目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

こんな「文明社會に於ける閉塞感」に就いてー脱構築された「あいまいな🗾の私」が必ずしも惡いことでは無いとの其の訳ー

こんな「文明社會に於ける閉塞感」に就いてー脱構築された「あいまいな🗾の私」が必ずしも惡いことでは無いとの其の訳ー

 

 

 

 

さて本日は「七夕」浪漫の日の筈でしたが結局は雨降りです。

もしやそんな雨降りの日には「七夕」浪漫も消え去るのだらうか?

 

 

「日本」は必ずしも「ヤマト」ではなかった…じつはあいまいな「国名」の実態 日本文化の核心 (msn.com)

じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」(松岡 正剛) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media)

 

かうしてイザ還暦を過ぎますと其の🗾の國のことが特に気にかかる。

が矢張り基本的には其れがどうならうが知ったことでは無い。

 

日本文化の核心 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)

松岡正剛 - Wikipedia

 

其の松岡先生は京都の呉服屋の御生まれださうです。(笑)

 

ところで此の本をつい壱週間程前に求めて居ます。

松岡先生の本を今回初めて買いました。

 

ーそういう忌わしい部分についても、日本人は自覚的であるべきだ。だが、川端は、忌わしい部分には目をつぶり、日本という国とその一員である自分自身とを、一面的に見ている。そうではないだろう。もっと多面的に見るべきだろう。その際の視点として、日本を両義的なものとしてとらえる視線が必要だ。「あいまいな日本の私」という言葉には、そうした大江の思いが込められているようである。ー

あいまいな日本の私:大江健三郎のノーベル賞記念講演 (hix05.com)より

 

そも何故🗾人は「曖昧」に見えるのだらう。

「曖昧」と云うことは意思決定出來ぬと云うことでありさう云うのを西欧型近代文明は小バカにして嗤うのだ。

 

だが上にもあるやうに「両義的」なものが元元かの國の意思決定に関与して居るのであれば何となく其れが理解されて來るやうな気がしないでも無い。

 

どだい上の方から言えば浄土教はまるでキリスト教の異端のやうなものでまた近代文明をやってると云いつつ其の實はまるで👪主義の封建社會でさらに男尊女卑と言えばさうですが實は案外女が威張る社會である。

要するに何が何やら分からん社會で其れが此の21世紀にドッと噴き出し政治とまた行政の上での腐敗のやうなものを生み出し挙句に元総理のアベがああして元自衛隊員に殺されちゃう。

 

要するに「自己矛盾」化した社會なんである。

 

其れも無論のこと欧米世界はまた近代と云う文明の枠組みの上で今まさに「自己矛盾」化して居るのだけれど此処🗾の「自己矛盾」化はまた其れだけではなしにつまりは民族的であり歴史的風土的な「自己矛盾」化なのである。

つまりは其処で弐重に「自己矛盾」して居る訳だ。

 

だけれども其の🗾社會の意思決定がそも曖昧なことが即✖のことだとさう言い得るのだらうか。

どうも今自分には曖昧なことが惡いことには思えなくなりつつある。

 

つまりは其れが「脱構築」的な意味で其れ即ち近代的価値からの脱却と云う意味ででのことである。

だが近代文明は「弐項對立」としての自我を生きるつまりはドッチかを選ぶ社會である。

 

例えば、

 

自然⇔文明

 

ならば当然のこと「文明」を選ばんと前近代的世界観に嵌まり込むより他は無くよって兎に角「文明」を選ばざるを得ず。

ところが日本人は元來其のドチラをも見詰めて居られた筈だ。

 

おそらくはソコでドッチも観て居たからこそさう長きに亘り両義的に生きられた筈だ。

さうしてそもドッチも観て居たのでどちらとも言えないのはむしろ論理的に言って当たり前のことなのだ。

 

だとすると其れってあくまで「弐項對立」の放棄にもまた繋がる訳だ。

尚「弐項對立」の放棄は主に御釈迦様の教えの方が目指されたことでした。

 

エス様は逆に其の「弐項對立」を神の次元へとアウフヘーベンされて行く。

でもって自分が述べる脱近代の方法とはむしろ其のイエス様のやり方の方です。

 

 

だが其の🗾人の🗾人による曖昧な意思決定の中にこそむしろ御釈迦様による智慧の部分が隠されて居るのではなからうか。

 

なんとなれば實存的価値に於ける「両義性」を「両義性」の侭につまり其の侭に曖昧にすることは實は可成に理性的なことなのではないか。

要するに「語り得ぬ」部分をさうして曖昧にしぼかして終わらせる訳だ。

 

だが其れをやるからむしろ近代的意思決定に對し不具となる。

現状での政治上のまた社會制度の上での混乱は其の不具性こそが噴出したものである。

 

但し其れは所謂「眞理」に對し不具なのでは決して無い。

従って此処🗾社會は「自己矛盾」化した社會であるにも関わらずむしろ正しく「眞理」を向く社會なのではないか。

 

 

近代に對し「自己矛盾」化すれば其れはもう「落ちぶれる」即ち参等國化するとの謂いである。

だが其れは見かけ上さう見えるだけのことで別に間違って居ることでも何でも無いのである。

 

其の両義的な価値とはどちらにも寄りかかりしかもどちらにも寄りかからぬ価値である。

其処に居るのに居らずしかも貧乏なのにリッチでありリッチなのに貧乏なのだ。

 

…そんな曖昧な意思決定が世界の何処にあるものか!

そりゃ此処にあるがな、たった今ココに。

 

じゃあ参拾年後に日本人の七割が餓死するのだとしても貴殿は平気なのか?

参拾年後にワタシはもう冥途へと旅立って居りこんな見苦しい地球上の騒動なんぞはどーでも宜しいことです。

 

じゃあ五拾年後に日本人の七割が太陽に灼かれ死ぬのだとしても貴殿は平気なのか?

五拾年後にはすでにわたくしはシリウス星人としてシリウス星系にて大活躍して居りよってこんな見苦しい地球上の騒動なんぞはどーでも宜しいことです。

 

 

兎に角其の「両義的」な多面的価値とは哲學的には「脱構築的」価値に連なるものであるやうに見えてならない。

脱構築的」になればなる程価値構築其れ自體が相対化され「いずれともつかぬ」ものとなって行かざるを得ない。

 

相對化⇔絶對化

 

ところが其の「⇔」の関係性は両極をしかと観ないとまさか創れぬ訳だ。

 

 「良いとか悪いとかは主観的な印象で決まっている場合があるため、深く考えだすとその物事が良いのか悪いのかは自分の中で単純ではなくなります。

 複対立対象把握は物事を出来るだけ多面的に見て、他と矛盾があったにせよ矛盾を矛盾のまま、複雑なものは複雑なまま抱き続けることを指します。

ある本質に基づいて良いと判断されることがそれと同じ本質に基づいて悪いと判断できることもあります。

 良いことと悪いことはコインの裏表みたいな見方をできると良いことにはかならず悪いことも伴い、悪いことには必ず良いことも伴うと心構えができます。

 それは良いことを良いとみなす本質的な原因から同時に導かれる悪さかもしれませんし、良いとされていることを複数の異なる考え方に当てはめて考えると悪いことと見なせる場合が出てくる場合もあります。

 あるいは結果の評価自体も多面的にできるので、ある軸上で+1の結果が出たことを評価する際に別の軸の結果が関係してきて、ある見方をするといい結果が別の見方をすると悪い結果と評価できる場合があります。

 良い悪いは単純化する必要もないですし、複雑なものは複雑なまま、矛盾があってもそのまま丸ごと受け入れるのが現代哲学流の対象把握になります。

脱構築の簡単な方法を使って対象の事物の偏見や無意識の思い込みを解体することで知的で合理的な思考をサポートしてくれることがあります。

 瞬間的に感じる良い悪い感情を前面に出して生きている人は感覚的な人と見なされる傾向にありますし、対象やその良い悪いの判断を脱構築してしまって相対化することで冷静で中立的で客観的になった上で試行して結論を出すスタンスはよく言えば理性的、悪く言えば理屈っぽく見えるでしょう。

 非常に簡単に書きましたが「ポジティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をネガティブに考えてみる、そしてネガティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をポジティブに考えてみる、ということを同時に行う」ことで事物に対する見方は簡単に変わります。

 事物に対する見方が変わること、これは脱構築です。

 脱構築は事物の実体性を消してしまったり、実在とみなくしてしまったり、現前を焼失させてしまったり、解体してしまったり、要素に分解してしまったり、いろいろなことができますが、単に微妙に見方を変えるだけでも脱構築です。」

すごく簡単な現代哲学の「脱構築」のやり方|mathematicsbuddhism (note.com)より

 

 

其の「理性」其のものもまた「脱構築」するつまりは逆方向からの流れをあえて加えてやった方が良いのだと思う。

要するに其の反對方面での価値の流れを取り入れると申すかあえて其れも自分の壱部だとさう努めて思うのです。

 

なのでアレは違うとか気持ち惡いだとか言って居るやうではまさに自分の気持ち惡さが分かって居ない人の言い分です。

 

「ポジティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をネガティブに考えてみる、そしてネガティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をポジティブに考えてみる、ということを同時に行う」以上より

 

其れにしてもアンタ其れをいっつも此処で言ってたよね?

…あったりマエダのクラッカー。

 

ですからわたくしが述べることとはそんな哲學上の「眞理」のことばかり。

まさに其の弐方向から同時に認識すると云うことこそが哲學的な意味での最新での価値規定となる。

 

 

はじめての脱構築 ~哲学知識ゼロから脱構築を知る~|なみもん (note.com)

 

 

『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

 

 

千葉雅也さんの『現代思想入門』がベストセラーな理由。 『現代思想入門』 | BOOKウォッチ (j-cast.com)

 

 

尚自分に取り哲學的な思考とは必ずしも論理的なものでは無く多分に「脱論理的」で且つ「逸脱」を言語化したやうなものです。

 

 

【超入門!】現代思想を理解したい人におすすめの哲学書3選 | オンライン図書館(哲学・文学・文化人類学) (online-library.site)

 

千葉雅也さん
「思った以上に何か閉塞感を感じている人がいて、新しい生き方のヒントが欲しいと思っているという事なんでしょうね。特にいまの若い世代には、世界はかなりシビアで、逃げられる場所なんてないんだっていうような、冷え冷えとした感覚がある。しかし、ある種いいかげんな適当なところがあったっていいはずで、かつての古き良きというか、自由を求める理念みたいなものが見直されているのかなと思います」

 

千葉雅也さん
「よかれあしかれ周りに適応してうまくやっていくという価値観が強くなっている中で、何かちょっと違うなという感覚を持っている人たちに訴えかけたいと思ったんです。孤独を感じている人に、常に自分に正直であってほしいと言いたかった」

 

千葉雅也さん
「人は集団的に暮らしているわけですから、確かに自分を抑えなきゃいけない部分もあります。けれども、いまはそれを抑えつけすぎている。社会全体が何のトラブルも起きないよう、スムーズでツルツルにしていく方向に進んでいると思います。しかし、小さな他者性を認め、凸凹していても成り立つのが、本当に多様な社会ではないでしょうか。ですから周りにあわせるだけではなく、自分の中だけに流れている時間軸を生きることが大切だと思うし、僕は僕の仕事を通して、そのことに気づいてほしいという活動をしているのだと思います」

 

千葉雅也さん
「哲学者が考えていることを具体的に自分の経験に照らしてとらえたら、必ず生活へのつながりが出てくる。日常の中にも深い問題が隠されているし、反対に、深い問題にも日常は隠されてるんですよ」

 

千葉雅也さん
「例えば喫茶店で、昔よく会っていたんだけど最近あまり会っていない友達と久しぶりに会った時の、ちょっとギクシャクしてるような、微妙な感じみたいなものがあるとしますよね。そこでは、いま相手が自分に対して言ったことをイエスというべきか、または返事をしないで流しておくべきかなど、すごく複雑で豊かなことが起きているわけです。そして、実はそれを掘り下げて考えていったら、そのまま、レヴィナスデリダになるんですよ」

 

千葉雅也さん
「哲学というとやっぱり遠くて難しいものと思われる。確かに実際難しいわけです。ですが『人生とは』とか『愛』『正義とは』みたいな、大きなワードに哲学を結びつけるのがよくない。自分の生活の中にある具体的に気になるような場面に結びつけて考えることが大事です。さりげない日常をより深く生きる。そのために、日常と哲学はすごく自然に行き来できると思います」

 

千葉雅也さん
「例えば“有限性”は、僕の仕事の重要なキーワードのひとつです。人間は有限ですから、例えば僕で言えば、哲学を極めるといったって極められない。だから僕は僕にできる範囲で、身体的限界の中でできることをやる。疲れちゃったらそれ以上できないし、休みを取ればいい」

 

 

千葉雅也さん
「まさに有限性の栃木的響きは“おわす”ですね。とにかく一個、一個“おわす”わけです。ひとつひとつの仕事というのは区切って、その都度、自分の限界を認めていくということ。高いレベルに可能性を広げていくためにこそ、逆説的ですが一度立ち止まって限界と向き合うことが必要です。これはいろんな人が、いろんな場面で使える考えだと思います」

 

千葉雅也さん
「もともと言葉を使うのも、論議をきっちり立てるとかっていうのは自分の感じじゃないんですよ。哲学者ではありますが、実は純粋論理的なタイプじゃなくて。そういう意味で、風景を見たり、今感じる肌の温度の感じとか音の入ってくる感じとか、そういうことに注意を向けて、そこから広がってくる文章世界ってどうなんだろうって小説を書いていったら、おもしろくなってしまった感じですね」

 

千葉雅也さん
「簡単に言えば、自分にかかっている制約を破るというイメージを持っています。それは自分にとっては書けるものを広げることです。あとは偶然に任せようかなと。何かやりたくなってきた時っていうのは、自分の中で無意識のいろんな文脈が整って来た時で、それは言葉にしようとしてもなかなかできない。でも、何か心身がそういう方向に向かうんだとしたら、そこにはしかるべき理由があるんだろうと。そうやってこれからも取り組んでいきたいと思います」

ベストセラーの哲学書『現代思想入門』千葉雅也さん なぜ読まれるか | NHK | WEB特集より抜粋し引用

 

 

まずは其の文明社會に於ける閉塞感に就いてですが、確かに其れは文明社會其のものが陥ったところでの閉塞感なのでありつまりは幻想でもまたファンタジーなのでもありません。

つまるところ此の文明社會が仕出かして居ることに大きく問題があり要するに其れが「惡い」んです。

 

そんな風に「惡の権化」だとさう申しても過言では無い。

まあズバリかう申しますと元も子も無い訳ですが残念ながら其れが事實です。

 

だから自分の場合にはむしろソコから出発すべきであるとさう述べて参りました。

其の犯罪の巣窟としての文明世界でもって果たしてどう樂しみを見出しつつ生きるのか?

 

ですが其れは酒と女とギャンブルと犯罪などではまさかイケません。

むしろ其の酒と女とギャンブルと犯罪の根を断つことこそが「哲學的に良い子で生きる」ことのまずは前提条件でせう。

 

 

酒と女とギャンブルと犯罪をやるとおそらくは樂しいことでせうが「良い子」は絶對に其れに触れてはならずもう兎に角生理的に其れは受け付けませんとさう心に誓い生きて行かねばなりますまい。

 

ですが「哲學的に良い子で生きる」ことは学校や塾での優等生とはまるで違いこんな哲學詩人の作文の内容の如くに常に「???」と思わされる部分を多分に含んでも居る。

故にだから其の酒と女とギャンブルと犯罪の根を断って居る筈の詩人の言説がむしろまるで常識的では無くあえて言えばなんかいつも「逸脱」して居るぞ。

 

だからまさに其の部分を「心の根」の部分よりさうあえて詩人は書いておるのです。

 

其れも逆に申せば「逸脱」や「逃避」と云ったつまりは反社會的な価値は實は個の側に取っての眞實であり眞理です。

つまるところさうした意味での「自然」的な自我の働きを現代社會が抑圧するつまりは搾取するに至る。

 

其のやうなメカニズムにてむしろ其の「自然」的な自我が破壊されて行く。

また其れは「全體主義」での流れでのものと必ずやなるのです。

 

故に「逸脱」や「逃避」を其の「眞理レヴェル」にて問えば其れは惡では無くむしろ良いことなのだ。

 

 

丁度アノ映画の『ランボー』で其のランボーが機関銃やらランボーナイフを持って「惡」と闘うが本質的には其れは「惡人」と闘うのでは無くあくまで「惡い社會」と闘うのである。

ちなみに自分はアノランボーナイフのイミテーション版のデカい奴を持って居り昔は山へ行く時に其れを持参し其れも山の中で振り回したりして居ましたが其れが今どっかへ行って仕舞いつまりは大掃除をしないと出て來ない。

 

かうして折角ダイヤモンド鑢を手に入れ刃の手入れが出來ると云うのにまことに残念な御話です。

 

 

さて自分は常日頃よりむしろごく自然に哲學的に生きて居ります。

其れもイチイチ考えて其れをやるのでは無く何と申しますかわたくしの人生其のものが半分位は至極哲學的なものとなって居る。

 

つまりもはやすでに其の「哲學」の中に入り込んで居るか又は「埋まって居る」やうな感じさえもがして居る。

だから別に「思考」ばかりなのでも無く其れこそピッと直観もされるわ、また突如として「梅原 猛」の著作を読み返すわで要するにすでに其れは完全に我が生活の壱部なのだ。

 

 

また其の難解とされる現代思想の歴史的経緯ですが其れ等に就き自分はほとんど読んでは居ない。

ほとんど読んでは居ないのに何故かほとんど同じやうなことを考えて居ざるを得ない。

 

だから『現代思想入門』を読むと其の現代思想の流れ其のものがほぼ自分の頭の中身と同じだったことを知り愕然とする訳です。

またつまりは其の部分こそが「認識上の弐項對立」をどう乗り越えるのかと云う部分でした。

 

なんですが結局自分の場合には「認識上の弐項對立」を脱構築せんが為に「デタッチメント」なる壱種宗教的な価値観を持ち出して居ます。

故に其れは完全な論理的規定では無く半分は逆に脱論理的規定なのでもある。

 

其の「デタッチメント」と對になるものがあり其れが藝術による創造的逸脱です。

其の創造的逸脱もまた脱論理的規定ですので基本的に其れ等は頗る相性が良いと來てる。

 

 

さて個人的には「認識上の弐項對立」は逆方向から攻めないと乗り越えられぬ矛盾世界であり価値観となるものかと思う。

 

また上で千葉先生が述べて居られますが「立ち止まり限界と向き合う」ことこそが個の精神に取りむしろ最も大事なことです。

「限界」即ち自分が此れ迄に述べて來しところでの「限定」のことです。

 

現存在は左様に元來「限定」的な現象であり現行の文明が謳うやうな「非限定」的な現象なのではよもや無い。

つまり文明の根本義での部分からすでに間違って居る訳です。

 

でも其れが間違って居るとさうハッキリ述べて居るのは世界中でこんな哲學詩人だけでせう。

千葉先生でもまさかこんな僕みたく文明其れ自體を肥溜めに落とすかのやうな言い方はされておらん筈です。

 

肥溜めに落ちよ、此の現行文明めが!

 

いえ別にアナタがさう叫ばずともすでにソコへ落ちて居ますよ。

さうでした、つい不必要な勞力を割いて仕舞いました。

 

 

でも此の人芥川賞の候補に弐度もなって居るんだって。

もしや君も其の「芥川賞」が欲しいのかい?

 

いいえわたくしが貰えた賞とは所詮「ココでもって良くぞ頑張って書きました賞」なのであり其れは小学校の時分に担任の先生から「よくできました🌸」との評価を頂き其れが当時の学習帳にあることとまるで同じことなのだ。

 

君はもしや「芥川賞」を小馬鹿にして居ないか?

まーさか、其れは無いですよ決して無い。

 

でももしや呉れると云うのであれば其れもほんのちょっぴりですが頂きたいかなあともさうも思いますのですがね。

でも君は最近不眞面目だから其れは如何にも無理筋と云うものだ。

 

不眞面目では無い、只「非眞面目」なんである。

 

 

ならば今壱度聞く。

君は人類や文明其れ自體を本音では馬鹿にして居ないか?

 

まるで馬鹿になどしては居ません。

只信用ならないダケのことだ、まさにソレこそが。

 

 

尚最後の方に千葉先生が「自己にかかる制約を破る」との御話をされて居ますがまさに其れが社會関係からの逸脱のことであり逃避のことでせう。

また其れは壱見「限界」を知ることとは眞逆の価値であるかのやうに見受けられるが其れも逆に申せば自己がデカくなるからこそ諸諸の社會関係から遠のいて行ける訳です。

 

つまるところ「限界」を知らねばならんのはむしろ「社會」の方なのであり逆に個は「限界」を突き破って行くこと位で丁度良い訳だ。

 

さてまた「文明社會に於ける閉塞感」に就いて考えてみます。

其れもそも現行文明は何をどう間違えこんなんなって居るのでせう?

 

其の辺りでのことを自分は最近梅原 猛先生の著作物の中より探して居りました。

梅原先生は其れこそ遥か以前での六拾年代より現行の文明のあり方を痛烈に批判されて居ました。

 

さうして其れ等の批判などを読み返すと「まさに御尤も」と云った感じを強く持ちましたものです。

故に自分は今年の夏休みの課題を「梅原 猛による近代合理主義批判」の部分にすでに定めて居ます。

 

梅原先生が果たして当時より何を批判され何を心配なされて居たのか。

まさに其のことをこそ「夏休み」の間に書き継いで行く予定で居ります。

 

 

果たして其の「夏休み」とは何時からですか?

大體其れは7月の20日過ぎ位からです。

 

其の時にはすでに通知表を貰い其れ即ち其処に1や2ばかりが並んでおる筈です。

さらに此の子は「落ち着きの無い困った子です」だとか「将來が心配な子です」とかそんな酷い言葉が担任の先生により書かれて居るのです。

 

ですが其の子が惡いのでは實はありません。

子はどんな子でも結局其れなりに育つものです。

 

結局全ては社會の側の問題であり課題です。

故に自分は主に其の観点からまさに其れに就き論じて参った。

 

 

ですが其の批判に限界のやうなものもまた感じない訳では無い。

ソコへ持って來て梅原先生によるまた物凄い文明批判が出て來て!!

 

…コレだ!!!

 

では其れでもってやったるぞ、現行文明よ。

むしろ其の首を洗い待って居れ。

 

ちなみにまたAIが間違えて砂漠の情景をデスクトップに貼り付けたので「コレは要らん!」とさう言うとすぐに南海のパラダイスの画像を貼り付けて來ました。

其れが半分アホのAIにはなかなか分からんものと見えまさに其の部分こそが幼稚園児~小学生の低学年レヴェルのことだなと正直さう思いますのです。

 

ーAIのアナウンサーが近頃NHKのニュース番組などに良く出ますがすると近くNHKのアナウンサーは全て要らんことになりませう。文明は勞働を努めて機械化し所謂ベーシック・インカム社會へと是非移行させて行くべきでせう。ー