目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「限定」する思想と「限定」しない思想との根本的対立に就いてー敬愛してやまぬ故梅原 猛先生の思想に寄せてー

「限定」する思想と「限定」しない思想との根本的対立に就いてー敬愛してやまぬ故梅原 猛先生の思想に寄せてー

 

 

 

 

さて本日はまた久し振りに「無駄」な壱日を過ごし縁側に寝転がり主に思索にふけりつつ過ごしたが珍しく本は読んで居ない。

我の読む本は所謂難しい内容のものがまた多く要するに其れは現行の文明のあり方に對し批判的に書かれたものなどが多い。

 

だが考えてみると🐈のエサもまた我の飯も無いのでとりあえずはスギ薬局だけは行かねばならぬ。

ところが南自転車置き場及び北自転車置き場ー補助的置き場ーが共に満杯で置き場が無いので通路にはみ出て自転車を置く羽目になった。

 

其れでもって其の点に就き正社員の壱人を呼びつけ注意を喚起した。

まさに其のことはかって我が勤めた🏥でも屡問題となったことで要するに駐輪場を通勤通学の為に利用する輩がまた多いのだ。

 

またわたくしはさう云うのにはまさに潔癖なので兎に角進言することとして居る。

かと言って實は我自身がスーパーや団地の自転車置き場などに無断で自転車を置き用事を済ますことなどもまた無いでは無い。

 

 

ですが自転車での利用客が駐輪出来ぬことは其れは大きく問題があらう。

左様に現代文明は問題ダラケながら其のスギ薬局側のある種のユルユル體質には疑問が残った侭である。

 

其れに我は五年前にスギ薬局とは喧嘩をしたからいまだ其の辺の微妙なところが納得出来ぬのだ。

其れもスギ薬局が突然優待ユーザー制度を止め其の止め方が余りに壱方的だったから「優待ユーザーの気持ちをまずは考えよ」とさう諭したのである。

 

されど今はスギ薬局で買って来る物でもって生活をして居るので「此の馬鹿野郎!」とはまさか言えない。

 

 

さてさうかうしつつ本日は思索の方も全然進まなかったが壱つだけつい先程考えたのは「思想により価値観が大きく変わる」と云うことであった。

なので本質的に右と左の思想は相容れぬものとならざるを得ぬ。

 

でもって右の人は左の人を「馬鹿」とさう決め付けて居るのだし逆に左の人は右の人を矢張り「馬鹿」だとさう決め付けて居る。

なのですが「馬鹿」とさう決め付けることの前提には自分の側の「利口」がある訳なのだが實は其の「利口」であることを証明する手立ては此の世には何処にも無い。

 

でもって僕の場合もまた周りの認識をバカにすることが多いのだけれど實は其処に僕の利口な認識を証明するやうな手立てが此の世にある訳では無い。

じゃあ何を持ってして其の馬鹿と利口を区別して居るのか?

 

結局其れは自分の認識を中心に其れを組み立てて居るのである。

すると右の馬鹿と左の馬鹿と同様に自分の認識もまた馬鹿だと云うことになるが何とか其れを阻止して置きたい。

 

 

だから其の部分に就き拾分間程熟考してみたが其処に回答が得られなんだ。

 

でも何か無いのか?

さうで無いと自慢の知力が台無しである、つまりは此の知力は地に落ちる。

 

でも無いんだなあ、其れも今日はどうもヒラメキに欠けるやうだ。

 

まあ壱つには所謂「無知の知」の部分から其の論理を切り崩しにかかれる可能性は残されて居る。

どだい自分の知力はプラスとマイナスを同時通行するやうな考えなので要するに右の思想への固執とまた左の思想への固執とはむしろ本質的に異なるものなのだ。

 

故に其の所謂「無知の知」的な領域をもカヴァー出来て居る筈の思考なのだ。

でも實際には僕は結構アホなのだけれど只其れは眞性のアホなのでは無く所謂「學者バカ=現實に對するバカ」的なものに近いことだらう。

 

 

いずれにせよ今世界はほぼ壊れ始めて居る。

 

其れも経済的停滞どころかまさに核戦争の危機である。

其れをどうかうすると云うことは今やどんな高僧にせよまたかの羅馬教皇にせよ出来ぬ相談だ。

 

但し其の世界の危機即ち文明の危機に関して我はもう長きに亘り警鐘を鳴らし続けて来た。ーもう6、7年に亘りさう言うて来たかー

即ちむしろ其のことを知的に制御するべく文明の認識としての誤った部分を正さうとして来た積もりだったが所詮は其のこともまた極めて「限定的」な作業なので其処に大きく世界を変えるやうな力は望むべくも無い。

 

其の世界の矛盾、文明の矛盾とはひとえに「限定しない」文明のあり方の矛盾其のものであるやうに今僕には感ぜられる。

 

非限定⇔限定

 

近現代文明とはまさに其の「非限定」型での文明のあり方だ。

また其れは所謂西洋流の合理主義文明、又は其処から派生した弐種の革新型の文明である自由主義を標榜する米國流の革新文明と所謂革命思想を標榜する社會主義(共産主義)思想を標榜する革新文明との対立的発展の歴史其のものなのでもまたあった。

 

でもってしてかってベルリンの壁が崩壊して以降ソヴィエト連邦露西亜ーが資本主義化して行ったかに見えまた中華人民共和國が資本主義的な経済體制へと移行して行ったが個人的には其処で東西陣営による思想的闘争はまるで終結などしては居ないとさう見て居たのであったが事實として今まさにさうなりつつある。

 

其のイデオロギー対立と云うものが矢張りと言うべきか根本的にヤバいものである。

さらにまた其のイデオロギー対立はドッチに転んでもまたヤバいものである。

 

が、日本の皆様はむしろ米國の國是の方なら大丈夫だとさう思うのやもしれぬが其れは大間違いである。

何故なら米國の合理化思想は行き過ぎて居りむしろ共産主義以上に危険である。

 

ならばドッチもダメで結局はもうお先は眞っ暗なのですか?

 

 

いや共産主義の方はあくまで理論的には正しい可能性が高いのだがプーチン政権やまた中國の體制はむしろ純粋な意味での共産制とは異なる所謂権威主義體制であり且つ覇権主義體制なので平和主義どころかむしろ力にて捻じ伏せて行くタイプでの要するに右翼的左派政権なのだ。

 

右翼的左派政権?

要するに極右の左翼なので?

 

まあさう云うことです。

じゃあどーするんですか、元塾の社會の先生?

 

そんなことを全部ワシに押し付けるな!

ワシはかうして體も弱くおまけに食うや食わずでもある。

 

其れに気もまた弱い。

つまりは暴力が怖いのだ。

 

ウソコクな。

君は昔屡喧嘩して居たじゃないか。

 

いや殴り合いの喧嘩などは壱度もしては居ない。

要するに理性的に反抗することが弐、参度あったばかりでのことだ。

 

 

尚あくまで自分の場合にはむしろ其の、

非限定⇔限定

の部分にかうして現代文明が陥る危機的状況の根本因があるやうに思う訳だ。

 

ちなみに我はかって梅原猛 - Wikipedia先生による哲學的解釈の信奉者だった。

但し其の梅原日本學と云うよりは京都學派京都学派 - Wikipedia、即ち西田哲學西田幾多郎 - Wikipediaの流れのまさに信奉者だった訳だ。

 

其のかって日本を代表する哲學者だった梅原先生は愛知県の知多郡で育たれ第八高等学校 (旧制) - Wikipediaー現名古屋大學ーを出られて居る。

やがて西三河碧南市に哲學體験の村が出来其処で梅原先生が長く名誉村長をして居られた訳だった。

 

 

哲学たいけん村無我苑 | 愛知県西三河エリアの公式観光サイト 西三河ぐるっとナビ (nishimikawanavi.jp)

碧南市哲学たいけん村無我苑 - Wikipedia

哲学たいけん村無我苑/碧南市 (hekinan.lg.jp)

 

 

我はかって此処を参度程訪れしかも此処の會員ー有料會員ーでもあった。

また弐度其処にて行われた其の梅原先生の講演會を訪れて居る。

 

其れは今から廿年程前のことであったことだらう。

また或は最初の講演會はもっと以前のことだったかもしれない。

 

そんな訳で自分の哲學的知識は付け焼刃的なものでは無くむしろ筋金入りのものである。

だが哲學書自體はむしろ余り読んでは居ないので専門的な知識までをも磨き込んで居る訳では無い。

 

だが壱般人並の知識では無いことはまた確かなことである。

 

其の梅原先生が地元の中日新聞に「思うままに」と云う哲學的エッセイの連載をかってして居られわたくしは其れを貪るが如くにかって読んで居た。

また読めなかった回は図書館へと出向き其の全てを調べ上げ読んだ。

 

 

『老耄と哲学 思うままに』梅原猛 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)

 

かうして其の連載の記事を纏めた単行本なども出されて居る。-主に新聞にて読んだので此の本を読んでは居ないのだが…-

 

梅原猛の息子と孫たち。京都の自宅。左翼を超えた思想、仏教の授業とは | アスネタ – 芸能ニュースメディア (asuneta.com)

 

重要なことは其の梅原先生の思想が右とも左ともつかぬものであったことです。

ですが西洋哲學を批判し日本的なものを愛したと云うことでは矢張り思想的には明らかに右ー保守派ーでせう。

 

ちなみにわたくしは其の西洋哲學批判なるものをかって弐度に亘り直に聴講して居ります。

まさに其れはこっぴどく批判されて居たやうに覚えて居ますが其の内容に就いてはすでに忘れました。-尤も聴講の内容を記したメモが何処かにある筈だ-

 

また我もまた西洋哲學を自己流にて批判出来ぬこともまた無い訳です。

但し其れも我は哲學者でも何でも無くタダの壱哲學詩人なのでまあ其の内容が壱種胡散臭くなることは免れません。

 

 

ですが本気でやらうと思えばあくまでやれますのです。

やれますがかうして日日生活に追われる立場ですので其の立場上やり切れません。

 

さて其の梅原日本學の方から次第に我が興味は西田哲學其れ自體へと移って行った。

無論のこと其の西田哲學こそが日本の哲學として最重要のものです。

 

されど其の西田哲學其のものを完全に理解したかとなると甚だ怪しい。

そんな状態でも確かかって此処でも其の内容に就き書いた覚えがあるが何処にあるものやらもはや自分でも分かりません。-かうして分類が為されて居らずつまりは考えが甘いと云うかやることが甘い-

 

確か「絶対矛盾的自己同壱」と云う概念に就き解説を試みて居る筈だ。絶対矛盾的自己同一 - Wikipedia

まさに此の概念こそが西田哲學に於ける肝の部分である。

 

 

絶対矛盾的自己同一:西田幾多郎晩年のキーワード (hix05.com)

 

まあかうしてネット上には色々と解説が試みられて居ますので是非参考になどなさってみられて下さい。

でもって「分からん」なら其の分からんと云うことがまさに御自分の感想ですのでむしろ其れを大事にすべきことかとさう存ずる。

 

逆に何となくでも「分かる」奴は頭が狂ってる系の奴なのだが同時に天才的に頭が良い可能性などもまた半分はありませう。

ワタシに限ればどちらかと言えば何となく分かっちゃう方です。

 

だから此の我が頭が変であるか其れとも利口かのどちらかですが實際にはどちらへも転ぶ可能性が高いと見るのが正しい見方であることだらう。

 

まあ哲學談義などはかうして何処までも続けて行けるが問題は其の「非限定」型の文明のあり方に對しかうした東洋思想と云うか東洋の哲學が何処まで實効力を有した形でもって対抗出来るかと云うまさに其の部分です。

其れに對する答えはあくまで個人的には「もはや西田哲學しか無い」と云うものです。

 

其の西田哲學が逆に「限定」型の文明のあり方を規定すると言えるものなのかどうか其れをまずは考えて置く必要があるが實はまだ其の点に就きいまだ考えては居りません。

但し壱つだけ言えることは西田哲學は現在も生きて居る哲學であると云うことです。

 

 

ちなみに最近ではかのマルクス・ガブリエル氏がまさに其の西田哲學の影響を大きく受けられて来て居る。

また僕つまりは哲學詩人も西田哲學への傾倒をもっともっと推し進めて行くべきなのだが相変らずかうして毎日カレー饂飩を作り食ったりまた掃除が出来て居ないので少しはやりませうでもって要するにさうして生活に追われ西田哲學まで踏み込む精神的余裕がなかなか持てずに居る。

 

はあー、結局は其れも所謂宝の持ち腐れですかな…。

 

まあでもですよ、もしも大TOYOTAとイチローのいずれかが僕のパトロンになりつまりは金を恵んで呉れればおそらく僕はやることでせう。

でもまあ其れは無いのでもしも其のうちにヒラメいたらまたすぐに書きますので是非期待して置いて下され。

 

 

尤も此処の内容其れ自體が昔ー四、五年前ーと比べ正直おバカ化して来ても居ります。

なんですが根本のところではまだ眞面目さを失っては居ないので是非今後をご期待あれ。

 

そんな訳で其の東洋の哲學が實は今世界最先端での思想でもまたあるのです。

そんなことは日頃御勉強して居ないと???のことだらうがまさしく本当のことなのです。