信仰3
社會がそもバカだと思う其の強い世間に対する怒り、所謂義憤の様は所謂瞋恚です。
其の瞋恚を佛法は普通嫌う。瞋恚の意味とは|仏教の教えをわかりやすく。"瞋恚の炎"等の意味も解説 | 神仏.ネット (shinto-bukkyo.net)
果たして其れは何故でせうか?
佛法は基本的に心を永遠のアタラクシアー又はアパテイアーへと至らしめる心の制御法のことです。
なので、激しい心の動き其れ自體が佛法上は✖なのです。
ですので、ほんたうは恋愛や合格や昇進でまさに天にも昇るやうな気持ちになることさえもが禁物です。-其れも僧侶レヴェルでは-
ですが、其れはかのお釈迦様にして初めて可能となることなのであり我我凡夫ーわたくしは所謂独覚の傾向が強くある者ですが其の力も不徹底ですので同じ凡夫ですーはむしろ激しく上下左右また前後に心がぶれるのです。
特にわたくしは「いつも怒って居る」などと母からは屡言われて居ます。
其処ででは「怒る」ことはほんたうに悪いことなのかどうかと云うことに就き検証してみたいと思います。
と言いますか哲學的に考えてみませう。
まず其の瞋りには批判が含まれて居ます。
ですが俗的な意味では批判はむしろ大事なのです。
何故なら批判無くば其処に安住しやうとするのが世の常です。
また其のことは組織にせよ個にせよ変わらぬことだ。
ところが此の世界は諸行非常の世の中です。
即ち眞理は其の安住することなどを認めては呉れません。
だから常に移り変わって行かねばなりません。
さうして自然などは進化することでまさにさうして居ます。
対して人間は文明をやり続けることで進歩をしまさにさうして居ます。
では人間ー文明ーは正しい?
いやまるで正しくは無い。
何故なら其の進歩が間違って居るからだな。
ですが兎に角さうして皆移り変わって行くことだけは確かです。
其の時に人間界は概念的進歩をする訳ですので其れは自然的進化に比べ常に其処に間違いが含まれて居る可能性が高い訳だ。
だから其の間違いは是非指摘する即ち其れを批判しませんと誰にも分かりません。
ですから適菜氏などの骨のある作家さんの場合其の早稲田精神でもってアベだのアソーだのコイケだのと云う動物や妖怪共を退治する為に馬鹿呼ばわりするのです。
なる程、すると批判は必ずしも要らぬ訳では無いのだと?
いやむしろ世俗に於いては必須の民主主義の原理です。
むしろ其れこそが弐大政党制を存立させ得るものです。
成る程、すると自民党壱党支配の我が國は民主國家では無いのですね?
良くぞ其処まで気付きましたね。
ほんたうの意味での社會科の御勉強とはさうした世のカラクリを見抜くことの為のことでなくてはならない。
だから君の其の眼力こそが合格だ!
ありがたう御座ります、すると社會科の期末試験は百点ですか?
どうもお目出度う御座ります、ズバリ其の百点だ!
つまり世俗界では批判精神はむしろ必要なことです。
特に學問の分野や藝術の分野ではむしろ其れこそが優れた個性を生む源泉となります。
対して佛界ではあくまで永遠のアタラクシアを得ることを目的とする手前余分な心の動きをむしろカットして行かねばならない。
でも其れでは情動を否定することとなり人間的なものとはなり得ませんね?
まさに其の通りで、佛とはつまりは人間では無くなることなんです。
神でも無いのですが同時に人間でも無いのですよ。
そもそんな変な思想を何故人間界に持ち込まねばならぬのでせうか?
だってキリスト教なんてもっと変ですよ。
第壱神の國とは壱體何処のことですか?
神など何処にも居ないじゃないか。
またかのマザーテレサも「神を信じられません」とさう告悔して居たとされて居るではないか。
いやだから其れは、神も佛もまた同じことであり實は何処にも居られません。
エエッ?そんなこと言って良いのか、そんなウソ丸出しのことを。
いや神も佛も所詮は人間の心が生むもので其の心の作用のことだ。
ですが貴方方は自治體や國や文明を信じて生きて居ますね。
尤も其れは本質的には無いものです。
あくまで其れ等は抽象的概念ですのでね。
でも其れを信じて居るから有る訳です。
其れと同じ理屈で抽象的な大概念である神佛はしかと在る訳だ。
其の抽象的な大概念である神佛に対し怒るのは割が合わぬと云うことですか?
いやソコにもまた怒る者が居ます。
例えば👿がさうです。
また不動明王や阿修羅がさうです。
ですがヒンズー教の影響からの其の不動明王や阿修羅は佛教に取り込まれてやがて佛法の守護神へと性格を変えて行く訳だ。
其れに👿もまた元は堕天使です。
其のやうに善と悪が、また構築者と破壊者が対になり相剋し且つ相即するのが所謂他力救済での世界観を形作る。
善⇔悪
聖⇔俗
感謝⇔瞋り
さうか、瞋りの反対とは感謝なんだ。
かやうに救済宗教に於いては其の弐元対立をむしろエネルギーに変えて歩むやうなところがまたある。
逆に言えば救済宗教に於いては弐元対立こそが逆に必須なのです。
なのではあれ、キリスト教にせよまた大乗各派にせよ最終的には善へのまた聖への壱元化を図る訳だ。
しかしながら其れは現世では叶わぬこととなる為あえてあの世でもってさうして行くより他は無い訳だ。
ではお釈迦様は壱體何処へ行かれたので?
壱體全体今何処におわすのですか?
いやですから其れは相対分別を超越され謂わば絶対の佛となられて居る訳です。
絶対の佛?
もしや其れは全能の神の如きものなのですか?
いやむしろ佛とは非佛です。
また神では無い佛です。
仰って居ることの意味が良く分かりません。
…分からない方が多分より幸せです。
でもって結局瞋恚を避けるつまりは怒りを全て押し殺しまるで馬鹿みたいに「アア有難や、有難や」とヘラヘラと笑いつつ生きて居れば良いのですか?
いや其の馬鹿こそは罪ですよ。
其れも近代的世界にとっての罪です。
じゃあ壱體どうすれば良いのですか?
感謝⇔瞋り
ですから感謝しつつ瞋れば良いのだと個人的には思います。
左様に同時に両方をやれば良いのだと思う。
でも其れでは矛盾に引き裂かれて仕舞うではないですか!
だから最初から我我は引き裂かれて居るでせう。
だからやれることをやれば其れで良いのだ。
其れはたとえ世の中が間違って居ても唯々諾々として其れに従うと云うことなのですか?
いやさうじゃ無い。
其れに対しては此の馬鹿野郎!とプリプリ怒って居れば良いのです。
ですが感謝すべきところは感謝し其れも慈悲の心でもって其の馬鹿野郎!とは反対の気持ちをあらゆるところで示すのです。
では「馬鹿野郎!」と「慈悲の気持ち」を同時に示してもまた良いのですね?
…良いのです。
逆に申せば「馬鹿野郎!」と「慈悲の気持ち」のどちらかに心を固定化するとなれば逆に謗法となる虞が御座ります。
またより正確には善にもまた悪にも与しないやうでなければなりません。
世間の価値観を捨て解脱を本気で目指す場合に限りさうなります。
ですが我我は最初から解脱出来ない只の迷いの現象です。
なのでむしろ同時に両方をやることを是非考えて行くべきでせう。
佛⇔不動明王や阿修羅
神⇔👿
と云うやうに他力救済概念に於いては其の神佛さえもがまた矛盾して居ります。
ですのでそも其処で潔癖に「かうでなきゃダメ」だとか「~教(~宗)だけが眞理」だとかさう思うところでの頭の中身自體に問題があります。
なので他力救済概念はそも矛盾的概念でありしかしながら其れだからこそ壱種感情の方ー情動の方ーにも訴える力がある宗教だと見て置くべきなのだらう。
すると逆に捉えると自力救済としての釈迦による解脱法とはもしや人非人的なものなのですか?
お釈迦様は最終的には人間を卒業なされて仕舞いました。
ですが人間でもって人間を卒業出来たのは其の印度のお釈迦様と救世主である中東のイエス様だけです。
ですので、其の人間を卒業した場合には後はもう神となるか其れとも佛となるかと云う弐種の選択肢しか残されて居りません。
しかも其れは神と佛のどちらがより偉いかと云う問題なのでは決して無くどちらがより庶民にとり優しくして頂けるかと云う問題です。
其処でズバリ申せば救済宗教の方が我我にとってはより分かり易くつまりは優しくも感じられます。
ですが其処であえて「優しさなんて愛じゃない」とかの谷川 俊太郎先生の如くに感じてより厳しく自分をイジメてやらうと思う人に限りズバリ禅か又は原始佛教を是非御勧め致します。
さうしたマゾ体質が無く何かと弱めな方は浄土教、キリスト教、さらに邪教では無い新興宗教などを是非御勧め致しませう。
また其ればかりかヒンズー教、ジャイナ教、さらにマニ教、ゾロアスター教と事實上様々に選択肢はありさらに哲學に於いてもまさに様々な選択肢が其処には御座る。
我はたまたま大學ですと京大と早稲田大學、さらに宗教ですと原始佛法と初期キリスト教、また哲學に於いてはショーペンハウアーやカントと相性が良かっただけのことなのでして要するに其れが個としての我が理性的選択だった訳です。
では最後に「今」に就いての解釈をひとつ述べさせて頂きたい。
「今だけ金だけ自分だけ」
此れはかの女傑のジャーナリストである堤 美果氏の米國流の金融資本主義に対する批判の言葉ですがまさに言い得て妙であると思わざるを得ません。
ですので其の「今だけ」と云う概念に就き気になるので其処に就き書きます。
ところで西田 幾多郎は「永遠の今」を語って居るのだと佐伯先生は其の著書の中で述べられて居る。
其の「永遠の今」の意味は分かりました。
さうして過去と未来を引き込んだー引き連れたー今が時間の限りに続いて行くと云うことです。
其の面では明らかに人間にとっては「今」しか無い訳です。
ですが其処で、「今だけ」=「刹那の今」と其の「永遠の今」とは異なります。
つまるところ矢張りと言うべきか「今」には弐種があります。
わたくしは其の「刹那の今」を追い求めてはならないとさう感じて居ます。
どちらかと申しますと運動馬鹿系のつまりはプロスポーツの世界などは「刹那の今」を追い求めて居るのではないかと思う。
最近のわたくしはかうして運動による成果に対して次第に懐疑的となりつつある。
ですが、其の西田 幾多郎の言う「永遠の今」は過去をもまた未来をも内包する意識の働きとしての今のことでせう。
今=過去⇔未来
今の連続=過去⇔未来の連続
とのことですので、其処には「今だけ」はむしろ無いのです。
よってつまりはあえて其の無い「今」に拘泥し過去をもまた未来をも見詰めない金融資本主義に於ける倒錯度こそが其の「今だけ」を成立させて居たのです。
従って逆に「今だけ」を欲しては金輪際ならない。
「今しか無い」=さうして常に焦り、あくせくと刹那の今のみに拘ること
いつでも「今」=さうしていつでも今なのだからさうさう焦らず泰然として構えて居れば其れで宜しい
とのまるで老子か荘子の如きやる気の無い結論に至りましたのですがまさに其れが正解でせう?
「やるっきゃない、今でせう?」
と云う其のキャッチフレーズに洗脳などされては金輪際イケません。
さう言えばかって大日本帝國の軍部もまた其れを信奉し絶望的な戦争へと走ったものでしたが其のお蔭で我我日本人は大きく被害を被りましたものです。
またたった今でさえ其の被害を被って居るのです。
故に其の「今だけ」=「刹那の今」こそが最大の毒です。
此の現代文明はあえて其の毒の領域を歩む馬鹿文明です。
と大批判で締めましたのは無論のこと佛では無く阿修羅ちゃんとしての我でした。
「やるっきゃない、今でせう?」
其れは温暖化対策のスローガンにでも是非使って下され。
御勉強は特に「今」はやらない方が良いです。
と申しますのも御勉強は必ずやる時が来るものなのです。
で、やる時に死ぬ気でやれば必ずや其れは身につくものとなりませう。
第壱今僕はまさに死ぬ気でもって西田哲學を學んで居りますのです。
しかもこんな爺になってから其れをして居りますのです。
はあー、何やらとても疲れたな。
ですが昔よりも頭が良くなって居る分理解が早いと申しますか何やら全てがよーく分かるのです。
ちなみに御勉強の友としてチョコレートを是非食って下さい。
コレは非常に頭の回転には効きます。
かの漱石や芥川が甘党だったのはまさにそんな理由によるものです。