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文明批判と美と心の探求と

さう生きる上での知恵としての縁起関係のバランス化のことー施本「仏教・空の理解」より學ぶ 壱ー

さう生きる上での知恵としての縁起関係のバランス化のことー施本「仏教・空の理解」より學ぶ 壱ー

 

 

 

 

施本「仏教・空の理解」・第八章・悩み苦しみを超えて (oujyouin.com)

 

さて此処は全くのところ素晴らしいです。

まさに此処にこそ全ての「解」=「気付き」が展開されて居ることでせう。

 

つまりは其れが佛法ー眞理領域ーにより捉えるところでの自然観であり文明観であり且つ「人間とは何か?」との問いの部分です。

まさに其れに就き例えば藝術がまた學問領域が語ったりもする訳ですが其のいずれもが俯瞰視されては居らずよって其処には最終的な答えが見つからない訳です。

 

ところが此の施本の内容を具に読んでみるに其処にはほぼ「答え」が書かれて居るとの思いを強く致します。

 

さて其の「人間とは何か?」との部分ですがたった今自分には「社會的に罪深い何者か」であるとの思いがまた強く致して居ります。

尤も其れ以前に「個として罪深い何者か」として人間を捉えられなくもないが其れをして仕舞えばまさに自己否定するに及ぶが故あえてソコを反故として人間を捉え其れも僅かに「希望」のやうなものを残して置く訳です。

 

 

其の「社會的に罪深い何者か」である人間の部分は21世紀に至りむしろより先鋭化し我我個に取り感ぜられるやうになりつつある。

どだい廿世紀は最惡の世紀であったかに見え今思えばまだしも牧歌的な部分さえもがまたあった。

 

無論のこと弐度に及ぶ世界大戦はまさに其れどころの御話ではなかったにせよ例えばデジタル的な合理化からは免れても居たことだったらう。

でもって今現在は普通としての個ですら「文明の危なっかしさ」がありありと感ぜられる時代ともなりつつある。

 

では其処でもって「何故」そんなことになるのかと云うことがまずは大事なことだ。

ところが其の「何故」に答えて呉れるものがそもマス・メディアやまた學問領域でさえほぼありません。

 

但し學問領域には確かに色色とまた御座りませう。

例えばわたくしは昨年よりマルサスの「人口論」を読み進めて居りますが此の著作こそが壱種究極的な本です。

 

マルサスはクリスト教の牧師でもまたありさうした「神」への帰依の部分からも様様な論考が進められるが故に単なる論文では無くまるで宗教書の如くにもなって居る。

ですがTVの討論番組やワイドショー、さらにユーチューブの動画の多くが其の「問い」に答えて呉れるものかどうかと言えばまず其れは期待が出來ぬことでせう。

 

但しもはや誰も「眞理」だの「本質」だのを追求したりはしないのでまあそんでエエのだと言えば確かにエエんですが。

エエんですが確かに「答え」もまた有るのです、かうして具に探して行けば必ずや其れが出て來やう。

 

また御坊様や牧師様などは我我現代人が抱える「精神的な悩み苦しみ」におそらくは眞正面より向き合って下さることでせう。

よって御寺や教會を訪れそんな個として感ぜられるところでの「精神的な悩み苦しみ」を打ち明け其れに對する答えを求めることなどもまた時には必要となることでせう。

 

ですが其の折に良い御坊様や良い牧師様に其の心のうちの悩み苦しみを打ち明けられるとは必ずしも限らずつまりは其の逆に惡い御坊様や惡い牧師様に当たって仕舞う可能性などもまた御座りますが故に其処を是非気を付けて其れをして行かねばなりません。

 

 

尚上での章は特に「肯定的思考の罠」のやうなことに迄踏み込み書かれて居ります。

ですのでまずは多くの方方がまさに其の部分に「違和感」を感ぜられることでせう。

 

ですが其れはハッキリ申して文明によりさう「洗脳」されて居りますのです。

尤も「洗脳」が進めば進む程に其の「洗脳状態」であることは自分でもって分からなくもなりませう。

 

では其の「洗脳」をどう解くかですが是非御勧めなのがなるべく人とは違う物事に首を突っ込み其れを兎に角トコトンやり抜くことです。

また其れは基本的に「職人」の生き方のことなのでもまたある。

 

ですがより正確にはプラスとマイナスの領域に関わらず其れをやり抜くのです。ー所謂構成要件に該当する犯罪以外の途でもってー

さうプラスが転じて惡となりマイナスが転じて善となるのは實は此の世の常であり其れも大抵の場合は権力が腐敗することでこそ其の惡こそが生み出されて行く。

 

所謂世間的な価値に深く浸り過ぎると其の価値の逆転の様や社會には「革命」もまた大事であることなどが先入観により打ち消され謂わば狭いイデオロギー領域に縛り付けられて仕舞う。

イザさうなれば其れはすでに「思考停止状態」であることにほぼ等しい。

 

故に其の「思考」を自ら「解放」せんが為に人間はしかと學び続けねばならない。

 

 

「肯定的進歩」→最終的に「相互否定」に至る

 

とのやうなことを川口師は上にて御書きになって居る。

 

其れはまた自分が此処にて展開して参りました「文明による進歩思想」への批判の部分とまさに壱致する部分です。

わたくしはかねてより文明による其の「壱義的」な思想にはそも誤りがあるとさう述べて居りました。

 

まさに其れが本質的には「壱方通行」での思想であり故に其れは「自滅」へと至らざるを得ぬ間違った思想だとさう常にデカルトヘーゲルへと至る進歩主義概念のことを否定的に論じて來た。

他方で「自然の摂理」なるものがあり其れは謂わば「自然としての肯定的進化」のことであるが其れには「破壊力」がそも生じぬが故に喩え「壱方通行」ではあれ縁起関係の中に其れがおさまる訳です。

 

ですが「自然の摂理」なる言わば生命中心主義即ち「生への讃美思想」の部分にはそも無理があり其れは理性無き無明の世界故に其れがやがては劣化し破壊されるに至ることでせう。

なのですが「自然の摂理」が崩壊に至るのは其れこそ数万年、また数億年の単位での御話であり我等の文明世界のやうに近代以降弐百年、参百年の間に地球を壊し尽くして仕舞うやうなこととは本質的に異なる。

 

自然⇔文明ー人類ー

 

例えばかやうに弐元對立として文明を捉えますればまずは其処に於いて見なければならぬことが「相互否定」の回避でせう。

其の「相互否定」を回避せんが為には「不弐」としての縁起的バランスを回復させねばならぬ。

 

「不弐」とは川口師が御書きになるやうに「単独にて成立しない」ことです。

其の所謂弐項對立での「縁起関係」に於いて「其の物である何か」がそも成立致しません。

 

よって「其の物である何か」とは違うまさに幻の如き価値に限り我我凡夫ータダの道端に転がる石ーは大きく捉えられて仕舞うのです。

喩えば権威や権勢や権力、さうした華やかで且つデカい価値に對し擦り寄りたく思う訳だ。

 

でも世捨ての文人さんなどはむしろそんなもんには背を向け其れはバカだ、位にさう申して居ます。

世捨ての文人さんつまりは此処の自称詩人さんなどはさう云う意味での批判力だけはむしろ強く御持ちなのでせう。

 

 

また👪主義、其の綺麗な女房や利口な子、さらに可愛い孫などが間違い無くみんなに取り大事だ。

ですがわたくしには其れが要らんので要らんとさう言うたばかりでのことです。

 

尚不細工な女房や頭の惡い子、さらにそのうちに犯罪者になりさうな根性の惡い孫、などはむしろ愛してあげなければなりません。

兎に角そんな世間壱般に通じて居ることだらう「ヒエラルキー的な価値」に惑わされず自分の途、己が道をこそ貫くべきです。

 

兎に角さうして人類文明による自然に對する関係性は根本的にオカシイ。

其のオカシイのに気付くこと無くドンドン其の「プラス思考の罠」のやうなものに嵌まり続ければ最終的には全てが「破滅」に至ることでせう。

 

ですがであるのだとすれば其れはむしろ「社會文明」の問題であり我我市井の職人にはむしろ無関係な話でせう。

「社會文明」はさうあくまで偉い人人が推進する訳であり我我市井の職人が其れをさうやりたいと言ってやる訳ではないのだから。

 

故に罪深き其の文明の営為の罪を壱身に引き受けるべきなのは文明の推進者側の地位や名誉がある人人です。

むしろ此れ等の人人こそが自ら進んで「断頭台」へと上がるべきなのでありワシら市民は其れを「うっわあー」とか「きゃああー」とか言いながら見物して居れば良いのですよ。

 

またさう言うのを所謂「高みの見物」とさう申すのです。

 

 

自然⇔文明ー人類ー=不弐

 

「相剋し且つ相即する関係」=縁起関係=不弐

 

逆に申せば壱方通行的な単独認識ー自然と文明を切り離す認識ーですと其の関係がそも成り立たず要するに文明により自然への搾取過程が近代的原理の根本とならざるを得ぬ。

さうでは無くもっともっと融通無碍に自然界と交流を深めむしろ自然と文明の間に壁が無いやうにして行くべきなのです。

 

故に此処🗾の家などは高床式住宅やまた竪穴式住居などが最も適して居る。

また其のことは社會科の先生ならば誰しもが知って居ることだ。

 

 

さらに縁起的なバランスの回復の為にむしろ我我現代を生きる職人は自ら進んで社會を壱旦断じて置く必要がある。

社會を断ずることで初めて本來社會がどうあるべきかとのことが次第次第に見えて参る。

 

「相互對立」「相對矛盾」

 

何故こんなことが引き起こされるのかと言えば其処には「社會的」な欲望が大きく関与して居ます。

例えば人類は所謂狩猟、採集での所謂原始共産制社會に於いてむしろ争わなかったのが農耕、牧畜により富の余剰分が生じたばかりに其れが貧富の差となり身分秩序が生じ争うことにもまたなったのだった。

 

故に社會は本質的に「惡趣」に染まるものなのだともまた言えやう。

少なくとも其れはニンゲンを平等にしさらに幸福へと導くやうなものにはむしろ非ず。

 

 

また川口師が書かれて居るやうに自然と人間は元來「不弐」としての相互肯定関係の中で「調和」が図られて居たのでした。

 

自然⇔文明ー人類ー=不弐

との其の縁起関係に於いて「相剋し且つ相即する関係」ー我が哲學的用語ーする関係の中でとりあえずバランスが保たれて居たのです。

 

まさに其の関係性こそが「相互肯定」であり「相互扶助」としての関係性のことだらう。

即ちよりカンタンに言えば「さう喧嘩をしつつも仲が良い」との関係性のことである。

 

ところが欧米近代に至り其の「仲良きことは美しき哉」的な仲が根本より引き裂かれ「自然」は単なる「搾取」對象としてもう参百年にも亘り奴隷生活を余儀なくされても來た。

そんな奴隷はそもイヤだと「自然」が怒れば立派さうに見えるそんな文明の仕組みも即御仕舞いとなることだらう。

 

 

ド、ドドドドドドドドドドドドドーン。

あれー何だ、コレは?

 

もしや神の怒りか佛の諫めか。

いいや其れは単なる「自然の怒り」ぞ。

 

たった今さう自然界の神神が御怒りとなり御前達ニンゲンの所業に鉄槌を下されておる。

 

助けて呉れえー御願いします、たった今全てをアナタに投げ出します。

ダメだな。

 

エッ今何と仰りましたので?

ダメだ、ダメだ。

どだい御前達ニンゲンの思想はそも間違ってる。

 

では高床式住宅や竪穴式住居に是非引っ越しします。

さらに美食も美女も金輪際求めません。

 

其れになんなら牢屋に入ってもやらう。

いや自ら進んで入牢し拷問をすら受けやう。

 

ダメだ、ダメだ。

酒とギャンブルも止めねばそもアカン。

 

 

ド、ドドドドドドドドドドドドドーン。

おおーい、壱體何処へ行ったのだ君思想詩人は?

 

大地の裂け目へ落ちた彼はすでに地球のコアに達し其処にて💎の数数と戯れて御座る其れ即ち地球の深部で💎参昧をしておいでである。

 

 

尚同様に川口師が書かれて居ることですが、國、民族、體制、主義などの思想面やさらに宗教面のことは大事なことでも何でも無くむしろ妄想としての執着物と云うことに佛法上はならざるを得ない。

また宗教に於ける教義や宗派の違いに於ける「對立」や「矛盾」もまた縁起関係の破壊に他ならぬ訳です。

 

でもって其の縁起関係の破壊を食い止めんが為に「非有非無の中道」による認識を行い此の「破壊世界」であり「矛盾世界」であるところの惡趣世界其れ自體から離れると云うのが御釈迦様による法論の内容なのです。

 

ですが其のことは我我凡人に出來ることでは元よりない。

だからと言ってかうして日増しに「破壊」は進み要するに世界はよりマズいところへと追い込まれて行く。

 

故にこそわたくしがあえて着目したのがむしろ「庶民」による生活のパワー=生きんが為の知恵のことである。

其れを概念にてあえて示せば「生活至上主義者」としての其のしつこい迄の性欲であり食欲であり物欲のことである。

 

でもって至極冷静に其れを観察するに及んだ結果、其の生きんが為の闘争の様こそがむしろどんな思想よりも重いものであることにしかと気付かされたのだった。

要するにそんな即物的な知恵こそがむしろ此の世界を救う鍵となるのではないか。

 

まさにそんなことをたった今考えて居る最中なのだ。

 

其れも、

 

小<大

なのではそも無く、

 

大⇔小

なのであるに過ぎないのだから。

 

同時に、

 

個<宇宙

なのではそも無く、

 

宇宙⇔個

 

なのであるに過ぎないのだから故に。

 

故に個には宇宙を變え得る力さえもがある。

だが世間知ー世俗的認識ーに頼る限りはなかなかさうも行かぬことだらう。

 

さうして所謂「般若智」へのヒントはかうして御坊様が眞摯に御書きになられたものの中にしかと含まれて居ることだらう。

 

 

尚「不弐」としての分別認識をむしろ離れることが佛法としての要諦部ですが其れ以前のこととしてかうして臨済宗の僧侶が「不弐」での認識関係に於ける「バランス」化のことに迄言及されて居るー自然と人類の関係として其のバランスのことを述べて居られるー部分に個人的には大きく感銘を受けました。

 

其れと申しますのも自分が述べて居ることとは「解脱」することでは無くさらに「全能の神」に全てを委ねることでも無く自分でもって自分の認識を「具象化」=「限定化」することでありさらに其の「具象化」される縁起関係に於いて両義的にバランスを取るとのことなのです。

 

あくまで其のことこそが大事なことなのであり個人的にはまさに其のことこそがわたくし自身の「生きる上での知恵」の部分なのですから。