目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「搾取體制」による破壊は何故生じるのか?ー合理化が自然と人の心を壊す其のプロセスー

「搾取體制」による破壊は何故生じるのか?ー合理化が自然と人の心を壊す其のプロセスー

 

 

 

 

さうして権力闘争や金力闘争に明け暮れる文明世界を尻目に他方では南國の國國やまたヒマラヤの方やさらに阿弗利加の方などでつまりはチョット其の文明世界からは外れた大自然との交歓の物語がたった今紡がれて居るのだ。

嗚呼まさに其こそが「奇跡としての物語」でなくて何であらう?

 

即ち此の21世紀に於いても其のやうな「樂園譚」が成立して居るのである。

つまるところ其のやうに此の世にはさうして何でもある。

 

此の世には其れこそ地獄から樂園まで何でもある。

但し其処から何を選択し生きるかと云うことはまさに人其れ其れである。

 

たとえ金や名誉や地位があっても選択を違えたった今地獄でもがく人人などもまた居られやう。

逆に別に惡いことはして居らずとも例えば小学生の登校時に🚙が突っ込み死んじまう子等などもまた居るのである。

 

さらに惡い人間であるにせよホクホクと金が儲かる輩や善人であるにも関わらずまるで金が無い詩人などもまた此の世には居るのだ。

 

 

おおまさに其のやうに此の世は其の善と惡、さらに運と不運の混合體なのでありよってコレでかうだと云うことは言えないことだけはまずは言うて置かう。

つまりは對立概念として縁起する世界こそが人間に取っての全世界なのだ。

 

但し動植物に取っては必ずしもさうでは無く彼等は謂わば對立概念其れ以前での認識段階をこそ生きて御座る。

其れを難しく言えば弐項對立による矛盾的認識世界と對立概念其れ以前での壱元的認識との差とのこととなる。

 

また其れをあえて簡単に言えば「人間は抽象的価値に縛られ本來的な認識の出來ぬ」生き物であるとのこととなる。

もっと簡単に言えば「人間のみんなは社會関係ー社會的価値ーに洗脳され本來的な認識の出來ぬ」生き物であるとのこととなる。

 

だがどうもまだ話が難しい。

 

ソコをもっと噛み砕いて言えば「みんなは社會の価値観と共に特攻する」生き物なのだともまた言えやう。

だが社會科の御勉強を進めると分かるのであるが「社會の価値観」其のものが實は半分位間違って居る可能性が高くある。

 

だったらみんなはもう其の全員が地獄へと堕ちるのではないか。

いやでもソコには變わった人人が居て彼等はまるで文明なんぞを信じて居ないのだ。

 

其れもかの岡本 太郎氏や梅原 猛先生や倉本 聰氏などは特に文明が嫌いだ。

またゴーガン氏などもまた文明が大嫌いであった。

 

だから僕はむしろ其のゴーガンの繒が大好きなのである。

 

 

尚より難しいことを述べれば、

 

「對立概念其れ以前での壱元的認識」とは言え其れはあくまで人間の認識に對する壱元的認識でありより正確には自然界其のものがあくまで物質的に弐元分離されて御座る。

従って自然界其のものもまた樂園などでは無いのだ。

 

よって自然界にもまた非情な運命の如きものが顕現して居たりもする。

どだい其れはまさに「食うか食われるか」の世界であり嗚呼まさに「強くなければ生き抜けない」世界其のものなのだ。

 

だがココ文明世界での「食うか食われるか」よりはまだしもマシであらう。

されどまた其の逆もまた考えられる。

 

第壱かうして南國の樂園世界を夢見つつ生きることなどは彼等にはまさか出來やせぬ。

人類はさうして罪深い認識の侭に「生の喜び」にも他方では通じた生き物なのやもしれぬ。

 

但し其の「生の喜び」とさう人間が信じ込んで居るものは大抵の場合倒錯であり顛倒の域にあるとさう見て置く方が良い。

さうした考えを進めると結局人間の持つ本質的な意味での厄介さのやうなものがスッカリ見えて來る。

 

 

ハワイの暮らし 優しい時間 - NHK

エピソード - ハワイの暮らし 優しい時間 - NHK

 

さて此の番組で最も感じ入った部分が「自然を敬い常に其れと共に生きる」とのことである。

ところが今や此処🗾ではさうした感覚が薄れつつある。

 

つまりは其の🗾の社會全體が「合理化」されて行くが故に其のやうにならざるを得ない。

其の「合理化」とは数的に還元されし価値を信奉することの意である。

 

つまりは金力や偏差値やIQなどの数値がより高くある方を尊ぶとの物の見方であり其れは普通「合理主義」と呼ばれて居る。

其の「合理主義」の祖は数学者であり哲學者であったデカルトである。

 

かの梅原 猛先生などは此のデカルトによる弐元論的合理主義を痛烈に批判なされて居りまた我も同様に其れを批判して來て居る。

ごく単純に言えば其の数的還元の世界は価値を壱元化する要するに普遍化して仕舞う。

 

其の普遍化により数的還元的選別ー選民ーが行われ其の価値から外れたものを低く見做し同時に其れに對する「搾取」が開始される。

其の「搾取」の理論を完成させたのがかのマルクスエンゲルスであった。

 

即ち「合理主義」は人間の本來的な「平等」を崩し其れも徹底的に崩す。

するとやがて其れがむしろ価値ヒエラルキーの上部構造として「全體主義」化されて行かざるを得なくなる。

 

現行の資本主義體制とはさうしてむしろ「搾取」を「全體主義」化して行かんとする社會のことなのだ。

そんな「搾取」を「全體主義」化して行かんとする社會では素朴な意味での生の喜びが何時の間にか失せて行って仕舞う。

 

だからどんなに黑い人人をまたインデアンなどを搾取し奴隷化して來たことか。

しかも印度産の💎まで皆彼等アングロサクソンがかっさらって行く。

 

此の鬼畜米英めが!

でももはや鬼畜米英とは言えぬ。

 

また其れを言うてはかのオウム教と同じとなる。

 

でも偏差値を上げよとさう先回言ったばかりのことではないか。

其れは所謂EQレヴェルを上げよとさう言うた迄のことで何故なら其れが其の合理化文明を止めることに即繋がるからだ。

 

 

 

さて人生とは結局どんな価値を選択し生きるかと云うことに尽きて來る。

其の合理化文明の枠内で合理化を突き詰めて行けば「動物としての人間の素朴なる生の喜び」からはむしろ遠ざかることとなる。

 

もっともっとキツく言えば「人間としての心のバランス」を失うことともなりかねない。

 

さて其のマルクスエンゲルスが考え出した社會の仕組みもまた合理化過程によるものである。

但し其の社會主義、共産主義體制には基本的に其の「搾取」が無い。

 

其れでも實は自然だけは「搾取」して行かざるを得ない。

文明とは其のやうに基本として「搾取體制」なのだ。

 

其の「搾取體制」がより酷くなるのが第弐次世界大戦後の所謂戦後世界のことである。

特に戦後は實存的な意味での現代人の精神の不毛の部分がクローズアップされて來る。

 

故に「搾取」とは其のやうに全方位的に行われる「破壊」の意である。

 

 

皆はたった今何で地球がま文明社會がこんなにおかしくなって居るのかと云うことを説明出來ぬことであらう。

でも其れは君等が御勉強をせずに遊び回って來たからのことだ。

 

其れもちゃんと大勉強では無くて御勉強、其れをした人にはもうすでにスッカリ其の理由が分かって居る筈だ。

 

「自然を敬い常に其れと共に生きる」暮らしとは其の合理的世界観からの離脱をこそ意味するのであらう。

彼等夫婦は「フラ」の指導者の「クム」であり其の価値観をこそ選択しさうしてオアフ島のコオラウ山脈の麓に生きる。

 

山に入れば必ずや「祈りの歌」を捧げつつフルーツをもぎ取る。

また其処にて「失礼します。」とさう言いつつ枯れ葉を集め其れにて帽子を編む。

 

「人にも優しく 地球にも優しく」

との価値観こそが其の「フラ」を刺し貫く世界観なのだ。

 

さう「自然」は「人間」とよもや分かれては居ない。

「自然」と「人間」を分け「進歩」したのが近代合理主義と云うまた飛び切りに厄介な思想のことだった。

 

ところが「自然」と「人間」を分けさう「進歩」しないと人類は此の人口爆発を乗り切れなんだ。

そりゃ当たり前のことよ。

 

わたくしが小学6年生の頃世界人口はたったの36億人だったのだ。

だが今は果たして何人居るのだ?

 

調べてみたらもうすぐ80億人となります。

然し其れはもしや🐈や🐕よりも多くはないですか?

 

もう其れは👽に食われても仕方の無い数でせう。

ところで👽はさうして人間を食うのですか?

 

勿論其れは分かりませんが。

 

 

「何でもないことが樂しめる」

「本当に大切なものはすぐ傍に」

 

此の言葉もまた番組中で語られるものである。

 

何でもないことを樂しめる心理的な且つ物理的な余裕は結構ハードルが高くある。

例えば自分は買い物の折りに屡街路や家の生垣に咲く🌸の香りを嗅ぎ其れを心より喜んで居る。

 

だが現代人でもって其れをして居る人を他に見たことが無い。

では現代人は何故其れをしないのだらうか?

 

其れは體面だの何だの下らぬことに気を回しまた投資だの何だの下らぬことに気を回し人間に取っての眞の意味での生きる喜びとはほど遠い心理的内容に嵌まり込んで居るからなのだ。

つまりは君等の心其のものがすでに其の肥溜めへと落ちて居るのだ。

 

とどのつまり自分は最近現代人の心其のあり方其のものを批判するに至った。

またつまりは其れが「社會的価値」に洗脳されまくった状態なのであらう。

 

 

「人にも優しく 地球にも優しく」

 

さても現代人に取り極めてハードルが高いのがまさに此の概念である。

けだし其の「優しさ」とは芝居つまり偽善的な内容のものであってはよもやならぬ。

 

即ち本心からさうでなくてはならず其の理を悟る為にはEQ心の知能指数 - Wikipediaを磨かんが為の不断の御勉強こそが是非必要なのだ。

文學にせよ哲學にせよ宗教的教義にせよ人文學としての側面を有するものにはまさに其のことがすでに實って居る。

 

左様に如何にも論理的に「現代人の心の面での破壊」を説明することが可能だ。

世界の「合理化」こそが其の破壊の根本因として考えられるがむしろ「合理化」せねばならぬものもまた有るので其処が複雑且つ怪奇であり實に厄介なのである。

 

尚其の「合理化」を我は基本的にかう考える。

 

肉體→合理化=✖

精神→合理化=〇

 

社會→合理化=✖

個→合理化=〇

 

ーそんな社會の合理化があくまで人間の心を壊すのであり人間の心の合理化其れ自體はむしろ有意義なことだー

ー文明は現に今やりつつあることと逆のことをやらぬ限り持続可能性を獲得出來ぬー

 

 

但し同時に、

 

肉體⇔精神

社會⇔個

 

ですので其処での正解とはあくまで其処に置いて「相剋し且つ相即する」関係を築くやうにバランスを取るとのことである。

即ち此の世の価値はそも普遍化乃至は壱元化することは出來ない。

 

其れをあえて普遍化乃至壱元化すると必ずや「全體主義」化することとなる。

さて前回より述べて居るanimistとしての価値観とは同時発生的な世界各地での自然崇拝との価値の醸成のことであり「近代化」のやうな「全體主義」のことでは無い。

 

イザ普遍化と言えば勿論どちらも「普遍化」なのであらうが「アニミズム」の方はあくまで自然発生的な価値の発生のことであり「近代化」のやうな押し付けられた普遍としての価値とは本質的に異なるものとなる。

 

即ちそんな「観念的な価値」が人間の肉體性ー若しくは感性ーを置き去りにしつつ歩んで行って仕舞う。

まさに其のことこそが近代的な価値が本質的に持つ「破壊」としてのリスクなのだ。

 

 

では何が破壊されるのか?

まさに其れが物心両面に亘る破壊となる。

 

即ち「自然」と「人間の心」の双方に亘り破壊されて行く。

 

まあそんな訳で今回僕が述べたことはまた可成に怖い話である。

でも個人的にそんな怖い話に限り好きである。

 

怖い話=地獄の何やらだとか何だとか兎に角そんなものが結構好きである。

兎に角現代人が地獄に堕ちないやうにともう其ればかりを祈って止まぬ最近の我です。

 

 

EQ(心の知能指数)とは?【意味を簡単に】高い人の特徴 - カオナビ人事用語集 (kaonavi.jp)

 

そも其のEQとはこんな人間関係や起業のことばかりに役立つ指標なのか?

自分は所謂意識が高い人をEQレヴェルの高い人だとさう思うのです。

 

そんなEQレヴェルの高い人はおそらく自然やまた👽などとも相性が良いことでせう。

だからオアフ島のコオラウ山脈の麓で暮らす其の「クム」としての夫婦などもまさにそんなEQレヴェルの高い人人なのであらう。