目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

社會の価値観の意図的な放棄が「気付き」に繋がる其の理由

社會の価値観の意図的な放棄が「気付き」に繋がる其の理由

 

 

 

 

坂本龍一さん「政治に期待できないなら、芸術とか文化で示すやり方もある」 YMO「散開」20年で語っていた成熟と喪失(2/3)〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)

 

其の「アニミズム」に常に期待を持つと申すか「文明の突破口」を常に感ずるのが「藝術」の役割でもまたある訳です。

 

ところが現實としての政治の世界なり文明の原理なりが實際には数値的な還元論の世界に設定されて居ます。

其の所謂「合理化」されたところでの「社會」なる価値に對し「藝術」が勝てるのかと言えばなかなか勝てはしない。

 

左様に政治の世界なり文明の原理なりは「社會の原理」として存立し得るがそも「アニミズム」や「藝術」は其の「社會の原理」としてあるものでは無いのである。

 

 

坂本龍一さんが生前語った「優しいハグ」と希望 「敵対するものをつぶしたとしても、別の新しい敵対勢力が生まれるだけ」(4/4)〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)

 

其の「ハグ」とは「受容」のことですが「受容」する為には自身が「まとも」である必要がまずはある。

 

「まとも」さとは精神的な意味での余裕のやうなものでせう。

勿論物質的な意味での余裕もまた大事なのであるがどちらかと言えば精神的な意味での余裕の方がより大事である。

 

現代社會には物質的な意味での余裕が偏った形であり過ぎ逆に精神的な意味での余裕の方が次第に少なくなって來て居る。

まさに其のことこそが問題なのだが其れはむしろ社會的には直せぬ課題である。

 

「社會」とは其のやうに「精神的に雁字搦めとなりつつある何か」であり別に正しいものでも何でも無い。

むしろ「間違って居るもの」とさう捉えて置くべきものであらう。

 

 

「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差 | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

こちらはまさに素晴らしい内容の記事です。

此の記事を読み思わず「快哉!」と叫びたくなりました。

 

さて其の「沈潜」とは基本的には現存在に発現する心理上の特質としての「性格」のことです。

其れでもって自分はまさに其の「沈潜」型の文人であり要するに「深く物事に就き思考する」タイプの人間です。

 

尤も其の「深く物事に就き思考する」タイプの人間であることは元元がさうなので其処で其の性質に就き何らの疑問もまた生じない訳です。

ですので普通に「哲學」や「宗教」さらに「藝術」の分野をむしろ横断的に見詰めて行くことが可能となる。

 

でも世間ではむしろ其の種の人間は稀でありつまりは「浅い思考」や「愛想笑い」などの其の場其の場を乗り切る為の所謂「現實的適応力」の方が重宝されるのであります。

つまりは其れが「現實世界」と「観念世界」の對比を為して居るのである。

 

ところがこと「聖なる認識」と云う所謂眞理方面での認識へと向かいますと必然的に其の「沈潜」の能力こそが其処へと至る鍵となって來るのです。

 

要するに自分は何故か生まれつきにそちらの方こそが強くよって「現實世界」の方は常にバカバカしく感ぜられて來た部分が大いにありました。

「現實世界」の方が常にバカバカしく感ぜられて來たにせよ飯を食わんと人間は死ぬので死なぬ為に社會に合わせて還暦迄やって來たが其れも結局はバカバカしいことでありもっと本気でもって「詩」だとか「哲學」だとかそちらの方で頑張るべきだったのではないかと今はさう思われてならない。

 

でも本気でもって其れをやればすでに死んで居た可能性などもまた高く御座ります。

其れも「詩」だとか「哲學」だとかおそらくはそんなものを遺してすでに死んで居たことでせう。

 

よって自分に取りむしろ新鮮なのは「沈潜」しない部分つまりは「大衆性」の如き👿ー悪夢としての欲望ーの部分です。

要するに「聖なる世界」とは違う「惡」の部分のことでせう。

 

またつまりは何で其れが人間には普通に有るのかと云うことがわたくしに取り至極不可解なことなんです。

 

ちなみに参拾歳位の頃に變な整體の先生ーI先生ーに所謂「キャバレー」のやうなところへ何度か連れて行かれ酷い思いを致しました。

また其の頃は惡い友達なども居て惡所へ何度も連れて行かれたが今思うと其れもまた懐かしい思い出です。

 

何故ならあくまで自分の場合は普通にして居ると其の「沈潜」のみで世界が終わるからなのだ。

だからなるべく「普通にはしない」ことばかりを實は心がけて居ります。

 

でも昨日などはまた日がな壱日「西田哲學」の研究に没頭して居りましたのです。

さうした現實離れした人間の思考は矢張りと言うべきか思い切りに「大衆」的感覚とは離れて居るのだと自分でもさう思われる。

 

 

「人間の判断力や意志力といった精神力は有限である」

スマホを「1時間以上」見続ける人が陥る悪循環 | インターネット | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)より

 

こちらなどもまた素晴らしい記事です。

其の「精神力」の有限性なるものはまさに「現實的」には其の通りでのものなのでせう。

 

問題は其の「精神力」の使い方には質的に差があるとのことでせう。

先の話で言えば「沈潜型」の人は其れが徹底するに及ぶにつれまさしく「沈潜型」での「精神力」の使い方を好んでして居る訳です。

 

逆に「非沈潜型」での「精神力」の使い方をする人などはむしろ「面白いから」ネットの内容などに接する訳でせう。

またネットに限らず本なども「面白い本」を選んで読んで行くことでせう。

 

ですが「西田哲學」のことなどは其処で間違っても選ばぬことでせう。

ところがイザ「沈潜型」の人に取り其の「西田哲學」だらうが「岡本 太郎論」だらうがあくまで至極「面白く」なるのです。

 

 

逆に「非沈潜型」での其のアホらしいやうなネット上での會話やキャバレーの姉ちゃんからの個人的なお誘いなどが「どーでも良い」こととなるのです。

要するに「心としての価値観のあり方」がそも壱八〇度位は違います。

 

なんですが此の世界の眞にややこしいところとは「沈潜型」なら〇だとは必ずしも言えぬところなのだ。

例えば配偶者や自分の子などがもしも「沈潜型」ですと現實的にはむしろ困ることの方が多くなる。

 

なんだけれども其の「スマフォ」の問題とは「好んで社會が人をアホ化する」ことなのだと自分の場合はさう見て居ります。

要するに「洗脳體制」をより堅固に築いて行く「全體主義」のことなのだ。

 

でもって自分はかうしてPC人間ですが「スマフォ」も携帯もまるで要りません。

だって歩きながら電話したりネットを視るのは物理的に物凄く危険です。

 

つまりは其のやうにむしろ「物理的」に其れ等はヤバいものです。

ところがPCですとたまに買い物をし過ぎ金欠となることがあるにせよ🚙や🚃に轢かれることなどは勿論ありません。

 

ところで🚲に乗りつつ「スマフォ」を視て居るバカなどもまた居ることでせう。

 

兎に角現存在の全てはあくまで「有限」です。

また其れは🐕や🐈と何ら變わるところのないものです。

 

其の「有限」なものをあえて「非沈潜型」での思考にばかり晒せば最終的には「洗脳」ばかりが残ることとなる。

 

尚自分はネットの否定者では無くネットは「御勉強」にはむしろ役立つとさう考える者です。

また「買い物」などにも非常に役立ちます。

 

要は其れの使い方であり例えば「沈潜型」の思考を保った侭でネットを利用することが可能であり現に自分は其のやうにネットに向き合って居ます。

 

 

辻元清美「落選し、20年ぶりに無職になって実家で80代の両親と3人暮らしに。〈国民年金だけで暮らすのか〉と不安に感じた時、政治の意義に目覚めて」 (msn.com)

 

政治家などもまた「辛い目」に遇うと其処に「見えて來るもの」がある筈です。

其の「政治の意義」若しくは「社會の意義」とは左様に「マイナスの側面」からこそ気付かされるものでせう。

 

現代文明は概ね「プラス思考」ばかりで生の不条理性=「マイナスの側面」に思い至らぬからこそ其の価値観がむしろオカシクもなる訳だ。

例えば前回我は「脱構築」なる概念に就き述べましたがまさに其の「脱構築」こそが生の「マイナスの側面」にこそ気付くことなのです。

 

また「スマフォ中毒」となるのも其のネットの「マイナスの側面」に気付いて居ないからです。

でもってさう云うのをこそあくまで自分は「洗脳」だとさう述べて居るのです。

 

また「政治のあり方」などにも「洗脳」があり此処参拾年余りの日本の政治のあり方はズバリ其の「全體主義による洗脳體制」だったのです。

兎に角辻元さん、アナタは正しい、アナタの「目覚め」に對し乾杯!

 

森永卓郎「東京を捨て田舎暮らしを選んだ理由」 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

此の森永と云う人は時折ワイドショーなどで視る變な學者の壱人だとさう思って居ましたが實はかうして至極面白いことを述べられて居ます。

其の「トカイナカ」と云う概念其のものが實は素晴らしい。

 

脱構築」なる概念は至極難しいことのやうに見えて結局はかうしたことなのでもまたある。

要するに都會での価値観としての、

 

正→より高次な正

 

との考え方に「負の要素」をあえて取り入れて行くと云うことであるに過ぎない。

つまりは、

 

負→より高次な正

 

ともまたなり得る訳です。

其れも厳密には人間の生は「限定された上での弐元論の超克過程」です。

 

何故弐元論かと言えば人間の認識の癖其のものが弐元論となるからなのだ。

其の弐元論としての認識を壱元化して行く方向性こそが近代化の向きなのだらう。

 

でも其の壱元化論はそも間違って居ます。

 

要するに其れが壱方通行としての進歩過程となるが故にバランスを欠いて居るのです。

 

自分はだから逆に弐元化を徹底させるつまりは弐極化させた方が良いとさう考える。

でもって其処で文明と自然、即ち都會と田舎を対比させ徹底的に其の対比を見詰めます。

 

するとどちらにもプラスとマイナスの側面が有るがむしろ其の對立する面を相互に還流させて行く方が良い。

但し都會の価値観だけに拘ると其れは全體主義による破壊からは免れ得ません。

 

其の「全體主義」による破壊には、

 

1.物理的破壊

2.精神的破壊

 

の弐側面があり、

 

其処では要するに自然が破壊されて行くばかりか現存在としての心理面もまた同様に破壊されて行くとのことである。

左様に近現代とはむしろ「破壊としての世紀」なのだ。

 

其の「破壊」に抗するのは「社會」では無く「個」です。

何故なら「社會」とはあくまで文明の履行者なので其れを惡いなどとはまさか述べはしない。

 

例えば「個としての財務省の官僚」が優秀で且つまともな人人であるにせよ結局彼等は「財務省としての誤った意思決定」に何時の間にか染め上げられて仕舞うのです。

いや総理大臣にせよ何にせよ結局は「文明としての誤った意思決定」に何時の間にか染め上げられて仕舞うのです。

 

ですから、まさに其のことをこそ「全體主義」と云うのです。

 

其の「全體主義」に抗するにはとりあえず「徹底」する形での自律的批判こそが必要です。

其の眞の意味での自立的価値観を築くにはむしろ社會の上での諸諸の価値観との断絶であり価値観の放棄こそが其処に求められて來る筈なのです。

 

「トカイナカ」は名古屋では天白区や緑区などがむしろ其の「トカイナカ」のやうなものでせう。

高層ビルも無く緑地や緑地公園などが拡がる良い処です。

「相生山」は其の「天白区」にありまたかって「緑区」に所有した竹林にて何度もタケノコを掘りに行ったことなども都會ではまず出來ない素晴らしい思い出でした。

 

ですから此処名古屋でも「トカイナカ」を実践することが或いは可能であるのやもしれません。

森でも林でもさらに畑でも其れ等と接する時の価値認識は都會の価値であり認識であるものとはまた大いに異なる。

 

是非そんな素晴らしい「トカイナカ」生活が目指せたらとも思います。

 

キアヌ・リーブス:悲劇に彩られた名優の人生 (msn.com)

 

其のキアヌ・リーブスは個人的に最も好きな俳優であり彼は基本的に地味な人で大金にはほぼ興味が無いのださうです。

彼の人生には悲劇の影が付き纏い要するに人生に於ける負の側面を多く経験して來たのだと申せませう。

 

其れと彼は「佛教」などにも大きく興味があるやうです。

 

個人的に自分は其の「生のマイナス面」を知る人の方が好きなのだしまた信用しても居る。

逆に「プラス思考」にて人生を捉えたがる者は所謂「考えの底が浅く」要するに利害でしかものを判断せぬ惡人の方が多いことだらう。

 

對して善人は概して謙虚であり地味な生活上の諸諸にこそ拘るものだ。

キアヌ・リーブス氏もまたそんな善人の壱人であるやうに思えてならない。

 

 

「民主主義に対する挑戦」「断じて許されない」与野党から非難の声 岸田首相の演説直前に爆発音 (msn.com)

 

かのキシダ氏もついにやられたかとさう思って仕舞いました。

いずれにせよ首相が皆やられて仕舞うやうでは兎に角「國としてのあり方」が歪んで居ます。

 

其の「歪み」を作ったのはそも自由民主党ですので自業自得と言えばまさにさうですがそもテロでは體制は何も変わらないのでむしろ「市民革命」なりを目指して行くべきなのではないだらうか。

 

いずれにせよ自由民主党の政治のマズいところとは、「國を重視せんが余りに個の生存権を軽んじて來た」ところにこそ存して居る。

また其のことはかって軍國主義に於いて個を「特攻」させて置きまさに國を守らんとした其の精神の形とまさしく相似形でのものです。

 

またつまりは此処日本は「自由」でも無くまた「民主的」でも無い全體主義國家であるに過ぎぬのです。

いずれにせよ今後特に日本の首相は「命懸け」でもって演説などをしなければならなくなったのだと言える。

 

まあ其れも此れも全ては「國を守らうとし過ぎた」政治としての結末なのであり必然的転落の様なのでせう。