「資本の論理」による「暴走」をどう食いとめるか?ースティグリッツ氏によるものとわたくし個人の考えとー
2023夏 特別編 スティグリッツからの挑戦状 - 欲望の資本主義 - NHK
欲望の資本主義 2023夏 特別編 スティグリッツからの挑戦状 - 動画 Dailymotion
さて其の問題の多い資本主義経済體制に就き以下に考察したことを述べてみたい。
まず資本主義経済體制とは「近代主義としての全體主義」に他ならぬものです。
其の「近代主義としての全體主義」には他にも科学技術なるものがある。
其の「科学技術」なるものと「金力」にて人類は幸福になれる筈だと云うのが「近代主義としての全體主義」を成り立たせることの信仰であり且つ洗脳でした。
「科学技術」なるものと「金力」にて人類は幸福になれるのだとすれば其れは「合理的な尺度」が其れをさう規定するのでありつまりは其れが「合理的に捉えられる幸福」への道でした。
でもってわたくしはつい先日其の「合理的に到達すべき幸福」との価値に重大な欠陥が潜むことをまさに直観致しました。
即ち其れが本質的に「壱義化」されし価値なのでありつまりは壱方通行であり独りよがりなものー必然として利己主義化するものーであることを此の頭の中にて突き止めたのです。
では其の逆に「多義化」され目指されるべき「幸福」とは壱體どんな形を取るべきなのだらうか。
「多義化」され目指されるべき「幸福」には「合理的指標」を欠いたところでのむしろマイナスの価値をも含むものがある。
故に其れはむしろ「幸福」だとは言えぬことであらう。
だけれどもあくまで当の本人に取りむしろ其れが「幸福」なのである。
1.ヤクザな昔の父ちゃん等などは稼ぎが惡いと云うのに何故か威張って居た
2.ルンペンさん等の中にも其れがやりたくてやられている殊勝な人人が居られる
3.自然界の欲望は「其の場限りのもの」ながらむしろ直接的に其の欲望と向き合う
尚3.の「欲望」にはむしろ寸毫も「罪」が生じて居ない。
逆に人間界の欲望には大なり小なり其の「罪」が生ずる。
1.と2.は其れ即ち「デタッチメント」の例となる。
「デタッチメント」されたところでの価値は必然として「多義化」されつまるところ其れは「資本の論理」が暴走し「破壊」を齎すやうな「壱義的全體主義」からは元來離れて居る。
また3.の場合にも「今其処にしか生きて居ない自然界の価値」は必然として「多義化」されつまるところ其れは「資本の論理」が暴走し「破壊」を齎すやうな「壱義的全體主義」からは元來離れて居る。
さて「資本主義経済體制」が此の世で仕出かしたことの最大の「罪」とはまさに「破壊」である。
其れはまた物理的側面と精神的側面の双方に亘り行われて來たのだと見ても良いことだらう。
特に「資本主義経済體制」と「科学技術」が結託する形にて其の「破壊」は進められて來たのだと言って良い。
「資本主義経済體制」と「科学技術」を哲學的に規定するのであれば其れは「合理的分析主義」なのだと言えやう。
即ち其の「部分、部分」はあくまで正しいのであるが価値に對する「俯瞰的な全體性」を其れは欠くが故に「暴走」する即ち「全體主義」化する。
「俯瞰的な全體性」は観念的な作業にて得られるものながら所謂経済學は其の観念的な作業とは異なり要するに其れが「数的還元の壱処理の方法」へと堕して行って仕舞う。
其れでもかのケインズ経済學では「資本主義とは内省と価値判断の指標」であり同時に「道徳學」である、と迄言われて居たものらしいが其の「資本主義に於ける良心」への信仰とはまた別に「資本の論理」はつまるところ「市場の原理」はかうして暴走を招いて仕舞う。
4.「市場の外部の論理」への注目
5.資本に「公共性」を持たせること
スティグリッツ氏による「強欲資本主義」への修正法とは以上のやうなまさに御尤もなものとなる。
特に4.の部分は非常に面白い考え方である。
其れもさうしてどうしても「市場の論理」が暴走するのであれば「異質なる価値観」を其処に取り入れることで其の暴走が防げるやうになるのである。
其の部分はかのマルクス・ガブリエル氏なども同様であり彼は企業に顧問として「哲學者」を置くべきだと力説されて居られるがまさにさうしたことなのであらう。ー其れもまさかやれないことだとは思いますがー
資本家の論理⇔労働者の論理
金持ちの欲望⇔貧乏人の欲望
いずれにせよ「資本主義経済體制」其れ自體が「全體主義」化して居る訳なのだから其れを「修正」し出来得る限り「延命」させる為には「違う考え方」こそが必要なのだ。
いずれにせよ「資本主義経済體制」其れ自體が「全體主義」化し其処に「破壊」を進めより「罪」を背負うこととなるのであれば結局誰が其の被害を被るのかと云えば其れは我我労働者であり金を持って無い人人なのだ。
でもってアノ大分頭のオカシイことだらう大富豪のイーロン・マスク氏などが「もう地球は危ないからみんなで火星へと逃げやう」などと勝手に火星移住計画を進めて居るのださうな。
でも大金持ちだけがそんな火星へ逃げてそんでもって人間が生きて行けるものか。
どだい人間とはな、そんな動物的な生き物であるに過ぎず従って何処へ逃げても其のそんな人間であることからはまるで逃げられぬものよ。
営利組織⇔非営利組織
此の部分からも「資本の論理」に限定性を与える上で「公的資本」の治外法権性を重視することに意味が無い訳では無い。
だが其の「公的資本」を最大限に重視する思想こそが所謂「共産主義」なのである。
だから中途半端に「資本主義経済體制」を修正するよりは「共産主義體制」を樹立することの方が手っ取り早いとさう言えなくも無いことだらう。
従ってスティグリッツ氏による「強欲資本主義」への修正法もまた可也に「無理のある」やり方なのだとさう考えざるを得ぬ。
兎に角自分の場合現代社會に對し言いたいこととはまさに以下のことだ。
6.まずは文明のバカをバカとして認めること
7.バカ=全體主義=欲まみれ
8.あくまで認識上の「壱義性」が惡い
とのことである。
さらに、
9.「壱義性」=「罪」=「破壊」=「惡」
なのである。
「多義的」な認識とは其処にてあえて逆を向き其処へと突っ込む「まともでは無い」価値の履行のことである。
そんな「惡」とは壱見正しいとされる価値の中にこそ潜んで居て其れ等の多くがまさに「偽善」としての価値となって居る。
汝等はそんな「偽善」としての「惡」の所業を続けて行かれる御積りなのか?
嗚呼イエス様はまさかそんなことを御赦しにはなるまい。
いえイエス様に限らず御釈迦様もまさか其れを御赦しにはなるまい。
其処でもってわたくしが「資本主義経済體制」に對し言いたいこととは以下のことである。
10.「資本の暴走」は「資本主義経済體制」が「全體主義」化することでさう行われる
11.資本家はまた近現代社會は其の「全體主義」の責任を取ることが無い
12.だがまさしく其れが「破壊」であり「罪」である
13.所謂「温暖化による気候変動」の大問題も畢竟「資本主義経済體制」と云う「合理的に到達すべき幸福」との進歩主義が齎したところでの負の側面である。
14.「合理的に到達すべき幸福」との進歩主義を共産主義社會でもまた違う方法にて目指して行く。
15.困ったことに共産主義社會と立憲君主制國家とはむしろ最高に相性が惡い。
此処から鑑みるに「資本主義経済體制」とは本質的に「罪深き惡の存在」である。
従ってなるべく資本の論理つまりは「會社の論理」の中に嵌まり込まぬやうな職業をこそ選択すべきなのだ。
故に其れが例えルンペンさんであれまた藝術家なのであれまた昔の無能の伯父さんなのであれ其れは其れで正しい選択なのだとも言えやう。