目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『西田 幾多郎 無私の思想と日本人』を読んでー壱 我が學問の師としての佐伯 啓思先生のことー

哲學16

 

 

 

三浦知良54歳の現役続行に「みっともない」批判も、“二世”に教えるプロの生き様 (msn.com)

引退出来ないと云うことは其れ即ち精神の病気です。

つまりは精神が働いて居ないからいつまでもやれるいつまでも居座る積もりである訳で其れは典型的な馬鹿の體質ですね。

 

かうして運動ー肉體ー馬鹿は昔から結構多いものですが中には逆に観念馬鹿も居りわたくしは其の種の人間ではないかと時折思うのです。

ですが其の反省力が働く分単なる本能馬鹿とはあくまで違うと云うことだ。

 

国賊論 | 収, 適菜 |本 | 通販 | Amazon

平成を愚民の時代にした30人のバカ | 適菜 収 |本 | 通販 | Amazon

 

其の適菜氏ー早大卒ーの著作は相変らず政治家をバカ呼ばわりでのオンパレードにて壱種痛快です。

適菜氏は例えば石原 慎太郎氏などもバカにして居るやうですがわたくしは其の限りでは無くむしろ慎太郎氏は馬鹿では無いとさう判断して居ります。

 

ですが石原家のやうなクドイ👪関係は鬱陶しいと申しますかズバリ嫌いです。

尤もアベは自分もバカだとさう思って居ますので其の点では全く苦にはなりません。

 

さて此の師走にわたくしは壱冊の本と格闘して居りました。

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) | 佐伯啓思 |本 | 通販 | Amazon

 

其れ即ち前々から是非読みたかった佐伯 啓思先生の西田 幾多郎論と格闘して居りました。

其の佐伯  啓思 - Wikipedia先生ですが謂わばわたくしの精神の師です。

 

私の恩師ーすでに故人ーは中学参年生の時に担任だった社会科のI先生で京大を出られた先生でした。

I先生からは少し良い扱いを受けて居たわたくしは其処で同時に色んなことを学ばせて頂きました。

 

特に記憶に残るのが所謂ローマクラブが提示する文明の限界点のことを教えられたことです。

当時わたくしは人口問題と食糧問題に対しすでに危惧を抱いて居り其れをレポートとして纏めてみたところI先生から大きく評価された訳です。

 

とは言えわたくしの関心は其の種の社會問題には無く太宰であるとかまた中也であるとか要するに文學の方にしか興味は無かったのです。

然し人類規模での問題が其の現代社會のあり方にこそ存して居る部分、人類の将来を本質的に規定して居るのは文明のあり方にこそある部分をまさに其の時に教えて頂いたのだと思われます。

 

佐伯先生は東大を出られ京大の名誉教授となられた方です。

元々は経済學者でしたが経済學のあり方に嫌気がさし文明學、文明論へと転向されて行った方です。

 

個人的には其の言説は常に的確でおそらくは可成に知的レヴェルの高い方なのだと思われる。

著書なども多くありますがどれもがレヴェルが高いー完成度が高いー著作なので其処から多くを學ばせて頂くことが常に可能です。

 

さうして私の場合は何故か京大の方に縁があった訳です。

ですが私自身は憧れの早稲田大へも行けなかった人間なのですけれども。

 

 

佐伯先生は此の著作で意外とざっくばらんにお話をされて居り其処で東大と京大は全く違う學府であるとさう述べられて居る。

其れは確かにさうでせう。

東大と云うのはまさに優秀な科学者や政治家、官僚などを生み出す場なのですから近現代の文明日本を背負う側です。

 

ですので基本的に文明批判などをして居てはまるで埒が明かぬ訳です。

要するに頭の良い其の部分を常に文明を構築する側に振り向けて行かねばなりません。

 

ですが京大は其れとはまるで違う訳です。

第壱京都其れ自體が東京に都の座を奪われたと云う壱種屈折した文化都市です。

 

京大は左翼が多いと云うか兎に角批判精神の塊のやうなもので兎に角其の頭の良い其の部分を文明を批判することにこそ振り向けて居る訳だ。

でもってわたくしはこんな名古屋人ですがそんな経緯から何故か京大贔屓な訳です。

 

 

ですので、基本的に東大生は時の流れと共に其の批判精神を失って行かざるを得ぬのではなからうか。

だからむしろ早稲田大學の方が批判精神が旺盛なのではないでせうか。

 

わたくしは其の精神に骨のある學生が好きなのでして幾ら頭の出来が良くてもフニャフニャしてるやうな輩は大嫌いです。

わたくしは其の運動馬鹿共のやうに筋力、腕力の有る無しよりも其の批判精神のある方方には兎に角黙って何処までも付いて行きます。

 

 

壱説には京大出は所謂變人が多いのだそうででも私の見るところでは其れは「眞理に対して生壱本」だからこそさうなるのではないだらうか。

ちなみに社会科のI先生もまた少し變わった先生でした。

 

確か酒ばかりを飲んで居たと云う噂もあったのでしたがさう言えば朝から酔っ払いつつ授業をされて居たやうなことがあったかもしれません。

 

 

其の佐伯 啓思先生の西田 幾多郎論は壱種壮絶な著作です。

此処までやるかと言わんばかりに西田 幾多郎の人となりまた其の思想に就き徹底的に踏み込み論じられて居る。

 

其ればかりか後半部では現代日本に対する批判などもまた僅かですが織り込まれて居ます。

佐伯 啓思先生は此の本を2014年に出されて居り其の頃すでに六拾代半ばになられて居た筈ですが凄くパワフルな内容ー文明に対する批判が込められた内容ーの書だなと読み終えてからさう思わされました。

 

論壇チャンネル「ことのは」 (kotonoha-rondan.com)

尚こちらは今回初めて知りました。

 

アメリカ批判

自由主義民主主義を国家の理念に据えるアメリカこそが、思想史的に革新進歩主義であり、冷戦終結した今、最も左翼的で進歩的な国家はアメリカであるとして、アメリカおよび自民党保守右翼反米および反自民党を革新左翼とみなすという誤謬に陥っている戦後の日本社会を批判している[8]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

まさに私は此の部分にこそ大きく影響を受けて来て居る。

つまりは其の米國の國是こそがほぼ極左であると云うことです。

 

ですが分類上米國が左翼だと言う人などまず居ません。

ですが明らかに米國こそが左翼國家です。

 

では中國やかってのソヴィエト連邦などはどうなるのですか?

其れも勿論左翼革命政権です。

 

であれば、廿世紀とは米ソと云う革新國家同士の争いを長々とやって居たこととなる。

我が國の自民党が馬鹿なのは其の眞實を見通すだけの理性力が其処に無いからだ。

 

でもって、自民党は自ら🐕となり米國に対し尻尾を振り続けて来た。

其の可愛い🐶。

 

おお、可愛いな、さうか、ヨシヨシ、ではマクドナルド・ハンバーガーもケンタッキー・フライド・チキンも全部お前のところへと輸出してやらう。

 

うわあー、そんなこんなで1970年代に初めて其のマクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンを食ってみましたが嗚呼其れ等は涙が出る程に美味かった!

其れも何せ油分が多くてすぐに腹が膨れるのです。

 

当時日本の飯は味噌汁やら漬物やら煮物やらそんなものばかりで其れを食ってもなかなかパワーが出なかったのだった。

 

日本人はさうして米國のものは上等だとさう信じ込まされて居たのです。

 

まあ今でもマクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンが悪い訳ではありません。

マクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンが悪い訳では無いが其れ等を多く食えば食う程多分體には良く無いことでせう。

 

個人的にケンタッキー・フライド・チキンは独特に美味いので食いたいのですが結局は唐揚げの方が安く済むんですね。

でもって其の頃は日本のプロ野球選手なども大リーグではとても通用せぬ弐流、参流の人材だとさう思われて居たものでしたが今や日本の日本のプロ野球選手こそが世界の壱流品です。

 

また日本🚙なども米國🚙より良いものであることが80年代に証明されました。

さらに寿司、此ればかりを食い続けて居るだけでおそらくは至極健康に長生きが出来る筈です。

 

 

自民党がさうして尻尾を振り続けて来たのは世界壱革新的な左翼國家に対してのことであったと云うまさにとんでも無いオチを佐伯先生が暴かれて来た訳です。

で、本来ならばむしろ自民党こそが其の左翼的で進歩主義米國から距離を置き其れを批判的に捉えて居る必要が是非御座りました。

 

其れと逆のことをやっちまいましたので日本の労働環境は合理化により派遣化され数々の規制緩和にて商店街は壊滅するわ、またデカいスーパーばかりが進出ししかも皆同じやうなものしか売らないわと云うこととなり申した。

挙句に郵政民営化やら何やらと兎に角全てを競争の渦の中に巻き込み其れでもって郵便局のサーヴィスや思想が良くなったかと言いますとほとんど変わって居らずおまけにいまだに年賀状を百枚買って下さい、です。

 

全く馬鹿じゃないんでせうか。

郵政民営化する位なら此の際年賀状を先に廃止したらどうですか。

 

デカいスーパーばかりと言って其れは米國流のやり方でわたくしのやうに自転車による買い物者などは公設市場位のところの方が買い易いのだ。

戦後の日本社會は概ね矛盾にまみれて居り正直なところこんな侭で子孫を残したりすることはまるで出来ません。

 

 

ニーチェの思想に基づき、近代の価値観である基本的人権自由主義民主主義は必然的にニヒリズムに陥るとしている。先述のアメリカ批判もこの延長上にあり、日本がアメリカ化し、ニヒリズムに陥っていることを問題視している。かつてはニヒリズムに対抗する術として、師の西部邁同様、保守主義を標榜していた。しかし、近年では、冷戦体制崩壊後の社会構造の変化によって、「保守と革新」、「右翼と左翼」という対立軸が不明瞭になったこともあり、これらの対立軸が既に時代遅れになった感があるとして、保守や革新に安易に拘泥することにも懐疑的な姿勢を向けている[10]

現在では、社会思想史や経済思想および時事問題から日本思想史・日本哲学に軸足を移している。東洋や日本の「無」の思想の意義を探り、小林秀雄保田與重郎の思想、西田幾多郎の哲学、西谷啓治らによる「近代の超克」を手がかりにニヒリズムの克服を目指している[11]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

其のニーチェの近代批判は的を射た部分もまたある訳です。

其のニヒリズムはまさに近現代國家が陥るであらう避けられない価値喪失としての大問題です。

 

壱番問題なのは、佐伯先生が西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)の中でも指摘されて居りますが、もはや世の中は総じて「進歩しないとイケナイ」世の中となって仕舞って居ることです。

ですが、かうして大問題にぐるりを囲まれた侭で壱體全体何の為に進歩を続けねばならぬのでせうか?

 

むしろ今ほんたうに必要なのは退化でせう。

むしろ進歩を今すぐに止め🐒へと戻るべきではないですか。

 

僕は私は所詮はそんなお🐵さん並の者ですのでもはや多くを望まずもう引退します。

と何故さう言えないのだ、かの三浦 知良は?

 

其れは奴等には理性が備わって居ないからなのではないでせうか。

 

また其の「保守」と「革新」と云うイデオロギー種別其のものが時代遅れのものとなって仕舞って居る。

で、佐伯先生やまた適菜氏などの解釈などを読ませて頂きますと「眞の意味での保守と云う者は革新性其れ自体に反対する者である」と云う定義がまた出て参ります。

 

でもってわたくしなども其の意味では明らかに保守派でありなんとなれば此れ以上の進歩は基本的に文明に取って必要が無いとさう考えて来て居るからです。

ですが、其の部分もまた微妙な問題を孕んで居り何故なら気候変動をはじめとする地球温暖化問題に対処することが可能なのはさらに進んだ科学技術以外には無いであらう部分なのだ。

 

其の意味ではより「平等」を重視する日本共産党の考え方は地球の保全、日本の保全と云う意味では可成に保守的です。

ですので保守主義者である適菜氏が日本共産党へ投票することとおそらくは同じ理由にてわたくしもまた日本共産党を支持する訳だ。

 

尚、上に佐伯先生が近年日本の思想史、哲學史に軸足を移されて居る旨が書かれて居ますが西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)にせよ實は哲學的にも読める著作でした。

さて其の「近代の超克」に就き以前わたくしは細かく論じたことがあり、其れを大雑把に言えば日本と云う國は近代を超克するばかりか其の近代其れ自體さえやれて居なかったとさう結論したことがあった筈です。

 

 

其の「近代の超克」こそはむしろ日本の文學者に対し突き付けられて居た大命題でした。

かって島崎 藤村がさらに夏目 漱石があれ程に悩み苦しみ抜いた其の近代との格闘が結局は消化不良の形にて後世に先送りされ實は何処にも解決策が見出せぬ侭に我が國は其の近代化に突き進んで来たと云う壱種悲劇的な結論をです。

 

尚私は最近「現世利益」から捉える日本社會と云うことを頻りに考えるやうになりました。

何故かくも日本人、ひいては日本社會の価値観が「現世利益」的、つまりは即物的、刹那的なものと化して仕舞って居るのか?

 

其処からひとつ論を炙り出さねばならないと今思って居るところです。

或は其れは逆に日本、ひいては日本人の価値観が近代を理解し得ぬ侭に近代を突き進んで来たことに対する副作用のやうなものなのではないか。

 

 

学問に関して

本来「公共的な意志」で評価されるべき学問の場に、過度の成果主義能力主義、市場競争が持ち込まれ、「何の社会的な役割も果たさないように見える、しかし長い目でみれば重要な意味をもつ研究」が切り捨てられることを懸念している。特に文系の学問には市場を基準とした評価はそぐわないと主張している[12]

現代に生きる人間は情報の洪水の中にいて大量の知識や情報があるがゆえに、それらを相互に関連付けたり解釈することができなくなっているのではないかと危惧している。そのため、現在の社会科学には学者自身の視座がなく、全体的な展望が失われてしまったと指摘している。なお、佐伯自身は文献をくまなく渉猟するよりも、古典を通して「現代」の本質を理解することの方が重要だとしている[13]。ー佐伯  啓思 - Wikipediaより

 

其の學問の場が次第に合理化されて行くことへの懸念を佐伯先生は西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)の中でも述べて居られます。

また其の合理化と云うことはむしろ「現世利益」化すると云うことなのではなからうか。

 

ですが學問は基本的に「現世利益」化してはならないものなのではないか。

學問もまた文學をはじめとする藝術の分野もまさにさうなのですが其れは元来實利性とは無関係なものです。

學問もまた文學も「ー直接にはー役に立たないもの」だからこそ成り立つもののやうな気さえする。

 

また宗教などはまた其れの最たるものでせう。

ですが宗教はむしろ病気や死、愛するものの喪失と云った人生の極限状態に於いてこそむしろ我我に対し強く語りかけて来るものだ。

 

大事なさうした価値を合理化しては決してならないのではないか。

其れと佐伯先生は「古典」を通して現代の本質を掴めとさう仰られて居たのですね。

 

まあ其処なども全くわたくしのスタンスと同じです。

私は今現代文明が仕出かして居る事の誤りは「古典」により明らかになるものとして見て来て居ます。

 

此の世にはすでに此れ迄に何でもあった。

まだ何も無いのは未来ばかりである。

 

 

情報社會では情報の選択により大きく結果に差が生じて来たりもする。

と云うことはまさに情報の洪水から正解を導き出すことなどは至難の技だ。

 

其の点古典はひとつひとつ完結した情報ですので學び易くしかも何が間違って居るのかと云う事を指し示して呉れ易い。

さて西田 幾多郎の哲學其れ自體が其の古典としての哲學ですが現代に取り其れが古臭くは無くむしろ現代が陥った袋小路の部分に就き明確な解を与えて呉れさうな気さえもが致します。

 

 

かうして西田哲學三昧での師走を過ごして居りますと其処では案外幸せなものが感ぜられる。

そんな難解な本と格闘して壱體何処が幸せなのだ?

 

ですから君の幸せと僕の幸せとはまた違うのだよ。

誰にでもさうして幸せな瞬間と云うものがある。

 

だが僕の幸せに限り何やら難解なのだ。

さうだ、佐伯先生の講義の方を是非視たい。

 

 

佐伯啓思 - YouTube

うわおー、また壱杯出て来た。

では年末までに全部視やう。

 

すると年末もまた年始も御勉強の御予定ですか?

まあ概ねさうですがほんたうは足が悪いので医者へ行かねばならぬのやもしれません。

 

足が痛いのは酒飲むと良いかもしれないので弱い酒ーワインや日本酒ーを飲みつつ年末にはベートーヴェンなど聞きつつすでにおせちを食いクリスマスの時には鳥の丸焼きにかぶり付きつつ聖歌を聴くのです。

 

すると愈愈酒の解禁ですね?

まあ三が日まではね。

 

 

此のパソコンを打っ居る部屋ー自分の部屋ーは暖房が無いので兎に角クソ寒い。

其れでも酒を飲めば少しはあったかくもなりませう。

其れでは皆様、良い年末を。

 

もう出て来ないつもりなのか。

いやまだまだ出て参りますが多分年末に近づくにつれ酔っぱらいつつ書くかと思うので逆に見ものですよ。

そこではいったいなにをいいだすものやらわかりませんのですよお。

 

すでに酔っぱらってるな。

いえ、今はクスリー催眠剤ーの方で少し。

 

さて、また次回は真摯に西田哲學を學ぶ場を御用意致します。

皆様どうかどうかご期待下さい。