目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな「具象的限定」の哲理に就いてー「自然の摂理」としての認識上の弐項對立の超克の仕方に就いてー

そんな「具象的限定」の哲理に就いてー「自然の摂理」としての認識上の弐項對立の超克の仕方に就いてー

 

 

 

 

小沢一郎氏「国民怒らないと国が壊れる」自民党裏金問題「普通なら政権交代当たり前の腐敗政治」 (msn.com)

元外務審議官・田中均さん、岸田首相は「自己保身に走っている」と猛批判「当事者意識も当事者能力もなく…」 (msn.com)

 

色んな人が様様なことを言い其の内容は至極御尤もながら所詮其れは本質的な意味での批判には当たらない。

では逆に本質とは何だとさう考えれば其れはズバリ申して「🗾人の意思決定の特殊性」の部分であらう。

 

「大きいトコで動けない」

「怒らない」

「非観念的でつまりは感覚的」=「極めて具象的で且つ具體的」

「結局こんなもんだ」

 

つまりはそんな意思決定の世界=認識の世界を今まさに生きるのが🗾人の通念であり「常識」の世界なのだからして。

 

でもってさうした精神のあり方は結果「デカいところでの不利益」を生み其のことが「しっぺ返し」として國民の側に戻って來るものだ。

だからもうさう云う事勿れ主義で且つ日和見主義なのは止めて例えば観念武装化し「革命」を目指さうなどと云うのが此の國の思想の壱部には無いでも無いのですが其れは多分出來やせぬ。

 

ではどうしたら良いのか?

 

良いも惡いも多分「コレで良い」のだ。

其の「多分」のところを出す迄に大學の社會學の先生並みにおそらく思考を積み重ねて居るのですがとりあえずは「コレで良い」のだ。

 

ではそも何故良いのか?

 

「非観念的でつまりは感覚的」=「極めて具象的で且つ具體的」=「現世利益主義」

 

まずは此のことをこそ導き出せねばなるまい。

即ち其の「現世利益主義」は良いか惡いかとの問題となる。

 

其れは「良い」とさう見なければなるまい。

但し國家が滅ぶ危険性は往往にして其処に出て來やう。

 

例えば戦時中の「全體主義」が其の具體例である。

 

でも國家が滅ぶことよりも實は個としての實存的価値が生き延びることの方がより大事である。

でもって實際にかって大戦に負け此処🗾は國家としては滅んだが結果別の體制を得てしかと再生して居る。

 

 

「怒らない」=「社會に對し常に従属的」

 

尚此のことなども壱見バカもエエトコに見えるのですが實は「知恵者」の生き方其のものなのだ。

でもって例えば我みたくに常に「怒ってる」と結果「村八分」になって仕舞いがちなのだ。

 

だから「怒らない」=「社會に對し常に従属的」なことこそがむしろのらりくらりと「困難」や「苦境」を回避することに繋がりまたみんなでもって壱緒に「樂」がやれることにも繋がる訳です。

でも其れは「全體主義」だらうと頭の良い方などがさう申されるが其のこともまたより本質的には「全體主義」だらうと何だらうと何でもエエんです。

 

要するにさう「今」ダケにしがみ付いてさう生きて居るので難しい話などはどうでもエエんです。

 

 

「大きいトコで動けない」

 

🗾の民はそも「議論」をしないので「思想」なんて無く其の代わりに「世間體と云う空気」に支配され生きても居られやう。

また其の「世間體と云う空気」に「思想」なんて無いのでどういう風に變わるかも何も無く兎に角さう最初から何も無いのだからそも動きやうが無い。

 

またいざ動くと「難儀」ですしね。

さう頭は使えば使う程「難儀」であり要するに多大なエネルギーを浪費する。

 

だからまあ其の動かないのはある意味で省エネであり且つ「達観」ですらもがある。

 

 

「結局こんなもんだ」

 

結果として世界で唯壱こんな「達観」に到達したのがまさに🗾人の意思決定過程である。

🗾人の意思決定過程はほぼ「禅の境地」に迄をも達して居りよってすでに何があらうが動じることが無い。

 

だけれどもそんな🗾人は生活を「諦めた」訳には非ず。

むしろ🗾人は生活を愛し育み其れ即ち其処に人生の意義を深く感じどんな些細なことも疎かにせず其の生きる上での技術をこそ高めて行く。

 

例えば職人の生き方がまさにそんな生き方であらう。

また🗾の農村や漁村のあり方こそがまさにそんな生き方なのだ。

 

さらに工場勤めの人人や兎に角中小企業でもって何でもやりつつ日日を生きる方方などが。

おおまさにそんな🗾の民人が「結局こんなもんだ」とさう思うのはむしろ其の日日の實存的闘争を守らんが為の心理的反射であり防衛なのだ。

 

故に基本的に庶民の方の「思想」のあり方の方がむしろ高度なのである。

逆に政治家や官僚やまた日銀は「思想」が低級でありそも其れが低級だからこそ何もかもが上手く行かんのである。

 

 

「デカいモンに限りバカ」

 

けだし其れが眞理であり眞實なのだ。

 

でもってキシダはむしろ良くやってる。

だが🗾の體制の癖としてそんな「バカ」がついつい出るのでドドドドドドドドドーン!とさうデカいモンが崩れて行かざるを得ぬ。

 

 

「🗾人の意思決定の特殊性」

 

其の意思決定の特殊性に就き善惡又は良し惡しの部分で判断するならば個人的には「善」であり「良し」の方へと判断が傾きつつある。

其れは🗾の大衆の「生の足掻き」の部分を何より支持するからなのだ。

 

其の「生の足掻き」はほぼ動物としての本能の部分で履行されることであらう「實存としての足掻き」のことぞ。

其の本能の正当性に就きどんな観念もまたどんな思想ーイデオロギーーも干渉することなどは出來やせぬ。

 

「生きる」こととはまさにそんな意味での「壱発勝負」の世界のことで政治や行政の腐敗やさらに不穏な世界情勢がまさか踏み込めぬことだらう壱種の聖域ですらあるのだから。

 

 

「老後ひとり暮らし」危険な人が住む部屋の共通点 生前整理・遺品整理の専門家が見る「ポイント」 (msn.com)

 

さて此のところ我は物との関係に於ける「人間の幸福」のあり方に就き継続し考えて來て居ります。

ところでそも此の世はまさに物的に「過剰と欠乏」とが織り成すであらう極端な世界なのだらう。

 

故に其れはさうさう甘いものでは無い。

過剰ならば過剰でさうして「💎ジャラジャラ」となり貧乏の方もまた其れが極まれば日日の糧にも困るのです。

 

其れはさうして仕舞う社會のせいだとまたさうも言えるのだが此の社會は基本的に變わりやうが無いと云うのが近頃の自分の認識である。

ではどうすればモノと自分との適切な関係を築けるのかと言えばまず壱つには「断捨離」し物の数を減らすことでせう。

 

實際に私は昨年よりまた其の「断捨離」をして來ても居る。

さう「断捨離」をし求める古い🖊に變えて行って居る。

 

すると所有するペンの本数がそも減ることとなる。

ですが其のことはもっともっと徹底し行うべきことでもある訳です。

 

 

また同時に複数の物を合體させ新たな価値を生み出すことなども自分に限り得意な分野となる。

特に🖋に於いて其れが得意ですが筆記具に限らず例えば数珠の桐箱を流用しペンケースにしてみたりとつまりは創意工夫にてより上質な物を身の周りに置くことが可能となる。

 

問題は其のやうにして物の世界はほぼヒエラルキー化される世界だとのこととなる。

ですが其れは金銭的価値や評価による価値が全てなのではむしろ無い。

 

むしろ其れには拘らずに「實存」としての「場」や「物語」の方を重視すれば自分に取りほんたうの意味で「手放せぬ」物が見えても來る筈だ。

 

其のことをするが為にもまずは物の整理整頓が不可欠なこととならう。

何故なら「整理整頓」はなかなか出來ぬことだからなのです。

 

むしろ「整理整頓」をすればする程に自らが「物を持ち過ぎて」居ることが良く分かる。

「物を持ち過ぎて」居ることの半分位は社會的な責任ー所謂資本による大量消費ーですが後の半分は其のことに慣れ過ぎた自分の責任です。

 

「整理整頓」をすればする程に自分がむしろ選択肢として「解放」されて行くこととなり同時に「過去」の価値の再評価などにもまた繋がる。

ですので別に「老人」であるかどうかまた「独り暮らし」であるかどうかに関わらず其れを是非すべきことなのです。

 

 

「過剰と欠乏」

 

物との関係に於いて我我人間は大抵が其のどちらかへと傾きます。

故に「理性的」に其処に平衝関係を築かねばならぬのですが其れがやれる人はまず居ません。

 

例えば御釈迦様などは其の事を同時否定されどちらにも偏らぬ認識をかって實現された訳ですが其れは普通人間技では無いのである。

またイエス様は其の逆をむしろおやりとなり其の偏った認識をむしろ其の侭に「神の認識の次元」へと格上げすることをこそ為されて行く。

 

所詮は其れもまた人間技では無いのですがどちらかと申せばイエス様の方法論の方が我我凡人に取りよりやり易くはある訳です。

故に🗾の佛法はほぼ須らく壱神教化した佛法(大乗佛法)の方へと移り變わって行くのです。

 

ではわたくし自身はどちらを選ぶのかと申せば實はどちらも選びません。

わたくしの場合はあくまで両極の同時肯定でありモノ其れ自體を生きるとの「物的思想」の成就を目指すのです。

 

そんな両極の同時肯定は佛法に取りまたクリスト教にせよズバリ申せば「邪教としての範疇」のものですがわたくしの場合にはあくまでかうして長年に亘り物と付き合ううちに築かれた哲學的内容ですので其れを譲る訳にはまさか参りません。

 

 

「過剰と欠乏」

 

兎に角此の弐点の要素こそが人間の物質に對する認識上の誤りであり且つ人間社會のミスなのです。

ですが人間社會は個とはまた別物ですのでどんなに天才的な人がかうせよとさう言ったにせよまず直るものでは御座りません。

 

またネット上でもそんな天才的な人がたまに居られ其処にて色んなことを言うて居られやうが其れもとどのつまりは社會がそもバカなんでそんなものはまさか直りゃあせぬ。

だからむしろ「自分でもってパラダイス」を創る、そんな「パラダイム・シフト」はまず自分から行う、との思想のことをあえてわたくしは述べて居りますのです。

 

こんなバカ社會に居ってはそもバカが移るだけですよまさに其の馬鹿こそが。

其れも馬鹿とは🐎と🦌のことで🐒やニンゲンのことではついぞ無い筈なのだが。

 

 

「物的思想」

 

とはまずは物に寄りかかるだらう「精神」を形作ると云うものです。

ですので其れは所謂「宗教に於ける教義」とは異なるある意味では即物的な思想であり且つ見解です。

 

あくまで「精神」を形作るのであれ逆に物の方へと擦り寄って行きます。

つまりは逆方向をあえて攻めて行くのである。

 

ところが物其のものに寄り添う為にはむしろ物を捨ててかからねばならん。

要するに物を知るには物に欠乏せよとのまるで禅問答のやうな御話の部分をあえてしてみますのです。

 

また其れと同時に「贅澤」もまた同時に追求しませんと物の贅澤さの部分がむしろ分かりません。

そんな「贅澤」と「欠乏」の部分を兎に角同時にやります。

 

すると例えば此処での話の如くに「Jinhao」と「蒔絵万年筆」の話が交互に出て來たりもまたする。

またあさくまのハンバーグ🍱と永谷園の梅干し茶漬けの話がまた交互に出ても参ることとなる。

 

要するに其れー両極ーを常に同時に行うのだ。

 

また金持ちと貧乏を常に両義的に捉えて行くのである。

 

例えば金持ちはカネに捉われるが故に精神的にはむしろ不自由で要するに心が貧しい。

また例えば川原の人ー「洞窟おじさん」のやうな人ーはカネに捉われぬが故にむしろ心が自由で動物達とも常に會話したりすることが出來る。

 

ですがわたくしの場合はまた其の価値と申すか心理的性質にあえて両義的に向き直るのです。

また軽自動車とスーパーカーとを同時に欲しがれば其れでもって宜しい。

 

 

まあわたくしの価値観は余人にはほぼ理解されぬものでもまたあるのやもしれんがわたくしはかの信長公の霊の力を借り實際に此処🗾の令和の時代に其れをやり続けて來て居るのである。

 

そんな「物的思想」に於いてまずは見えて來るのが眞の意味での物の「価値」であり且つ「美」です。

其の「美」は両極に偏らずしてしかも同時に其れ等を見詰めるとの認識上の姿勢より齎されるものとなる。

 

また「物的思想」とは古來より続く此処🗾の伝統的価値観の部分と相性が良いのであります。

ですが其の場合にもむしろ好んで「革命思想」などを學び其の合理的姿勢よりまずは気付きを得ねばなるまい。

 

要するにさう諸価値の両極に亘り「俯瞰視」するとのこととなる。

 

 

其の俯瞰視とは元來「神の御業」のことですがこと「物の次元」に限れば其れをタダのニンゲンがやれぬ訳でも無いのです。

但し社會的な制約の部分が常に其の認識の幅をむしろ狭め所謂相對的に決められた「絶對的価値領域」を我我個に對し強いつまりはさう「洗脳」するに及ぶ。

 

なのでまずは其の社會による「洗脳」を解かんが為にも其のやうにより幅広い価値認識を努めて行う必要がある。

 

と其のやうにまずは「思想」をこそ組み立てて置かねばなりません。

なんとなればニンゲンとは所詮「思想」にて動く動物なのであり其れもまさか「即物的」になど生きられやせぬ現象なのだから故に。

 

其の己が「思想」さえ出來れば後はむしろ樂となる。

何故ならあくまで「個」が「思想」的に物や社會と向き合う訳ですので。

 

 

其処にはすでに「自分軸」が形成され「他に煩わされることの無い」価値観こそが形成されて居る。

 

本質的な意味での「人間の幸福」を形作るであらう要件の大部分がむしろ其の「自分軸」の形成であり現代社會ー文明世界ーに對する批判的眼差しであり且つ其れへの否定です。

ですが其の「物」の次元に限り文明の諸価値を全否定するには及ばなくもなる。

 

イザさう観念的営為を離れ具象的に限定すれば「否定」と云う価値其のものが相對化され要するに意味をなさなくなるのですから。

尚今回は相当に難しい話ー観念的に高度な御話ーをあえてさせて頂きました。

 

ですが要は観念は物化する必要が有り且つ物は観念化する必要が有るとのそんな因果な関係のことを述べたことなのであり其れがつまりは「精神と物質」に関する哲學的次元での御話なのです。

 

精神⇔物質

 

此の両義性の部分もまた分けた侭に共に深く掘り下げ見詰めることが大事なのであり其のドチラが偉いとかドチラがより必要だとの御話ではそも無いのであります。

 

故にズバリ申して其の両義には縁起的関係が常に存して居る。

縁起的関係が有ですので無いのでは無く有りまた精神単独且つ物質単独で其れ等を語ることが出來ぬ訳です。

 

👩⇔👨

 

こんなことでもまさにさうで其処では縁起的関係が有ですので男女差は無いのでは無く有りまた🚺単独且つ🚹単独で其れ等を語ることが出來ぬのです。

 

宇宙⇔個

 

こんなことでもまさにさうで其処では縁起的関係が有ですので宇宙と個の差は無いのでは無く有りまた宇宙単独且つ個単独で其れ等を語ることが出來ぬのです。

 

「具象的限定」とは常にさうして現象的次元にて縁起的関係を認める立場のことでありよって其れは佛法ともまたクリスト教とも違うことだらう謂わば其れ以前での哲理であり法則のことでありつまりは「自然の摂理」のやうなものに就き語ったものなのです。

 

イザさうして「自然の摂理」の内側に入ればまずは動植物との會話さえもが可能とならう。

さらに人間界を俯瞰視しつつ其れに就き語ることさえもが可能となる。

 

要するに壱見「超能力」化されるかのやうですが實はさうでは無くあくまで事象を具象化し謂わば前の認識段階へと戻るダケのことなのだ。

 

「現象的次元にて縁起的関係を認める」

 

※参考資料

 

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第三章「時間的縁起・空間的縁起について」 (oujyouin.com)

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第四章「論理的縁起について」 (oujyouin.com)

 

さてこちらの参考文献こそが我が佛法に於ける心の師である臨済宗の川口 英俊師が御書きになったものです。

ですが此の施本の内容は相当に難解であり自分は頭が良いとさう思われて居る方に限り其の読解に是非挑戦してみて下され。

 

其の内容には正直何を言うてるのかが分からん部分などもまた御座ります。

ですがもしもアナタが「天才」ならむしろ樂に分かるであらう内容です。

 

兎に角私には分からぬところがどうしても出て参りますのですが。

 

個人的にはどんな坊様の説法を聴くよりもわたくしの頭にはコレこそが効きます。

わたくしの頭はもうコレにこそ首ったけでほぼコレの隷属状態です。

 

兎に角佛法と云うものの理論面を軽視すべきではありません。

御釈迦様御自身がまさに其の理論家でありつまりは当時の宗教的哲學者であらせられた訳です。

 

其れもイザ佛法と云うものの理論面を軽視すれば其れはほぼクリスト教の如きもので本物の佛法だとはまさか言えぬものともならう。

 

「相對弐元論」

「相互依存関係」

「相依相関関係」

 

との言葉が出て來ますが其の事は常にわたくしが此処にて述べても居ることです。

要するに縁起する現象に就き個別的に實體性が無いことをそも述べたことです。

 

また其のことがかって御釈迦様が述べられたところでの佛法上の「眞理」とされる部分となる。

 

そも「縁起する現象に就き實體性が無い」のに我我ニンゲンやさらに言えば🐒位迄はまた🐈も🐕も其れを主に實體視致して居ります。

であるが故にまさに其れが「認識上の誤謬」とのこととならざるを得ぬ。

 

ですがニンゲンばかりでは無く實はどんなドーブツであれまあ似たやうなものなのだった。

が、ニンゲンの場合はより酷い思い込みをして居る可能性がまた高く御座らう。

 

また植物はでは助かって居るかとさう申せば其れもむしろ助かって居ない可能性の方がより高いことでせう。

要するに生命現象其のものがそんな認識上の「誤謬」であり「倒錯」なのだ。

 

であるからこそ修行し「解脱」を目指すのであり逆に生命現象其のものが「正解」であり「正常」なのであればむしろそんな解脱しやうとする奴こそが完全に異常者でせう。

ですのでまずは其のことが🗾の佛教徒には遍く知られて居ない。

 

まさに其処のところこそがまずは問題なのです。

 

 

「實體」=「物自體」

 

カントによる認識論と佛法の教義をあえて組み合わせればまさにさうなる。

またカントによる認識論ではニンゲンは「物自體」を認識することが出來ぬこととなる。

 

「實體が無い」=「夢幻での空」の世界

つまりはニンゲンのまた生命の認識上の癖にて「實體の無い變な世界」をむしろほんたうの世界として認識して仕舞って居るのだ。

 

ですが「實體の無い變な世界」を其の侭にやって行けばむしろドンドン世界其のものが惡くなります。

でもってたった今世界はもうほんたうにどうしやうも無いものとなりつつある。

 

でもってあえて「絶望」させるやうですが佛法に於いてもまたクリスト教に於いてもニンゲンの認識が正しいものだとはされて居らずむしろ其れが「惡い」ものとさう決め付けられても居る。

ではもはやどうにもなりませんわ。

 

 

さうなんだ、ほぼどうにもなりませんわ。

ですがであるからこそクリスト教ではニンゲンの認識を神様へと丸投げすることで救われやうとするのです。

 

またであるからこそ御釈迦様はニンゲンの認識を根本的に變化させもうそんなニンゲンであることを辞めやうとさう仰られたのです。

そいじゃドッチもある意味でニンゲンを辞めるんじゃないのか!

 

確かにアナタが仰る通りです。

ニンゲンを辞めることでしか實はニンゲンは救われない。

 

…まさに自己矛盾的な怖ろしい話だ。

いいえまだまだ序の口ですよ。

 

ほんたうの法話とはむしろとっても怖いものです…。

 

 

でもってどうなるの?

何がですか?

 

だからニンゲンはこれからどうなるの?

ニンゲンはこれからより訳の分からぬ世界へと自ら入り込んで行き最終的には「自滅」する可能性がおそらくは高くある。

 

でも其のことと「實存」としての価値とはむしろまるで別箇のものだ。

だから理想の生き方とはむしろ「洞窟おじさん」のやうにマイナスの要素をプラスの要素へと転換して行くやうな生き方のことでせう。

 

ふーん、すると君ー思想詩人ーが述べるところでの「物的思想」とはまさに其の種での「現世利益型」での其れも非實體的な思想のことなのか?

…其れもまた仰る通りで御座ります。

 

其れもあえて「物的次元」を生きるとの非観念的で且つ即物的なほぼ「本能」の部分と区別がつかぬことだらうおおまさにそんな「自然界での知恵」のことですよ。

そんな自然界の知恵?

 

もしや自然界にはそんな知恵が有るの?

まあ有るとさうして置かねばニンゲンはニンゲンを辞めぬ限り決して救われはしない。

 

尚「自然」界は其の侭にむしろ救われて居るものです。

何故なら「自然」界には「破壊」がそも生じずあえて「破壊」を営むのは常に「文明」界の方なのだから。

 

故に「文明」界の方が「破壊者」なのでありニンゲン其のものが常に「破壊者」となる訳には非ず。

ニンゲン其のものが徒党を組むと其れが社會となり其の社會が「破壊者」となる訳ですので其の認識を社會的な場よりあえて離し個に於ける認識の場へと移して行けば「破壊」を完全に止滅することは出來ずとも少なくとも「自然」的な認識の方へと次第に移り變わるとのことを以上にて述べさせて頂きました。

 

兎に角臨済禅に於ける認識論は精神の希求者に取り常に重要です。

また其れが何教の信者ではあれ大事なものであるとの確信をわたくし自身はむしろ抱いて居るのです。

 

施本「佛の道」・第十一章・無所有 (oujyouin.com)

 

施本「佛の道」・第十六章・現実の瞬間瞬間を生きる (oujyouin.com)

 

施本「佛の道」・第十二章・無価値 (oujyouin.com)

 

施本「佛の道」・第十五章・少欲知足 (oujyouin.com)

 

施本「佛の道」・第十章・無執着 (oujyouin.com)

 

施本「佛の道」・第九章・智慧 (oujyouin.com)

 

 

現實としての此の世界はむしろ「所有」であり「価値」であり「執着」をすることが「知恵」のある人の要件とされて居りますがこと宗教的な価値観に限ればむしろ其のことは逆転致します。

またクリスト教などに於いても其のことはほぼ同じことなのだらう。

 

尤もクリスト教は絶對の實體としての「全能の神」に価値を設定する宗教ですので当然無神論である佛教とは信ずべき方向性が異なります。

ですが共に世俗の世界とは逆の価値観を標榜することにまずは着目すべきでせう。

 

世俗界の価値とは左様に眞理領域のものとは異なります。

要は其処でニンゲンがやりたいやうに価値観を築いて仕舞って居ます。

 

ですのでまずは気を付けねばなりません。

其れもまさに其の世間の価値観に「洗脳」されて居るか否かに就いて気を付けねばならん。

 

ところで川口師が以上のやうに述べられることは今の我我に取っても心に沁みます。

ですが其れは社會が何時迄経っても良くはならずにむしろ惡くさえなりつつあることと無関係では無い。

 

よって宗教により救われねばならんのはむしろ「社會」の方でせう。

ところが「社會」が「宗教」により救われた試しなどはほぼ無い。

 

だがそりゃ何でだらう?

 

まあ多分気が大きくなるんでせう、おそらくは例えば「権力」を持つなどすると。

また宗教ですら「権力」を持つと大抵は堕落致します。

 

 

いずれにせよわたくしが述べますこととは主に其の「社會の価値観」なるものによる「弊害」の部分です。

其れも其の「社會の価値観」なるものに個が身と心とを浸す限り個に取り「幸福」などは有り得ないとさう述べて居りますのです。

 

ですのでむしろなるべく「社會の価値観」なるものを批判的に捉えるものを読み且つ學んで頂きたい。

宗教に限らず學者などでも相当に偏屈なことを述べてる方などが居られますがさう云うものはむしろ〇です。

 

往生院六萬寺 川口英俊 「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 | DIALOGUE TEMPLE

 

川口師は如何にも法科卒らしく社會を良くしやうとかってされた訳でしたがまさに其の社會が良くならんのです。

社會が良くならんのはまさに其の社會が「妄想」に浸されて居るからのことだらう。

 

ですので其の「妄想」とは何かと云うことが其の「施本」の内容からむしろ良く分かるのです。

普通の御坊様ではなかなか其処迄踏み込んで御説法を頂けないが此の「施本」の場合はまさに其のことが良く分かるやうに書かれて居り其処はまさに「社會のあり方」を気に病む人人に取り恰好のテキストとなって居るのです。