「求めない」と「受いれる」を読んで今思うことー加島 祥造先生による詩としての「思想」に就いてー
個性は幻想…アメリカの精神科医サリヴァンが指摘した「意外な現実」と「その危うさ」 (msn.com)
「個性」の本質はあくまで「幻想」だがより「幻想」なのが社會が生み出す「偽の個性」なのだとさう思われてならない。
さて昨日は若葉になり始めた相生山へ出向き弐時間程歩いて來たが其れがまさに素晴らしい経験だった。
空気が清しく兎に角気分が良い。
其れも足は少少痛いが兎に角気分が良い。
其の前に天白川の河原のところで「タラの芽」の群落を発見し大層驚いたものだった。
果たして其れが栽培されるものなのか判然とはしないが兎に角天白川の河原でもってそんなものが採れること自體が不思議なことである。
我は加島 祥造先生をー勝手にー師と仰ぎ其の後に連なる何らかのものを世に問えないものかとさう常に考え続けて來し者です。
求めない | 書籍 | 小学館 (shogakukan.co.jp)
受いれる | 書籍 | 小学館 (shogakukan.co.jp)
でもって今日はたまたま加島 祥造先生の作品を読み返す気分が高まり其れでもって早速弐冊の詩集を読んでみましたのです。
其の結果、
1.其の弐冊の詩集こそが現存在に取り最高峰としての作品群であること
2.自分の精神の方向性はほぼ其れ等弐冊の詩集の内容にこそ決定付けられて居ること
との部分をまさに再確認致しました。
但し自分の場合は加島 祥造先生をさうして精神の台座の上に祀り上げ其れこそまるで教祖の如くに崇めて居る訳ではありません。
さうでは無く自ら歩んで來た精神としての歴史とさらに其の歴史の帰結としての思想の部分がとても良く似たものであるが故に単に其れが共鳴して居るだけのことであるに過ぎません。
加島祥造さん死去、92歳 詩集「求めない」がベストセラー | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)
さうして加島 祥造先生の「求めない」が詩集としては異例でのベストセラーとなったことはまさに不思議なことです。
「求めない」と其の後に続く「受いれる」は共に現代人に面と向かい言わば直球にて詩的眞實であり眞理としての部分を語ったものです。
但し老練な詩人による其の言葉の使い方は常に平易であり且つ穏やかです。
ところが思想内容としてはむしろとんでも無くカルトチックな御話なのです。
尤もマルクス主義の如くに社會其のものを革命せよ!とさう宣うのでは無くとどのつまりは個に於ける認識の転換のことをこそ語るものだ。
であるからして社會を罵倒し其れを否定せよ!とさう叫んで居るのでは無く只考え方ー価値観ーの方を自ら変えやうとさう述べられて居るのです。
またわたくしの場合も最終的にはそちらの方向性をこそ向きつつあるのだと思われる。
詩集「求めない」加島祥造 | チェルミーの読書日記 (ameblo.jp)
「求めなくても良いこと」迄をも求めて仕舞うのは果たして何故でせう?
其れは社會其れ自體がそんな「全體主義」を強いるからなのだとあくまで自分はさう捉える。
故に所謂老荘思想などはこんな社會に對しては勿論有効でせう。
尤も現代人にはさうしてあえて老荘思想を學ぶ時間などはもはや何処にもありませんのですが。
「求めなくても良いこと」をあえて求めるやうに仕向けることがむしろ現代社會に於ける思想的な特徴である。
だが「求めなくても良いこと」を元來「求める」必要などは何処にも無い。
なので其のことにこそ気付けば本來やらなくて良いことに自身が如何に勞力を割いて來たかと云うことがしかと分かって來る。
同時に其処に「はじめの自分」=「本來的な自己」を取り戻すことが出來る。
「自分を中心にし」生きることは所謂「利己主義」とは違い眞の意味で自分を大切にし生きることだ。
「求めなくても良いこと」を「求めない」ことでこそ初めて眞の意味での自分とさうして向き合える。
即ち「求め過ぎる」ことでいつしか自分が自分では無くなって行く。
自分が自分の主人公では無くなり社會の価値観に自分が乗っ取られて仕舞う。
つまるところ「求めなくても良いこと」を「求める」ことで彼は欲望のドレイと化し挙句に自らを失う。
「求めなくても良いこと」を「求めない」ことこそが其れとはむしろ逆の形での「デタッチメント」の成就となる。
またさうして「求めなくても良いこと」迄をも求めて仕舞うと文明のあり方はむしろ現在の形に落ち着くことだらう。
さうして人は常に「独り」だが「自分を中心にし」生きることでむしろ淋しくは無くなる。
逆に群れれば群れる程に「淋しく」なる。
其れも心に空洞が空いた侭にみんなでもって歩むから逆に何処までも孤独となるのだ。
いざ其の「孤独」に陥るともっともっと群れずには居られなくなる。
だがどんなに群れるにせよ其の心の空洞は埋められない。
だから果たして何が大事なのかと云うことに気付くか否かなのだ。
さうして自分軸で生きることで逆に不要なものの姿がはっきりとして來る。
其の不要なものとはたとえば「見榮」であり「體裁」であり「豪華な服装」であり「豪奢な食事」であり「高級🚙」なのだ。
また美👩でありギャンブルでありヒーター付きの水洗便所である。
さらにPCも要らんがもはや我我はPCやアマゾン無しには生きては行けぬ。
でもスマフォは少なくともまるで要らん。
いずれにせよそんなもんは全て宗教以前での御話のことだ。
尚「受いれる」の方は案外社會関連での自己の空しさの部分に言及されて居てつまりは「自他對立の超克」に就き書かれた部分かと思われる。
いずれにせよ「求めない」と其の後に続く「受いれる」は言わば「思想書」の類のものであり中途半端に理解すると逆に危険である。
即ち詩人は其の「思想」をこそ「實践」しつつかって生きられて居たのである。
特に頭で分かるのと實感として其れが理解されるのとは違う。
むしろ現代人の多くは自分を文明の側に常に身を置きつつ其の詩人や哲學者による「思想」を理解したかのやうに勘違いしがちである。
だが詩人や哲學者による「思想」は元元そんな「常識の側」にあるものとはまるで違うものなのだ。
「求めない」と其の後に続く「受いれる」で展開される「思想」はある意味で現代社會を否定的に見詰めるであらう「際どい」ものである。
またつまりは「危ない」ものなのでもまたある。
自分などもまた常に「洗脳」なる言葉を使うので其処には可成に拒否感が生じるかと思うのですがつまりは其のことがまずは詩人に於ける思想的立場の違いに就き如實に語る言葉なのだ。
道教を実践する哲学者(タオイスト)、加島祥造の名言集 | ナルメカ(ナルキンのそうなるメカニズム) -NaruMECHANISM- (narukinhonda.com)
其の「求めない」と其の後に続く「受いれる」は六月以降に「分析論評」のやうなものを是非書いてみたいと思う。
兎に角大變高級な思想が語られた弐冊の詩集である。
其れが高級な思想であるだけに良く良く読み込みませんと浅薄な理解でもって終わる危険性を常に孕んで居やう。
其れ等は「思想」又は「思考」として「最上等」だとさう言い換えても良い。
此の種での上等な言葉の連なりはまず此の世では期待出来ぬものだが何故か加島先生の詩集に置いて其れが可能ならしめられて居ること其れ自體が極めて不思議である。