23.『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?4
ひろゆきが断言「勉強こそ最強のスキルである」そのワケとは? (msn.com)
さう勉強こそが此の世では壱番大事である。
何故なら自らが勉強することでしか価値観は変えられ無いからなのだ。
生の目的とは其の価値観の確立にこそある。
だが其の価値観の確立を多くの人は誤解し其れを世間に合わせて仕舞って居る。
であるからこそ社會は何時まで経っても良くなるどころかむしろ悪くなりつつある訳だ。
だが此の生に於いて眞の意味での自己を確立する為にこそ文學や哲學其れに宗教の分野がまたある。
文學や哲學其れに宗教の分野とは遊びでは無く生との眞剣勝負の場である。
でも我は遊びを否定する者では無い。
其れは遊んでこそ分かるものがまたあるからなのだ。
其の遊びも其れこそ眞剣にやれば所謂プロフェッショナルの域に近づいて行く。
されど遊んでばかり居ると価値観はいずれ混濁するに至る。
だからむしろ遊ぶ為に勉強しやう。
勉強とは本を読み其の内容を己が血肉と化して行くことだ。
「他人を清めることはできない」ー他人に期待しないー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より
他を拠り所として人間が救われることなどは無い。
また人の心理のあり方を批判して変えることは不可能だ。
まさに其れが佛陀の教えである。
だが此のことが佛陀以外の人間には結局出来なんだ。
だから佛陀の教えで人類を救うことは結局出来なんだのだ。
人間は主に教育により社會的自我を形成する。
だが實は其の教育が正しいと言える根拠など何処にも無い訳だ。
其れ即ち其れは近代教育制度に於いて正しいとして居るだけの内部規範なのであり其れが神様や仏様に認められし「正しい」教育なのかどうかと其処で問われればむしろ其れは不完全且つ不徹底であり其れのみか根本的に誤って居る可能性すら有して居るものだ。
故に其の社會的自我もまた半分位は常に疑ってかかって置かねばならない。
他人の最大の単位のものが其の社會的自我である。
社會的自我を中心となし自我形成を行うと謂わば其れが洗脳状態となる。
其の洗脳状態の侭に生を終えれば其の人は心理的にどんな御勉強も出来て居なかったこととなる。
たとえ東大医学部を出て名医となって居るにせよ其の本質的意味では彼は社會的自我に洗脳された状態で其の生を閉じる。
故に其の社會的自我に於ける内部規範の論理から脱出することこそが眞の意味での自己の確立であり眞の意味での自我形成を行うこととなる。
かうして佛陀はイキナリむしろ人を突き放すやうなことを説かれた。
其れは佛陀の認識が世俗の論理ー社會的内部規範ーとは逆側に振れて居るからなのだ。
だが其れもまた当たり前のことだ。
何故なら世俗の論理には染まらぬ佛陀の認識こそが解脱を可能とするものなのだから。
つまるところ佛陀は、
1.人のことなど壱切当てにして居ない
2.人を救おうなどとはまるで思ってなど居ない
のである。
思うに佛陀は謂わば特別な宗教的感度や藝術的感度、また哲學的な思考力の持ち主などと云った謂わば特殊能力者に対してのみ法を説いたのであり何故なら其れは万が壱にも彼等に悟る可能性が残されて居るからなのだった。
でも結局はそんな声聞や縁覚の世界に住する人達も悟り切ることなど出来ぬが故に佛教は大乗の教えとして大きく変容して行くのである。
尚其れでも佛陀が法を説いたのは1.と2.がすでに分かって居る人人に対しワンヒントを与えより成佛への機運を高める為にまさに其の事を為した訳でありよって佛陀自身が人類を皆救おうなどとはまるで思われて居なかったことをまずは理解して置かねばならぬことだらう。
佛陀による人間の救済とは其のやうにむしろ極めて限定されし価値観を形成して居たのだった。
其れを勝手に解釈を変えみんながみんなの侭で救われるやうにしたのが大乗各派であるが正直申せば必然として其れはウソ臭い佛法であり且つ佛法と云うよりはキリスト教に限りなく近寄って行くものでもある。
ー浄土教、密教などは最終的にキリスト教化した佛法であり、また法華経なども然りである。ー
さらに禅宗でさえ幾ら自力救済を説くとは言え骨格としてはあくまで大乗佛法なのでキリスト教と無関係なのでは無い。
「四苦ハ苦」ー人間関係はつらいものー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より
テキストには「愛別離苦」と「怨憎会苦」が人間関係に結び付く苦であるとされて居て其の点ではまさに其の通りなのだらう。
其の愛と怨み憎しみが實は人間の認識世界ー相対分別の世界ーでは壱セットとなって居る。
愛⇔怨み憎しみ
即ち佛陀の認識は此のどちらの心理的極をも否定し謂わば人間らしい心を打ち消すことで同時に苦しみ其れ自體を無くして仕舞おうと云う考え方である。
でも其れでは人間らしく無い=人間では無いので、結局は佛陀以外には誰も出来ず其れでもってまさに佛法其れ自體がキリスト教化して行くのである。
即ち、
愛⇔怨み憎しみ
此の弐元対立関係が行われるのはまさに罪深い凡人の認識なので其の認識を神の次元へと其の侭に高めて仕舞う。
すると、
愛⇔怨み憎しみ
此のヤバい対立はむしろ其の侭ながら其れが神の次元へと上がるーより高次となるー為其の右側の獣共が持ち易い怨み憎しみの心が消え結果、其の対立関係が解消する。
其れ即ちイエス様による心の変革の図式となる訳だ。
つまりは其の利己愛をアガペーへと昇華させることにより対立関係を解消するのである。
但し其処にはむしろ神の次元でのデカい対立関係は残り、其れ即ち其れが、
神の認識⇔👿の認識
と云うこととならざるを得ない。
大乗佛教もまた絶対神を設定する代わりに絶対佛だのまた梵我壱如などと云った絶対性、超越性を重視するので最終的にはキリスト教的な認識世界を形成せざるを得ぬものとわたくしは見て来て居る。
だが其の代わりにみんなが救われるやうになる訳だ。
佛陀の佛法では出家者の其れも特に優れた認識を行う賢者の類しか解脱出来なかったのであるがとりあえずはかうしてキリスト教の影響のお蔭でみんなが救われるやうにもなったのだった。
ですが、当たり前のことですがキリスト教は本来「解脱」することを目的とする宗教ではまさか非ず。
要するに神に救って頂く他力救済での宗教である。
かう云うことを述べれば色色と反発を招くだらうことは知りながらあえて申せば大乗佛教は本質的に佛陀の説く法とは乖離したものなのだ。
でも其れを信じて居るからみんなは偉いと我はさう述べて居るのである。
我はとてもそんなもん信じられぬがそんなみんなの寛容度こそがまさに凄いなあと。
愛⇔怨み憎しみ
佛陀の認識の異常なところは愛への執着と怨み憎しみへの執着のどちらをも退けられて居る点でありもしも其れを完璧にやりますと社會的自我どころか個としての現象其のものを否定するに至る訳ですのでイエス様の方からすればむしろそんなのは神の御業としての生存にこそ背く邪教でせう。
佛陀⇔イエス様
ほうれ見よ、だから結局はさうなるのだ。
佛陀⇔イエス様+大乗佛教
ほうれ見よ、だから結局はさうなるのだ。
だが互いに邪教だとさう思うにせよ其れは互いに👿ではあり得ぬのである。
つまりは宗教としては共に正しくなんとなれば其れはどう考えても👿の教えでは無いが故に。
むしろ👿とは、
愛⇔怨み憎しみ
との次元にて利己的な愛に振り回され同時に怨み憎しみを大きく抱き続けることだらう凡夫ー壱般人ーとしての心の内容をこそ言う。
だがイザかうしたことを言うとみんなは宗教詩人の方の頭がおかしいのだと必ずやさう思うのであらうが其れは誤りだ。
何故なら佛様とイエス様は共に其の利己的な愛に振り回され同時に怨み憎しみを大きく抱き続けることをこそ悪だと断じて居られたからなのだ。
よって宗教に於ける価値観こそがまるで常識的なものでは無い。
まさにみんなは妻と子と親戚壱同とうまくやり同時に社會と折り合いを付け何とかやって行くことこそが「善」だとさう思って居らう。
まさに其れが正義だ、宇宙の眞理であり究極としての自己實現なのだ!
へッ、そんなもんはむしろ「悪」の所業だぞよ。
即ち其れは👪主義であるに過ぎぬものだ。
眞理とはむしろ其処を離れて行かねば体得されぬものなのだ。
即ち、
愛⇔怨み憎しみ
とのまさに此の関係性を離れる行為と其れはなるのである。
佛陀の教えにせよイエス様の教えにせよ其の点では非常に厳しくまさに同じ方向性でのものだ。
佛陀の教えとイエス様の教えは救済に於ける其の仕方、方向性が異なるだけで壱番違うのはむしろ、
凡夫ー大衆ーの信ずる善の価値⇔佛様やイエス様の認識に於ける善
なのでありむしろみんなが信ずる善の価値を佛様やイエス様が見てみたところあらうことか其れが👿の価値其のものではないか!
と云うところが實情であり眞實なのだらう。
だから人間関係をどうかう言う前にそんなみんなが👿であることをまずは猛省せねば話はまるで進みません。
いいですか、今僕が語ったこととは世俗の認識と聖なる世界の認識が本質的に逆方向を向いて居ると云うことです。
なので僕の宗教論は御坊様や神父様が語られる眞理の言葉などよりも必然的に過激です。
過激なんですが其れは壱種の眞實をこそ語って居る訳だ。
僕は最終的には其処をこそ是非語らねばならぬとさう思って来た。
なので宗教が間違って居るのでは無く、むしろ壱般的社會的自我が齎す認識の方こそが曇って居るのです。
尚キリスト教の場合は「愛別離苦」と「怨憎会苦」を神の認識へと委ねることでおそらくは消去する、即ち愛する人は愛に満ちた神のもとに召され且つ憎い相手にはむしろ愛を投げかけ今度は左の頬を向けることで自分が殴られて置けば其れで良い訳だ。
だからまた其れも人間では無い者には決してなれぬ者としての道理です。
なので大乗佛法もまたキリスト教化して行ったのでせう。
「他人の過去を見るなかれ」ー非がなくても、まず自分を省みるー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より
他人の行いを批判するなと云うことですが其れは本質的にはさうだと云うことであり逆に申せば批判無くば近代と云う時代がそも成立しません。
つまりは社會的自我に対する批判はこと近代的社會にとってはむしろ必須のことです。
対して個としての他の自我に干渉するのは程度の低い心理としての特徴です。
此の世の中にはそんな程度の低い心理を持った人がむしろ多く居るものです。
彼等は大抵は「社會に支えられた自分としての此の生き方こそが善」であると頑なに信じて居ます。
其処へ僕のやうなことを述べますともう大変なこととなる。
お前の生き方なんぞは全否定だ、とはまさか言いませんがほんたうはさう思いつつ慈悲の心でもって彼の生き方を見詰めて居る我。
また宗教をやって居れば認識が正されて居るのだとも限らない。
逆に変なバイアスが増幅されて仕舞い此の御経こそが善なのだとか、ウチの団体こそが善だ、とか、またお布施を百萬もやったので僕は必ずや成佛出来るのだ。
などと変な認識を持っちまってる場合の方がむしろ多い訳だ。
尚僕の場合には、
1.基本として他の生命を尊重する
2.其の他の生命の認識が曇って居る場合にはむしろ其れを無視する
3.動物は所詮ケモノですが概ね愛すべき現象であり人間の其れも心の醜い奴の方がむしろほんたうのケモノである
こととして居り、最近はむしろ其の無視する人の数が人類の七拾パーセント位の率にもなって居るやうですが其れにはお構い無く兎に角無視を決め込む訳だ。
ですのでSNSだの何だのそんなものも勿論無視です。
つまりは他人の動向を気にするのはむしろ心としての段階が低いところにあるからなのだ。
さうして心としての段階が低いところにあると、
1.御勉強が嫌い
2.酒池肉林が好き
3.他人や社會の方ばかりを向き其れとの関係だけに生きて御座る
と云うこととなるので無論のこと其れでは眞の意味での自我の形成などとはほど遠く逆にほぼ洗脳状態でせう。
「天上天下唯我独尊」ー人はみなかけがえのない存在ー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より
尚此の言葉の解釈は常に難しく、例えばテキストでは此の我とは人間全体のことであると解釈して居る。
だが其れでは先から述べて居ります「人間中心主義」となって仕舞うのではないか?
但し佛陀御自身は生命としての最終目標である解脱が可能であるのは人間のみであるとお考えだったやうだ。
即ち動植物に其の成佛への機縁がある訳では無い。
だって獣共はあくまでケモノですよ。
ケモノは食って寝てウンコを垂れ♀に飛び付きいつの間にか死んでおるものです。
つまるところ其処には思考生活が無いのです。
つまりは全的な本能状態、本能剥き出しでのウンコ垂れ流しの者共だ。
ですが其のウンコ垂れを我我は批判など出来ない。
何故ならさうして本能はそも汚れて居ますが其の穢れはある意味で清い穢れなのでもある。
そも其は神が造形せし命の営為である。
つまるところ其処に嫌らしい作為などはまるで無い。
ところが人間には其の作為癖、つまりは人為的造形癖があり其れが神をも畏れぬ所業を齎しやがては世界を破壊するに至る。
さて果たしてドッチが悪い奴なのでせうか?
明らかに悪いのは人間の方ですね。
即ち、
解脱⇔悪の権化
神⇔👿
と言うこととなります。
かうしてドッチへも転ぶのがまた人間なのだ。
だって人間だもの…。
つまり動植物はまさか👿にはなりませんが人間は👿にさえなれるのです。
其の逆の目が出れば神と通じまた解脱し佛にさえなれる。
ですが普通は神と通じ解脱し佛になる可能性は至極低く其れは大體弐千年に壱人位の割合でしか無い。
逆に👿となる奴は現代人の半分位がおそらくは其の悪の権化でせう。
さても困ったなあ。
此の世界はすでに👿に支配された末期的状況である。
此れは矢張りと言うべきかハルマゲドンが近く起こるのやもしれません。
いや佛陀はハルマゲドンのことなどは言って居ない。
仰っては居ないがやがては社會がヤバくなることをおそらく見越して居られたことであらう。
テキストにある相手を尊重する四つの心
「慈」の心ー相手の仕合せを願う心
「悲」の心ー相手の悲しみや苦しみに共感する心
「喜」の心ー相手の愉しみや幸福を共に喜ぶ心
「捨」の心ー執着が無く誰に対しても平等な心
わたくしには其の「慈悲」の心がむしろ強くある。
また共に喜ぶ心も確かにある。
但し悪人を許せぬ性分ですので其の「捨」の心は持てては居ないことだらう。
其れに執着も強くあり人間の質を見抜くことにはむしろ長けて居る。
つまりは人間の質を見極めた上で尊敬するかどうかを決めて居る訳で其れは佛法上の眞理とは異なる心的状況を築き上げて居る訳だ。
さて其の相手を尊重することは所詮動植物には出来ぬことだ。
畜生界は所詮遺伝子レヴェルでの闘争世界ですので神もまた佛も無く有るのは生存競争原理と自己保存欲だけだ。
逆に人間だけが神や佛を生むことが出来る。
神や佛を生むことでこそ己の価値と且つ其れと対になる他への尊敬心を醸成し得る。
いや其れは宗教的段階に限らず人文理性でもまた科学的理性でもひとかどの方方になると其の他の理性を尊重する傾向が生ずる。
つまりは他を尊重出来ず人の悪口ばかりを言う輩は何処にでも居てさう云う程度の低い心の持ち主こそがむしろ👿の心の持ち主です。
其の意味では👿、其の👿野郎はむしろ何処にでも居ます。
わたくしは還暦にて其のことに気付き愕然としたものでしたがほんたうに何処にも居るのですから余程気を付けて置かぬと己が其の👿共の餌食とされて仕舞うことだらう。
だから👿と云うことは無知即ち無明者、要するにおバカのことなのだとさう思う。
「愛より憂いは生じ、愛より不安は生ぜん」『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より
佛教は「愛」を煩悩の壱つと見てむしろ遠避けて行く。
特に👪愛や共同體や國家への愛などに就いて厳しい部分がある。
但し在家の👪愛を否定するものでは無いやうだ。
ですが出家としては元来ならば其の👪愛など厳禁なのだ。
ですが日本の佛教に限りまさに👪主義であり世襲制です。
元元日本はさうして👪主義であり世襲制の國であり佛陀の説かれた佛法とは相容れぬ社會をこそ形成して居た。
なので何かと誤魔化される形にて日本固有の佛教は此れ迄受け継がれて来たのだとも言える。
キリスト教などは愛の宗教ですが其の愛は👪主義と云うことでは無くアガペーつまるところは神の次元での愛のことだ。
対して佛法は無神論なので左様な超越的な愛を設定することは無い。
佛法の目的とは其の愛欲を否定的に見詰め生存欲を極小化し此の世から消え去るー解脱するーことだ。
ですがキリスト教の場合でも此の世から消え去ってから魂の選別を受けた上で神の愛に導かれ神の國へ行くのです。
つまりは共に現世利益に関しては否定的です。
逆に現世利益の象徴として機能するものこそが愛欲の世界です。
我は佛陀の教えとキリストの教えが共に👪主義では無いことに不思議さを感じるのですが其れも其の筈で其の愛欲の世界こそがまさに最後としての現世利益主義の砦なのだ。
また人間の場合には動物とは異なりより抽象的に其の愛欲の世界を形成して行く訳だ。
なんですが結局は本能的なものですので宗教にとってはむしろ有害なものとならざるを得ぬ。
即ち利己的な愛として👪の中で形成されるやうな本能の履行はどちらでもまずは否定的に扱われる訳だ。
佛陀は愛の履行を煩悩の壱つとしてほぼ否定しキリストは愛に目覚めるなら神の愛に目覚めよとさう語った筈だ。
世俗的に語られる愛はむしろ双方の立場から否定的に見詰められて居た訳だ。
宗教とは其れも本物の宗教とは本能的に生きることを厳しく戒めるものです。
👪愛が大事だと云うのは其れは宗教とは違う風土的、地縁的なものの見方であり結局其れでは人間を救済に導くことなどは出来ない。
故にわたくしに興味があるのは其の種の👪主義的価値観では無くむしろ其れを限定してさえ人間を救済して行かうとする本気での宗教の流れです。
其の意味では矢張り日本の佛教では禅宗しか無いのではないかと近頃は強く思うやうにもなった。
尤も其の禅宗も今や世襲制であり其処からしてもどうも不純な日本の佛教の様なのですが其処は兎に角是非耐えて見て置かねばなりません。
尚人間関係が煩わしいのは世の中には誤った認識をさも正義の認識であるかのやうに勘違いして居る輩が實に多いからなのだ。
よって其れは人間関係がイヤなアナタが悪いのでは無くそんな👿が蔓延って居る世の中の方が悪いと云うか少なくともオカシイ訳だ。
尚佛法ではまず自己を反省するとのことでまさに其れは眞理ですが反省ばかりして居ると此の末法世界ではオカシクもなって仕舞いませう。
よって或る程度は自己批判の力を社会批判の方へと転換して行くべきです。
實際に今此の近代世界はバランスを失し危うい状態にある。
ですが社會が悪いのが半分で、自分が悪いのが残りの半分でせう。
故に自分もまた確かに悪いのです。
ですがほんたうのことを言えば本物の悪は自分の身近な処に居るものです。
そんな👿のやうな奴が家庭を持ちしかも👪愛にだけは長けて居るものなので其の点を良く良く気を付け是非人を判断して行くべきことだらう。