目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな「恐怖の認識の流れ」を形作る認識上の「惡」癖とは何か?ー宗教による善惡規定以前での哲學的な意味での認識上の誤謬の発見に就いてー

そんな「恐怖の認識の流れ」を形作る認識上の「惡」癖とは何か?ー宗教による善惡規定以前での哲學的な意味での認識上の誤謬の発見に就いてー

 

 

 

 

 

ジル・チャン氏 いま私たちは、情報過多で、スピーディーな行動がやたらと要求される「騒がしすぎる世界」を生きています。こうした環境下で、「静かで思慮深くあること」の重要性は、一見わかりにくいかもしれません。

 しかし私はこんな時代だからこそ、さまざまな場面で「静かな人」の力が求められていると感じています。

 

それだけでなく、短期的な行動は、「短絡的」に陥るリスクもはらんでいます。なので、賢明な人は、決して短期的な視点だけでものごとを考えたりはしません。必ず、中長期的な視点で冷静に粘り強く思考し、時間をかけてでもインパクトの大きなアウトプットをめざします。

 

 目の前の変化にすぐ惑わされがちないまのような時代だからこそ、ぜひ「冷静な観察眼」や「戦略的思考」など、静かな人の力を発揮するよう意識してみてください。ー本当に頭のいい人が絶対にやらない「低レベルな思考」とは? (msn.com)

 

本当に頭の良い人はまず非社交的であり謂わば自分ダケの世界観の中を泳ぎつつ生きて居ます。

なので言うことがまずは人とはまるで違うのです。

 

人とは違うのがそも当たり前なんで其れが当の本人には不思議でも何でも無いのですが他人ダケがむしろ不思議がるのです。

其の「低レヴェルな思考」とは世間の価値観に合わせるから当然に低レヴェルとなり別の言葉で言えば「意識が低く」なるのです。

 

逆に「高レヴェルな思考」とはまさにわたくしのことを視て頂ければ皆様にもお分かりになるやうにつまりは常に「考え過ぎ」て居り社交が嫌いで且つバカ女なども嫌いですが偏差値を高く持つやうな利口な👩に限りとても好きです。

 

また「奴はウルサイ」とさう思われて居る可能性もまたあるが其れは現代社會を心配し過ぎる余りに最近少し要らんこと迄言い過ぎた迄のことであり基本的にわたくしはまるで植物の如くに「静かな」人間であり其の「静かな」人間程實は利口なんです。

 

またかうして散文を書くと確かに自分でもウザいなとさう思いますのですが其れもイザ詩でも書けばまるで24時の白神山地の如くに静かなのです、ぞ。

 

 

堀北真希さん ママ友と談笑、家族で田舎に移住!根強い復帰待望論も“幸せなリタイア生活” (msn.com)

 

まさに其れが正解でせう。

但しあくまで金があればさう出來るとのことです。

 

元より価値は多元的であり「都會の資本主義社會にて成功するつまりは壱旗揚げる」と云うのをむしろ小馬鹿にして嗤う価値観なども成立するのです。

其れもおそらく田舎の人程さうした価値観へと洗脳される可能性がある。

 

ですが其の都會人自身は案外都會がイヤなのだ。

つまるところは都會には人間が欲しくなるやうなものが何でもあるが兎に角自然が無いので其処にて本質的な心の癒しを得られにくくなる訳です。

 

またつまりは欲しいものもまた金次第でありまた美女なども金次第であり要するに何もかもが金次第です。

ではプータローで行けば良いかと言えば結局のところ其の都會でのプータローは「閉じ籠り」をするより他は無くなる。

 

 

だからもう死ぬる迄閉じ籠るのだ。

ですが其れを出來る人は逆に強い人でせう。

 

またルンペンさん化する手などもまた確かにあるが此の気温の中野外生活をすればまず早死に致しませう。

左様に怖ろしい世界です、特に都會こそが怖ろしい世界なのだ。

 

またスペインではつい先日45度もの気温となりもはやみんな死にさうだとの話ですが此処🗾もやがてはさうなりませう。

事實つい先日此処名古屋は39.5度位になりましたがおおまさに半分位死んだ心地が其の時に致しましたものです。ーまた其の日に限り買い物があり🚲に乗りつつさう思いましたー

 

 

左様に兎に角こんな文明はアカンのでもはやコレは永続致しません。

永続どころか五拾年持つかどうかも正直分からんです。

 

ではどうするのかと云う点に就き述べることこそがまずは此処の目的でしたのです。

でもって社會変革とのことで理想としての社會論を組み立てることも出來確かにソチラへ気持ちを預けることも可能であるが我に限り其の理想論にはたった今与して居りません。

 

何故なら其のことはむしろ此れ迄に其れも頭の良い人人が何処迄をも組み上げて來て居るからなのだ。

ですが結局其の理想論が實現された試しはありません。

 

では何でそもさうなるのかと云うことこそが問題である。

でもってあくまで自分の場合には其れを「認識論」の問題として捉え直して行った訳です。

 

 

其れでもってかって此処にて「人類の認識を其の根底より正さんが為」の連載をやって居りました筈です。

まさに其れが「自分を救う認識論」とのことで要するに其れは「ショーペンハウアーや御釈迦様による価値認識」が世人とはまるで違うとの其の認識上の方向性の違いを此処に書き示すことだった。

自分を救う認識論 の検索結果 - 目覚めよ! (hatenablog.com)

 

 

ですがまたさう云うのに限りもはや誰も視なくなる。

つまりは「眞理」と云うのは普通の人間に取り「苦痛」其のものでしか無くしかも同時に「視ちゃイカン」ものなのだ。

 

ところが👩の裸や👪への愛だとかまた何とかそんなものは彼等に取り常に「眞理」だからむしろ壱番大事なものなのだった。

いやだが其れは「眞理」では無いとかってイエス様や御釈迦様がさう御説きになられて居た筈だ。

 

 

そんな偉さうなイエス様や御釈迦様がどう言われやうとまさに其れが俺にとっての眞理だぞ。

嗚呼、さうでしたか、其れは其れはどうもすみませんでしたね。

 

とズバリ大衆の方方の認識の方が間違ってるのですが其れをむしろ押し通して行くのが此の世での生き方であり「基本原則」なのである。

其れ即ち「眞理」の方には蓋をしあえて「眞理以外」の方に向き直る。

 

だからそも間違って居るのに自民党などは自分等こそが正しいと其れももう参拾年位も其れをゴリ押しして來たのです。

 

いいですか、此の世とはそんな「矛盾」をこそゴリ押しして進む世界其のものなのだ。

だからイエス様や御釈迦様が其の様を「✖だ」とさうかって説かれたのでした。

 

 

では早速以下に本日令和五年ーだったか?ーいや確か2023年だったか?の7月19日の朝方ー大體八時頃ーに直観された「眞理」の内容に就き述べます。

其れはあくまでわたくしに取っての眞理であり普遍的眞理規定たり得るものでは元より無い。

 

其れが今便箋の八枚に亘り書かれて居ります。

では其れを見てみませう。

 

うーん、コレはまた實に話が難しい。

もう其れを此処に書き写すこと自體がとても面倒だ。

 

だがやらねばならぬのではないか。

さうして「半分天才だ」とか自分でもってさう述べて置きながら「文明が肥溜めに落ちる」話しか出て來ないやうではまさか誰も信用して呉れんことだらう。

 

 

其処ではまずは基本命題として、

 

『価値の壱義的認識ー理解ーが「惡」を生む』

『価値の多義的認識ー理解ーが「善」を生む』

 

との関係性が其処に直観された。

 

其の「惡」と「善」との差とは畢竟「認識の仕方」により生ずる部分である。

即ち其れは宗教的価値観やまた習俗や文明の型などから独立して存するであらう「認識論上の誤謬」によるものとなる。

 

何故なら「惡」と「善」と云う価値はそも両義的に其処に成立するものであり言うなれば其れは「現象的価値」のこととなる。

故に、

 

惡⇔善

 

でありそも其処にはしかと両義性が成立して御座る。

(⇔=相剋し且つ相即する価値であることを示す弐項對立ー弐元分離ーの様)

 

より正確に言えば「惡其のもの」と「善其のもの」での価値を哲學的に抽出することなどは出來ぬ。

また其のことをあえて佛法的に表現すれば「惡其のもの」と「善其のもの」はむしろ互いに反発しつつ混ざり合い普遍的壱義性へと至ることがそも無い。

ー単壱の「善」や単壱の「惡」なる価値へと還元され得ぬとのことー

 

ならば特殊的壱義性へと至ることは可能かと言えば其れは可能であらう。

其れ即ち其れが「信仰」のやうなものだ。

 

 

即ち「惡其のもの」と「善其のもの」の価値を宗教的に抽出することなどは常に可能である。

だけれども釈迦の宗教哲學に限り其の弐元的価値對立其のものをむしろ去らんが為の教えとなる。

 

故に原始佛法や禅宗などではまさに其の弐元的価値對立其のものを去らんが為の教えとなる。

逆にキリスト教では弐元的価値對立其のものを神の価値観にまでむしろ拡張せしめ其処にこそむしろ普遍的壱義性としての「善」を可能たらしめる訳だ。

 

キリスト教もまた壱面では其れこそ「現世否定」としてのデタッチメントとしての価値観をこそ其処に構築する。

但しあくまで其の現世否定、現象否定としての価値観は贖罪されることでこそあの世ー神の世界観ーの中に「永遠なる神の王國」が實現するのだ。

 

其のやうにキリスト教は本質的にデタッチメントとしての価値観其のものに非ずながらとりあえず其のやうに「現世否定」としてのデタッチメントとしての価値観を實は大きく取り入れて居る。

 

でもって最終的に「惡」を生み出さぬ為にはむしろ「惡」を徹底的に見詰めねばならぬとの謂いである。

 

 

だから其れが法然上人や親鸞上人とまさに同じ考え方なのであらう。

要するに浄土教とはキリスト教化した佛法なのだ。

 

そんでもってコレが自分の直観メモの壱枚分の内容なのだ。

でもって本日何枚分メモしたかと言いますとズバリ八枚分です。

 

はあ、ヤッパシ疲れるわ。

 

だからもうこんなのは全部を壱瞬で分かって欲しいのですが。

もうこんなことばかりして居るともうすぐに高齢者だと云うのにまるで気が休まらん。

 

 

何、ノブナガとイエヤス?

何故かそんなことまで書いてありますね。

 

ちなみに「どうする家康?」の方は今とても良いですね。

まあ色色と文句は言ったが其の尾張三河の憎しみ合いながらも結局は繋がらざるを得ないとのつまりは「腐れ縁」の部分がむしろ大河ドラマでは初めて描かれたのではなかったか?

 

つまるところ天下人としての家康公をほぼ創ったのが他ならぬ信長公であったのだと云うことです。

さても今後は秀吉公と家康公との對立の部分がまた樂しみとなって居ますが最終的には信長公の存在こそが🗾を統壱に導いたとさう言えるのではないか。

 

またつまりは其の愛知県人としての天才や秀才の努力が其れを可能たらしめる訳だった。

 

しっかし光秀はまた相当に信長公に叩かれました。

もう「自分は終わりました。」とさう家康公に言って居たやうにまるで足蹴にされた訳です。

 

光秀もまたしかしながら哀れな人です。

光秀はしかし其の怖い信長公をやっつけて多分物凄く気持ちが良かったことでせう。

 

尤もまあ其の後にすぐ死んで仕舞いましたのですが。

光秀はしかし其の時すでに復讐は遂げて居たので多分せいせいしながら死んだことでせう。

 

 

あれ、そんな無駄口を叩いて居たら何が何やら分からぬやうになって仕舞った、其のメモの順序其のものが。

 

「壱義的認識は全體主義化する」

 

とどのつまりは「全體主義」に「洗脳」されし認識は「壱義的」なものでしかあり得ず「眞理」などとはほど遠いつまりは洗脳刷り込み型での認識とならざるを得ぬ。

逆に自立的、自律的に「多義的」=「両義的」に認識を個として成立させる場合には其の「洗脳刷り込み型での認識」を避けることが出來る。

 

さて信長公はまさに専制的な権力體制を築き上げ家康公はまさに「家臣主義」でもって合議制としての権力體制を築き上げて行く。

其の「合議制」は豊臣政権でもまたしていたことでしたが其の豊臣政権は基本的に「👪主義」だったのだと個人的には思う。

 

と云うことは矢張り「👪主義」を政治體制の世界に持ち込んだ時点で豊臣政権には限界が生じて居たものと思われる。

だけれども秀吉公はほんに良く頑張って生きた。

 

其の🗾壱頑張ったのがまさに個としての秀吉公なのでせう。

 

ですが其の「👪主義」の弱点とは「壱義的認識」であることなのだらう。

 

其れは丁度イエス様が「👪主義」を取らなかったのに案外「弟子主義」だったのと似たやうなものでありだから大昔よりキリスト教の弱点とはズバリ「壱義的認識」に擦り寄り易い部分なのだ。

其れでもってかってイエズス會などが神の世界観を壱義的ー普遍的ーに世界中に広めて行きましたのです。

 

ですが其の壱義的ー普遍的ー認識が災いしてキリスト教はいまだかの「十字軍」をやって居るかのやうなものでせう。ーさうしたイスラームの世界観との大對立を今まさにやるー

 

 

先ほどよりなんか話が哲學より逸れ歴史や宗教の御話ばかりに變わって來て居ますよ。

いやでも其れが頭の良い証拠でせう、其の社會科詩人さんや宗教詩人さんが急に出て御座るところこそが…。

 

なる程、さう言われれば確かにさうだ。

でもメモの方は、其の大事な直観の内容のメモのことは?

 

確かに其れをスッカリ忘れて居ました。

だがこんなもんは所詮「屁」みたいなもんですよ。

 

「屁」?

さうまさに其の「屁」です、ブリッ。

 

 

兎に角其の「壱義的認識」とは兎に角「全體主義」を生み出し個を「洗脳」するであらう怖ろしいものなのです。

 

個人主義⇔組織主義

 

其の「人が協力し行う価値」としての組織主義が絶對に良いとは必ずしも言えません。

また其の逆に個人主義が絶對に良いのだとも必ずしも言えません。

 

但し「集団主義」でもって動けばデカいものが普通出來る。

デカいものは人の目を惑わせ易く實は其のデカいと云うことのみで大衆はひれ伏して仕舞いがちだ。

 

文明などもまたそもデカいものですので人間は普通其れにひれ伏して仕舞う。

じゃあもしや文明は「神」ですか?

 

畢竟「邪神」ですがまさしく其れは神でせう。

其の神とは普通「概念的眞理」のことです。

 

神と其の反對の価値での惡魔とは畢竟其の概念的對立のことです。

其の概念的對立を客對視し得る心の立場こそが「佛」なる認識世界である。

 

すると所謂超越神は概念的對立世界を客観視し得ぬのか?

 

神⇔人間

 

おそらくは出來ぬことでせう。

だからこそさうして神と人間が分裂するのです。

 

佛⇔人間ー✖ー

 

だけれども其のやうにはむしろなかなかならない。

なんとなれば佛はむしろ人間とは決して繋がらないからだ。ーさうして認識が人間離れすることこそが佛の眞意故にー

 

 

「概念的眞理⇔非概念的な眞理」ーメモの言葉ー

 

概念的眞理が対偶としての其の非概念的な眞理ともまた「相剋し且つ相即する」関係性を保たねば概念的眞理が壱義的普遍性へと落ち「全體主義」化する虞が常にあるとさう見て置かねばなるまい。

其のことを平易に述べると次のやうなこととなる。

 

「どちらが正しいかをそも現象的次元として決め切れぬ価値の場に於いてとある人間が正しいとさう己が価値観を主張することはそも✖である。」

 

✖=錯誤であり倒錯であり顛倒でありつまりは間違いのこと

 

『間違った認識に基づき壱義的普遍性を強制するに至ることこそが「全體主義」としての基本構造である。』

 

よって問題はドレが正しいかなのではむしろ無く「ドレかを選びコレが正しい」とさう信じ込んで御座る彼や彼女の頭の中身にのみ存して居る。

また其のやうな状態をこそ「惡」であり「惡の履行」だと云うのである。

 

 

「壱義的認識は全體主義化する」

 

勿論キリスト教自體が惡いのでは無く間違った信仰のあり方こそが惡いのだらう。

但しキリスト教に詳しくは無い自分は何が間違った信仰のあり方であるのかと云う点に就きまるで分からない。ーキリスト教に就き考えることが得意なダケなのでー

 

また佛教に就いては壱通り學び終えては居ますが其れでも其処での何が間違った信仰のあり方であるのかと云う点に就きまるで分からない。

無論のこと迷信的な部分や狂信的な部分を指摘し其れを直すこと位は出來るにせよ。

 

さらに言えば其の宗教的な意味での価値認識を離れたところにも認識上の「惡」は存在する。

まさに其れが「全體主義」による「壱義的認識」のことである。

 

 

以上で宗教的な善惡の對立概念のことに就き述べても居るがむしろ眞理規定の上での善惡規定とは其れが「壱義的価値」であるか其れとも「多義的ー弐義的ー価値」であるかとのことに尽きて居る。

 

もっと単純化して其のことを述べれば「壱方通行」での認識ー価値構築ーを止め「双方向性」のある多元的認識及び価値構築の流れを是非創らねばなるまい。

「壱方通行」での認識ー価値構築ーこそが其れ即ち「惡」でありつまりは「洗脳體制としての全體主義」の履行のことである。

 

故にまずはより柔軟に何でも考えて見給え。

思考の上で洗脳を受けるとまずは価値観が硬直化ー又は思考停止ーし挙句に誤った価値観に個としての脳味噌全體が毒されて仕舞う。

 

さうして頭の中が柔軟であればどんなことでも受け容れられるやうになる。

…のかもしれん。

 

 

おおう関西も関東も皆こんな大地震にて潰れよ。

また大ナゴヤも潰れよ。

 

でも助かったじゃないか。

 

其れも大都市では無いクソ田舎の住人達が。

ヤッパシそちらの人に自分は是非なりたい。

 

嗚呼矢張りと云うべきか「独りが好きなヒロシ」は正しかった。

「独りが好きなヒロシ」はどだい文明に「洗脳される」ことが無い。

 

また其のことをあえて難しく述べれば彼の認識が「洗脳體制としての全體主義」の履行からは逃れ「双方向性」のある多元的認識及び価値構築の流れをこそ形作るのだ。

 

 

實は「独りが好きなアキちゃん」

そんなアキちゃんはもう64にもなったが相變わらず彼は「直観としての精神の野」にこそ生きて御座る。

 

即ち年は関係無く其の脳味噌の中に哲學的な意味での「眞理」がさうして日日舞い降りて來るのだ!

だがイザ其れが舞い降りるともう其れダケで壱日いや壱週間位は精神的な意味での予定が詰まって仕舞う。

 

しかも何せ其れをかうして解読せねばならん。

まあ頭が良いと云うこともまた實に困ったものよ。

 

 

価値構築での壱元的解釈はさうして全體主義化する可能性が高くある「恐怖の認識の流れ」其のものでのものだ。

本日人文詩人は兎に角其のことをまずは明らかにしてみた。

ー尚本日の解読は便箋の参枚分のみのことでした。ー