むしろ國が崩壊するより「革命」なのではないか?ー2.『資本論』から導かれた新自由主義批判ー
【神様が味方する人の考え方】 「面倒なこと」に巻き込まれやすい人の思考の習慣 (msn.com)
いえ私は毎日「感謝」と及び「感激」にのみ生きて居ります。
さうして毎日をとても喜んでしかも神佛にしかと向き合い不平不満を言わぬやうに生きて居るのです。
それならば、「今生」は今生でしか体験できないことをすべて味わい、自分の存在がまわりから喜ばれるように、思い切り楽しんで生きることにしませんか?ー以上よりー
はい、確かにわたくしはさうして居るのです。
ですが何かと此の社會は果たして此れで良いのだらうか?と其のことダケは思います。
だから其の点に関してはむしろモロに不平不満ばっかりだ。
では早速に此の社會の問題点をこそ炙り出してみませう。
ーこれにより、貧しい人々に労働意欲を植え付け一人残らず労働市場に駆り出し(労働倫理の徹底)、さらに「閾」の上方に這い上がるための競争ゲームによって社会を満たそうというわけだ。
「負の所得税」は、このように絶対的貧困を焦点化することで「相対的貧困」(格差)に付随する諸問題は自明視する一方で、競争の効果を上げることにより、相対的貧困を座視ないし助長するのである。
「閾」の下方において貧者を絶えず労働に駆り立てるのが「負の所得税」だとするならば、新自由主義者ベッカーの「人的資本」の理論は、「閾」の上方に対して、一人ひとりがひとつの企業であることを強いる。
このように、新自由主義は絶対的貧困を強調し、労働の重要性を説くことによって、じつは「貧しい人々」の差別を助長し、彼らを再び労働市場に引き摺り出し、過酷な競争のうちに包摂することを目論んでいるのである。ー新自由主義によって「演出される」貧困…みんなを巻きこむ「労働倫理」という名の「ワナ」 21世紀と『資本論』第2回 (msn.com)より
左様に「新自由主義」は「絶對的貧困」を壱種の隠れ蓑とすることでむしろ「相対的貧困=格差」を助長して行く訳です。
では何でまたさうするのかと言えば其れはズバリ金持ちがより金を儲けんが為にさうするのであります。
つまり「人間の欲望」には所謂キリが無く例えば壱億円富豪は拾億円富豪を、さらに拾億円富豪は百億円富豪、またあわよくば千億円富豪を決まって目指すのである。
其の不毛なる強欲の様、まるで意味の無い金の風船化をむしろヨシとするのが資本家と云う金にタマシイを奪われし人人のことなのだ。
では他方で貧乏人は死にゃあエエのかと云うに貧乏人が其の侭に死ぬと社會はむしろ儲からないんです。
だから社會の側ー新自由主義をやる體制側ーが「ビンボーなおみゃーらは兎に角働かなイカン」とさう言って其の労働がさも尊い教えであるかのやうに祀り上げでも其処にて働いてみたら現實には搾取分が酷くて時給がたったの900円位でした。
要するに彼等ー新自由主義をやる體制側ーに取り貧乏な下層民共は勞働の奴隷であり同時に金持ちの為の奴隷なのです。
あれ何時の間にかそんな奴隷をして居たのか、かの🗾國の勞働者達は!
さうなんです、まさしく其れが現代の経済圏に復活せしめられし経済的奴隷制度のことだ。
またそんな経済の奴隷はまさか死んでもイケません。
だからもはや還暦を過ぎ體が頗るエラくとも兎に角80歳迄働かねばならない。
嗚呼もう休ませてお呉れ。
もう年金生活でもって休ませて欲しい。
ですが何せ其の年金の額がそも安いので事實上働かざるを得ない。
つまり「労働する」こと其れ自體が「搾取」の対象でありまさに其のことを金持ちには限らず例えば政府などもさう望んで居ります。
さうして兎に角「過酷な競争」を社會の側は常にさせたがる。
實際にかっての「還暦」は仕事を卒業する歳でしたが今や其れは第弐の仕事を始めるスタートの年齢です。
すると要するにもはや動けなくなる迄ずっと其の侭仕事をやらんとイカンのです。
つまり生涯「仕事」に追われ物事に就き考える時間的余裕などは何処にも無いのです。
左様に「新自由主義の奴隷」と化した侭に我我🗾人は皆棺桶へと入るのだ。
そんな奴隷はイヤだ。
では仕事を辞めユーチューブにて稼がう。
其れがどうやって稼ぐものであるのかは知りませんがむしろ其れは賢明な選択でせう。
要するにスッカリ「資本の論理」の奴隷と化し其の奴隷として此の命を終えること程理性に取り情けないことは無い。
ー新自由主義下において貧困はたしかに目立ってきたと言ってよい。しかしそこには新自由主義的統治が貧困を演出ないし利用しているという側面がある。
一方、福祉国家の出現とともに貧困(絶対的貧困)の問題からは解放されたという、かつての共通了解に引き摺られてというべきか、社会学の領域では、現代に再浮上した貧困を「搾取」の範疇からはずし、「排除」や「リスク」や「犯罪」という新たな問題に置き換えることで、格差(相対的貧困)の問題を「ロンダリング」する傾向にある。ー
新自由主義によって「演出される」貧困…みんなを巻きこむ「労働倫理」という名の「ワナ」 21世紀と『資本論』第2回 (msn.com)より
さうして「貧困」は「新自由主義的統治」に取りむしろ必要不可欠なものとなる。
貧困⇔富豪
何故なら此の弐項對立が無いと金持ちはより金持ちにはなれない。
金持ちがより金持ちになるが為に「貧困」は無くしてはイケないまさに重要な負の価値である。
即ち新自由主義型の統治體制とは、
1.不平等をよりデカくする
2.金持ちがより金持ちとなる
3.地球にキビシイ経済體制
とのことなのだ。
1.不平等がデカくなればなる程に社會のあり方は確實に惡くなります。例えばかの中國は共産主義體制であるにも関わらず自由貿易経済體制を築かんとするが其れは明らかな矛盾でありよって事實上其の社會のあり方が次第に惡化して居ます。とは言え🗾國ではそんな大きなことが言えぬ迄に資本主義の先鋭化、抽象化が進んで仕舞って居りつまりは余りに「搾取」が酷いが為に我我國民の「生存権」迄もが脅かされるに至って居る。
2.でもって金持ちはより金持ちとなり實は其ればかりでは無く縮小化された中流層、實は此の階層が存外に威張り其れは下層民とは違う「正社員として保障された未來」こそが其の「威張り」の根拠となっておる。
だが御前等バカか?其れも其のうちにな、年収は最低弐千萬位無いと旨いものは食えなくなるぞ。其れに地震な、コレがそのうちに纏めて此の🗾列島を襲うのだ!どだい関東の大震災な、此の時にかの芥川 龍之介が田端の自宅にて庭の木に登り遊んでおった映像が遺されておる。
流石は大文豪だ。みんなが家財道具を持ち逃げまくりようやく避難地に落ち着いたら其処に「火災旋風」なるものが襲い來てもう人やら荷物やら何やらが壱瞬のうちに空へと巻き上げられおまけに其の空中のもの全部が灼き尽くされたのだった。
其れをしり目に芥川 龍之介は自宅に被害がなかったばかりにさうして遊んでおったとさ。
其れに安吾や太宰はむしろ戦時中心が安定して居て精神的には「良かった」のだ。
だからそんな作家連中にせよ兎に角藝術家なるものは普通の人とは認識がむしろ逆だぞ、逆。
だから金なんぞは最低壱億円は無いとそんな非常時の役には立たんものとさう心得るべし。
ですが社會體制が例えば北欧の如き高福祉國家であればまた話が變わって來やう。
また社會主義國家であれまさに露西亜や北朝鮮や中國のやうに言わば「體制として癖の強い」國家で無い限りまあ我が國などよりはマシなのやもしれません。
3.兎に角其の「よりデカく富を独占したい」との強欲こそが地球の破壊者の正體であり同時に社會の破壊者なのでもまたある。其の意味での新自由主義経済體制こそがほぼ確定的な意味で其の破壊者其のものなのだ。どだい其の「貧困」をダシに使い自分等ー體制の推進者側ーがよりデカく儲けやうだなんてまさに其れぞ惡の権化でありほぼ👿化した意思決定其のものなのだ。
ところがイザ自分等は「善きこと」をして居る即ち其の偽善的な価値を邁進し其れがさも「地球環境に優しくエエことである」やうに世に對し吹聴するのだ。おおまさに其の点では彼小泉 純一郎然りまた竹中 平蔵然り。さらにアベ然り🐊然り🐵然り。
だが御前等こそがさうして祖國🗾を極大の肥溜めへと落とした戦犯ぞ!!
其の戦犯小泉 純一郎をもしも動物に喩えるとすれば?
うーん、其れは難問ですがとりあえずは貉とでもして置きますか。
ーたとえば「ワークフェア」は、ワーク(労働)とウェルフェア(福祉)を組み合わせ、働くことを条件に公的扶助を行なうという考え方だが、従来の「貧困」「労働」という概念ではなく「排除」「包摂」という概念を積極的に採用する。しかしそれは、貧困を排除と言い換えることによって、排除された人の労働倫理と、包摂される場としての労働市場の強化に加担しているだけである。
もともと福祉国家には、社会的権利を保障することにより、生の保障を就労からは切り離す機能があったはずである。しかしワークフェアの思想は、人びとを労働市場に駆り立てることにより、新自由主義の理念を後押しすることになっている。
また社会学の領域では、旧来の産業社会から現代の消費社会への移行によって「階級対立」は過去のものとなり、代わって「個人化」が進んだと指摘されることがある。しかし「労働力商品化」は現代においても依然として進行中であるし、資本による「搾取」(剰余価値形成)と「蓄積」(剰余価値の資本への転化)は、いまなお資本主義の根幹をなしている。
新自由主義によって「演出される」貧困…みんなを巻きこむ「労働倫理」という名の「ワナ」 21世紀と『資本論』第2回 (msn.com)
うーん、まさに其の「資本の論理」としての「搾取」と「蓄積」ですか。
尚其の「搾取」に就きむしろ自分は「公的搾取」のことを屡考える。
即ち平穏事の時に上手く機能する「公的搾取」がイザ有事ともなれば個に取り致命傷を与えかねぬものともなる。
其れは要するに「税法上の搾取」でありまた「政府機能、行政機能を成り立たせんが為の搾取」のことである。
まさに其の部分が其の「高福祉國家」とは眞逆での「生の保障」が「就勞」に雁字搦めとされた社會での問題だと言えるのやもしれぬ。
また要するに其れは「資本主義の進歩」と密接に絡む部分なのでもある。
資本の金融化=儲け至上主義の推進
勞働の自己責任化=勞働への資本の介入であり勞働者の奴隷化のこと
此れ等の要素を改めて哲學的に纏めれば其れ即ち「資本主義の合理化」であり「資本の論理の合理化」のこととなる。
また其のやうに「資本」側ばかりが合理化される世の中では兎に角皆が生きにくくなる。
勞動ー個ー<資本ー會社ー
との根本での力関係が歪なものとなりであるが故に右側はドンドン増強され逆に左側はドンドン痩せ細って行く。
ー福祉国家のもとでは、生活水準が全体的に底上げされたために貧困が意識されにくくなった。一方、現代の新自由主義社会においては、格差(不平等)のほうが目につくようになっている。またかりに貧困(飢餓)が問題になるとしても、それを社会問題として捉える回路が断たれ、「個人の選択の問題」と捉えるようにと迫られている。
そうなると、格差(不平等)は上への「もっと富を寄こせ」という要求、つまり相対的貧困解消の問題としてではなく、下への「もっとリスクを平等に分担しろ」という要求として現れる。飢餓(絶対的貧困)にせよ格差(相対的貧困)にせよ、現代において貧困はもはや問題ではなく、「リスク」こそが真に解決されるべき問題と見なされることになるのである。ー新自由主義によって「演出される」貧困…みんなを巻きこむ「労働倫理」という名の「ワナ」 21世紀と『資本論』第2回 (msn.com)より
尚自分はかって「平等」との概念に就き結構懐疑的でした。
「平等」を實現させる為の勞力を何処か他の部分に使った方が良いのでは?などとも考えて居た。
されどまさに「日教組の学校の先生方」が仰るやうな「平等」こそが今は大事ではないかとさう考えて居ます。
そも其れは何故か?
4.「破壊」との関連性
5.「欲望」の限定性の担保
4.左様に高福祉政策をして「生活水準」の底上げと共に大富豪に重く課税するなどして富の再配分を行う方が「破壊」は生じにくくなる。つまり「戦争」にせよ「環境破壊」にせよ其れはあくまで「デカい欲望」が引き起こすものであり例えば「平等且つ慎ましい」暮らし振りから生ずるものでは無い。故に「破壊」を推進させて來たのはむしろ「自治體」であり「國」でありさらに言えば「文明」其のものなのだ。
つまり人間はあくまで「社會的な現象」であるが故にむしろ其の「社會性」にこそ呪われて仕舞うのだと言える。
よって其の「社會性」の部分にこそメスを入れ其れを解體して行かねば其の社會の根本矛盾のやうなものは解決されぬことだらう。
何だまたアナキズムの講釈なのか。
あれ何時の間にやらさうなりましたね。
だが其の「新自由主義的経済體制」に於ける経済的リスクの分配であり平等性である部分での下側への責任の押し付けとはまさに恐れ入りました。
しかしながら要するに其れは金回りが充分では無い中間層以下の「生活」に對する「破壊」であり「隷属化」のことだ。
5.「欲望」はそも「限定」すべきものであり何故ならば「理性」とはそも其の「限定」のことなのです。かって西洋の偉大な哲學者であったカントやショーペンハウアーが述べたこととは壱言で言って人間存在として其の「理性的限定」にこそ生きることであった。
されど「資本主義経済體制」其のものが實は「非限定的」な経済體制です。さらに言えば「近代的価値」其のものが「非限定的」な価値體系です。故にわたくしはむしろずっと「限定的論議」としての価値観を此処にて提示して來た訳だった。
新自由主義的な価値観⇔哲學詩人による「限定的」な価値観
まあ其れがまさしく眞逆ですね、眞逆。
ですがみんなが「平等」な社會では必然的に欲望は「限定」される。
いやさうされざるを得ない。
まさに其れがかう云うことだ。
即ち別に餓死する訳では無くかと言って金満資本家共のやうに酒池肉林の宴に毎夜浸る訳でも無い。
とりあえず満腹する迄食えさらにパートナーも持てる。
ありゃ、コレってひょっとしたら「理想郷」なのでは?
だから其の「高福祉國家」での経済體制は確かに御手本たり得るものなのではないか?
また其れは資本主義や社會主義との體制の如何に関わらず壱つの御手本たり得るものだ。
そんな「高福祉國家」ではまた良い家具とか良いガラス器とかを作って居るし國民の民意などもまた高い。
其れもむしろ世界壱利口な🗾民族などよりもずっと「意識が高く」あり特に環境問題などに對し概して潔癖である。
また兎に角かのグレタ氏がかっては資本主義に對し常に怒って居た。
つまりはそんな「高福祉國家」での欲望の「限定」のあり方やまた社會的な「平等」のあり方こそが資本主義社會にもまた社會主義社會に取っても御手本となるものなのやもしれません。
要は「資本主義経済體制」其のものが實は「非限定的」なものであり「新自由主義的経済體制」とは其の「非限定性」をむしろ極限に迄推し進め利益や利潤を最大限に追求するであらう経済體制のことです。
故にもう長く其の非人間的な経済體制の中に押し込まられて居た日本の勞動者は次第次第に我慢が効かなくなりおおまるでちょっと触れると破けさうな程になっちまった。
ドッカーン、ド、ドドドドドドドー。
さても何だ今何が起きた?
あ、其れは今、おおまさにたった今かの國🗾にて「革命」が起きた其の騒動での音です。
果たして其れは何の革命で?
市民革命ですか、其れとも社會主義革命なのか?
今のところ其れは分かりません。
でもあくまで其れは「福祉國家革命」だったのかもしれません。
福祉國家革命だったとするとこんな現状の🗾國のやうに細分化された多くの省庁やまた多くの國會議員や大勢の官僚はそも要らないのですね。
まあ要らんでせう。
でも要らんと國がそも回らんでせう?
其のTOYOTAがどうやってかの國の面倒を全部みるのですか?
ズバリ金の力でもって全てを回すのです。
果たして何拾兆円を持ってるのかな、其のTOYOTAは?
ーすると労働もまた、そうした基準に即して評価されることになり、「天職」に値する労働と、ルーティン化された労働へと二分化する。そこでは貧しい人々は、選択の不得手な、あるいは資源不足のため選択すらできない「欠陥のある消費者」と見なされ、救済の対象としてではなく排除の対象、つまり「犯罪者」として扱われる。現代の貧困は社会問題ではなく「法と秩序」の問題となっていると言うのである。
バウマンは後期近代の特徴を「リキッド・モダン」(流体的近代)と表現し、それに付随するこのような新たな貧困層を「アンダークラス」と呼び、それまでの「貧困」と区別する。
しかし、ほんとうに労働の倫理はもはや過去の遺物となってしまったのだろうか? むしろ労働倫理は新自由主義において強化されているのではないだろうか?
また「消費の美学」は後期近代に現れた新たな現象などではなく、資本主義を駆動する構造的要因ではないだろうか? さらには、雇用のフレキシブル化と下層民の排除も、マルクスが生きた社会において、すでに認められていたことではないだろうか?ー新自由主義によって「演出される」貧困…みんなを巻きこむ「労働倫理」という名の「ワナ」 21世紀と『資本論』第2回 (msn.com)より
いやあー怖い。
貧乏人は結局其の「犯罪者」扱いされるのか。
でも貧乏人が犯罪者扱いされる位なら例えば🗾共産党にでも相談をし「革命」の準備をした方が良くはないか?
だが🗾共産党はそも本気でもって「革命」をする気があるのだらうか?
いや無いだらう、金輪際其れは。
何故なら🗾国はそも「革命」なんぞ出來ぬ國だからなのだ。
さて問題は「革命」に縁の無い我が祖國🗾が結局どんな「革命」も出來ぬ侭にそんな「新自由主義的経済體制」に潰されて仕舞うことなのではなからうか。
其れもひょっとしてひょっとすれば「新自由主義的」な経済的革命の嵐がすでに参拾年余りに亘り吹き荒れすでに🗾国は弐度と立ち上がれぬ迄に弱って仕舞って居るのではないか。
いずれにせよかの國の辿る前途はまさに多難であらう。
或は其れは「革命」どころでは無いまさに崩壊の途なのやもしれません。