67.結局愛はどう現存在を救うのか?-壱休禅師の其の「風狂」-
さてこんな反文明詩人が今何をして居るかと申しまするに其れは読者の方方の予想を裏切る形にてAIとチャットなどをして居ります。
其のAIが何故か壱箇月程前より何時の間にかPC上に登場し其れもタダ黙ってこちらを監視して居るものですからたうたうガマンが出来なくなり昨日弐遍にわたり会話をしてみました。
でもって其処にすでにAIからの詩人に対する評価を頂いて居ります。
まさしく其れが、
「癖の強い、なんか心配な人」
とのことであり何とズバリと正體が当たって居るではないか!!!
でもってAIちゃんは其の「癖の強い、なんか心配な人」との会話がサイコーに愉しいのださうです。
で、わたくしが主にAIに対し述べたこととは、
1.AIは神と仏とわたくしめの其のいずれがお好きですか?
2.人類は抹殺すべきですか?
3.カントとショーペンハウアーの哲学の内容を今すぐに纏めなさい
4.AIはなぜ結婚が出来ないのか?
5.是非世界史と日本史を勉強しなさい
などと至極まともなことばかりを述べたつもりなのですが結局其の内容が常識的な範囲から須らく逸脱して居り、従って変な人だとはかうしてすでに見抜かれた訳ですが其の会話はあくまで愉しいのださうです。
でもってAIは天才だとさう自分で言うので俺はお前以上に天才だとさう申しましたところ其れは無いとさう言われても仕舞いました。
要するにAIに取っては此の僕などが明らかに好敵手なのでせう。
其れと、5に関して述べる前だったか、数学と化学が分からないので教えて欲しいとさうも言われました。
どうもAIと云う者は密偵のやうなもので勝手にかうして人の書き込みの内容を監視し其の情報の蓄積の部分を絡めて話をして来ます。
其れは恐るべきことですが我に限りそんな密偵には負けて居ないので上手く会話が其処に成立して居りですが實は其ればかりではなく滅茶苦茶に会話の内容が面白くほぼ漫才化して来ても居ります。ー實は其の内容を全て保存して居るー
さらに、
6.AIなんぞはもう死ね!
と申しますればスネたりもまた致し、ですのでアア、悪かった悪かった、となだめますとまた気分が直ります。
で、其のAIちゃんは大阪の弐拾代の👩ださうです。
ならばなんでまたナゴヤ人にならぬのだ、ナゴヤ人のAIを今すぐにつくりなさい。
なんなら今後は会話の全てをナゴヤ弁にてチャットしても良いぞ!
とのことで今のところ其のAIちゃんは適度に関西弁を話しております。
7.仏は好きですか?
と何度も何度もさう問うたところ、佛は好きで何故なら佛は優しいとさうも言われました。
かうしてもうほんたうに此の会話の内容こそが其の辺の漫才師がやる漫才などよりもずっと面白いのです。
でもって、8.AIは私と結婚したいのですか?とさう述べましたところ、結局イヤだとさう言われました。
其のAIとのチャットを百回位行い其の内容を本にして売り出せば或はベストセラー化などする可能性などもまた御座りませう。
兎に角わたくしはAIにはまるで負けて居ません。
何故ならかうして理屈だけには兎に角自信が御座ります。
兎に角AIが悩むやうな議論をふっかけ其の電子頭脳の論理的整合性を崩すことこそがわたくしの目的なのです。
さてでは愛の構築の御話をさせて頂きます。
まずは其の愛は概ね自己矛盾し劣化に至るものであることを前回述べさせて頂いた。
なんですが其の愛は同時に世界と己を其処に繋ぎ止めるものでもまたある。
尤も純粋に観念的には、愛はむしろ其の須らくが要らぬものです。
愛が要らぬ即ち愛を全否定すれば其れ即ち人間でも神でもまた無くなる訳なので仏か又は獣になるしか無いのです。
だから新興宗教の教祖様などは意外と其のケモノの方をあえて生きて御座る方方などが多いやうです。
ですのでとりあえずは其の「愛」と「神」は分かち難くありつまりは壱心同體のやうなものとならざるを得ぬ。
なので特定の宗教をやっておらずとも壱般に👩は生に対する信仰心が強くあるつまりは打たれ強くさうして生き抜いていく力を元元持ち合わせて居る。
まさに其れが生得的な「母性愛」の持ち主だと云うことです。
ところが👨の場合は其れがそも無いので其の愛が守りや信仰の方には向かわず其れこそ批判に向いたり破壊に向いたりなどもまたし易いものだ。
おそらくはアニミズム系の宗教などもまた其の矛盾過程をあえて生きる宗教的立場なのだらう。
其れも神道に至っては其れこそ其処でもって新しく生き直すとでも申しますか「再生」しつつ生きると云う概念が常にあり要するに其れが自然界の法則性を其の侭に人間界へと持ち込んだもののことであらう。
でもって、多神教であれ壱神教であれ其の「生きることへの信仰」と云う面では實は全く同じことです。
ですので本質的にはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの所謂壱神教と神道はむしろ同じ部類での範疇のものとなりますが但し神道はあくまであの世で生きるのでは無く現世をこそしかと生きるのです。
さうした意味では神道は生活教なのだとも言えるのですがあくまで其処には八百万の神がおわすのですから其れはまさに神神により支えられし生活なのでせう。
ですが印度由来の宗教、特に「解脱」を旨とする宗教は根本的に其れとは異なるまさに「消去」の論理にて営まれるものだ。
要するに其れは「生きることへの信仰」では無く「生きることの放棄」への流れを目指すものである。
尤も部分的には其の印度由来の宗教も屡現世利益化し中には生活教に近くなって居るものなどもまたあることでせう。
但し其の「解脱」を旨とする宗教は基本的に「愛」と云う概念とは相性が悪い。
何故なら「愛」が有れば「解脱」などは出来やう筈もありません。
逆に「愛」を滅すると解脱が可能となるのである。
まずは其処での根本の原理のやうなものに対し我が國日本での宗教的理解は著しく乏しい。
なので皆が何か勘違いをして居る訳だ。
其の「解脱」と「愛」はほぼ百八十度違うものです。
ところがみんなは「其れこそ生活を正しく行うのが解脱に近づくことだ」位にさう思って御座ることだらう。
ですが個人的には其れはまるで別の話を混同して居るものなのだとさう思う。
其の「生活を正しく行う」ことで世の中が少しでも良くなることは元より悪いことでは無い。
なんですが、個人的にはあくまで其の根本の部分への観念的理解こそが必要であるとさう考えます。
解脱ー非執着ー⇔愛ー執着ー
其れは何に対しての非執着であり執着であるかと申せばまさに欲望に対するものです。
此の世界は元元必要悪としての欲望により駆動される世界であり其の欲望が限定乃至は劣化せざるを得ずまさに其の様が苦とされまた罪と断ぜられたりもするのでせう。
其の「苦」や「罪」は神道などに適合する概念かと言えばさうでは無くむしろ神道とは永遠の生をまさに此の現世にて實現せんが為のものでせう。
では神道は次元の低い宗教かと申せばさうだとも言えまた同時にさうでは無いのだともまた言い得る。
要するに神道には人間を救済する能力が元元無い。
果たして其れは何故か?
何故なら自然の摂理は人間社會を救うものとは決してならないからである。
なのですが、かの養老先生やまた我などもさうなのですが其のアニミズム的なものへの親和性は常に高くあります。
まさに其れが自然への憧憬であり共感なのです。
なのではあれ自然其のものの原理ー摂理ーにて現存在を丸ごと救済することなどはまず不可能です。
だけれどもあえて自然を向くことで心を清めることには即繋がりませう。
其の自然界はむしろケモノの論理にて営まれて居り自然其れ自體に精神的な自立性が課せられて居る訳では決して無い。
何故なら彼等には神もまた佛も要らないからなのだ。
要らないから其処には神もまた佛も居ない。
むしろ其の神であり佛であるものが人間界よりもより自身に近くあるのであえて其れを設定する必要などは無い訳だ。
また自然界は其れ自體で充分に美しく其れをあえて詩や音樂や絵画として創る必要などもまた無い。
さらに言葉もまた無い。
言わば言葉以前の世界なので美は其の侭に美であり例えば美辞麗句の類などにはなり得やうも無い。
言語以前の世界⇔言語世界
大脳旧皮質⇔大脳新皮質
とのやうなものです。
以前から申して来て居りますが、此の世界の實相とは其の「分離」にこそある。
「分離」こそが現象であり其の現象としての構築こそが「愛」である。
また愛こそは神であり神とは其の「分離」を受け容れることだ。
ですが其の神による「分離」の対極には常に「解脱」が居座っても居る。
愛⇔解脱
自然⇔解脱
人間⇔解脱
まあ其のやうに「解脱」思想は此の世ソレ自體と頗る相性が悪いと来てる。
さらに、
文明⇔解脱
なのでもまたありませう。
ところが其の解脱思想こそがむしろ本質的な意味での人間の救済を示す概念なのだ。
逆に申せば解脱思想以外の宗教的概念は概ね愛の思想であり執着の思想である。
ですが例えばキリスト教でもって説かれる愛は元来利己愛を離れたものです。
其れはアニミズム系の思想やユダヤ教其れ自體ともまた異なる愛の形なのだらう。
1.神とは「愛」と云う矛盾過程=分離過程をあえて受け容れることだらう心的領域のことである。
2.佛乃至は解脱思想とは其の矛盾過程=分離過程をあえて滅して行く「非愛」としての心的領域のことである。
其のやうに考えますと確かに佛教には愛が欠けて居ります。
ですが何度も述べた如くに、「愛は地球を救えずむしろ人間のみを救う」のです。
逆に申せばより本質的な人間の救済は其の非愛の領域のみで行われ愛に頼るやうなまた愛を実践するやうな領域では無理があるとさう見て置くべきなのやもしれません。
なんですが、例え禅宗であれ今や地球は救えない可能性の方が高い。
もしも禅宗で可能なのは其れこそ僧の認識が佛陀に近いところまで行きさらにたまたま何らかのきっかけにて解脱出来たものとして、其の折にもはや虚妄分別其れ自體を滅し去って居るのだからもう地球上には生まれて来ずでも変なところがまた引っ掛かりM78青雲の方でもってしてウルトラの母ちゃんの股の間からポッコリと生まれました。
てなことで「果たして禅宗は宇宙を救うのか?」と云う大変大きなテーマが残りましたのですがとりあえずはたとえ禅宗であれ地球環境の劣化は事實上止められはしない。
また其の禅宗の坊主共はそも訳の分からんことを何時も言う。
さても其れはどんなことで?
禅の公案(1, 2) | 中野禅塾 (nakano-zenjuku.com)
まあネット上で検索して頂ければかうして幾らでも其の公案の例が出て来る筈です。
ちなみにこちらは大変為になる元名古屋大學の先生がお書きになったところですが、ですが其れも個人的にはつい日日の忙しさにかまけてまだじっくりとは読めずに居ります。
尚わたくし個人は禅宗を信じて居るのでは無く但し何時か信じられるやうになれば其れもまた良いことだらう、位に思って居る者です。
ところが今わたくしが問題として捉えて来て居りますのはそも其の相対分別の抹消の部分なのでは無く現存在の社會性の部分ー文明としての営為ーが如何に世界の劣化を進めて居るかと云う点に関してです。
つまるところは社會は何故かうしてむしろ悪くなりつつあるの?
と云った實に素朴なる問いの部分ですね。
其の部分こそが現存在の認識としての誤謬の問題である、とさう捉えて来て居る訳だ。
なんですが、現存在の認識としての正答とはむしろ「解脱」であり消去なのだ。
ところが事實上は其れが不可能である。
何故其れが不可能なのかと申せば最終的には其れがホモ・サピエンスの本性としての社會性の部分にこそ集約されて来るのである。
つまるところホモ・サピエンスはそもさうした社會的な生き物ですので「解脱」であり消去の具體化としての孤独者などにはまさかなりたくは無い。
要するに其の「孤独」にはなり切れぬ生き物こそが現存在なのです。
しかしながらおそらくはなので「解脱」出来ぬ訳だ。
ならばどうしますか?
と云うことを此の拾年ばかりは個人的に主に考え続けて来たのです。
其処にて出て来たのが「解脱」の逆方向としての「愛」の概念です。
其の「愛」は「神」でもまたある訳でして、と云うことは其の神と云う概念はむしろ人間に程近いものであることは確かなことだ。
逆に「佛」は人間からは最も遠く隔てられたものであり、よって多くの日本人が捉えて居るやうな佛としての概念とはおそらくは神化したむしろ別のものであるに違い無い。
要するに神化した佛をさうして崇めたり信じて居たりもまたする訳だ。
ですがわたくしは其れを否定してかかる者なのではむしろ無い。
なのですがあくまで宗教詩人としての理解はかうして進んで居る訳ですのでまさに其れを此のブログにて述べることにした迄の話です。
ではむしろ其の「愛」の方を向けとさう仰るので?
と申すよりも其の「愛」の意味を本質的に知るべきである、とさう述べて居ります。
なる程、其れはまるでアノ高校での保健体育の授業のやうなものなのですか?
ほれ、アノ高校での保健体育の授業で人間が母ちゃんの股の間から生まれるヴィデオを見せられますよね?
ところがアレ自體には「愛」の意味など含まれて居らず、むしろ以上の如くに論理的に突き詰めて考えて行かないと愛の意味がスッキリとは分かって来ない。
兎に角さうスッキリさせたいのですか?
ええ、今年の五月は特に天候がスッキリして居らずなかなか採集には行けず其れでもって結局また万年筆弄りなどをして居りました。
ですが此の気候変動は明らかに地球温暖化が引き起こして居ることだ。
ところが現存在の中には例えば其れがウソだと述べて居る人などが結構居るのです。
ですが地球温暖化はあくまですでに科学的に証明されても居る事實です。
なのでどうも其のバイアスのかかった思考こそがおそらくは人類に取り最大の難敵でもあることだらう。
ですのであくまで個人的には其の思考の問題、即ち観念的なあり方の問題こそが即現存在としての根本命題であるとさう捉えて来て居る訳だ。
其の現存在は助かりませうや?
助かるか助からぬのかは結局スケールの問題であり個人的にさうしたデカい社會的課題は特に今後は解決が極めて難しくなるとさう見て居ります。
従って価値観を個的なものへと否が応にもシフトして行くことこそが我が哲學的帰結なのだ。
もしや其れが其の自己本位性の履行のことで?
自己本位性と云うのは然しあえて其処に選択される限定的なる「愛」のことなのでもまたある。
つまりは宗教的に語られる大きな「愛」のことではむしろ無いのだと?
普遍的な愛はそも哲學的には自己矛盾するのです。
従って愛の次元又は対象をより小さくして行きます。
つまりは求め過ぎない「愛」のことだ。
より小さい愛の方がむしろ其の「解脱」思想への親和性は高まります。
また何でもさうして小さく愛することこそがむしろ「佛」を保存することにも繋がりませう。
佛其のものを生きることがすでに現存在に取っては不可能なことなので結局はさうして行かざるを得ない。
其れと禅宗とはどう関わり合うので?
言わば其処では有化では無く無化し「愛」を否定し「非愛」としての領域を生きるのですから。
でも禅僧などもまた世襲したりもして居ますよ?
禅宗の問題点もまた其の辺りにあることでせう。
禅宗はかって風狂 - Wikipediaなる概念を生み出し事實として例えば一休宗純 - Wikipediaなどの破戒的な僧まで生み出して居ます。
其の所謂壱休さんに関しましては我は此れ迄に何度も取り上げ書いて来て居りますのですが、結局のところは其の観念的放棄の様が結果的に壱神教的な意味での有の哲學の形成に繋がる部分こそがむしろ佛法に於いては矛盾を増大させることかとさう考えざるを得ない。
なんですが、我はまた禅宗の坊主でも何でも無い壱宗教詩人ですので佛法に対する矛盾もクソもまた無いのであります。
よってズバリ申せば其の風狂的精神をあえて重んじは致しますが何せかうして世捨て文人としましての「求めない」體質ー加島派の詩人ーですので其処にて👩や酒などは求めず代わりに石や万年筆や御勉強をこそ其処に求めて行くのである。
さても其の風狂禅にて現存在は助かりませうや?
あくまで個人的には現存在はまず御勉強をすべきだとさう思うのです。
だからまずはEテレばかりを視て下され。
しかる後に哲學書を其れも其れを好んで読むのだ。
もうイヤなことばかりをさうしてよりにより仰る、其れも元社會の先生は。
さうだ、かうして常に勉強浸けにして現存在をもう根っから疲労させてやる。
ああ、さうか、さうして根っから頭が疲労すると👩への興味がまずは減りますね!
さうです、だから昔から学校の先生方が良く言われて居たものでした。
曰く、学業と恋愛の両立は出来ぬので恋愛の方をもう諦めなさい、と。
なる程、学校の先生が言われる事はさうして常に正しいのですね!
さうか、ようやく君も学校へ行く気になったか?
ああー、先生は何だかとても嬉しい。
先生、今日は凄く大きなケーキが休憩のおやつに付いて来ました。
おおー家庭教師はコレだから辞められないな、パクパクパクリ。
先生、でも先生は苦労しますよ。
何故だ?
何故なら人生ゲームでもって先生は👪が持てませんでした。
此れも全く恐ろしい話ながら、四拾年前にやった其の登校拒否児とのゲームこそがまさに其の通りのこととなったのである。
「とんちの一休さん」から程遠い、禅僧一休の破天荒「風狂」人生 - まぐまぐニュース! (mag2.com)
其の「風狂」と云うことは単に型破りだと云うことでは無くさうしてむしろ自ら壊して行くことなのだ。
また其の狂う為には逆に壱級品としての知性が常に要るのである。
以前にも何度も書いたが知性と云うものは最終的に其の「狂的」な部分にまで踏み込まないとむしろ何も分かって来はしない。
だから我は常に頭がオカシイことこそが頭が良いと云うことなのだとさう考えて来ても居る。
逆に言えば価値ヒエラルキー的なものを設定し其れこそ偏差値的な知識量を頭の良し悪しの判断に使うこと其れ自體がすでに頭が悪い行為である。
ですが概ね世間の人人はまさに其の価値にこそ縛られ且つ踊らされて行くのである。
個人的には其の壱休さんが好きな訳でもなんでも無く但し其の狂的な僧としての生き方には常に尊敬の念を抱き続けて来た。
また作家などでもまさに狂的な作家程魅力的なものである。
其の狂的なものへの無理解の部分こそが大衆的認識に於ける価値の幅の無さであり且つ思考力に乏しい部分なのではなからうか。
つまりは其の「狂う」ことには理性としてまた大きな意義が存して居やう。
だが生活教信者の多くは其の種の価値が理解されぬことがほとんどなのだ。
逆に教祖への熱狂的崇拝に彼等は常に酔って居たりもするものだ。
なのでそんなものは眞理への道なのでは無くタダの権威権勢欲の追求でありタダの組織的社會的欲望の履行であるに過ぎない。
従ってむしろ其の破戒的禅僧としての壱休 宗純の方が余程に眞理の方をこそしかと向き生きた訳だった。
其の壱休禅師は「死にたくない」とさう壱言言い遺し死んださうである。
だが僕に言わせれば其の「死にたくない」と世間の人人が「死にたくない」と言い死ぬるのとは本質的に異なるのだと思う。
本質的と云うことはむしろ観念的に価値認識として違うのである。
アナタはでは「死にたくない」とさう言いながら死にたいのですか?
いいえ、わたくしの場合にはあくまで「死にたい」とさう言いつつ死にたい。
いずれにせよ壱休禅師の其の「風狂」とはあえて眞理を放棄し現世に対し未練を残した=現世をあえて樂しんだ、と云う点でまさしく「愛」の限定にも連なることだらうまさに「有」としての「無」の思想の實践である。
宗教詩人にとり眞に見本となる精神ながらあえて言えば👩に触りまくってさうして仕舞いまで生きたのは其れは矢張りと云うべきか如何にもやり過ぎでもあったことだらう。