🗾人の意思決定に就いての壱考察ー我我🗾人に可能な弐義的な意思決定のことー
『懲罰交代』大谷翔平も珍しく膝に両手をついてガックリ「許せなかったのは…」ネビン監督が怠慢守備のレンヒーホ交代の真意を語る (msn.com)
其の大谷 祥平は「7」を背負う天才だから何時どうなってもおかしくは無い訳で事實として今回はさうなりました。
其れもTV中継があり其れを齧り付きにて視て居たが華華しい活躍どころかとんだ結末でした。ー彼もまた結局はさうして人間なのですー
さて以下に🗾社會への分析論と今後への処方箋をわたくしなりに纏め書いて置きます。
其れも來たる8月は古生物學や地学研究などの所謂「御勉強」に勤しむ予定でありさうなれば🗾社會を論ずる心の余裕は何処にも無いからです。
1.そも🗾社會とは何か?
合理性⇔非合理性
近代性⇔非近代性ー封建的体質ー
個人主義⇔同調主義
利口⇔全體主義
問題は其の🗾の大衆の意思決定が自立的、自律的なものとはなりにくい点にこそある。
自立的、自律的な意思決定プロセス⇔🗾の社會による洗脳プロセス
ですが最も問題なのは理性があるにも関わらず日本人は理性を前面に出して事物を語ることが無いとの点だらう。
即ち「全體主義的」な意思決定こそが彼等に取りホンモノの思想なのだから。
なので其処でのスローガンの内容や事の正邪に就いてはほぼ無視され得る。
まさに其の「全體主義」はアホでもなり易いものですが日本人はむしろ利口でも好んで其れをやるのです。
故に本質的には日本人は利口だがアホだとのこととなる。
🗾人の利口⇔🗾人のアホ
此の辺り迄考えればすぐに分かるが日本人の意思決定プロセスは元來「弐義的」なものであり所謂「どちらともつかぬ」曖昧模糊としたものとなり易い。
其れも日本人は亜細亜の利口の民族でありそんなアホでは無いのに何故か其の意思決定プロセスが所謂「どちらともつかぬ」曖昧模糊としたものとなり易い。
近代的自我⇔前近代的自我
其の曖昧模糊としたものを前近代的自我として近代的自我の低位に置くのは誤りだらう。
前近代的自我ー封建的自我ー<近代的自我ー高度成長がしたい自我ー
が要するに大きな誤りだ。
日本人の意思決定プロセスは元來「弐義的」なものであり要するに+と-、文化的洗練と権力闘争としての野蛮と云うやうに常に弐極分化されて居る。
即ち「両義性」の世界に生きて御座り其れは何故かと言えばつまりは頭が良いからなのだらう。
2.日本人の同調主義はあくまで病気
より正確には個人主義⇔同調主義では無く👪主義⇔同調主義なのだ。
例えば戦争時に日本人は天皇陛下の為に命を捧げ戦わねばならずつまりは鬼畜米英をやっつけ亜細亜の盟主として立ちさらに大利口の独逸人とも組み世界を支配し新たな文明を築くことを理想として掲げた訳だ。
でもって其れの何処が惡い?
其れは壱つの価値としてあくまで「正しい」ことだらう。
だから戦後は戦前の教育が全部否定されたが其れはそんな鬼畜の米英から見ればオカシイとの御話でありだが原爆を広島と長崎の弐発もブチ落としたのは其れは明らかに米國の価値観其のものが異常だからなのだ。
では日本も此の際革命すればエエのんか?
革新主義者である米國を倒してそんな中華共産圏を世界中に広めるのか?
革命すればエエんですが中華共産圏は威張る體制ー中華思想體制ーなので其れに組み入れられると矢張り🗾國の自立性及び自律性はもはや保てなくなることだらう。
じゃあ🗾共産党が中華共産圏を打倒し其れこそ純粋な意味での共産主義國家建設に邁進するのか?
いやでも其れは露西亜が黙っとらんでせう。
其れと🗾共産党が正しいとはなかなか言えんことです。
じゃあ果たして何が正しいのだ?
より正確に申せば「イデオロギー對立」其のものがむしろ茶番です。
保守主義⇔革新主義
其処でのデカい観念對立ー政治上の価値観の上での對立ーはそも超克し難いものだと言える。
よって其れこそ哲學的には「壱義的に規定される価値は自己矛盾する」のだとも申されませう。
其れ即ち、
保守主義<革新主義
革新主義<保守主義
のどちらでも✖とならざるを得ぬ。
今少し突っ込んだ言い方をすれば、保守主義と革新主義は相拮抗する価値なのであり其の優劣を哲學的に決めることは出來ぬこととなる。
要するにバランス化されるべき価値なのでありよって馬鹿右翼が反共壱本槍なのと逆にアホ左翼が反伝統壱本槍なのはどちらも同じ穴の貉でありつまりはアホでバカだと云うことにしかならん。
であるからして「抽象的理念」はまさに「弐義的」にのみ規定されることとなる。
また實は「宗教的理念」などもまた「弐義的」にのみ規定されることとならう。
なので、
「邪教の教祖が壱番偉い」=✖
でしかも
「俺らの宗教ダケが〇」=✖
なのだ。
であるからゆえに宗教詩人は以前から壱義的に「正しい」とされる宗教的価値を否定的に捉えむしろ其れ等を「邪教」だとさう述べて來し筈である。
近代⇔前近代
また此の概念的関係性に於いてもむしろ「優劣」の問題では無くあくまで「バランス」としての問題なのだ。
西洋の価値観⇔東洋の価値観
🚹の価値観⇔🚺の価値観
などもまた全てがさうなのだ。
ついでに言えば、
個人主義⇔👪主義
などもまた同様である。
3.弐義的な意思決定は「曖昧」か否か?
其の答えは、
弐義的な意思決定→近代に對し曖昧ながら逆に前近代に對し親和的
となる。
つまり🗾人の意思決定過程は逆に前近代に對し親和的であり且つ有利ですらある。
また其のことは結果的に🗾人には「脱近代」的な価値への理解への能力が欧米人以上にあるとの事實を招くことだらう。
ならば彼等日本の🐵共は欧米人よりも精神的にはむしろ偉いのだと?
いやソコで「威張った」が最後🗾人はもう肥溜めにハマる。
だからたった今日本社會が其れこそ得體の知れぬ閉塞感に覆われて居るのは🗾人の支配層が即ち文明の推進側の奴等が皆「威張る」からでのことだ。
わあー樂しい!其れもなんて樂しい経済成長の場なんだ。
「かうして24時間働いてドンドコ良くなるニッポンだー」
お前はバカか!!!!!!!!
そもお前はすでに尻に火が点いて居るのが分からんのか?
尚京大の藤井教授などはあくまで左翼がバカなのでー自民党が左翼化したのでー🗾は腐っちゃったと云うやうなことを述べられて居りますが確かに其のこともまた壱理あるとは言えそんな左翼が全部惡いのでは無く右翼も矢張りと云うべきか「頭が惡い」と云うことは其れも間違いなく御座りませう。
ですので兎に角重要なこととは、
「壱義的に優劣や正邪を付けたところでの抽象的概念は✖である」
との結論が導き出されるので御座ります。
まあ自分で申すのも何ですが可成に「哲學的」な意味での結論となる訳です。
4.日本人の意思決定過程はそも正しいー〇ーのか、其れとも間違いー✖ーなのか?
其の問いに對し答えを述べれば、
「正しくもあり間違いでもある」
であり、とどのつまりは、
「正しいとも誤りだともつかぬ意思表示の集積」
であることこそが日本人の意思決定過程其のものなのだ。
つまりは其の意思決定過程其のものが非常に複雑でありつまりは両義的な価値判断なのだ。
両義的な価値判断とは言わば「天才的」な価値判断なのでもまたある。
日本人は例えば「神道」と「佛法」を同時に社會へ受け容れて居る。
「神道」はエヴァーグリーンなこと所謂「常緑」であることつまりは生其れ自體を神聖化して展開するであらう「+の思想」である。
だが對する「佛法」は生其れ自體をむしろ消去せんとして展開するであらう「-の思想」である。
でも日本人はかうして同時に其れをやっちまってる。
其れも眞面目に考えたら同時になんぞとてもやれんものをあえてくっつけてやって來ちゃう。
また「佛法」が大事にされて居る筈なのに意外と👩が好きなのが日本人であり其れは即ち「五穀豊穣」との関連性の深い「生ー性ー崇拝としての思想」なのではなからうか。
じゃあ今すぐに知らん👩に飛び付いてもエエのですか?
まあ逮捕されることを知った上であえてさうされるのであれば其れもどうぞご自由に。
さてあくまで個人的に其の日本人の意思決定過程のことを此処数箇月程何故か考えて來て居り其れがおそらくは文人としての自分の仕事の内容ではなかったかとさう思いますのです。
さうして居るうちに所謂ポスト・モダン思想が目指したところでの近代としての超克、即ち「脱近代」としての所謂「脱構築的」世界観のことと何時の間にか其の日本人の意思決定過程の問題とが組み合わされて仕舞ったのです。
さうか、ならばいっそのこと其れを混ぜこぜにして即ち「味噌煮込み」何とかのやうに何でもソコへぶち込んでみれば或は物凄く美味いもんが出來るのではないか。
すると次第に其の日本人の意思決定過程の中にこそ「脱近代」としての所謂「脱構築的」世界観との近似性がまた見えても來たのであります。
だけれどもまた其処には壱つ大きな問題が即ち「壁」が立ちはだかって居たのです。
其れ即ちまさに其こそが「全體主義」の問題です。
「弐義的な価値観であり世界観」
無論のこと其れはむしろ「正解」としての価値観であり世界観のことだ。
だけれども「弐義的な価値観であり世界観」もイザみんなでもって共有されますれば其れが即「全體主義」化するのです。
いやでもさうではないのかも。
あくまでさうでは無く、其れは「弐義的な価値観であり世界観」が社會的に共有される場合に限りむしろさうなる訳だ。
ならば最終的には其れを「非社會的」なレヴェルでの共有価値となして行けば良いのであり其れがまさに自立的且つ自律的な學びにより個が得られることだらう精神的な独立した境地となり得ることであらう。
そんな訳でわたくしは其のやうにまずは考えてみました訳です。
其の思考の発端は川端 康成氏による「美しい🗾の私」での考え方と其れに對置されるであらう大江 健三郎氏による「あいまいな🗾の私」での考え方をどう判断するかとの其の決断に迫られまして其のことを考え続けるうちに次第に其の🗾人の意思決定過程がさうして炙り出されて來たのである。
あいまいな日本の私:大江健三郎のノーベル賞記念講演 (hix05.com)
まあそんなものは自称とは言え自分が文人の端くれだから考えることでありでもそんなもんは出来得れば考えたくは無く其れもつまりは物レポーターか食い物レポーターの方に是非なりたい訳ですがたまにはこんな難しい話も述べませんと皆様にはまるで信用して頂けません。
ですが確かアナタは以前「日本人の精神のあり方は今や危うい、やがて壊れるかもしれん。」などとも述べて居られませなんだか?
確かに以前はさう考えて居たのだったが現在はむしろ「日本人の精神のあり方こそが希望であり且つ未來があるもの」との思想的な意味での大転換が引き起こされた訳です。
でも何かと悲観的なアナタが本心からさう述べて居るのですか?
本当は日本人の精神はもうダメだ、だから皆滝から飛び降りやう。などと思っては居ませんか?
まあ其れも少しだけ思わぬ訳ではないが其の必要はむしろまるで無いとのことですね。
では「滝からは決して飛び降りない強い🗾人」として今アナタは日本人を見詰めて居られる訳だ。
でも其の「強い」と云う表現はズバリ申して間違いです。
正しくは「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる極めて頭の良い東洋の🐵の方方」とさう形容してあげねばなりません。
でも其の🐵は問題でせう、別に🐵とは言わずに「人間」だとさう言うべきなのではありませんか?
じゃあいっそのこと🐻の方がエエのか?
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる極めて頭の良い東洋の🐻の方方」
うーん、でも🐻の頭がそんなに良いんでせうか?
なら🐱か?
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる極めて頭の良い東洋の🐱の方方」
いやだからそんな「動物シリーズ」では無くしてちゃんと人間としてあくまで🗾人を論じてあげませんとそも失礼ですよ。
さうでしたか、つい其の動物にまみれたまるで畑 正憲先生のやうな御話となって仕舞いました。
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる極めて頭の良い東洋の人間の方方」
さてもコレでもってどうでせう?
珍しくとても良く出來て居ます。ー💮ー
そんな『日本人の意思決定過程の中にこそ「脱近代」としての所謂「脱構築的」世界観との近似性が存する』
さらにコレなどもまた凄い言葉です。
まあ普通に喋るとこんなものが幾らでも出て來るので別に考え込んで出した言葉ではありません。
まあまるで💩をしたかのやうな言葉でせう。
💩?
さうまさに其の💩のやうなもん。
でも「極めて頭の良い」とした途端に即其れがかの「大東亜共榮圏構想」などに繋がるのではないか?
即ち「極めて頭の良い」とした途端に即「威張る」のではないか?
さうでした。
「威張る」體制は元より「脱近代」的では無くつまりは其れは単なる馬鹿體制のことです。
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる頭の良い東洋の人間の方方」
さても此の位でどうでせう?
でも「頭の良い」と云う言葉其れ自體が矢張りと云うべきかすでに「威張って」居ます。
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる東洋の片隅の人間の方方」
なあんだ、むしろ最初からコレで良かったんだ。
🗾人の意思決定過程は左様に壱種複雑であり余程のことでないと簡単には其れが読み込めません。
なのでむしろ初めからさうしたものであるとの「前提としての理解」のやうな部分を持って置く方が良いやうにも思う。
まあしかしながら🗾人には其の「前提としての理解」を持つことが常に可能であることでせう。
また外國人でも所謂文化人の中には其れを持ち合わせる人などがまた居られることだらう。
例えば高名な哲學者のマルクス・ガブリエル氏などはまさに其のことをお持ちの筈です。
「強いとも弱いともつかぬつまりは脱構築的な価値にこそ生きる東洋の人間の方方」
尤もむしろ其のことは所謂「誇り」でも何でも無くあくまで「価値としての選択」としての御話なのだらう。
だけれども「価値としての選択」を違えぬ限り我我🗾人は今後どんなに貧乏化するにせよまた飯が食えなくなるにせよ卑屈になる必要などはまるで無い。
但し其の鍵はあくまで「弐義的な認識」が其処に可能となるかどうかと云うことです。
くれぐれも其処にて「壱義的な全體主義」にやられて仕舞わぬやうにして下され。
右翼的全體主義=✖
左翼的全體主義=✖
「資本の論理」礼賛主義=✖
無能な政治家及び官僚主義=✖
断頭台=〇
石原 慎太郎=先生
さうして石原 慎太郎氏を崇拝されるので?
いえ単に偉い作家さんでしたので。
作家さんは自分に取り皆先生ですので實は猪瀬 直樹さんなどもまた「先生」なんです。
じゃあ百田尚樹 - Wikipedia氏などは矢張り「先生」なんですか?
まあ彼には全然興味が無いので「先生」以前の右の人でしか無い。
兎に角重要なことが本質的な価値とはむしろ両極を「行ったり來たり」出來ることなのである。
自然⇔文明
故に此の場合にもまた両極を「行ったり來たり」出來ることの方が良い訳だ。
兎に角さうしたものこそが其の「哲學的に規定される脱構築的な価値」を平易な言葉でもって述べたこととなる。
また「哲學的に規定される脱構築的な価値」とは言ってみれば「右」でも「左」でもない「哲學的」な価値なのだ。
要するにイデオロギー的に「右」だまた「左」だとさう拘って居るうちは観念的な意味での「価値構築との闘い」がまるで為されて居ないとの御話なのです。