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文明批判と美と心の探求と

『文明が不幸をもたらす』クリストファー・ライアン著の書評3

 

『文明が不幸をもたらす』クリストファー・ライアン著の書評3

 

 

 

左様に私は文明を信じ無い者でもあるのだが同時に文明を全的に否定する者なのでも無い。

どだい我はかうして文化人なのである意味では其処でもって「文化の力」なるものを信じて居る。

 

但し浅薄な意味での文化力を信じるのでは無くむしろ文明の眞相を追い求める上での文化の見解に就き信奉して居るのである。

例えば今反戦が唱えられジョン・レノンの「イマジン」などが屡音樂家により演奏されても居るのだが其れは流石に素晴らしい曲で第壱僕はジョン・レノンの熱烈なファンでもまたあるのだけれど其の平和主義に浸るだけでは問題は解決されないとさう理性的に其れを見詰めて居るのである。

 

音樂ー反戦歌ーや絵画ー例えばピカソゲルニカーなどがさうして平和を希求する為のメッセージを発することと同じくしてされどまた其れとは違う形にて文明の齎す暗部や組織の齎す矛盾による其のカラクリを述べることこそが人文知性のむしろ壱番大事な役目なのではなからうか。

 

 

文明が不幸をもたらす :クリストファー・ライアン,鍛原 多惠子|河出書房新社 (kawade.co.jp)

基本的に此の書はまさに其のことを果たす書だとわたくしには感じられる訳だ。

 

心理学者のライアン氏は多くの著作や思想からの引用を多用しつつ此の本の内容を構成されて居る。

つまるところまさに其のことが独善的見解に陥らず「過去から學ぶ」方法論其のものであるやうにわたくしには感じられた。

 

ライアン氏自身は文明に対する懐疑主義者であり其の度合いが可成のレヴェルとなる方であり其処がわたくしの思想的立ち位置にまるで瓜弐つだ。

本を読み進めるにつけ氏が「文明其のもの」つまりは組織其のもの、また文化其のものなどへの根本的な懐疑が次第に顕わとなり其れが最近わたくしが持って居る文明への批判的眼差しと重なるが故に大いに惹き付けられた訳だ。

 

「文明の持つ本質的破壊力が文明其のものを疲弊させまた同時に文明以外のものを破壊するに至る」

と云うやうなことを最近我は屡考えて居り従って文明に対しては懐疑主義者であり其の度合いが可成のレヴェルとなる方の人間、つまりは文明を信じ無い方の最右翼であらう。

 

では何でさうなるのか?

其のことに就き以下に平たく述べてみる。

 

 

ゼレンスキー氏「国家を失いたくない」 英議会演説、拍手鳴りやまず [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル (asahi.com)

だがゼレンスキー氏が言う國家とは元よりゼレンスキー氏のものでは無い訳だ。

またかのプーチンが悪魔であれ露西亜には彼が神に見える人さえもが居るのである。

 

問題はかうした極限的な状況を屡招いて仕舞う近代的な國民國家に巣食う組織の論理である。

即ち其れが國是としての倫理である。

 

言うまでも無く其の論理は最大級である。

故にゼレンスキー氏が例え馬鹿でも其れを國民が支持したとなれば馬鹿がよりデカくなり國是とされる訳だ。

 

またプーチンが悪魔であれ其の支持層は彼を神だと見其の👿の思考こそが國是とされる訳だ。

つまりは其処で悪さをして居るのはゼレンスキー氏やプーチン氏の個としての思想では無く其れを國の思想に変えて仕舞う體制としての矛盾、組織としての矛盾に尽きるのである。

 

 

即ち悪い奴とはむしろ社會なのである。

其は體制であり組織的文化活動、むしろ其の社會活動自體が問題を最大現化するのである。

 

何もそんなデカい土俵に上らずとも良いのに…。

だが普通近代的國民は其の國是こそが大事で個の思想は其れこそ重要では無いとさう思いがちだ。

 

個は小さくてまるで宇宙の塵の如きもので逆に國は偉大であり永遠に続くものだとさう信じても居やう。

だがまずは其の認識こそが間違いだ。

まさに其れを百八十度変えてみよ。

 

 

即ち、

1.僕はさうしてワタシは偉い

2.國が滅ぼうがどうしやうが知ったことじゃない

3.僕は組織には壱切属しません

 

さてでは此のやうな変人は此の度の戦争をどう見て居るのか?

 

4.まず僕にはまるで関係の無いことだ

5.戦争の原因は近代社會、近代文明の仕組み其のものが元々用意して居たものだ。

6.其れは最終的には組織、即ち社會性が抱える自己矛盾であり個にとっては解決不能な課題だ。

 

とさう見て居るのだ。

なので結局最終的には「無視」するのが自己防衛の最善の策とならう。

 

でも諸物価が値上がりし僕等の懐具合を圧迫するわ、またそのうちに覇権主義をやるかの中國が日本を属國とするやうな虞さえもがありますが…。

ソコはアノ大阪のグリコがな、こんなご時世にあえて88円でレトルトカレーを売って居たので其の参種類を買って食ってみたが其れでも何とか腹は膨れるものだ。

 

其れに燃料費の高騰に対しては是非🚙に乗るのを止め自転車でもって何でもやれば其れで良い。

また日本が中國の属國となればアノ広い中國への観光旅行がより気軽に行えるやうになりまた中國語などもやがて話せるやうにならう。

 

第壱日本固有の文化などはほぼ無く八割方は其の中華文明が日本の文化の母胎である。

 

また日本人の國民感情を逆撫でするやうなことを何故述べるのですか?

単に面白いからだよ。

ちなみに僕は大學でもって中國語を履修したのだ。

 

だから自分の名前を中國語で発音することが可能なのだ。

 

 

さて眞面目な話、此の戦禍にせよまた異常気象や温暖化の問題にせよ其の大問題を引き起こして居る事の根本の原因とはまさにデカい抽象的対立なのだ。

 

即ち、

露西亜共産主義イデオロギーウクライナの自由化イデオロギー

近代化のイデオロギー⇔自然の営為

とのことだ。

 

其の「かくあらねばならぬ」と云う抽象的理念が最大の土俵即ちステージにて対立するから悲劇が引き起こされるつまりは全てが破壊されて行く。

其の抽象的概念価値をむしろ最大限に加速させつつ文明を形作る働きこそが近代的原理です。

 

其の近代的原理其のものに謂わば正と負の側面が仕込まれて居り其れは常に等価の形にて現實化して来るものだ。

其れが第弐次世界大戦後は正の側面ばかりが強調され負の側面がなかなか見えては来なかった。

 

 

だが逆に廿壱世紀以降は其の負の側面が加速され顕在化しつつある。

其れは文明による近代化のイデオロギーがより抽象性を高め架空的に齎される価値の世界を増幅させて来たこととも無関係では無いことだらう。

 

其れは確かにさうなのですが、理性はまず其処で立ち止まり冷静な心持でむしろ過去を振り返り其処から教訓を得るべきだらう。

少なくとも熱狂に惑わされて居てはならない。

 

だから其れはたとえ文化的熱狂であれ理性的態度には非ず、だ。

 

 

まず理性とはさうして疑うことを放棄せず簡単には信じ無いことをこそ言う。

信じ無いつまりは疑いつつ全てを見て居る訳だ。

 

近代的原理による最大の成果は「ケモノとしての惨めな生活」からの脱却であり近代的文化的生活への移行であった。

 

第二十五条すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

日本国憲法第25条 - Wikipediaより

 

かやうに健康でありしかも文化的でなければならぬ訳だ。

例えば山の中で🐺や🐗に育てられたならば健康な子には育つが文化的とはまさかならない。

即ち其の文化的な生活であることこそが近現代人にとっての最重要理念である。

 

だが其の理念に対しどんな組織もまた其れを完遂出来ないで居る。

特に貧しい國や紛争に明け暮れる民族的に不安定な國では其れが難しい訳だ。

 

 

即ち其の近代的原理こそが常に具象的に限定されて居ざるを得ぬ。

ところが其れは抽象的原理なのであくまで理念としては生き残りさう規定されて居ざるを得ぬ。

 

やがて國力が衰退するにせよあくまで理念は継続されて行かねばならない。

すると其処で根本的な矛盾が生じて仕舞うこととなる。

 

其の矛盾とは、

理念ー建前としての抽象性ー⇔現實ー本音としての具象性ー

 

とのこととなる。

また其れが組織が抱えるであらう矛盾の本質なのだとも言える。

 

逆に組織が大きくなればなる程に其の矛盾はより大きく顕在化しつまりはよりデカい対立や破壊を齎すことと必然としてなる。

其の社會的に齎される抽象的な価値には元元其のやうな危機が潜んで居る訳でまさに其のことを様々な識者からの引用を絡め論じて居るのが文明が不幸をもたらす :クリストファー・ライアン,鍛原 多惠子|河出書房新社 (kawade.co.jp)の内容であり文明の危機に対する提言なのだ。

 

よって戦争や他のイデオロギー対立、また自然と文明の対立にせよ最終的には其の観念として捉えられる諸価値とそも限定されて居る現實としての諸価値との間に破壊的な力が働いて仕舞うが故にまさに負の遺産としての近代的歴史が刻み込まれて仕舞う訳だ。

 

 

無視⇔同化

 

其れも其の理念に同化すればする程にむしろ其の近代的な理念的矛盾を促進させることになりかねぬ訳だ。

故に其の矛盾をまずは無視し、逆に過去の智恵にこそ學ぶ。

其れが理性が寄って立つところでの冷静な態度である。

 

戦争や紛争は其の理性的な対処の仕方を見失わせて仕舞い易い。

 

だが其の故に戦争や紛争は壱種のユートピアを現出させる。

即ち近代的理念に対してのユートピアを現出させるのだ。

 

だがあくまで最大の被害を被るのは個人である。

近代的理念が血を流し體を吹き飛ばされ肉片と化すのでは無くあくまで個としての人間がさうなる。

 

 

國は敗れやうがどうしやうがまた形を変えて生き残る。

だが死んだ人人は弐度と此の世に戻らない。

 

個としての生命の尊重とはまさにさうした意味でのことなのだ。

文明にせよ其れが滅びへの道を歩んで居るのは自分自身の理念性の矛盾の故であり其れは誰の責任でもまた無いのだ。

 

今其の壱人壱人の生命の重さを感じる為にはむしろ其の社會的に齎される価値の危険性をこそ知らねばならぬ。

故に其れは命が無制限に尊いと云うことでは無い。

 

だが少なくとも其の國家が奉ずる理念的価値よりも個としての命の価値の方がずっと重いとさう断ずるべきだ。

よって為政者が掲げるスローガンなどには決して騙されぬやうに。

 

 

「かくあらねばならぬ」などと云う抽象的理念など實は何処にも無い。

さう規定する法をも含め全てが抽象的に齎される理念である。

 

其の抽象的に齎される理念に対し抗い時には疑惑の目を向けるのが眞の意味での理性の働きだ。

其れと闘わねばならぬと云うのにソーシャルメディアなる下らぬものを視つつ熱狂して居て良いのか?

 

熱狂するならジャイアンツだのタイガースだのまたドラゴンズだの矢張りプロ野球が壱番ではないか。

サッカーなんぞあんなもん視て居て壱體何が面白いのだ?

 

 

尚先にも述べた如くにライアン氏とわたくしの考え方はまさに瓜弐つである。

其れも壱番似て居る点が「文明と云う抽象的営為に元元仕込まれた矛盾」こそが文明破壊の元凶であるとさう見做して居る部分である。

 

ライアン氏もわたくしもすでにソコまでイって仕舞って居りつまりはほとんど文明など信じて居ない頭の中身となって居るのだがライアン氏の場合「私は悲観主義者では無く未来への希望はあると見て居る」と云うやうなことを述べられて居る。

只わたくしの場合は何せショーペンハウアー流ですので未来への展望はもっともっと悲観的なのですが其の「過去から學ぶ」と云うことがもしや今の文明に出来たのならばまた話が変わって来る可能性も僅かではあれ残って居るとさう思う。

 

だが事實上今現代文明が向いて居る方向は未来のことばかりである。

其れは未来の方が必ずや今よりも良くなりしかも過去の惨めなケモノとしての人間の暮らしを完全に放逐するとの盲信、其れも狂信の類がさうさせて居ることなのであらう。

と云うことは文明はむしろ其の変な信仰のお蔭にてブチ壊れるのであらう。

 

 

だから其れは正しい信仰のあり方ではまるで無い。

そんな如何にもバカバカしいソーシャル・メディアだのオンライン・ゲームだのをやって居る暇があるならすぐさま其れを止め哲學書を読むべきだ。

また文學に親しみ古書店へと通いなされ。

 

要するに文明は今其の方向性が完全に狂って居る。

其れは露西亜ウクライナと云う限定された問題なのでは無くむしろ文明全体が抱えて居る大問題だ。

 

で、アンタは壱體何が反対なの?

日本共産党のやうにスッカリ戦争反対のイマジン主義者なので?

 

違います。

あくまで僕の場合は「文明反対!」です。

 

「文明反対!」

「自然へと戻れ!」

 

 

もしや其れは倉本聰 - Wikipedia氏や畑正憲 - Wikipedia氏の思想と瓜弐つなのでは?

「瓜が弐つ」じゃ無い。

 

もっと學問的な意味での文明反対であり自然回帰なのだ。

其れにしても爺作家共が皆こんなに長生きです。

 

きっと我我還暦世代とは異なり苛烈な靑年期を送り何かと打たれ強いのやもしれません。

 

其の抽象的価値は構築度が強くあり其れに麻痺し壱旦中毒化すると脱け出せぬ傾向が高くあるやうだ。

要するに其れが壱種の洗脳状態です。

 

ですが本物の理性は何せ疑いが強くあるので其のやうには洗脳されることが無い。

其れは抽象的価値とは其れこそ抽象的距離を常に取って居ると云うことだ。

 

そんな抽象的に齎される理念には踊らされること無くつまりは組織の論理には屈せず其の近代的信仰自體をも疑ってかかること。

まさに其れが理性的態度であり認識を自立化させることの秘訣でせう。