目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー弐 罪深く且つ欲深い我我人間の實相とはー

哲學12

 

 

 

 

ーあらゆる罪や煩悩を背負っている有限な人間と、人間を超越した神や仏といった無限な存在は、互いに異質でありながら本質的に結び付いているという関係を、この概念で言い表しました。わかりにくいかもしれませんが、いかにしても救われない人間がいて、初めて神や仏が存在する、つまりその求めに応じるのが神や仏だという意味です。この関係を、西田は絶対矛盾的自己同一という言葉で言い表しました。後期には、西田は世界の論理的構造を問題にしましたが、それもこの絶対矛盾的自己同一という表現で言い表しました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

其の有限であり且つ異質なものが結び付かざるを得ないー罪深く煩悩まみれのー人間の實相をむしろ見ない者がほとんどであることこそが世界に於ける最大の矛盾であるつまりはまさに其れが問題です。

そもそんな救われ難い自らであるのに其れを自覚して居ないのが大多数の人間であると云うことです。

 

但し人間の中にはまた其れを自覚して居るー何とか自覚することが出来たー人人もまた居ます。

そんな人人に取り問題なのはむしろ其の自身としての自覚では無く周りの無自覚のことでせう。

 

なんですが、其の無自覚と己の自覚が相互に関連し合い別ものでは無いことこそがそんな感度の良い人人にとっての「悩み」です。

即ち自ら考えられる人人の悩みはむしろ自ら考えられぬ人人の悩みとはさうしてまた逆方向へと振れる訳だ。

 

 

さてもわたくしは壱貫して其の理性や悟性がある人人に対しものを述べて来たつもりです。

 

で、何故神や佛が居なければならぬのかと申せば其れ即ち人間が左様に罪深く煩悩まみれであると云う事實から導かれる当然の結論です。

さうださうして人間に対しての神や佛が其処におわすのだ。

 

尤も🐕や🐈や🐻や🐗や🐒にとっては自然の摂理こそが其の神であり佛なんです。

ですから彼等は其の自然の摂理からはみ出るやうな行いをついぞしたことなどは無い。

 

 

ですが罪深く煩悩まみれの人間共だけが常に自然の摂理からあえてはみ出て生きねばなりません。

まさにソコのところを感度の良い人人は思い悩む訳だ。

 

よりによりかうして何で僕は人間になってますか?

 

ですが、其れはあくまで藝術家級、宗教家級の悩みですのでおそらく多くの方方はそんなことまでまさか悩んでみたことなど無いのやもしれません。

また理系の科学者などであれ心ある研究者はまさに此のことにこそ心を痛められて居ることだらう。

 

但し其れも常に少数派であることでせう。

 

さうして本質的には違うものが逆に本質的に結び付くと云う脱論理的論理をおそらくは世界で唯壱述べたのがかの西田 幾多郎による哲學です。

ー同様な意味合いのことを違う表現で述べた例もまた数例ある。屡我が述べる「相剋し且つ相即する」関係性などもまた其れに含まれることだらう。ー

 

個人的に哲學とは其の人間の矛盾律つまりは自己矛盾の様を如何に超克して行くかと云う観念的闘争なのだと思う。

そんな観念的闘争ですので其れには向き不向きがありわたくしのやうに其れが大得意な人も居れば全く向いて居ない人もまた居られる訳です。

 

 

ですが別に観念的闘争が出来るからと言って偉い訳でもまた解脱に向いて居る訳でもありません。

例えば佛法ではさうした類の独覚のタイプの人はむしろ悟れないなどとも語られて居ます。

 

特に大乗佛法ではまずは「他己」を大事にしないとイケナイのでさうして自分で悟って其の城に籠るタイプの人はむしろ謗法者なのです。

だから昔はわたくしも元々自分はこんなに理窟っぽいから悟れないのだとさう思い込み自分はダメだダメだとさう自分を卑下ばかりして居りましたものでしたが其の後原始佛教を學んでみたところ案外お釈迦様は「自己を大事にし独りで歩め」などと説かれても居られますので逆に大乗佛教への不信感が増して行ったりもしたものでした。

 

ほんたうのほんたうは其の「他己」を大事にして行くのは他力での救済宗教としての特質です。

ですが日本の大乗佛教はまさに其の他力での救済宗教ですので本質的には其れはキリスト教的だと云うことでもある。

 

対して禅宗だけが釈迦による自力救済の方に近いものと思われますがより正確には其れもまだ結論付けられません。

 

さてそも何故西田哲學でもって宗教の話が出て来るのかと云うことですが大昔の宗教はほぼ哲學であり教祖、開祖はズバリ思想家のことでもありました。

其れもまだ所謂世界宗教が成立して居ない段階での話ですので其処では所謂宗教団体としての諸の掟などよりも其の教祖、開祖の思想性の方がより大事であった訳です。

 

即ち現在ー現代ーよりも思想と宗教の区別が曖昧でもあった訳です。

 

 

ー私たちの世界は、「時間」と「空間」から成り立っています。過去から現在を通り、未来へと流れていくのが時間です。他方、空間は現在において成立しますが、その中には過去的な要素も未来的な要素も詰まっています。その間に生じる矛盾が動因となって、現在が動いていきます。この時間と空間という対立するものが、対立したまま同時に一つに結び付いているという世界の構造についても、西田は絶対矛盾的自己同一という言葉で表現したのです。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

其の「時空」を認識して居るのはおそらく人間だけです。

尤も頭の良い🐒なども少しは感じ取れるのやもしれないが動物はまた植物はおそらくは意識的に時空を認識して居る訳では無いことだらう。

 

かってわたくしは其れを分離度の低い認識ー壱義的認識ーであると捉え、対する人間の認識は其の認識をさらに分離させた弐義的認識であるとさう結論付けて居ます。

ちなみにさうしたことを机上にて考えるのでは無く森歩きをしつつ考える訳です。

わたくしはさうした哲學的な山歩きを何より好む人間です。

 

で、そんな私の直観によれば時間も空間も結局は分離です。

其れも弐義的認識による分離だと云うことです。

 

 

時間⇔空間

尤も其の時間と空間其れ自體もまた弐元分離して居ます。

で、私の解釈によれば其れもまた相剋し且つ相即する関係性の上に成り立って居る。

 

其の相剋し且つ相即する関係性が俯瞰され得るのは確かに現在を置いてより他に無い。

其の意味では現在無くば過去と未来もまた無い訳だ。

 

動物達は壱見「今だけ」を生きて居るやうに見えるが厳密には其処にはさうして分離された時間など認識されて居りません。

あくまで其れは自然の摂理としての与えられた時空であり自らが認識し得たところでの概念的時間や概念的空間とはまた異なるものです。

 

 

対して人間の理性は時空を其処であえてさうして分離的に見て居る訳です。

其れが良いか悪いかと云う問題なのでは無く事實さう見る癖を有して居ると云うことだ。ー宗教的にはむしろ其れが罪深く煩悩まみれだと云うこととならざるを得ない、善であるかまたは悪であるかと云うこととはまた別として。ー

 

其の「絶対矛盾的自己同壱」なる概念はさうした意味での弐義的認識に対する實相として提起されたものであることでせう。

然し自然界にもまた其れが適用されぬとも限らない。

 

何故なら自然は概念として分離されては居ませんがあくまで現象としては分離されて居ます。

故に自然へと人間が戻れば即幸せになれるかと言えば決してさうでは無い。

 

第壱其の食うか食われるかの自然でもってもしみんなが食われて仕舞ったなら其れはまさに人権もクソも無い血まみれの恐怖映画でのことです。

故に人間とは其の侭では神佛とは合壱出来ずさらに動物界へも戻れないと云うまさにとんでも無く孤立した現象のことだらう。

 

まあ藝術家ならばそんなこと位は百も承知なのですが。

まあ宗教家ならばそんなこと位は百も承知なのですが。

 

 

ー社会や組織において必ず生じる「全体」と「個」との関係についても、西田は絶対矛盾的自己同一で説明しています。全体と個とはそれぞれ独立していますが、各々の個が十分な力を発揮するには全体や自分以外の個の存在が不可欠です。他方、各々の個が力を発揮するからこそ全体が成り立ちます。組織と組織メンバーと言い換えてもよいでしょう。これも絶対矛盾的自己同一といえます。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

社會⇔個

全体⇔部分

社會科的に申せば、社會が個を搾取し過ぎてもまた個が社會を否定し過ぎても文明の持続可能性が著しく低下して仕舞う。

 

全体と部分はさうして相剋し且つ相即する関係にあるが故に是非お互いに大事にして行かねばならない。

ですが近代社會は壱見其れをやって居さうで居てまるでやれては居ないです。

 

やれて居ないので破壊を生み出し例えば今年は北海道で海の幸が獲れなくなったりもする。

其の温暖化や環境破壊の問題とは實は即さうして個の生活へと響く問題です。

 

 

ですから、個として究極的には、

1.社會を遮断する

2.勉強する

かのどちらかの選択となります。

 

尤も悲観文人の我は2.はもうやり終えましたので還暦を過ぎてからかうして社會を捨て去ることと致しました。

但し厳密には私は世界の諸を愛して居り否定に傾いて居るのは現代社會の価値ヒエラルキーのみのことだ。

 

さう綺麗ごとのやうにお互いを大事にすると言ってもあくまで其れは理想論であり事實上現在五拾歳以下の世代は自民党政権により搾取され未来に希望が持てぬ状況ともなりつつある。

ですが、他の國などではもっともっと酷い状況です。

 

だが日本の場合はかうして美味い飯がまずは食えますよ。

またたとえ金が無くても大都市圏の教會などでは🍱が配られたりもして居ります。

ちなみにわたくしはアノ困った方方に配られる🍱をどうしても食ってみたい。

 

市内でもって探して是非其れを貰いに行きたいのです。

アンタそんなではもはやルンペン並だぞ。

いいや藝術家とは元々其の浮浪者のやうなものだよ。

 

 

ー西洋的合理主義は、「AはAである」という同一律、「Aは非Aであることはない」という矛盾律、「Aと非A以外はない」という排中律、これらの論理原則の上に成り立っており、AかBかという二分法ですべてを説明しようとします。しかし、現実の世界の中には、それでは説明し切れないことがたくさんあります。

 たとえば、卑近な例で言えば、ワークライフバランスの場合、どちらが重要かで割り切ることはできません。仕事が大切な時もあれば、私生活が大切な時もあります。その時その時の状況に応じて、私たちは判断していくわけです。西田は、形式的な論理よりも、このような現実の姿に注目しました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

わたくしが現代の合理化社會を飽きもせず批判して来た其の根拠となるものが其の「割り切れない」現實としての社會の成り立ちにこそある。

 

現實とはかうしたどうにもならないやうなものでよもや理想でも無ければおまけに希望でも無くさらに欲深く罪深いだけでのものだ。

故に其の實相をこそしかと見詰めるべき。

 

要するに具体的な生とは抽象化しては語れない實存的現象のことなのだ。

故に野垂れ死ぬことを回避する為の實存的努力が大金持ちが大金を維持する為に行う努力よりも賤しいと云うことは無いのである。

 

其れを逆に価値ヒエラルキー化するからこそ社會がバランス良く機能しなくなる。

さうして常に事實上其の形式的論理よりも個に突き付けられるものはまずは生きるか死ぬかである。

 

即ちあくまで具象的に此の闘争の場に生み落とされて仕舞って居るのだ。

であるが故に合理化よりも何よりも遥か以前に個としての生命を守らずして社會の意義など何処にも無い。

 

 

ー人間の意識の働きは身体の働きに影響されていますから、心と身体を分けて考える二分法のほうがおかしい。まさに心身一如なのです。ただし、一如といっても、西田は相矛盾する面を見落とすことはありませんでした。両者が完全に一体化しているわけではなく、身体は身体で、心は心で、それぞれに働いている局面がある、しかし両者は根本のところで結び付いている、と西田は考えました。ーわかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンラインより

 

即ち、

心身一如=心と體は相剋し且つ相即すると云うことなのだらう。=心⇔體

 

然し元より其れが無関係のものではあり得無い。

より正確には心と體は現象にこそ宿るもので其の現象以外のものに心と體は生じず。

 

尤も霊肉弐元の場合にも其れは同じで、其の霊肉弐元は現世に於けることに限られると見るのが個人的な理解である。

 

 

善の研究』の解説部より

 

善の研究』にて西田 幾多郎は「永遠の眞生命」を得る為の道筋を示すのが宗教の意義だと述べたさうだ。

 

其の「永遠の眞生命」を得る為の方法論は矢張りと言うべきか自力救済と他力救済とに分かれることだらう。

或はキリスト教徒の方で誤解されて居るかもしれぬのだが佛法もまた「永遠の眞生命」を得る為の方法論の壱つであることは確かである。

 

但し其れは来たる世ー次の世ーで再生されると云うことでは無く弐度と再生されぬやうに自らの力ー己が佛の力ーにて現象其れ自體を止めると云うことである。

其の佛の力にて再生することが無ければ逆に「永遠の眞生命」が其処に得られやう。

 

ところが其れはあくまでお釈迦様の佛法での話で大乗各派はまた其れとは異なる他力救済論を編み出して行った訳だ。

とは言えあくまで其れは悟りへのプロセスとしての話で最終的には大乗佛教もまた現象の消去を目指して行くこととなる。

 

 

神に生きる⇔佛に生きる

と云う其の壱神教と無神論である佛教との関係性にもまた相剋し且つ相即する関係が見出されやう。

 

つまるところ個人的には其れが無関係では無いと見て居る。

ところが、

 

神に生きる=神の國ー次の世ーで再生する⇔佛に生きる=どんな世界からも消え去る

 

でもまたある訳だ。

ですが、其の命の有る無しに関わらず結果的に其処で「永遠の価値」を得るのである。

 

で、其れこそ厳密な意味での「永遠の命」とはむしろ「命では無い」ことであらう。

 

何故なら其れこそ神の國でもなければ肉體は劣化しまた心は惑い易いものなのだから。

つまりは「永遠の価値」を生じせしめることで其の完璧度に於いてお釈迦様が説かれた人間の消去法以上のものは無い。

 

但し神の國での再生の方も論理的にはおかしくは無くむしろ正しいのだと言える。

故に實はどちらも正しいのである。

其れも「永遠の命」を得ることに関してはどちらも正解である。

 

 

但し大乗各派の論理構造は純粋な佛説では無いが故に多多矛盾が生じて来るのだとは思う。

 

例えば浄土眞宗の家の人は或は「念仏を唱え極楽浄土へ行き其処で阿弥陀佛に護られ永遠に生きる」などと思い込み易いのだが實は其れではまるでキリスト教での話である。

まあ他にも色々とあるが余り言うと皆様気分が悪くならうから此れ位にして置きますが兎に角さうして大乗各派は壱神教化しても居りお釈迦様の佛法とはそも宗教としての質が異なる。

 

そんな訳で其の西田の言う「永遠の眞生命」こそが宗教の意義であると論じられた部分は全くに正しくまさに其の通りでのことなのだ。

但し我の理解では其の方法其れ自體がそも分離されて居ると云うことなのだ。