故渡辺 京二先生の著作から読み解く「近代の呪い」ー「近代」其れ自體への懐疑的な眼差しと現代社會による罪業の御話ー
授業中に生徒3人の尻を触る 中学教諭を懲戒免職処分に 神奈川 (msn.com)
壱言で言えば「公的秩序」の崩壊のやうなものが此処🗾國ではたった今蔓延して居り其の理由は主に「🗾の近代化の失敗」であるとさうわたくしは考えて來て居る。
つまりはそも日本型の體制が特殊であり其れが「近代社會」にもまた「民主主義」にも合って居なかったとのことなのだらう。
と其のやうに理屈にて言えばさうなりますがたとえさうなのだとしてもすでに其れはどうにもならんことですのでさう云う本質的な意味での論議ではむしろ無く自分に取り「価値ある時間」をなるべく生きて行かうと云うのがわたくしの論理での要旨です。
でもって其の「🏔へ逃げる」とのことは自分に取り最も「価値ある時間」となることですので其れは其れで目標としてあくまで成立致す価値となる。
後期高齢者のハードル越えよ 有名人の死を考える 「若いことは素晴らしい」の論調は危険 心が急激な老化を受け入れられず生活に変調 食生活、日常運動、睡眠で改善を (msn.com)
此の問題にせよまさに深読みを致しますれば「現代人は洗脳によりすでに老いを受け容れられない」との命題が出て参りますがまた其れとは別に是非實存側での論理を優先しつつ其の「老後」を生き抜いて行く方が良いことだらう。
ですがもはや還暦を過ぎればニンゲンは「何時死んだとしてもおかしくない」のであります。
どだい還暦を過ぎればニンゲンはすでに何らかのことを成就させて來ても居る。
例えばわたくしの如き變人ですら、
1.哲學的思考に於ける完成
2.万年筆コレクターとしての成就
3.石コレクターとしての成就
との目的を不完全ながら壱応は成し遂げて來ても居る。
但し其れが、
4.👪主義
5.地位や名誉
6.資産形成
とのむしろ皆様が欲する価値とは逆方向になって居るダケの話です。
ですので其の實存に取り「やりたい事」がやれればもはや其れ以上は望み得ぬ「幸福」をさえ手にして來ても居る。
また其のことは其れこそ個としての知能レヴェルや性格による認識法の違いにより異なるのです。
でもってむしろ壱番幸福なのはわたくしの場合さう「🏔へと逃げる」ことなのだ。
そんな🏔の中で好きなベートーヴェンのピアノ・ソナタでも聴きながら俗界を軽蔑の眼差しでもって見下しそんな「仙人」をすることだけがまあ理想と言えば理想なのであります。
またつまりは価値観は共有されず本質的には其れ其れに「違う」ものです。
大衆社會はむしろ価値観の共有を前提とするものでせうが實際には其れは「ウソの共感」を招くばかりでのものともなる。
特にわたくしの場合はすでに「内宇宙」の保持者ですので其れには共感も何も無く只其れダケでもってつまりは其れしかありませんのです。
まあさう云うことを言うとかっての「オノ・ヨーコ」さんのやうに「全世界を敵に回す」可能性がまた高くもなりますのですが。
其れと好きなことに強く拘る位の方が老後のモチベーションを高めることにも繋がりませう。
其れも「酒池肉林」とギャンブル浸け以外のことならどんな分野のことでもまた良い。
さうして好きなことがあるから「やる気」が出るのでありイヤなことばかりではほぼ「やる気」になどならず。
「私どもの勉強は、ただ本当のところを知るため」……『逝きし世の面影』で知られた思想史家、渡辺京二さん、魂の書簡集 (msn.com)
其の渡辺 京二先生こそが自分の尊敬する「理性」としての御壱人です。
他にも西部 邁先生や佐伯 啓史先生などからもかって深く影響を受けました。
「ほんたうのところ」
さう學問とは其のことを知るが為にのみ本來有ることだ。
但し其の「ほんたうのところ」はまず役には立ちません。
逆に此の世で役に立つのは「誤魔化し」だの「無節操」だの「厚顔無恥」と言った類での「惡」の要素である。
要するに此の世には「本質的」な意味で「善」だの「眞理」だのとの本質的な価値がむしろ通らない。
まさに其のことがおそらくは此の世の實相であり逆に申せば「眞理」なのです。
故に「さう云うものだ」とさう達観するより他はなくなります。
ですので後はむしろどう其の不条理だの矛盾の様と個として向き合うかと云う部分にこそ心理的課題は帰結する。
7.「思想的」に其の「惡」と闘う
8.「惡」とはあえて闘わずに創造的に自我を歩む
9.「惡」を放棄し「逃げ」をうつ
「ほんたうのところ」
其の本質主義にはまた弐面があり「闘う」か其れとも「放棄する」かです。
ですが出來得れば其れもまた双方をして行く方が良い。
また上での参要素を同時にやってもまた良いのではなからうか。
こんな「参位壱體だー!」とかさう叫びつつ其れをやれるのはもう「天才」か「アホウ」かのどちらかでせう。
ところで渡辺 京二先生の著作からかって感銘を受けたことがあり其れは「明治時代初期での🗾國民の國民としての自覚の無さ」とのことであった。
先生は「結局民とはさうしたもの」なのであり別に「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に日日を生きるのでは無い、と云うやうなことを著作中に述べられて居た。
其のことはまさに仰る通りでのことです。
我我庶民は別に文明を常に「進歩」させたい訳でもまた「富國強兵」に勤しみたいのでも無い。
只飯を食う自由と物に耽溺する自由と女房子供を大事にしたい自由を得んが為にやりたくもないのに「文明」の壱員とされそいでもってセッセと會社へと出向き日銭を稼いで居るだけのことなのだから。
また「天皇陛下」の為に死ぬ奴など昔からむしろ居らず最終的には母ちゃんや妻や子の名前を連呼しつつさうしてかの零戦にて敵艦に體当たりをし果てたのでした。
左様にまずは其の「國家」と云う強大なる権力基盤の持つ悪夢性に関し渡辺先生は鋭い洞察を働かされ且つ結果的に其処でもって「庶民としてのニンゲンを救って」居られるやうにも思われた。
即ちニンゲンは決して文明だの國家だのの為に生きている訳では元より無い。
ですが渡辺先生は同時に「國家の解體」はなし得ないことだとさう其処に述べられて居たのです。
尚わたくしは理想論の保持者としてはあくまでアナキストなのですが其のことが為し得ぬ社會の變革であること位はまた同時に良く分かっても居ます。
ですが其処にてよーく考えてみればすぐに分かることながら「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に日日を生きろとさう強要するであらう國家乃至は文明の価値観は明らかに誤って居り何故なら其れを突き詰めて行くことで庶民としての生活はまさに其の価値の為に圧迫され且つ剥奪、搾取されるに及ぶからなのだ。
そんなデカい価値の為に圧迫され且つ剥奪、搾取され其れでも國をまた文明を続けて行けるのであらうや?
そんなデカい価値の為に圧迫されるのは例えば具體的に言えば派遣社員や中小企業の勞働者の方方などだ。
おおまさに其処に居場所のある方方はむしろ「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に生涯コキ使われおまけに其の給金の方が大企業のやうに恵まれては居ない。
こんな理不尽で且つ腐った社會はいっそのこと壱編「革命」でもしたった方が良くはないのか?
いや別に渡辺先生は其の「革命主義者」なのではまるでありませんのですが。
渡辺先生はむしろさうして共産主義運動に絶望し転向した上で古き良き🗾の様を追い求めて行かれた保守派としての論客の方でした。
嗚呼さう言えば西部 邁先生や佐伯 啓史先生などもまた其のことはまるで同様でありまた現在の有名人では田原 総一朗氏などもまた其れに当たることかと思われる。
ですが左翼運動に関わり其れに絶望したのであれば少なくとも「國家」が行うであらう「個」への圧迫や横暴の様に関し人壱倍「敏感」なのでもあったことでせう。
尚個人的にはすでに其の「思想」をも放棄して居りましてどちらかと申せば上で云う8.と9.の部分に邁進して居ると云うのがまさに自分としての精神的な立ち位置です。
わたくしはかうして思想的な部分の強くあるニンゲンですが還暦を過ぎてからはむしろ「創造性」の方をより重視したくさう思い直しましたのです。
さうして「思想的」なもので内心の安定を得やうとする試み其れ自體に實は「無理」が生じる。
其の「無理」とはまさに抽象性の齎す罠のことであり且つ観念に於けるイデオロギー的展開での限界と云うこととなる。
さう「デカい思惑」のやうなものには逆に強い「限定性」の部分が突き付けられ易い。
また「近代」などと云う歴史的な過程に於けるイデオロギーであるにせよまさに同様なこととなる。
ならばそも「イデオロギー」などは要らんからまた🐒にでも戻ればエエのではないか?
ですが何せニンゲンはすでにニンゲンですので其の🐵にはまさか戻れないのです。
まあ其れも🐒のやうな人は何処にでもまたイラッシャイますのですが…。
でも渡辺先生をはじめ思想家の方方はまさに其の「思想」こそが御仕事ですので上での7.の方をやられて行かざるを得ない。
かと言って其の「思想」が最終的に「役に立たぬ」訳ではなくむしろ「役立つ」のです。
要するにニンゲンの文明に對する精神的な態度を涵養するべく必然的に學ばねばならぬものこそがまさに其の「思想的領域」のこととならう。
ですが無論のこと其のこともまた自ら進んで「御勉強」を重ねて行かぬ限りはまるで見えては來ぬこととなる。
渡辺京二さんの『逝きし世の面影』に対する思い|じんぶん堂 (asahi.com)
さう江戸文化への憧憬のやうなものが此処からは伝わって來る。
尚わたくしの愛読書とはまさにコレです。
實際此の本を再読する度に常に少しは気分が晴れる。
されど其の内容はむしろ思い切りに「近代」其れ自體への懐疑的な眼差しが投げかけられて居る。
要するにコレは我が國に於ける「近代化」の意味とまた世界に於ける「近代化」の流れに根底より疑問符を突き付けるが如き論評となる。
またわたくし個人もまた此の「近代化」の意味を其れも其の根底より問うて來た壱理性です。
でもって渡辺先生の説同様に其の「近代化」の流れには如何ともし難き「呪い」が込められて居るものとさう結論せざるを得ません。
但しわたくしの場合には最終的に近代に於ける「ヒエラルキー秩序」のあり方に大きく問題が生じて居ることに気付きましたのです。
よって其の「ヒエラルキー解體論」にて近代社會其れ自體と闘うとでも申しますか兎に角其の部分にて精神的に「社會」と闘うことをして参りました。
また繰り返しとはなりますが此の著作中で渡辺先生は「🗾の大衆の自己本位で身勝手な様」をむしろ良い意味で捉えられて居る点こそが個人的に「衝撃的」に感ぜられた。
ですので善惡で言えば先生は決して大衆を惡とは見なされて居らず逆にそんな「近代の呪い」に雁字搦めな國だの體制の側の方の非に就き其処にて論じられて居るのです。
また其の部分は明らかに左翼的な発想でもあることでせう。
さて現在わたくしは「近現代文明」自體に大きく問題があるのでありよって民人の側には特に問題が無いとさう考えつつあります。
また其のことは所謂判官贔屓であるとかむしろさうしたことでは無く「實際」に其れがさうなって居て特に政治家などがまたコソコソと私腹を肥やしたり権力を独り占めしやうとなどするのですが無論のこと其れは誤りでありだから彼等は是非壱度「断頭」されてしかるべきなのです。
また「ふしだら」な👩などもまた政治家に多いものです。
無論のことコレなどは不義密通の咎にて「獄門」の刑に是非処して置くべきでせう。
尚個人的に、
10.「抽象的観念」の暴走
11.「本質主義」の堕落
12.「自然」界の奴隷化
の参点がまさに自分なりに考えるところでの「近代の呪い」であるやうに感ぜられて居る。
特に10.と12.の内容はほぼイコールでのことでせう。
何故なら「観念」は「自然」界のものではあくまで無いが故に。
また其のことを脳科学的に言えば「大脳旧皮質」と「大脳新皮質」との「對立」であり且つニンゲンに取り乗り越えられぬ「矛盾」であり「壁」とのこととなる。
いずれにせよ素朴な気持ちから言えばかうして良書に巡り合えたことこそが我が生涯に於ける壱番の精神的な意味での寶であったのだと言える。
渡辺京二「近代の呪い」(5)第4話「近代のふたつの呪い」 - jmiyazaの日記(日々平安録2) (hatenablog.com)
尚こちらには此の著作の結論部分への詳しい解説があるので興味のある方は是非参考にして頂きたい。
また其の國民國家としての経済的膨張主義ー経済成長主義ーと「人工化」なるものはむしろイコールとしての概念でありよってわたくしの場合には其れを10.及び12.として並べて居るのである。
また其のことは最終的につい「観念化」するとのニンゲンにしか許されぬ認識上の「癖」の部分に帰結するであらう問題となる。
其のことはまた「観念化」することが吉=善と出るか其れとも其の逆に凶=惡と出るかとの瀬戸際のことなのでありとりあえず渡辺先生や其れにわたくし個人はまさに其のことを「凶=惡」だとさう捉えて居るのである。
精神のあり方とはまさにそんなものであり「考えが似た者同士は惹き合い理解される」が「考えが逆方向の者は貶し合いまるでもって理解されず」の状態に陥るものと相場は決まっておる。
でもって11.の部分に関して實は昨日述べたことなどがまた効いて來る。
即ち「内向的」な天才達を社會が登用して來なかったからこそこんなんとなり要するにかうしっちゃかめっちゃかでもって所謂「ケジメ」のつかぬ世の中となりつつある。
まさに其のことは其の事の本質的要件に関し考える力が有る天才的能力をあえて現代社會が切り捨てて來しことへの「ツケ」でありおおまさに「罪」の部分なのだ。