目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー五 宗教的要求と哲學的希求の壱致ー

哲學15

 

 

 

ちなみにもしも今壱億円の自由になる金が手元にあればすぐにでもわたくしは静かな山の中へでも逃げて行くつもりです。

何せ寒いのが苦手なので三河や静岡、其れに三重県などが其の移住の候補地です。

其処にログハウスー但し冷暖房の効くーでも建てて是非住みたいです。

 

左様にわたくしはもはや文明を信用して居らず出来れば其れからなるべく離れたいと思って居る。

ですが實際はむしろ次第に自分の體が壊れて来ても居るので事實上其れも難しくなって来た。

 

故に事實上其れは無理ですがもしも何かの拍子に其れが可能となるならば、わたくしは其処に隠遁者の樂園を建設したく思う。

其れでまずやりますことは食料や飲料水の買い溜めでせう。

 

移住地に倉庫も建て其処へ拾年分位の非常食を溜め込むつもりである。

 

其れと本棚などもまた大きく造らねばなりません。

何せ此の弐部屋に充満する本を其処に持って行く訳ですので。

 

かうしてわたくしは考えて居ること其れ自體が世間とはすでにズレて仕舞って居ます。

ですが其れは犯罪者と云うことでは無しに逆に聖なる心の方向性を指向する者なのであり只人間嫌いですので変わって見えるだけのことです。

 

 

なんですが、實は子供には相変わらず好かれることが多い。

今も猫を見に来る小学生達に石をあげることなどを考えて居ます。

 

其の小学生達は二軒西隣のソロバン塾に来る子等ですが、いつも彼等がソロバン塾の前で遊んで居て我が昔塾の先生だったことを話したので屡家へも遊びに来るやうになりました。

其れで猫をもって行けと言いますのですが今の親は何かと難しいらしく🐈は飼えないと云うので代りに石をやらうかと思って居ます。

 

其のソロバン塾の先生とは顔見知りで屡何かを手伝って頂いたりして居る仲です。ー七拾弐歳にて独居中ー

かっては其の塾を先生の母親がやっておられ其処へ小学生の頃わたくしも通って居たが其れも半世紀以上前の話となって仕舞いました。

 

其の子等の父母が丁度かってわたくしが勉強の方をみた四十代の人人です。

 

さて其の棚山のコモンオパールの小さいのを弐個程纏めて六人分作りましたところ小学生の👩の子ばかりが参人連れ立って其れを本日受け取りに来た。

もっと沢山人数が居るよ。

 

じゃあとりあえずはジャンケンをして欲しい人にあげなさい。

親に聞かれたらソロバンの先生の友達の塾の先生から貰ったとさう伝えておきなさい。

其れから此の石は瓶に入れ水に浸けて置くやうに。

壱ヵ月に壱度位は其の水を替えてね。

 

石もまたかうして受け継がれていくもののやうです。

 

 

さてでは今回はこちらがテキストとなります。

西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)

 

西田 幾多郎の云う「純粋経験」とは「無分別智」に近いものであらうことをわたくしは前回述べました。

其れは唯物論が陥る課題としての「意識」の問題を克服出来ないことに比べ其れを回避出来る利点があると此処での著者は述べて居ます。

 

但し其れは所謂「独我論」に陥り易いとも書いてあります。

ー私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、まず私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、ついで私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れ、両者は一致する。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。ー独我論 - Wikipediaより

 

普通我我人間は客体物がまず在り其れを目と云う感覚器を通じて見るから其れが認識されるとさう感じて居ります。

 

ー子供などが持っている素朴な実在論である。また大人などでも、哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観である[2]。ー素朴実在論 - Wikipediaより

人類は古くから、自分の眼に見えていてもそれが実在していなかったという経験や、反対に、たとえ肉眼では見えなくても(あるいは他の感覚器でも知覚できなくても)確かに何かが実在していた、という経験を繰り返している。こうして人間は、素朴実在論とは異なった考え方を探求してきた。ー素朴実在論 - Wikipediaより

 

また我我人間は特に哲學的なものの見方をせぬ限りはー「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」ー素朴実在論 - Wikipediaとさう思いがちです。

 

然し客体物が其処に有るとさう思い込むのは逆に言えばまさに其れを「本能的に」見て居る訳です。

「本能的に」見れば見る程其れは確固とした形でまさに客体として其処に有る訳です。

 

大多数の人間はかうしたものの見方を日頃して居ります。

ごく壱部懐疑主義者を別とすれば。

謂わば其れがまさに常識的認識である訳ですが哲學的には其れはむしろ間違って居ると捉えられるものです。

 

 

どだい其の哲學にせよ宗教にせよ、其処ではむしろ目には直接見えない何らかの原理を追及して行くものです。

また其れは謂わば即物的では無く且つ本能的でも無い精神的な価値に就き學んで行くのです。

 

ところが所謂「常識」の範囲内では其の精神的な価値への機縁がなかなか保たれぬものです。

要するにさうして世俗的な意味での常識、言い換えれば本能的な価値に縛り付けられ易いのだと言える。

 

故にかってお釈迦様はむしろ其れとは逆の価値観をお示しになられ其れ即ちさうした価値観に生きることこそが「修行」であると捉えられた訳です。

つまりは佛教とは世俗の価値とは正反対の「精神的」価値を生きるもののことです。

 

 

佛教にも色々とあり其れ等の中には「精神的」価値と云うよりは現世での御利益を求めて行くものもまた御座りませうが基本的には其れは正しい佛教のあり方には非ず。

逆に申せば現世での御利益を求めて行く宗教のあり方は「精神的」価値を生きて居る訳では無い立場から齎されるものだとも言い得ませう。

 

さうして「精神的」に物を見ますと其れは壱種の本能を離れた認識をする訳ですので当然のことながら其の物の客体性は否定される場合などもまた出て来ます。

其の逆に「唯物的」に物を見ますとあくまで其れは壱種の本能より其れを見る訳ですのでむしろ其の物の客体性はほぼ完全に肯定される訳です。

 

「唯物的」な物の見方はさうして壱種本能的でありまた素朴實在論的であり多くの人間に取りむしろ至極分かり易いものです。

さらに現代では哲學や宗教などの「精神的」なものの見方が劣勢に立たされ主に自然科学に代表される唯物論の方こそが幅を利かせて居る訳だ。

 

ですのでより多くの人間が従うもの、其れも大多数の人間がやり易いものはむしろ間違って居る場合の方が多いやうです。

 

 

其処で個人的には「独我論」と「素朴實在論」のどちらかを選べと言われればすぐさま「独我論」の方を選びます。

独我論」は偏屈でもって変な考えですが「素朴實在論」としてみんなでもって間違いの認識をあえてして居るのとではまだしも其の方がマシと云うものです。

 

わたくしが今批判して居るのはズバリ其の「常識」としての物の見方であり概ね其れは眞理としての見方の反対をやって居ることが多い。

尚「独我論」は極端な唯心論ですが、テキストにもありますやうに唯心論は概ね神佛の存在を大きく認めて行きます。

対して「唯物論」の極端なものとして「無神論」がありませうが其処では無論のこと超越的な存在をそも認めて居ません。

 

ですから超越的な存在を認めるからこその「精神性」であり観念的な物の見方なのです。

個人的に現代人に今最も欠けつつあるのが此の「精神性」であり観念的な物の見方なのだと思います。

 

「精神性」はかっての所謂「精神論」では無く精神に沿って物事を理解して行くと云う態度のことを言う。

わたくしは其の意味では可成に「精神的」な人間です。

 

ですので現代社會の唯物性に対し時折我慢がならなくなり屡其れに対し怒ったりもして居ます。

 

 

尚其の超越的な存在を「精神性」即ち観念性に組み込むと「独我論」に陥らなくて済むとテキストには書かれて居ますがまさに鋭い指摘だと思います。

唯心論にせよ観念論にせよ超越的存在を概ね認めて居り従って当時の哲學はむしろ宗教を否定して居ない訳です。

 

宗教を否定的に扱うやうになったのは謂わば唯物的な進歩の方向性が確立されて以降なのだと思われる。

但しまさに其処に唯物論は限界に突き当たります。

 

其れは物が溢れ豊かになり長生きの出来る世の中になった代わりにむしろ人間の心の中身は空虚となり幸福であることが實感されなくなって行ったからなのでした。

現行の文明の流れはむしろ其れをより加速させて居るのだと申せませう。

 

ですがもはや誰も望んでは居ないのですがね、そんな不必要な進歩や不必要な物の充満などは。

よって問題は壱體何処で其の文明の気が狂ったかと云うことでせう。

 

 

尤もわたくし壱人がどう批判したにせよ文明は自身がキチ外であることを決して認めはしないことでせう。

逆にわたくしは社會からキチ外の思想犯だとおそらくはさう見られて居りだから近いうちにわたくしは牢屋に入れられ其処でもって餓死するのです。

 

いや餓死などは金輪際したくは無い。

逆におかわりさえしてやらう、其の臭い飯を何杯も何杯も…。

 

ちなみに素朴實在性は観念的には否定出来ますが独我論の方は観念的に否定することが出来ません。

 

 

さて次に「個別的純粋経験」と「普遍的純粋経験」のお話が出て参ります。

個人的には至極分かり易い種別の仕方だと思う。

 

されど我我凡夫が其の侭に「個別的純粋経験」を持ち得るかと言えばまさに其れは至難の技であることでせう。

其の純粋経験を「無分別智」とした上で考えてみますと其の「無分別智」化をする為に禅の修行僧が何拾年も修行を積み重ねた上でもまだ猶悟れないのです。

 

其れに普通は現代社會での価値バイアスが強く働いて居ますので我我庶民に出来ることは眼前のことを實體として感じせいぜい毎日飯を食い生き抜いて行くことだけなんです。

其処に加えインテリさん方は御勉強する癖が付いて居るので其の御勉強の方も欠かさずやる訳ですが元より御勉強で悟れるものでは御座りません。

 

まあ僕なども確かにそんな面が御座ります。

で、其の僕の結論とは「人間は悟れません」と云うことでした。

 

つまりは其の「個別的純粋経験」の世界を常に我我が生きられるやうになる訳では無い。

尚わたくしには直観智が屡働きつまりはむしろそちらの側での人間なのですが其れでも自らの頭の中を「無分別智」化などするにはほど遠い段階だと云うのが正直なところです。

 

 

ー宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではない西田幾多郎善の研究』、小坂国継全注釈、講談社学術文庫、2006、p.380)

 世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかし、かくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である(中略)真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである(同、p.385)。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

西田幾多郎にとってはおそらく其の宗教的要求と哲學的要求が壱致して居たものと思われます。

宗教的要求と哲學的要求が壱致することは稀と申しますか考えられる得る最も幸福な境地なのではないかと個人的には感じられる。

 

わたくしもまた若き頃より其の宗教的要求に於いてまた同時に哲學的要求に於いて並外れた希求が御座りましたものです。

故にわたくしに取り人生はあくまで観念的にこそ希求されるものでした。

 

たとえ飯を食って居てもまた酒を飲み👩を触って居ても私の場合は其のことを常に問い続けて来たのです。

即ち我に取り宗教は人生の目的其のものでした。

 

また哲學こそが人生の目的其のものでした。

ですが世の中の大多数の方々に取り人生とはむしろさうしたものでは無かったのです。

 

其の部分との軋轢、齟齬に苦しみましたわたくしはまさに其の点に於いて幸福であり且つ不幸でした。

わたくしの生は左様な難解さの中にむしろ初めから投げ込まれて居り故にかむしろ少々の難解さ位にはたじろがぬ人間なのですがむしろ大衆の方々の無神経さには大いにたじろがされても来た訳だった。

 

 

またひとつには今のわたくしには人間がまるで獣の如くに見えるのですが、コレってもしや何処か変なのでせうか?

いやお前こそがむしろ獣だらう?

 

だって獣はこんなに考えたりはしないし其れにこんなに沢山の本は読みません。

さうです、僕は獣になりたい、是非なりたい、其の獣に。

 

其の宗教的要求とはまた哲學的希求とは基本的に特殊な人人のものであらうことを最近は感じて居ます。

であるからこそ釈迦は其の特殊な人人の為にこそ法をお説きになられた。

 

特殊な人人はむしろ自ら「純粋経験」の中へと飛び込んで行く。

されど其れは誰にでも出来るものでは無く矢張りと言うべきか特殊な人人の為の道なのです。

 

 

其処で新たな問題として提起されることが、まさに宗教は大衆ー社會的現象ーをどう救うのかと云う部分でせう。

何故なら、

 

個⇔社會

であり、

藝術家、宗教家⇔大衆ー社會ー

 

だからなのです。

 

何故なら現代の問題とは須らく大衆の側の問題であり且つ社會の側の問題です。

其の「宗教的要求」が目覚めた個にとってはかうして常に目覚められ無い社會の側にどう其れを摺り寄せて行けるかと云う部分だけが残ることとなる。

 

 

この悪い意味での自我、言うなれば「偽物の自分」「偽我」を滅却しなければ、神と通じるような「真実の自己」に目覚めることはできません。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

其のニセの我のことをわたくしの場合は「非我」として居ます。

 

我我壱般人はむしろ其の「非我」にこそ比重を置きまさにより良い明日を目指す為に仕事や生活に精を出して居ます。

ですがであるからこそ迷いの境涯だと佛法はそんな価値観を否定致します。-より本来的な意味では-

 

此の辺りのことが分かって来ますと多くの人が「では壱體どうしたら良いのだ?」と考え込むこととなる。

ですが佛法を學んで来た人には其の道理もまた分かって居る訳です。

 

またキリスト教にせよ神と繋がらぬ形で只利己的に仕事や生活に精を出すことを認めては居ないことでせう。

さらに佛教の場合にはむしろ仕事や生活の「滅却」であり消去法なのです。

 

つまりは其処での頑張る方向性がそも百八十度違うと云うことだ。

其処からしてもさうして頑張らないのがむしろ良いとされる佛教からビジネスを學ぶことなどはまさにちゃんちゃらオカシイです。

 

弁証法という発想もヘーゲルの影響を受けたものです。ただヘーゲル弁証法は「歴史が弁証法的に展開する」というように「時間」のイメージが強いものでした。

しかし西田は「心を開拓して真実の自己に至る」という仏教的展開の中に弁証法のプロセスを見出したのです。

東洋思想と西洋哲学の良質な融合がここに見られるのではないでしょうか。ー西田幾多郎(3)西田の宗教哲学 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より

 

佛教が結果的にはマイナスの方を向くにせよ其れはまさに心を正して眞我を獲得する為に其れをするのです。

ですのであくまで佛法に対しては其れはプラスのプロセスとなります。

 

さて宗教的希求の度合いは人により大きくことなるものと思います。

どちらかと言えば現世御利益への洗脳度が酷い人の方が無宗教へと傾き易い筈です。

 

逆にわたくしの如きに現世利益を否定してかかる向きにとっては宗教への期待度が大きく増して来る訳です。

また文明をどの程度信じて居るかによっても其の宗教への期待度が変わって来ます。

 

まさにわたくしの如くにほぼ文明を信じて居ない場合には逆に宗教をこそ信じざるを得なくなる。

 

 

さて西田 幾多郎はかってかうして大きく宗教の意義を認めて居た訳です。

彼は多くの肉親を次々に失うと云うまさに悲壮な体験を通じて宗教の意義を實感せざるを得なかったことでせう。

 

其の神と通ずるにせよ、眞の佛に出會うにせよ壱種心を空しうして悩んでみなければ其れ等とは決して繋がれないものです。

 

逆に悩み苦しむ者、虐げられし者などに対し神佛は常にあたたかく迎え入れて下さるものです。

其の東洋思想と西洋哲學の融合と云うこと以上に西田はおそらく宗教体験のやうなものを是非哲學化したかったのではなかったでせうか。

 

其れに西田の「絶対矛盾的自己合壱」と云う概念自体が脱論理であり従って其れは近代哲学の枠内には収まり切らぬものでありまた其れは所謂合理性の観点からは理解し難いものなのです。

そんな訳で西田 幾多郎に於いて東洋的でしかも脱論理的な論理構築が初めて完成されたと評したとしてもまさに其れは過言では無い訳です。