ー人類に取り最終課題としての「認識論」レヴェルでの「パラダイム・シフト」(「脱構築型」の文明を我我は如何にして築いて行くか)ー
八幡和郎の崩壊する世界 「希望」から一転、21世紀は「人類世界が崩壊する時代」の恐れ 韓国化する米国、急進リベラルと極端な保守派に分断 不安に包まれる世界 (msn.com)
さて今や其の文明世界の崩壊は實感されるやうにもなって参りました。
そも其れがそも何でさうなるのか?との問いの部分に絞り此のブログの内容は展開されて來て居る。
尤も其の文明世界の崩壊はむしろ根本的な自己矛盾の様なのでなかなか解決には至らないことだとむしろ最初からわたくしは述べて來た訳です。
要するに實効的な筈の対処策がほぼ裏目に出て次第にむしろ破壊を拡大して行くのです。
左様に今文明世界其れ自體が「存続」の瀬戸際にあるのだと申してもあながち誇張では無い筈です。
ではどうすれば良いのだ?と誰しもがさう思うことでせうが其れも個人的な意見としては其の認識の枠内ー価値観としての枠内ーでは解決不能となる大問題である。
要するに其の「認識の枠組み」其のものを変えて行きませんと「解決」に對し有効な手立てとはならぬ根本的命題であり課題である。
其れは所謂「パラダイム・シフト」なるものが其処に突き付けられて居るとのことだ。
其れも「イデオロギー對立」以前でのまさに「認識論」レヴェルでの「パラダイム・シフト」こそが其処に突き付けられて居る。
だけれども人類のつまり文明のあり方の其のほとんど全てが所謂「構築型」なのである。
また其れは其れこそ「近代型」であらうが「前近代型」だらうがほぼ全てが「構築型」です。
ですが其の「構築型」とは違うパラダイムの組み上げ方がまた此の世にはありまさに其れが「脱構築型」での価値観としての組み上げ方の部分です。
尤も其れは所謂「ポスト・モダン」としての思想を御勉強された方であれば当然のやうに御存じのことであらう考え方のことだ。
但し其の「脱構築型」とは申しましても例えば伝統宗教などもまさしく其の「脱構築型」での価値観を組み上げる訳です。
其れも具體的には「釈迦の解脱佛法」と「キリストの救済」はまさに其の「脱構築型」での価値観の成就を目指さんが為のものとなる。
即ち御釈迦様と救世主様は別に此の世に「樂園」を打ち立てよとさう仰られた訳では無論のこと無い。
逆に此の世こそが「失樂園」なのでまずは其れを棄て去ることでほんたうの意味での「樂園」へ皆でもって行かうではないかとさう仰せられたのです。
まあ御釈迦様の場合は別に「失樂園」だとは仰ってなど居ないが所謂「火宅」としての世界であるとさう述べられて居た訳です。
「火宅」、其れもすでにボウボウと燃え盛って居るのである。
なのに人間共はバカだから其のことにまるで気付かん訳なのであります。
さても詩人、お前もたった今其の「火宅の人」なのだらう?
いいえ、全然。
なんとなれば其の詩人の頭の中は常に天に戴かれしかの「文人の苑」の中にあり嗚呼まさに其処にてソークラテースやプラトーンや其れからカントやショーペンハウアーやはたまた漱石や芥川やまた宮澤 賢治に中原 中也などとかうしてテレパシーにて御話を重ねて來て居りますのですから。
…。
さて其の「脱構築」即ち「デタッチメント」なるものを突き詰めた形にて「詩」の世界にて示されたのがまさに其の加島 祥造先生による業績であったことでせう。
尤も先に述べました如くに御釈迦様と救世主様の思想乃至は目指すべき認識の世界もまた其の「デタッチメント」としての世界其のものでした。
でも其処でもって勘違いをしてはならない。
特にイエス・キリストの思想は別に此の世に「樂園」を築けとさう宣われて居るのでは無くむしろ其の欲望の全てを「神」へと捧げた上で「あの世」にて神の國へと至ることでせう。
其の辺りのことで所謂キリスト教の改革派としての思想の方向性には疑問が生ずることもまた否めません。
また御釈迦様の場合でも「教祖及び宗祖の崇拝」だの「念仏往生」だのまた「久遠實成の佛」であるなど其のやうなことを宣われて居たのではまさかありません。
要するに其れがまさに佛法の「世俗化」としての流れだった訳です。
なので道元禅師などは其の流れにこそ逆らわれむしろ北陸の山の中でもって出家僧のみで完璧に修行を行うシステムを作られて行った訳である。
ならば人類が全員かの永平寺にて修行すれば此の世界はもしや救われますか?
おそらくは救われることでせうが何せそりゃ物理的に無理と云うものです。
ならば人類が全員キリスト教原理主義者となり即ち「神」にこそ心底帰依すれば此の世界は救われますか?
おそらくは救われることでせうが何せそりゃ観念的に無理と云うものです。
じゃあどうすれば良いの、果たしてどうすれば?
だから其のことに就き哲學詩人であり宗教詩人である我はすでに答えを出して來て居る。
まさに其のことこそが「脱構築」即ち「デタッチメント」の方向性へと認識の舵を切ることである。
そんな難しいことを言われても我我無學な庶民がそんなややこしい論理になんで向かえるのですか?
どだい我我無學な庶民が好きなのはズバリ「エロ」であり「グロ」であり「娯樂」でありつまりはほぼ参流週刊誌の見出しみたいなもんですよー。
さうでしたか、其れはどうも御免なさい。
詩人は御勉強のし過ぎでもってつい其のことにまで気が回らなんだ。
さうか、所詮君等は其の「エロ」と「グロ」と「娯樂」の化身なのか。
別に「化身」と迄言わずとも…。
第壱お前もオカシイぞ、其の「伊藤 英明」命と云うのは。
別に「伊藤 英明」命だなどとはまさか言って居りません。
第壱「伊藤 英明」なんぞより「森雅之 (俳優) - Wikipedia」の方がより好みである。
さても誰だ?其の「森 雅之」とは!
まあ其れも調べてみりゃあ分かるぞよ、フフフフフ…。
さて現存在が今抱える最大の問題とは畢竟其の「認識上」の問題であり課題だらう。
でも其れは「環境問題」の方なのでは?
さうですね、まさに其の「環境問題」と「認識上の問題」が對となり文明を圧迫しつつあることだらう。
要するに其れが其のやうに「内外」に亘る問題であり且つ人類に取っての最終的課題なのでありませう。
ところが、です。
ところが昨日加島 祥造先生の作品を読み進めるうちにむしろ内面の方での勘違いの方が現代人にはより大きくありはせぬかとさう思えて來た訳です。
其の『求めない』『受いれる』でもって展開される加島 祥造先生の詩作品は其の全てが明らかに「デタッチメント」其のものでの御話です。
でも其れは近代型であるか又は前近代型であるかと云うことを問わず基本的に文明に取り理解し難い「価値観」としての提示の部分です。
何故なら例えば職人仕事にせよまた伝統行事にせよ世襲されることで伝えられるのですから其れこそ現實的には「構築」こそが大事なこととなる。
また近代的原理にせよ實は世襲制であり従って其れこそ現實的には「構築」こそが其れこそ社會的には大事なこととなる。
尤も「近代的原理」とはまさに進歩することですので「伝統的原理」に於ける「構築」とはそも方向性が異なって居る。
「伝統的原理」に於ける「構築」とは所謂積み重ねのことであるが「近代的原理」に於ける「構築」とは言わば「破壊的進歩」としての成就のことだらう。
ですが最終的にはむしろどちらも「構築主義」となる。
まさに其の「構築主義」からは「文明」其れ自體が脱せられぬ訳です。
だから「脱文明」するしか無いとの御話なので?
まあ文人の場合は無論のこと其れでも良い訳です。
事實として最終的に「脱文明」する文人はむしろ意外と多いことだらう。
もしや其れが所謂「竹林の七賢」との御話なので?
まあ別に其処までの教養と申しますか漢文や漢詩の素養などはまさかありませんのですがね。
どだいかの加島 祥造先生などは元元英文學者であり「竹林の七賢」などとはむしろ余り関係の無い方だった筈です。
では漢文や漢詩の素養などは無くとも「脱文明」は成立するのだと?
まああくまで其れは「認識上」の問題でせう。
ですが問題は何故其処でそも「脱文明」化しないといけないかと云うことです。
つまるところは其の「脱文明」化することにより「認識上」はあくまで正される訳ですな。
じゃあ「文明」ってそも間違いなので?
まあ間違いである可能性が高くあると云うことです。
其の間違ったものに認識が従えばむしろ何処までも「認識上」正されることなどは無い。
でも何で間違いだとさう世間を貶すのですか?
…意地が惡いからだよ、多分。
さうか、自称詩人さんは結局そんな惡人だったのか!
いやでもほんたうの惡人の御話の中には御釈迦様や救世主様の話なんぞはまさか出ては参りません。
では逆に聖人様なので、他ならぬアナタ様こそが。
いや其の聖人様でも無く要するに「天邪鬼」なる妖怪の壱種です。
ついに正體をバラしたな、此の妖怪變化めが!!
其の妖怪變化なるものはしかしながら「自然現象」の化身であり其れ即ち眞實をこそ身に纏う者なのだ。
現在人類が直面するであらう「環境破壊」の問題とは人間の生其のものへの本質的な意味での問いかけの部分でありつまりは最終的に其れは現存在としての個に於ける認識上の錯誤に對する諫めであり且つ其れへの自覚のことである。
即ち誤りとしての「自覚」がそも無いから「責任」を取りやうが無くまた「認識」も変えやうが無い。
なのでまずは其の罪咎に就き是非「自覚」せねばならない。
罪咎に就き「自覚」するには「文明」を離れた位置より見詰めて置く必要がどうしてもある。
つまりは其の「文明」の内側よりどーだかうだとさう述べるにせよそんなもんは所詮「バイアス」がかかりまくりでの妄言の類にしかならぬものだ。
でもって事實として所謂知識人の中には「世捨て人」としてのタイプの人人がむしろ古來より存して來て居た。
竹林の七賢(阮籍/嵆康/山濤/劉伶/阮咸/向秀/王戎) 【解説と物語】 (chugokugo-script.net)
かの加島 祥造先生が世に示された人文理性とは其の種の理性のあり方をこそ現代に蘇らせたところでのものである。
即ちまさに其れぞ「脱構築」であり「脱文明」の型での人文理性としての発現で無くて何であらう。
文明の根本での命題の部分として「構築型」の文明であることにより逆に其処に矛盾が蓄積し其のことによりむしろ「破壊」が生ずると云うことがまずは考えられやう。
故に其の「構築型」の文明であることはいつか捨て去らねばならぬことなのである。
問題はむしろ其のことを何時達成するかと云うことである。
「今」やるのか其れとも拾年後なのかまた参拾年後なのか。
でもそりゃ今でしょ?
「今」やらんとかの「構築型」の文明は今世紀末迄まさか持ちはしません。
兎に角今でしょ、今でしょ、今でしょ!!!
さてもお前はアノ林 修かえ?
いえアノ林氏のやうに「出たがり」ではそも無く要するに「出不精」なんだ。
すると詩人様はまさに其の竹林での「清談」をこそ好まれるのですね?
はい、其れも「性談」では無く「清談」をこそ常日頃より好むのだ。
ーと46年前に高校にて世界史の教師がさう言って居たことをたった今思い出したー
以上での精神的経緯により理性はむしろ「構築型」の文明をこそ避けねばならぬものであることが判然とする。
また其のことがつまりは「求める文明」の形では無く「求めない=捨て去る文明」の形をむしろ築いて行かねばならぬと云うことなのだ。
「脱構築」とはまさにさうしたことでありつまりは御釈迦様や救世主様の「認識」に連なるであらう壱つの「眞理」であり「眞實」としての価値観こそがさう齎すものである。