反出生主義に関する壱考察
さて昨日七五書店にてとある雑誌ーブルータスだったか?ーに「反出生主義 - Wikipedia」の記事が出ていて其処を読みましたので本日は是非其のことに就き論じてみたい。
反出生主義は真理?反出生主義の見落としていることとブッダの反論 (true-buddhism.com)
此処で特に旧約聖書ーコヘレトの言葉ー、文學者ー大宰と芥川ー、ショーペンハウアーの解釈の部分を是非参考にしてみて下さい。
尚個人的には、
出生主義⇔反出生主義
をこそ生きねばらないのだとさう結論する。
要するにむしろ弐義的ー多義的ーにこそ生きねばならない。
何故ならまさに其れが眞理であるからなのだ。
生⇔死
此れもまた等価にこそ見詰めてどちらをも生きねばならない。
其れもまあわたくしは其のやうな認識上の眞理をこそ見詰めつつ生きる者なのです。
但しさう出来れば良いとは思いつつも大抵はどちらかに傾き過ぎバランスを欠きつつかうして生きて来ております。
なのでわたくしが発見したところでの其の眞理と自分の實質上の観念のあり方とはまた別物です。
ですが宗教的な意味での眞理は其の概念上の眞理ともまた別物です。
其のやうに此の世の価値は壱種複雑なものでまさに感情論の範疇にて理解されるやうなことなのでは無い。
ですから大衆的な認識は主に其処をこそ勘違いして来て居る。
大衆的な認識は其れこそ主に、
出生主義⇔反出生主義
での其の左側にのみ傾き易い。
逆に知性のある文豪だの哲學者だのまた藝術家だのは右側の方に傾き易いのだと申せませう。
で、わたくしの場合も放って置けばむしろバリバリに反出生主義者です。
ですが主に五拾を過ぎてから認識論上の眞理規定を行うにつれ左側の方の価値をも見詰められるやうになりましたのです。
であるからこそむしろ両面を見据えて行く必要がある。
また上にて出て来るデイヴィッド・ベネターデイヴィッド・ベネター - Wikipediaの提唱した反出生主義のことなどもあくまでわたくしには論理的に共感出来る部分がある。
しっかし彼は完全菜食主義者で地球上の人口はゼロがベストだとさう言うて居るのですから何とも徹底した所謂偏屈な哲學者です。
ですが厳密にはそも此の世での価値は例えば左右上下などに弐分割出来ぬものです。
とは言え我我現存在は其処をあえて分割し、さらに宗教的にも例えば善惡規定をしたり致しますものです。
なんですが其の善惡規定其のものが他力救済を前提とする宗教的ー教義的ーな流れでのことで他方で自力救済を目指す釈尊の佛法や禅宗の教義の流れに於いては其れこそ厳密には善惡規定することがそも其処に不可能となる。
つまるところ善惡規定其のものが分離規定=分別的規定=虚妄分別の流れとならざるを得ない。
なんですがであるから壱神教の救済過程やまた大乗思想としての他力救済過程が「間違って居る」とは言えないのです。
要するに救済過程として存立する場の質がそも違うので實は互いに批判や否定をしたりすることなどは出来ない。
つまりは其れもまた、
他力救済⇔自力救済
なんですね。
哲學的には此の弐項對立を善惡規定することがそも出来ない話です。
また善惡規定其れ自體も善惡又は良し惡しにて判断することは出来ない。
其れもまあ難しい話ですがあくまで事實なのです。
あえて其れを理解する為の肝の部分は概念化=言語化=単語化するとさうされた途端に分離されて仕舞うと云うやうなイメージでせう。
またイザさうして分離されると元の部分にはもはや還れなくなる感じでせうか。
尚現存在の認識法と其れに基づく思考法其のものが其の相対的価値分別の領域にこそある。
なのでそも其の認識法と其れに基づく思考法其のものが眞理規定に對し背いて居るのです。
などとまた難し過ぎる話をついしちゃったかな。
だからアンタの思考が独走するともうロクなこたあ無い。
なのでアンタだけが牢屋に入れば此の世は万事安泰なんだ。
なんでワタシだけがいっつも牢に入らなイカンの?
如何にも罪深いのはむしろ君等大衆の方の認識ではないか?
いやなんか知らんが憎たらしいのだ。
其れも分かったやうなことをいつも延延と語りやがって。
きっと物凄い優越感に浸りつつ其れを書いてるんだらう?
…スッカリバレたか。
どうもどうも御免なさい。
今度からは是非眞人間として生きて行くことを今此処に誓わせて頂きます。
いやダメだ。
お前は今大宰であり今安居だからまるで信用がならん。
お前のやうなそんな無頼派の詩人はいっそ早う死んだ方がエエ。
…涙。
うわあー泣いちゃったな、どうも言い過ぎだったかなあ。
わたくしの此の乙女のやうにか弱い心を此処までいたぶり君はそんなに面白いのか!
ほれ、やっぱしアノ大宰とまーるでおんなじだ。
いや確かに太宰の影響は強く受けて居るので其処は治らんのかもしれん。
だけれども自分はそんな大宰壱筋では無く芥川もまた安吾もさらに漱石も好きだから元元多義的なんだ。
いずれにせよ認識論の上で価値分別を絶対化することは誤りでありむしろ絶対に避けねばならぬ理性としての働きでせう。
すると其の弐項對立を無視して壱元化される価値は其の全てが誤りなのだと?
さう誤りである。
だから我が結論から言えば其のデイヴィッド・ベネターの説もまた誤りである。
さて此の佛法のウェブ講座と云うのは僧侶では無く東大出の自称専門家?の方が書かれて居る場ですがなかなか勉強になるつまりは間違ったことが述べられて居るところでは無い。
但し浄土教寄りでの佛法解釈の場であると個人的にはかねてより思って来て居る。
其の浄土教と云うのは佛法とキリスト教の眞ん中辺りに位置するものなのだと個人的には考える。
だからと言って浄土教がアカンのでは無くむしろ浄土教の方が合う日本人は特にいまや多いのではなからうか。
但し個人的にもしも宗旨替えするなら壱挙にキリスト教の其れもカトリックの方へ行った方が手っ取り早いかとも思う。
でも宗旨替えしないので結局は死んでも佛教徒でせう。
まあ其れもまた断定は出来ず拾~弐拾パーセント位は可能性はありますのです。
何故なら意外と自分は「全能の神」的なものが嫌いでは無いので。
尚宗教思想的には自分の教學的論理は純粋な意味での佛説や禅宗の教義からは明らかに逸脱して居ります。
つまりは「無化」では無く「有化」する分別概念肯定の立場を結果的に取るので構造的にはあくまで他力救済での思想となる。
なんですが最終的には分別概念を否定も肯定もしない哲學的解釈を其処に完成させやうと独り目論んで居るのである。
無論のこと其の分別概念の肯定の部分は自力救済に於いて不可能とならざるを得ぬ。
だから佛説や禅宗の教義では常に分別概念は否定的に扱われる。
なんだが其れがまた浄土教や密教などではさうはならない筈である。
だったら矢張り大乗佛法なのか?
いやでもあくまで我は自分の考えに拘るので此の先どうなって行くのかは正直分かりません。
でもって、問題は佛陀が其の「反出生主義者」であるのかどうかと云うことです。
其のことに関し以下に考察してみるが、其の長南氏が上にて展開されて居る論理に関しては概ね承服致しかねる。
1.そも佛陀の認識は人間に於ける出生主義⇔反出生主義との分別認識を問題とされぬ精神的な場でもって解脱への道を歩まれて居る
2.だから良い惡いのまた善惡の価値對立の場にて勝負などはまるでされて居ない
3.故に本質的には別に佛陀の認識が「反出生主義者」であらうがまるで構わぬ
尚感じとしてはあくまで個人的に佛陀の認識はむしろ「反出生主義者」的なのだと思う。
だが其れはあくまで概念としての表面上のことであり逆に深層部では「出生主義であらうが反出生主義であらうがまるで構わぬ」派なのではなからうか。
要するにどーでもエエんだ、むしろそんなことは。
其れと佛陀の認識では「人間に生まれ良かった」、「人間の命は特別に良い」などともまるで仰られては居らず逆に「人間を其の侭にやるとヤバい」位に考えられて居たフシが経典の其処かしこに見受けられます。
ですので其の「人間に生まれ良かった」、「人間の命は特別に良い」とする認識其れ自體がむしろキリスト教やイスラム教などの壱神教に於ける認識でありまた其れ即ち浄土教の場合にはむしろそちらの方へと擦り寄って行く訳です。
でも其れが悪いとも言えないがとりあえず佛法を其の根本より潔癖に捉える場合には其れはほぼ謗法の域での考えとなる。
要するに所謂「外道」としての宗教の考えとなる。
でも正教のキリスト教やイスラム教からすれば佛法こそが「外道」でせう。
また釈迦は「自殺」を禁じて居た訳では無く、事實として弟子が何人も自殺したことがあり其の折にも意外と同情的に其の事を捉えられて居たさうだ。
だからと言って死んでもエエと云う訳では無くやっぱり基本的には自分から死んではイカンのであります。
但し釈迦は特に「悟った」人間の自死を認められてさえ居たフシがある。
要するにバカ=本能モロ出しの侭にて死んでは絶對にイカンのです。
要するに「心を整え脱俗し眞理へと至った」精神に就いてはほぼ寛容なのだがアホがアホの侭に自分で死ぬともう成佛への機縁が絶たれるので絶對にイカンのです。
其れとね、気になったのが「父母への孝養」だの「先祖供養」だののことを上にて書いて居られるが確かに御釈迦様もまた父母を邪険にされて居た訳では無いが御釈迦様御自身が國を捨て父母を捨て出家なされたこと、また浄土教に於いても眞宗の親鸞上人が「自分は父母の為にまた先祖供養の為に念佛を唱えたことなど壱度も無い」とさう述べられて居た事實をこそしかと汲み取って置かねばなりません。
御釈迦様御自身の法は左様に壱種非人間的な迄に所謂「感情論」の世界を離れたものである。
要するに其れはとてつも無く現存在に對し厳しいものである。
でも御釈迦様は別に在家の信者や女性の生殖などを禁じてなどは居ませんでした、と云うやうなことをまた上で述べて居られるがそりゃ当たり前のことです。
何故なら当時は出家してしかも死んじゃう位の修行を積み重ねませんと「成佛」=「解脱」なんぞは絶對に出来ないとされて居たのです。
其れが後の大乗の教説其れも浄土教の教義に至っては「念佛すればみんなが成佛出来る」とさう勝手に変えられて仕舞うんです。
だからそんなもんならむしろキリスト教やイスラム教での救済の方が眞面目だらう?
つまりかの織田弾正忠信長などはそーゆうテキトーな佛説に兎に角怒って浄土教やまた権力に狂い腐った比叡山などをやっつけて居たのではなかったか。
でもってキリスト教などは逆に優遇してね。
まあまだ幾らでも此のサイトを批判出来るものかとさうも思いますが何やらバカらしいので止めて飯を食って映画でも視ます。
兎に角法論ならばまず負けませんので我に任せて下され。
其れもどこの宗派や宗教が出て来やうが受けて立ちますので兎に角お任せあれ。
そんな訳で佛陀の認識は必ずしも「人生万歳!」なのではありませんのですしハッキリ申せば大衆は救済出来ないとさう考えられて居た筈です。ーココはあくまで僕の意見としてー
尚佛陀は元元其の御性格が暗めの方です。
個人的に壱つ是非知りたいのは「大宰の心中」や「芥川の自決」、また「三島の特攻」などをそんな佛陀がどう判断されたかと云うことです。
また「ショーペンハウアー」と云う哲學者の解脱的な考えを何処まで評価して頂けるのかと云うことです。
ちなみに我は此処まで人間嫌いな割に、
出生主義⇔反出生主義
の間に「即剋し相即する」眞理としての関係性を見て取って居るので結局どちらにも与しないと云う立場である。
また言わば出来れば両方をやると云う考えなのだ。
ですが今度生まれ変わる時はズバリ宇宙植物を是非希望致します。
つまるところもう人間なんぞはまっぴら御免なんだ。