自然とは何か?ー参 作為的なもの、加工したものに對する壱考察ー
一斉に働くと短期的には仕事の効率はいいが、やがて皆疲れて動けなくなる。卵の世話など中断できない仕事が滞って、コロニー全体の維持に影響する。働かないアリがいれば、疲れて休んでいるアリに代わって働ける。長谷川さんは、働かないアリは緊急事態に出動する「待機要員」と推測、「目先の効率だけを追い求めすぎると、その集団は早く滅ぶ」と指摘する。
他の生き物たちとの生存競争を勝ち抜くのに有利な特徴ではなく、クジャクという種の全体からみると、繁栄にはつながらない。鳥たちがさえずる歌や求愛ダンス、オスのシカの角なども、種の繁栄にとっては無駄な機能なのだという。
だが、生物多様性という観点でみれば、逆に大切な進化となる。これらの進化にエネルギーが注がれることで、他の生き物を根絶やしにする強い種が登場しにくくなる。その結果、弱い種も生き残れるといい、近藤さんは「無駄の進化が生物多様性を支えている」と強調する。ー2割の働かないアリ、無駄な存在ではなかった…ある程度いる方がコロニーやや長く存続 (msn.com)より
合理化壱本槍であるよりもまさに其の不合理なもの、非合理的領域をむしろ意図的に増やすべきなのだ。
前回述べた「祭り」とは此の現代の合理化社會からすればむしろ不合理なもの、非合理的領域をも含むものです。
どだい「先陣を争う」だの「勝つ」だの「負ける」だの要するに其れは近代的思考の範疇のものだとは考えにくい。
其れにも関わらず我は其れが重要な価値だとさう述べた。
何故ならまさに其の理性に對する負の領域、即ちマイナスのエネルギーを持って居る部分にこそむしろ「持続可能性」への鍵があるからなのだ。
ですが普通現代人には其れがさうは考えられず、要するに合理化された部分にこそ価値を見出して行き易い。
だから眞っ暗な山の中よりは大都會のネオンサインの中にこそ価値を見出すやうな思考を何時の間にか創り上げて仕舞う。
ですがまさにさう云う価値観こそが所謂「多様性」を損ない且つ「持続可能性」を根本より反故にするところでの認識です。
ところが現代社會は其の「壱義的」な価値認識の上にこそ成り立って居る。
だから我我現代社會の構成員は其の「壱義的」な価値認識をこそ強いられて行く。
其処であえて「こんなんはダメだ」とでも言えばもはや其れは頭のオカシイ人か藝術家以外には其れが許されない。
まあ藝術家はまたほぼ頭がオカシイ訳ですので辻褄だけは其処で合いますが其れでも幾ら藝術家でもお前は「キチガイ」だとさう面と向かって言われれば即ショックを受けます。
まあ僕もまた此れ迄に色々とあった訳でして其れもなんかかう僕の認識と世間での認識がそもズレてるのでまさに其のことでもって悩み苦しんで来たのであり實は自分自身のことや此の世での事物其れ自體のことで悩まされて来たのではありません。
なので基本的には社會のあり方が悪いー其の認識のあり方こそがそも悪いーとさう思って居ますが其の認識にもまた絶対的には寄り掛からぬやうにしたいものだといつもさう思う。
なんですが結局はいつも其の「社會が悪い」と云う判断と云うか認識へと凝り固まりがちです。
で、問題は其の「祭り」やら「祭祀」と云った宗教的な儀礼の中に出て来るまさに不合理な観念性の部分をどう扱うかと云うことでせう。
其れこそ其処には「五穀豊穣」だの「子孫繁栄(選民思想?)」的なものだのが含まれて居る。
ですがかうして文明が地球環境を破壊するさ中に「五穀豊穣」も「子孫繁栄(選民思想)」もまた無い訳です。
要するに其れはかってアニミズムとしての世界観を生きて居た時の名残としての思想であり価値観である。
勿論其処ではそも自然を破壊したりしては居らずよって其れはあくまで其の體制の枠内での矛盾としての発言ではありません。
だから結局は其の部分をむしろ「大いなる無駄」と捉え壱概に合理性から否定するのでは無く逆に全體性を担保するべくむしろ保存すべきものであると云う点にこそ気付くのが眞の意味での理性のあり方でせう。
即ち理性的であると云う事は合理化壱本槍のことではありません。
理性とは数学だの物理だののことばかりー自然科学ばかりーでは無く文學もまた哲學もさらに藝術の分野や宗教ですらもが皆其の理性としての行いです。
しかも其の人文系の學問には現存在の「心」を対象とする幅広い領域が拡がって居る。
藝術もまた宗教にせよ勿論其の「心」を対象とする學問の壱つである。
其れも藝術や宗教は必ずしも論理的なものでは無いにせよ其れは至極眞面目に現存在の心のあり方とこそ向き合うものである。ーまたさうして眞面目に事と向き合うのが學問であるー
逆に其の論理壱遍当となればむしろ視野が其処に狭まる感じさえ致します。
尚わたくしは其の論理と非論理的要素の双方にかうして己が認識であり己が心を開いて居る。
また其れは作為では無く元元生まれ持った性質だったのだとさう思う。
但し其のことに気付き始めたのが五拾代も後半になってから、即ち還暦直前でのことでした。
要するに我はかうして半分タダの俗物ですので気付き方が酷く遅いつまりは鈍重なのだ。
但し反面では人並みでは無い鋭敏さをも確かに持ち合わせて居ります。
其の鈍重なだけならかうも人生に對し悲劇性を感じずとも良かったのがあえて其れが半半でしたのでまさにプロの作家さん並に精神的苦闘を引き受けることにもまたなった訳だ。
だからもう作家などはやりたくない。
エエッ、壱體何を言って居るのだ、君?
だからもう作家などはやりたくない。
ウソコケ、どだいお前今至極樂しくコレを書いて居るな!
はい、今まさにかうしてとても樂しく書かせて頂いて居ります。
なんですが其れだけじゃないですか。
かう何かさう現金化されないじゃないですか。
…まさかソコに拘って居るの?
いえ冗談です、あくまで冗談…。
さうか、貧乏詩人はしかし何かと大変だなあ。
はい、でも其の「貧乏詩人」と云うのは何でまた其の貧乏と詩人が必ず組み合わさるやうに出来てるんでせうね?
確かにまた其れも不思議なことながらさうだね。
其れもまあ「貧乏詩人」に限らず「貧乏画家」や「貧乏作曲家」其れに「貧乏脚本家」や「貧乏小説家」と要するに藝術家の多くは皆貧乏なものと相場は決まっておる。
おまけに其の「貧乏詩人」に限らず「貧乏画家」や「貧乏作曲家」其れに「貧乏脚本家」や「貧乏小説家」の奴等に限り金使いの方がむしろ荒いと来てる。
だから彼等の多くにはパトロンが必要なのだ。
其の才能に投資して呉れる金持ちが是非必要なのだ。
つまりは僕の場合はまさに其のことを大TOYOTAとイチローに是非お願いしたい訳だ。
さても其の「多様性」の中にこそ現存在としてのつまりは文明としての持続可能性を追及すべきなのか?
「多様性」と云うよりも「多義性」なのではないだらうか。
「多様性」は歴史上の過去にすでに経験されて居るが「多義性」を現存在ー文明ーはいまだ生きた試しがない。
其れでは早速問う。
其の「多義性」とは何か?
まさに其れは価値観の置き方、認識としての価値のあり方を壱義的にしないことではないか。
其のやうにむしろ価値は両義性に置いてこそ全體性を獲得することが出来る。
またつまりは其れが所謂価値の脱構築にも連なるのではないか。
自然⇔文明
未加工⇔加工
自然とは加工しないことであり文明とは加工することである。
其の加工しないことをあえて受け容れることが宗教的見地である。
だから其れは神であれ佛であれまたアニミズムとしての多神教であれ皆基本的には加工しない方を目指す。
逆に文化は加工することでむしろ藝術作品を生み出す。
だから其の藝術作品とは加工したところでの自然の影絵のやうなものだ。
また或は神のまた佛の影絵のやうなものなのだ。
すると藝術は神や佛其れ自體にはなり得ない?
要するに其処にて作者が神や佛になるのであるつまりは神佛の自己化と云うことだな。
でも藝術は果たしてそんなんで良いのか?
そんなんであるからこそ其れが藝術なんだ。
何故なら藝術はさうして加工をするでせう。
だからとりあえずは自分が神佛化しないと自然からソレは引き剥がせなくなる。
すると藝術作品とは其の自然から引き剥がしたものを素材とする神佛と化した作者其のもののことなのか?
ようやく藝術のことが分かったかね。
だから藝術は自然では無くあくまで文化なのだ。
未加工⇔加工
不作為⇔作為
勿論我は其の両極を視野に入れた上で生きて来ました。
ですが此処拾年程はむしろ作為としての加工物を嫌って来て居ります。
文化⇔宗教
最終的には宗教は其の文化では無く信仰です。
信仰は作為ー加工ーを認めたがらずまずは其処が素晴らしいところかと思う。
ならば信仰すれば現存在の心は救われますか?
場合により救われるのだと思うが其の確率は常に低くある。
何故なら其処には邪教もまた含まれて居るからだ。
唯物主義⇔唯心論
其の物と心もまた違うものだ。
物は数値的に扱うことが可能だが心の領域は数値にて規定出来ない。
また幸福度も数値にて規定出来ない。
何故なら此の自称詩人の悲惨な生からして皆様は或は僕のことを憐れむのやもしれぬが實は其れが大きなお世話である。
何故なら我は今まさに此の悲惨な生に於いて幸福度を高く感じて居り其れは多分貴方方壱人壱人の幸福度よりもより高くあるのだ。
また自分は「ずっとずっと幸福だったーーーー!」と叫びつつ死んでやる積もりなので其処にはどんな心配もまた要らぬのである。
さうして心の領域は所詮物量でも無くまた運不運なのでもまた無い。
また心の生に於ける成功とは金持ちになることでも温かい家庭を築くことでもおそらくは無い。
むしろ其の成功を放棄するか其れとも其の藝術としての弐項対立を激しく選択しつつ生き自爆するかのどちらかであらう。
またつまりは前者が宗教の立場であり後者がまさに藝術の立場である。
其れもまた両方やりたい気がして居るが流石に此ればかりは難しいやうだ。
宗教⇔藝術ー此れ等は本質的には弐項対立するものではないが便宜上かう組んでみたー
結局此の場合にもあくまで我に取っては双方が大事なのでありどちらを選ぶと云う選択の問題では無いと云うことにたった今気付いた。
さうか、だったら今まさに其れをやってる最中なので此れで良いのか。
結局其れで良いのだ。
コレデーヨイノダー、バカボンボンッ♪
其れでもってかうしてむしろ生理的に加工品が嫌いなわたくしなれど結局は其のやうに分化したもの、また作為的なものにも接しつつ何とか其の全體論的な潔癖症を抑え込んで居る本日のわたくしである。