目覚めよ!

文明批判と心の探求と

むしろ非常識なお釈迦様の教えー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?1ー

7.『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?1

 

 

 

 

さてかう毎回悲観主義哲學では飽きも来ませうから他の本からも學んで行くことと致してみやう。

尤も僕に限りまるで飽きては居りませんのですが…。

 

で、現在此のやうにして眞理に関する認識論を展開中ですが春からはーおそらくは新学期となる頃からー此処を生まれ変わらせる積もりで居ります。

其れ即ちいま少し内容的に普遍性即ち永遠性を持たせたものにしたいとさう目論んで居ります。

普遍化する為には壱般的な視点も盛り込む必要がまたある。

 

要するにもっと幅広く話題を捉えしかも独特にテーマが高尚なところは失わずにイケたらとさう思いますのです。

 

ですがあくまで其れは先のことですので今は今やるべきことをやらせて頂きます。

 

其れを一言で申せば認識上の転換のことです。

 

 

さて其の認識上の転換はかって西洋哲學に於いてまずはカントが、さうしてショーペンハウアーが成し遂げたものであるとわたくしは見て居ります。

中でもショーペンハウアーが成し遂げた認識上の転換とは西洋思想に東洋思想である佛法の観点を盛り込んだところにこそある。

 

ショーペンハウアーは盲目的なる表象としての意志ーつまりは本能ーを理性的に克服し最終的には其れを否定し完全なる心の平衝即ち理性的勝利を勝ち取ろうとしたのではなかったか。

わたくし自身の解釈では其れは佛陀による解脱思想とまさに近しいものですが其れ自體では無い。

 

ショーペンハウアーが目指したのはあくまで理性的平衝であり解脱其のものでは無いと云うのがあくまで私の解釈です。

故にカントやショーペンハウアーは解脱し佛になったのでは無くおそらくは哲學の苑にでも生まれ変わり其処にてあーだかうだと今でも日日論じ合って居る筈です。

 

いやーしかし其処ではカントとショーペンハウアーがさうして顔を突き合わせ壱體何を論じて居るのでせうか?

しかしながらまあ其れは凡人には分からぬ内容のことばかりなのだらう。

 

 

さて其の認識論としての転換は何も西洋哲學、また希臘哲學ープラトーンによるーに限ったことでは無く東洋でも深く且つ長く目指されて来たことです。

黄河文明の方ではかの老荘思想が其れを担いインダス文明の方ではウパニシャッド - Wikipedia並びにバラモン教 - Wikipediaに代表される解脱思想が其の任を担って来たことだらう。

 

つまるところ印度では古くから其の解脱の實践こそが人間にとっての最高位の価値として認識されて居た訳だ。

此処からしてもまずは此の現世利益を只ひたすらに追い求める現代文明に於ける価値観とは大きな隔たりがあることが其処に了解されやう。

 

でもって此の現代日本でもって其れこそ裸になり「解脱しやう!」などと街中を歩き回れば其れは即逮捕され逆にキチガイと云うことにされて仕舞いませう。

まあでも少しは其れもやってみたくも思いますのですが…。

 

お釈迦様の解脱思想もまた其のやうな文化的背景の中より生まれたものであり完全にオリジナルとしてのものなのでは無い。

だからお釈迦様がさうして國を捨て修行の世界に入られ森の中で裸になり「解脱しやう!」などと叫ばれたのだとしても其れは当時の印度では至極当たり前のことでむしろ尊敬されるべきことだったのだ。

 

だから時代と土地が変わればまた価値観の方も大きく変わると言わざるを得ません。

人間の価値観とは左様に抽象的に齎されるものであると同時に具象的な場や時の記憶を含んで居るものだ。

 

 

ところでお釈迦様は当時其の印度の解脱思想に反旗を翻した新宗教としての教祖様でした。

まさに其処では解脱思想其のものを説かれたのでは無く「そんなことをして居るやうでは何時まで経っても解脱は出来ぬ」とさう説かれ謂わば本気での解脱への道を模索された方だったのです。

 

さてもキリスト様などもまたさうなのですがさうしてむしろ滅茶苦茶に当時の思想的體制を批判なさる訳です。

宗教では屡「穏やかに丸い心で」だとか「愛」であるだとか「眞面目さ」であるとかまた日日是無事が大事である、などとも言われて居りますが實は其の本質はそんなものではまるで無い。

 

 

宗教の本質とはむしろ闘いです。

其れも外側での認識上の間違いと内側での認識上の間違いに対する永遠の闘争なのでせう。

 

だから眞理に対し間違って居るのであればまずは其の間違いを正して行かねばなりません。

 

さうだ、間違ってる。

さうか、では地下鉄でもってサリンでも撒くか。

 

核弾頭を造り日本の大都市の全てにミサイルにて発射してやらう。

 

 

ですから其のやり方自體が誤りなのだ。

正しくは批判をせねばならない。

 

何度も申して居るやうに理性とは批判であり批判とは理性です。

 

其の批判にもカントやショーペンハウアーの如き哲學としての批判やお釈迦様やキリスト様の如き教義、教學の上での批判の違いがまたありませう。

ですが共に其れは理性的態度から生まれるものであることを皆様は今此処でしかと學んで置かねばなりません。

 

 

他方で學問や宗教はむしろ必要無いと考えて居られる天才級の知性の方方もまた居られるのやもしれぬ。

まさに其れは眞理レヴェルではさうなのやもしれぬのだが天才以下の知性に取り必要なのは常に學問であり宗教であると逆に僕は考える。

 

では早速以下より其のお釈迦様による認識上の転換として説かれた言葉に就き解説して行きたいと思う。

 

 

テキストはコレであり難しい御経でも何でもありません。1日1話 マンガでわかるブッダの教え│宝島社の公式WEBサイト 宝島チャンネル (tkj.jp)

 

尚昨年の元日より参日に亘りわたくしは名鉄パレと云う熱田神宮の横にある小規模な百貨店の書籍売り場へ通い立ち読みにて此の本を読み終えました。

感想としては可成の良書であるとさう思った。

其れでもって後にアマゾンにて此の本を買いました。

 

さて先回も述べましたが聖なる世界の認識即ちお釈迦様やキリスト様の認識とは我我凡夫ー認識が本能方面に傾いて居る者ーにとり理解し難いものがあります。

より正確にはカントやショーペンハウアーの如き哲學ですらなかなか理解が叶わぬと云うのが實情なのでせう。

 

ま、其れもわたくしの場合にはかうして生まれ付きに変わって居るので至極良く分かるのではあるが…。

またお釈迦様やキリスト様の認識に就いてもまた同様に良く分かります。

 

ですが其のことを自慢して居るのでは無くそんな自分がわたくしはむしろ昔からイヤでした。

つまりは自分が所謂普通では無いことがイヤだったのです。

 

なのですがイヤだらうが何だらうが自分は自分であり他の誰も代わっては呉れぬ訳です。

だから仕方が無くこんなことをして来ましたのですが實は其れが次第に快感になって仕舞ったりもまた致しますものです。

 

其の意味でわたくしは幸せ♡者だとさう述べて居るのです。

 

 

では講義へと入らせて頂きます。

 

 

12日目 ブッダの言葉 (他の人たちが「安楽だ」と言うものを、聖者たちは「苦しみである」と言う)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

 

まずは其の聖俗に於ける認識上の違いに就き語らさせて頂く。

 

ちなみに此の教えは経典である『スッタニパータ』の中の言葉です。

人間界でもって世俗の人人は抽象的な本能を生きやうとする。

 

対して具象的な本能を生きるのが畜生界です。

ところが形は違えど質的には同じ本能の履行であるに過ぎない。

 

 

富や地位や名誉、さらにデカい立派な家や豪華な墓、其れに👪愛、高学歴、金其れも大金、兎に角其れ等がどうしても欲しいのが人間的動物としての生きる目的です。

ですが理性に限り其れとは違う道を歩むものです。

 

何故なら其の「豊かでより豪華でデカいこと」は所詮虚の欲望であり理性にとっての糧でも何でも無いからなのだ。

逆に申せば金の無いことや👪が居ないことやボロアパート住まいであることや地位無く名誉無く今にも野垂れ死にさうなことは理性に取りむしろ歓迎すべきことなのやもしれません。

 

理性に取りむしろ大事なのは逆に其れ等の贅沢に対する欲望をどう抑え切れるのかと云うことです。

理性の本性とは其の抑制であり同時に批判力です。

 

即ち理性的に成就される認識に近づく程に其の本能的獣性はむしろ抑えられ其れに拘らなくなる。

まさに其れこそが聖なる認識にも連なると云うことなのだ。

 

 

煩悩の原因となる三毒ー貪 瞋 痴

 

三毒は人間が持つ煩悩の中でも特別に大きくものへの執着や怒り、無知な心はやがて自分の心を焼き尽くすとも此の本にはある。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

但し私の考えとは解脱を前提としたものではむしろ無い。

其れはもはや現代人は解脱することが出来ないとさう事實として世界を捉えるからのことだ。

 

1.貪りー物質的欲望ーは最小限に抑える

2.義憤の類はむしろ必要であり且つ批判もまた同様に必要だ

3.無知をまずは治すことが大事だ

 

とさうわたくしは捉える。

また欲望の対象の分類を行いデカい欲と小さい欲とに分ける。

 

デカい欲を捨て小欲に生きること。

まずは其れが大事だ。

 

 

尚わたくしにとり家族を持ったり地位や名誉を求めあくせく働くことなどはむしろ大罪の部類に入る。

だが御勉強の方を頑張り其処で負けた者に対してわたくしは常に優しいつもりでもある。

 

 

3.無知をまずは治すことが大事だ

現代人は今壱般に自分は知識があり利口だとさう思いがちである。

だがむしろ心の知識と云うか知恵と申すかそちらの方面ではほぼ無知の状態を曝け出して居ることが多い。

 

ところがかうして心の智者によりまさに其の点を指摘されると自身の無知が初めて其処に自覚される訳だ。

尚其の3.に関してわたくしは無知なのでは無い。

 

但し1.と2.に関しては無知でよってさう自己規定した上で欲望を履行して来て居る者である。

 

 

 

14日目 ブッダの言葉 (愚近非法 久自焼没)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

本には「苦しいときは過去を振り返って」ともある。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

尚(愚近非法 久自焼没)は『法句経』に出て来る教えである。

 

愚かな侭で居ると法つまり眞理からは隔たった生を歩むこととなりやがては永久に自身を苦しみの業火で焼き滅ぼして仕舞う、の意。

 

さて問題は其の愚かさとは何かと云うことである。

其の愚かだの無知だのと云うことは、世間的な意味での価値判断に従うものでは無いと先にわたくしは述べた。

 

つまりは其の「豊かでより豪華でデカいこと」で世を満たしたいと云う世間的な欲望其のものが其の愚かさ其のものなのだ。

では何故其れがイケナイことなのかと申せば、まさに其れをやると不足が生じ此の世界其れ自體が破壊されて仕舞うからなのだ。

 

 

またつまりは其れが現代文明に於ける現状だと捉えて置く方が良い。

では文明はむしろイケナイことなの?ともしも小中学生にでも問われれば、まさに其はイケナイことだが僕は君の理性だけは信じたいとさう答えることであらう。

 

尤も其の「愚かさ」が社會レヴェルにまで拡大したことこそが近現代社會に対する本質的解釈であり得るのやもしれぬ。

 

其の「過去」の行為の積み重ねがむしろ「現在」を形作り同時に「現在」が「未来」を形作って行く。

故に「現在」に立ち止まり「過去」を振り返ることはむしろ反省を生み出す為の大切な要件だ。

 

 

愚かさ=本質的無知

左様に文明は知識や技術、技能には長けて居るがむしろ本質的暗愚さを抱え持つ。

 

故に理性は常に其れを外側から眺め其の内側には取り込まれぬやうにして置かねばならぬ。

理性はさうして常に其の本質的暗愚さを見詰めかうして只生きてさうして考えることだけに生の喜びを見出すものだ。

 

重要なことは其の「豊かでより豪華でデカいこと」を目指すことでは人間の幸福は決して成就されずむしろ逆効果となることを理性としての目覚めの力にてしかと知ることである。

 

「今の行動もまた未来につながる。未来で後悔しないために生き方を改める」1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

とも本にある。

 

未来は人間の意識にて創り上げられるものなのだ。

人間の意識とは価値観であり分別を行う認識上の価値のことである。

 

其の価値観がそも愚かであり間違って居るのであれば是非其れを正して行かずばなるまい。

つまりはまさに其れが人間の持つ本質的無知を理性的に放逐すると云うことなのだ。

 

 

 

13日目 ブッダの言葉 (怨みは怨みをもってやむことなし)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

佛陀は「怨みを捨ててこそ息む」とかってさう説かれたさうである。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

まさに其れがかってキリスト様が説かれた「汝の敵を愛せよ」と云う言葉と重なる部分ではないか。

 

だから其処でもって何故其の聖なる認識は我我凡夫=ケモノ人間と逆の価値観となるのかと云うことをまずは考えて置かねばなるまい。

普通我我は殴られたら殴り返ししかも倍返しにでもしたらうかとさう思う筈だ。

 

だが君の其の恨みに満ちた心はもはや理性的な認識には非ず。

 

理性的な人はさうして逆に右の頬を殴られたら左の頬を突き出し殴られ放題、つまりはしばかれ放題にされ何時死んでも良いとさう判断するものだ。

でもそんなんではむしろダメでせう?

 

いや其れは其れでひとつの正しい認識なのだ。

だがお釈迦様は其の怨み其れ自體を消せとの仰せである。

 

つまりは理性の力により先に述べたやうな余分な欲望がすでに消されておる。

余分な欲望を持たぬ者はすでに守るべきものが少ない。

 

 

むしろ守るべきものは神佛による教えだけなのだから其れもまた当たり前のことだ。

もう何も持って居らず持って居るものと言えば此の托鉢の鉢ひとつと万年筆が壱本と石が壱つだけだ。

 

ウソだらう?

むしろ沢山其れ等を持って居るではないか!

 

はい、持って居ました。

今後全部売りますので是非御赦し下され。

 

でも他のものはもう全て捨てた。

わたくしはもうケモノ人間にだけはならぬ積もりなのだ。

 

 

さても其の怨みの応酬とはまた生臭い話である。

だが現實に此の世では其の怨みの応酬、やられたらやり返す、まさに自分等を守る為に何処までも闘争すると云うのが普通は当たり前のこととなる訳だ。

 

其処からしても此の社會と云うか世界の価値観が其の宗教だの哲學だのと云った抽象的理性力には従わぬものであることがしかと分からう筈だ。

であるからして其れはまさに獣の世界の論理と同じこととなる訳だ。

 

まさに獣の世界の論理で生きるからこそ「豊かでより豪華でデカいこと」を求めて行って仕舞う。

でも其れでは如何にもはしたない。

 

其れでは理性的にはまるで生きられて居ない。

社會科がさうして國語が零点だ。

 

 

さても其の「捨て去る」と云うこと。

まさに其れが東洋としての放棄の思想でもまたある訳だ。

 

また其れがかの加島 祥造先生の言葉で言うところでの「求めない」ことでもある。

さうしてお釈迦様はまた加島 祥造先生はもはや求められては居ない。

 

矢張り偉い方方の言われることは違う。

加島 祥造先生はかって「求めない」詩集をベストセラーにされたことこそが兎に角偉い。

 

 

求めない

するとより身軽となる

 

求めない

すると自分が持って居ることに気付く

 

求めない

すると「捨て去る」ことの自由さにようやく気付く

 

求めない

するとむしろ豊かになる、デカくもなる、さらに知の核へと至る

 

 

尚以上は加島先生の詩では無く今わたくしが勝手に創作致しましたニセの「求めない」詩です。

とは言え現實的に其の怨みを放逐することは極めて難しいことだらう。

 

ですが多くを望まなければ其の怨みつらみを小さくして行くことは可能であることだらう。

僕の認識論はかうして哲學や宗教、さらに文學などから総合的に良いトコ採りをしたものであり其処はむしろ他力救済のやうなものとなる訳です。

 

故に半分は自分の考えではむしろ無いので決して独善としての認識に陥るやうなものでは無い。

以上聖なる認識はむしろ世間的価値観ー常識として認知される価値観ーとは逆の立場を歩むものであると云うことに就き述べさせて頂きました。

 

現代人に取りおそらくは其の価値観の違いの部分が納得出来ぬことかとは思われますが最終的に理性は全的放棄即ち全消去にまで至るものでありまさに其れが古来より世に伝わる印度の解脱思想の内容でもあった訳だ。