」の元祖的な扱いを受けて居たりもまたしますがあくまで我に取っては「不条理漫画」を描くことの出来る天才漫画家だったのです。

 

尚人間には「眞面目」と「不眞面目」の違いが常にある訳ですが其の「眞面目」と「不眞面目」の評価其れ自體が實は弐元分離致します。

其れは、

 

生と云う體制に對し眞面目⇔生の本質に對し眞面目

 

かやうに弐元分離して居るのだと個人的には思われる。

また例えば藝術家であれ此の弐種のタイプが居るものと思われる。

 

最終的に所謂「破滅型」の藝術家は右の方に對し極めて眞面目です。

ですが「破滅型」の藝術家の作品は酷く魅力的なものとなる壱方で壱般性を保ち得ない。

 

だが例えばベートーヴェンの作品なども本來は「破滅型」なのでせうが其れが何故か逆に大きく壱般性を獲得し評価されることとなった。

またゴッホの作品などもまさにさうで勿論本來は「破滅型」なのでせうが其れが何故か逆に大きく壱般性を獲得し評価されることとなった。

 

 

ですが「吾妻 ひでお」の作品はおそらくよりカルトチックな部分を内包するが故に壱般性を保ち得ない訳だ。

尚個人的に「破滅型」の作品が好きで何故なら其れ等こそが「生の本質に對し眞面目」だからなのです。

 

かの岡本 太郎氏では無いのですが、「綺麗であったり心地良くある」藝術作品はむしろ偽物のやうに我には思えてなりません。

其の意味で「吾妻 ひでお」の作品こそはむしろ其れと対極に位置するものでせう。

 

尚藝術とはまさにそんな「惡あがき」の吐露なのでありつまりは「正の価値」や「負の価値」を共に内包する矛盾的對立としての極大の場であるべきです。

何故なら「正の価値」や「負の価値」を共に内包する矛盾的對立とはむしろ人間自身がまた世間自體がまさにさうなのですが其れをあえて拡大して見やうとする人が壱般人の中には居ない訳です。

 

其のやうな意味でのカルト的な拡大鏡であることこそが藝術が持ち得る本質的意義であり其の全てでせう。

「七五書店」にはそんな拡大鏡が所狭しとばかりに置かれて居たので其れが無くなることは我自身に取って如何にも寂しいことだ。

 

だけれども無論のこと「七五書店」は消え去ったにせよ其の拡大鏡其れ自體が消え去る訳では無いんです。

事實として左様に「吾妻 ひでお」はすでに死んで居るが『カオスノート』を読めば何時でもまた彼に逢うことが出来る。

 

 

大島真寿美(直木賞候補作家)の出身高校と大学について!結婚は?おすすめ本も紹介! | 今日を明るく (flowerlove.jp)

 

最後に壱冊「大島 真寿美」の文庫本を得やうとさうも思ったが是非読みたい『ピエタ』の文庫本が無いので諦め早早に退散した。

丁度取材陣が収録中であったが其れが終わるのを見届け店を出た。

 

とある人が「自分は山形から來てこちらで勉強させて頂きました、店長さんの御人柄が良くどーたらかうたら」などとカメラに向かい話して居たが其れもあくまでもう終わった本屋だぜ。

でもそんな遠き山形からよー來たのう。

 

家からは自転車で拾分だったが何せ金欠気味で本を大量購入出来なかったことが心残りか。

でも此処にて壱時間ばかり立ち読みすると大抵壱冊は本を買ったものだった。

 

さて正直『カオスノート』を読むと自分自身が抱える「不条理性」と完全に合い壊れさうになるのでなかなか読み返せません。

また哲學のコーナーには相変わらず「ウィトゲンシュタイン」の解説書が何冊か置かれて居た。

 

其処からしても「七五書店」は明らかにカルトな本屋だったのです。

自分は其のカルトな場所でこそ元気になる體質のやうでだからこそかうしてカルトな場所が減るのが何より辛い。

 

ですが所謂「大衆」が求めるものとは常にカルトな知識では無く要するにズバリ参流週刊誌的なエログロの部分でせう。

尚自分はエログロを藝術的に扱うものがむしろ好きだがエログロ其のものとしての参流的感性に對し常に懐疑的であり且つ批判的である。

 

要するに「大衆」には決して「七五書店」が理解出来なんだのだと言える。

と最後にまさに其の「大衆」のせいで「七五書店」が潰れたと云うことにして置きます。

 

 

ちなみに直木賞作家の「大島 真寿美」ですが調べてみると其れがまた相当にカルトな人間のやうです。

例えば「文樂」だとかに凝って居てしかも昔劇団を主宰し脚本を書いて居たやうだ。

 

ま、其の「文樂」にも劇団にもまるで興味はありません。

尚僕自身は正直言って今どんな賞にも興味は無くネット作家の方が「良く出来ました賞」を読者の皆様方から出来たら頂きたいとさう思うばかり。

 

そんな訳で今夜以降は「七五書店」から夜の灯りが消えます。

そんな寂しいことなんぞ言うな。

 

此れからまた其の灯りを見に行ったら?

こんな寒い夜に爺が🚲で走り転びでもしたらどうするのだ?

 

転んで🚙に轢かれもしもぐちゃぐちゃにでもなったらどうするのだ?

 

…「七五書店」から灯りが消えると同時に詩人の心にはむしろ永遠なる人文の灯りが点った。

 

また上手いこと言うなあ、流石は詩人だ。

そんな訳で其の「七五書店」ばかりに振り回されて居た此の睦月であった。