絨毯と羽毛との我が闘いーそんな「惰性」との闘いのやうなものから人間の認識が好転する機會が常に何処かにあることだらうー
1976 荒井由実(22)コンサート(FM放送フル楽曲版) - YouTube
なかなかにカルトな昔の公演の模様です。
こんな曲もまたあったの?
其れはさうと本日はついブチ切れて特別な清掃を自分の部屋に對し行いました。
其れは「絨毯剥ぎ取り大作戦」である。
何故なら我が家はむしろ「絨毯ダラケ」の家なのだ。
其れも何と台所に迄絨毯が敷いてある。
ところが此の絨毯程タチの惡いものも無い。
つまるところ絨毯は何かと汚れるし兎に角暑苦しい。
其れに自分は元來所謂デリケイトな感性の持ち主でありつまりはほぼ詩人級の感度の持ち主だ。
にも関わらず其のやうにむしろ家中ー建て増し側ーにそんな汚れた絨毯が敷いてある。
しかもよりにより自分の部屋に迄其れが敷いてある。
すると果たしてどうなるか?
つまりはとんでもないこととなるのである。
もう痒くて痒くてたまらんのだ!
しかも其れは家を建て増しし弐階の自分の部屋が出來た1975年以來其の侭に敷いてある。
すると其れにすでにほつれが生じ汚い糸となりわたくしの机上の下などに溜まって行くのだ。
尚わたくしは家の中ではほとんどパンツ壱丁で居る。
夏場は余り肌着なども着ない。
兎に角パンツ壱丁である。
すると足の脛の辺りなどにダニやらノミやらが上がって來るのだ。
其れも知らず知らずのうちに吸血されたりして居る場合が多い。
さらにバルコニーへ通ずるデカい窓を開放して居ることが多く其処からは庭にて発生した🦟がドンドン入り込んで來る。
また其の🦟が吸血をする。
よりによりそんなデリケイトな文人の血をむしろ奴等は好んで吸うのである。
故に彼詩人は夏場にもう詩作どころではないのである。
詩作どころかまた思索どころか要するにもうダニやら蚤やら🦟やら大蜘蛛やらそんなものとの闘いこそが眞實の様なのでありどんな浪漫でも避暑でもさらに安心安全な話なのでも無い。
其のやうに詩人は此の世に對し不当な野蛮さのやうなものを常に感じつつ此れ迄生きて來た。
何故世界は此のわたくし自身の心のやうに静謐で且つ理性的な調和の世界にむしろ反して居るのだらう。
何故世界は此のわたくし自身のやうに愛と悟りとの意味を深く知りつまりは佛陀やキリストの世界観をむしろ其の侭に理解するそんな豊かな心象世界をかうして虐めにかかるのだらう?
またそんな壱種の被害妄想だけでは無く實際にさうして攻撃されて居るのである。
特に蚤が涌くのは🐱のせいである。
可愛い其の🐈ちゃん達の毛並みの中には實は蚤共がウジャウジャと隠れておる。
サア寝るぞ。
今日もまた🖋のことでほんたうに忙しかったな。
だがソコでよーくシーツの上を観察してみやう。
おや何やら極微の茶色い点点が其れも澤山其処にあるぞ。
まさにソコで休んで居るやうな感じである。
さうか、休んで居るのなら其の侭休ませてあげやうか。
其れではお前が寝れんではないか!
さうだ、其れでは自分が参って仕舞う。
ではまずは「アース」をかけてみやう。
プシュー。
さうして兎に角澤山「アース」が要るんだ。
しかも「アース」は🦟などにもまた効くと來てる。
さても其の🦟は何処に発生するか?
其れは庭のデカい石臼の中にタップリの雨水が溜まり其の中にボウフラがウジャウジャ居るのだ。
ではソコに「アース」をかけろ。
いや可哀そうだ、其れに自分は佛教徒なのでそんな大量殺戮をまさかしたくは無い。
じゃあどうするのだ?
いや壱ヵ月位前に98度位のアルコールを撒いたことがあった。
何故そんな危険なものをまたよりにより持って居るのだ?
いや単にコロナ対策での消毒用のものだ。
だけれどもまた其れの効き目が薄れて來しやうだ。
でもって其のちっこい茶色い点点が動かなくなる。
さうなれば後は其のシーツをバルコニーに出て思い切り振る。
または其れを布団叩きにて叩く。
さうすることでようやくのこと寝られることとなる。
だが其れをやった次の日にはまた同じ状態と化すのである。
しかも毎日布団を丸洗いしても必ずやさうなるのだ!
其のやうに布団を毎日丸洗いして居たら其れが古い布団ー1975年以來使う布団ーなので其れが次第にビリビリに破れて來る。
其れでもお構い無しに洗って居たところ何やら家中に羽毛が拡がりもうエライことになっちまった。
うぎゃあー、ダニと蚤と🦟とさらに羽毛の攻撃だ!!
此れはしかしながらまともな人間の為の住環境ではまさか無い。
するとそんなところで「ユーミン」を聴き込んだり藝術や🖋のことを論じて居たのか?
さうなんだ、現實とはさうして常に厳しいものなんだ。
でもって本日昼頃にもう其れ等への我慢が限界に達した。
ほう、其れでもってどうしたのだ?
デカいカッターナイフで自分の部屋に敷かれた其の絨毯を半分切ってやった。
ところがギッチョン、其の絨毯の下に筵迄もが敷いてあるではないか!
しかも其の筵がそんなヤバい極微の虫共の温床となって居るやうなそんな気さえもする。
故に無論のこと其の筵も半分切ってやった。
何故半分なのだ?
何故なら自分の部屋には中央にデカい書棚があり要するに其処が重しをして絨毯及び筵を引き抜けなんだのだ。
其の書棚には矢張りと云うべきか本が澤山入って居る?
さう、主に美術関連や古生物関連の本、さらにペンやナイフなどの趣味に関するムック類、其れに雑誌の特集本などが澤山入れてある。
しかも其の本棚の上にデカい石がちゃんとディスプレイされて居る。
また瓶入りのオパール標本などもちゃんとディスプレイされた状態で其処に置かれて居る。
なる程、だから絨毯を半分切ってやった訳だ。
さうなんだ。
だが台所はな、また其れ以上に酷いことになったのだ。
何だ、壱體どうなってる?
其れも丁度壱年程前だったか、やはりブチ切れて絨毯を剥がさうとしたのだよ。
其れは正方形のパーツが敷き詰められて居るもので其れを拾枚位引き剝がしたのだった。
すると半分腐ったフローリングが弱り弐カ所に亘りデカい穴が開いたのだった。
まあソコをカインズでもって板を買って來覆いたいのだけれど結局其の侭になって仕舞いすると其の床下が🐱共の遊び場になって仕舞う。
何とするとお宅の🐈共は床下へ出入りして居ると云うことか?
さうなんだ、實は。
だから🐈に限り非常に樂しいことだらうが其れがもう兎に角汚くて仕方がねえ。
はあー、しっかしたしかにアンタの生活の上での苦もまた壱種独特にキビシイ状況だね。
さうなんだ、だからもうほぼ参重苦だったのだ。
でも今日さうして切れたんでせう?
するとアアサッパリした。
コレでもうとりあえずはパソコンと机の周辺に絨毯と筵は無い。
さて其の筵であるが甘い物には非ず。
何故なら1975年に敷かれた筵であることを決してお忘れなく。
だからもうほぼ崩壊して居り即ち其の破片が部屋中に飛び散りもう…。
…もう我慢がならぬ程に厄介なものであったことだけは間違い無い。
でもってそも何でこんなもんが其れも家中に敷かれて居るのだらう?
そりゃ其の敷物が好きな人が居るのだらう。
勿論犯人はすでに分かって居る。
ズバリ其れは母である。
だがこんな年老いた母を責められるか?
でも絨毯が敷かれて居ると逆に冬場はあったかくはないですか?
確かに自分も寒がりなんですが結局は潔癖なんで冬場でも板間に直に寝ても良い程での人間です。
また枕などもふわふわのものは大嫌いで逆に木製の枕とかを探して居りますのです。
なる程、だから其の羽毛入りの布団が嫌いなんだ。
其のゴチャゴチャになるものがそも嫌いなんだ。
むしろ固いもの、即ちベーシックなものであり、逆に永続的に価値が變わらぬものこそが好きである。
であるからこそそんな永続的に価値が變わらぬことだらう宗教的な精神世界などにも惹かれる訳だ。
ところで大蜘蛛は母屋の方には良く出る。
また其れはゴキブリを食う。
其れも弐、参日前に母屋の方で廊下にゴキブリが死んで居たので普通なら其れを片付けることかと思うが今回はあえて其れを放置して置いた。
すると弐日間で綺麗に其れを大蜘蛛が食った。
尚自分は其の蜘蛛が實は大嫌いであった。
だが弐拾年程前だったか、猿投山をトレッキングした時に蜘蛛の巣がどんなに美しいものであるかと云うことを初めて知った。
其れ以降蜘蛛に對する嫌悪感が次第に薄らいで行く。
故に今ではなるべく其れと共存することにして居る。
だがそんなもんがもしも部屋に出ると流石に眠れん。
其れも寝て居る間に自分の顔の上などを其の大蜘蛛が這いまわるかと思うととても眠れん。
と云うか何も出なくても自分は元元不眠症だ。
何も出なくても人類が仕出かして居ることの罪深さを思えばすでにまるでもって眠れやせん。
だが最近はむしろさうした自然界よりの攻撃よりも人間界の厄介さの方がよりヤバいことなんだとさう考えて來て居る。
つまり病気になる程に汚いのはイカンがまあ多少ダニや蚤や🦟にやられる位のことは我慢せねばならんのではないか。
だが今日は何かかう快適だな!
どうしたんだ、壱體?
だから絨毯と筵とがバルコニーに今転がって居るじゃないか。
其のダニや蚤ダラケの絨毯と筵が。
さうだったのか!
ソコ壱つを取ってもすでに人間は自然界其のものとは交わることなどは出來ぬ。
よもや出來ぬけれども、さうして自然界を理解せんが為の眼差しを投げかけることは可能だらう。
でも此れから雨が降って來るから其の絨毯と筵を何処ぞに移動させ仕舞わねばならない。
さらに其れを細かく切り刻み「燃えるゴミ」にて出さねばなるまい。
そんな訳で家に居るダケでむしろ毎日が戦場である。
但し外で気を遣い金を稼ぐのとはまた違う意味での戦場なのだが。
でも大蜘蛛は偉いよね。
そんなに綺麗にゴキブリを食ったのだから。
まあ奴等の生は何より凄いよね。
其れも毎日コソコソと隠れて暮らし気を抜くと🐈や人間にやられて仕舞う訳だ。
だから故にアノ気持ちの惡い大蜘蛛がイヤではなくなりつつあるのだ。
さても文明のやることなすこととはつまりは「合理化」である。
だけれどもそんな大蜘蛛の食事もまた自然界の「合理化」である。
またダニや蚤や🦟が吸血するのも明らかに自然界での「合理化」である。
其のやうに其れは實は本質的に變わらぬ行為なのだ。
ではあれ考え方の視点を變えると云うことでは文明のやることなすことをある程度遮断しかうして個に於ける「合理化」に徹する位の方が「自然」に對する理解がより深まらう。
でもダニや蚤や🦟を駆除するのは利己的な個としての「合理化」ではないか!
だって仕方が無いじゃないか、さうで無いとまともに寝れんのだから。
だが壱番駆除せねばならなんだのは僕に取りあくまで「絨毯と筵」だった訳だ。
其れももう半世紀弱に亘り其れを敷き続けて來たのだった。
其のやうな「惰性」との闘いのやうなものから人類の認識が好転する機會が常に何処かにあるのではなからうか。