22.野崎 洋光氏の日本料理に対する見解に就いて
其のオリムピックで日本人はかうして頑張り多くのメタルを手にした訳ですがむしろ壱番重要なこととは其のメタル獲得の為の狂乱の様を冷静にー理性的にー見詰めて置くべきことだらう。
何度も繰り返し述べて参りましたやうに人間に取り最も大事なものとは個としての認識です。
其の認識を完成させることこそが眞の意味での理性の目的であり且つ生の目的です。
そんな観点から申せば例え貧乏乞食となるにせよまさに其のことに挑み己が理性を磨き上げることを続けた人のみが人類に於けるプラチナ・メタルの保持者なのだ。
まずは其のことが壱般大衆には分かって居りません。
逆にどーでも良いやうな価値に振り回されて居り其の多くが社會が個に対し課する価値をこそ生きて御座る。
従って眞の意味で理性的な段階に突入致しますれば自然と其の世の風潮とは距離を置き己が価値観の方に比重を移して行くこととなる。
平たく言えば価値観其のものが仙人的、または宗教的なものとなって行くが故に世の風潮に対し批判的且つ否定的となって行かざるを得ぬ。
まさに其れぞ荊の道としての精神の修養であり理性としてのあるべき姿を模索することだらう心理的な闘いです。
尤も其の心の上での闘争を完遂させるにせよ其処では其れが飯の種になる訳でも無くまた👩にモテるやうになる訳でも無い。
まあむしろ其の逆でせう。
其の代わりに宮澤 賢治だのまたお釈迦様の方を自然と向いて行く訳なのだが。
でも我我が宮澤 賢治だのまたお釈迦様の方を向くにせよむしろ其れは損ー現世利益が得られないーなことでせう。
そんなつまらぬものへ心を懸けるのは馬鹿のやることだからもう止めて置け。
ですがほんたうはさうでは無いのです。
馬鹿とはむしろ其の現世利益の方に深く心を結び付けられて仕舞うことなのだ。
現世利益即ちみんなが金のメタルを欲し且つみんなが美女や酒を求め其処でもって酒池肉林の宴に興ずることを其れ即ち悪と言う。
逆に善とは此の世に自己の利益を求めぬことであり其ればかりか他の仕合せを願い自分はあえて其の精神的苦痛を受け持つことだ。
ですので、善人とは逆に世の危機を叫ぶ人達のことだ。
逆に此の世でもって利益を最大限に得やうとする心の働きこそが悪としての心根だらう。
悪は偽善者の仮面を被り此の世の中に紛れて居る。
よって其の悪を見抜く力をこそ是非涵養せねばなるまい。
尚其の善悪弐元論は佛法の考え方其のものではありません。
むしろ壱神教的な価値判断ですが其のキリスト教にせよ元来は善悪弐元論によるものでは無い。
キリスト教はイエス様の教え以降変容し多神教的な要素や其の種の善悪弐元論的な価値観を徐徐に受け容れて行きました。
其れは丁度佛教がやがて大乗化しキリスト教やヒンズー教などの影響を大きく受け変容して行ったことと同じやうなものだ。
要するに宗教の教義は時の経過と共に不純化、非本質化して行かざるを得ないことだらう。
其の流れに抗するものは我の知る限りでは禅宗のみです。
尚地獄や極樂などと云う弐元的価値世界を問題とするやうになるのも其の不純化、非本質化して行く俗的宗教としての言い分なのだらう。
輪廻転生などもまた其の意味での俗世間的な価値ヒエラルキーに結び付けられたものです。
なのではあれ個人的には大衆の教化にむしろ壱番効くのが其の善悪弐元論なのだとわたくしは思う。
特に現代のやうに何が善く何が悪いのかと云う事が至極分かり辛くなって居る其の価値認識の困難さが与えられて居る場合にはまさに其の弐元的価値観こそが効力を保つことだらう。
理性とは其のやうに矛盾を矛盾だと分かった上で猶も其の矛盾に挑み続ける不屈の心の働きのことだ。
さて昨日TVで此の料理人の出て来る大阪の番組を視ましたが其処に大きく示唆を受けました。
結論として言えば「日本料理とはむしろ引き算である」旨にです。
対する日本料理以外の世界の料理はむしろ足し算でせう。
日本料理以外で最も美味いのが中華料理ですが其の中華料理にせよ結局は足し算でせう。
其の野崎氏の料理の仕方を視て居ると驚く程にシンプルです。
其れは具材の数が少ないばかりでは無く調味料の方も至ってシンプルなのだ。
其れでも「壱流」の味を成り立たせて居る其の秘密とは壱體何処にあるのか?
其れは素材の吟味と手間のかけ方にこそあった。
いやむしろ其の素材の吟味以上に手間暇を惜しまず徹底的にやられて居る点が其の「壱流」と弐流、参流の日本食との差なのだ。
尤も弐流、参流の日本食が悪いと言うことでは無い。
即ち「壱流の味」としての価値ヒエラルキーを設定することにはむしろ抵抗感さえもがある。
ですが野崎氏は仰います。
「日本料理とは素材の味を引き出すこと」其のものであるのだと。
素材の味を引き出す為にあえて余計なものを全て削ぎ落として行く。
だが所謂下ごしらえや料理の手順や仕方などには大きく手間をかけ且つ完璧に其れを行う。
なる程、其れはひとつのポリシーであり哲學、つまりはむしろ心のあり方としての問題なのだ。
其の精神即ち心が込められて居るが故に「余分」なものが削ぎ落とされ食材としての本質的な味が其処に立ち現れて来るのだ。
対してあれやこれやとやる西洋料理や中華料理がマズい訳では無くまた其れも美味い訳です。
但しこんな風にある意味でマイナス主義なのは日本料理と南洋の土人が作る土着の料理だけなのだらう。
でも南洋の土人の料理は其れこそ自然の恵みの部分を大切にしては居るが概ね洗練されては居ない。
ですが日本料理はかうして洗練されて居る訳だ。
尤も僕は常に金が無いのでおせち料理以外は日本料理なんぞ食べやしない。
食べやしないのだが、まさに精神的には其の考え方に是非同調させて頂きたい。
翻るに日本文化の根底には其の引き算の思想があることだらう。
されど今かうして「おもてなし」が持て囃され何処でも何時でもおもてなしなのだ。
だがひょっとすれば其れは単なるお節介に過ぎないことなのではないか。
本物の和食文化にはむしろそんな浅薄な理解での「お節介」なことなど無い筈である。
「オ・モ・テ・ナ・シ」だとか何だとアノ小泉の馬鹿息子の外人の血の入った女房が変なことをかって述べて居たものだが實は其れでは至極危険なのだ。
即ち「オ・モ・テ・ナ・シ」に堕するやうでは其の日本刀としての眞のキレ味、おおまさに日本人の精神としての引き算の美学即ち死の美学、其の本質主義であり腹切り主義である完璧なる精神性の世界。
其れの壱體何処が「オ・モ・テ・ナ・シ」なんだ?
元より日本の心とはそんな「おもてなし」などでは無い。
嗚呼まさに其れは精神の藝術だ。
余分なものを極限まで削ぎ落とし料理から物作りにまで至る壱つの精神文化をさうして形成することである。
そんな意味での藝術とはな、所詮はみんなにはついぞ分からぬものなのだ。
いやあ恐ろしい話だ。
恐ろしい話ながらほんたうのことだ。
第壱料理は作る人によりまるで味が変わる。
同じ具材を用いてもまさにピンからキリまでの出来となって仕舞う。
個人的には其れに良く似た世界があると考えまさに其れが精神即ち心の領域なのであらう。
庶民レヴェルに於いてまた藝術家や宗教家のレヴェルに於いて其其に齎される心の中身は異なる。
壱つには其の研ぎ澄まされた思想が自然を良く理解し且つ其れを敬い余分なことを志さぬ訳だ。
だからこそ其の日本の刃物で切り揃えられし刺身こそが美味いのだ。
其れが南洋の土人の石器でもって切り身を作るとまさか其処まで美味くは無いのである。
いや南洋の土人の料理が皆マズい訳では無くまた其れも實に素朴でもって實に美味い筈だ。
つまりは料理は其の素材の味を生かすのが壱番なのだ。
だがさうは言え中華料理程美味いものもまた無い。
其れも酢豚…。
此れが是非食いたくもなる。
待てよ、ニッポンハムの酢豚を確か壱ヵ月ほど前に買って来た筈だ。
其れもタマネギも壱個買って来てある。
やった!
今夜のおかずは其の酢豚だぞよ。
中華料理万歳!
ばか。
今日おまえは日本の精神のことを語って居るのではないか!
まさに其の引き算としての精神の洗練のことを…。
いや僕は印度の🍛と中華料理が正直好きなのだ。
日本料理ならば牛蒡に限る。
牛蒡とワサビのお茶漬け、其れに限る。
うわーまた随分と侘しいお食事で…。
但し牛蒡とワサビと米は常に壱級品でないとダメだ。
其のシンプルで居てしかも極上のものに僕は常に惹かれ続けて来た。
シンプルで居てしかも極上の食材、さらにシンプルで居てしかも極上の精神のあり方…。
其れが壱つには人間としての欲望の限定から可能となることなのではないか。
自然を完璧なものとして捉えむしろ其れを其の侭に頂くのであり人間の観念にて作り込むのでは無いのである。
そんな欲望としての作為を離れ其の尊敬すべき自然に対し謙虚に接しあえて余計なものを削ぎ落として行くこと。
まさに其れが精神の上での引き算なのであらう。
重要なことはむしろ其の引き算からもかうして確かに価値あるものが生まれると云った点である。