目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

こんな梅雨時の不快な気分を壱掃するかのやうな光輝く南天の軸のボールペン

こんな梅雨時の不快な気分を壱掃するかのやうな光輝く南天の軸のボールペン

 

 

 

 

今の自分に取り此の人間界の上での諸価値とは謂わば信じ難い程に絢爛で且つ美しく感ぜられるものであり同時にまるで諸惡としての腐臭を放つものなのでもまたある。

まさに詩人に取りさう認識されるだらう「今」を彼はさう生きて居ざるを得ぬ。

 

だが彼はたった今単なる生活者なのでもまたある。

其れは所謂パトロンに恵まれぬ故に其のやうに藝術には専念出來ぬ訳だ。

 

まあつまりはソコがニセのゲージツ家の悲哀であり悲劇だと云うところであらう。

だが皆さんはすでに自分が本物の詩人であることに御気付きであらう。

 

何、そんなことを思ったことなどは壱度も無い?

よりにより壱體何を言ってんだ、アンタ!

 

此れ迄に壱體何を此処にて読み込んで來られたのか?

此処にて読み込めることと言えば其れはもう其の本物の詩人による散文詩の世界のみだらう。

 

 

嗚呼何やら本日は昨日よりもより蒸し暑い。

でも相變わらず布団の丸洗いなどに勤しみ其ればかりかそろそろエアコンの動作確認をせねばならぬ。

 

だが母用のエアコンは所謂冷風扇なので其処から水が排出される故に兎に角バケツが要る。

ではバケツを探そう。

 

其れは🚙の無い駐車場にさうして重ねて積んである。

だが其れ等は決まって酷く汚い。

 

別に其れが汚いこと自體に文句は無いが其れを冷風扇用のバケツとするのであれば家の中に入れることになるが故に洗わねばなるまい。

だが其れって普通はさう思うのではないか?

 

其れとも結局は自分が潔癖なのだらうか?

 

さうして冷風扇用のバケツを探して居たところ壱ヵ月前に東山植物園で採取した小石×6があるバケツに浸け込んであった。

 

其の中に明らかに上物の小石があり其れを良く吟味してみるに黄色い準💎質の石英である。

だが其れもより正確には準💎質と💎質の間辺りでの石でありまさに上物だった。

 

其れを取りあえずカインズの薬用石鹸をつけた歯ブラシで洗い其の後界面活性剤入りの洗剤に浸け込む。

界面活性剤は是非使わずに置きたいがさうして原石の洗浄にはまたどうしても要り其の代わりに此処40年余り自分はシャンプーなるものを使ったことが無い。

 

其れも若い頃は「トニックシャンプー」なるものを使って居たが其の界面活性剤は環境を汚染するが故に以來頑なに其れを使わなくなった。

だから風呂に入りつつまるで当たり前の如くにシャンプーを使う者は即ちバカである。

 

…では君は其の君の認識の全部が正しいとさう仰りますので?

まさかさうは述べて居りません。

 

述べて居りませんがシャンプー人間は即ちバカである。

 

…また言いました。

いえまるで言ってません。

 

だから其れは完全に独りごとの類でありよって作品に取り入れるやうな言葉には非ず。

さう言いながらお前は今其れを此処にて書いた。

 

さうでしたね、どうもスッカリ御免なさい。

 

 

さて其のやうに冷風扇の作動を確かめつつ實は「かりんたう」を食って居た。

其れは黑黑としたデカい「かりんたう」である。

 

コノミヤで先日買った其の「かりんたう」が何と当たりの御品であった。

兎に角美味い!

 

もう此れ以上無くうんまい。

 

さてもお前は此のクソ暑い時に何でまたそんなあえて暑苦しい「かりんたう」なんぞを食うのだ?

どう考えても其れは暑苦しい食い物だぞよ。

 

うーん、でもソコには余り拘らぬ方が良いかと。

要するに何があるかは基本的に分からぬこんな迷いの世界でのことなので何があらうが「コレでヨシ」位な腹の太い認識が我我人間には是非必要です。

 

其れにつけてもこんな蒸し暑い日にそんな暑苦しい「かりんたう」を全部食うのかい?

其れも昨日と今日の弐回に分けて食っただけのことですよ。

 

其の黑糖物は沖縄などの日本の南海の様を思い出させて呉れるまさに夏の風物詩としての食べ物だ。

 

 

でもってつい先ほど「何でも鑑定団」の再放送を視て居たら最後に「田黄の印鑑」の鑑定がなされて居り其れは結局ニセモノだった。

田黄の印|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京 (tv-tokyo.co.jp)

 

尚自分はかって書道塾に勤めて居たことがありそんな文房四寶に就いてはある程度の知識がある。

だが本物の「田黄」のしかも良品は今や数億円、また数十億円の価値を持つのださうだ。

 

100万円超は当たり前!幻の印材”田黄”! – 和様 書家/書道家 うどよし Japanese calligrapher Udoyoshi

 

其の「田黄」と「鶏血」こそが印材としての最高峰の御品である。

勿論自分にはそんなものは縁が無い。

 

だが昔は百貨店の書道用具のコーナーにて屡そんなものを観て居た覚えだけはある。

其れも四半世紀程前に松坂屋本店だったか、其処にて「広東緑石」の印材の美しい品が出て居り其れが確か八萬円程だった。

 

広東緑石 - Bingー比較的其れに近い画像ー

 

 

でも書道をやらん自分は結局其れを買い切れなんだ。

自分はあくまで西洋流の硬筆筆記具のコレクターであり愛好家なのでそちらの分野に大金を注ぎ込む金銭的余裕などは何処にも無い。

 

だが今思えば其れは是非買っとくべきであった。

つまるところは其れが生涯で唯壱の良い印材を得る機會だった。

 

 

其のやうに物との邂逅やまた人との出会いでもさうだが生涯に壱度しか機會が訪れぬ場合が實は多い。

でもって其の機會を逃せばもう弐度と其れは訪れては呉れぬものです。

 

「広東緑石」は石なんであくまで石だが其れはまたとんでも無く美しいと來てる。

其の代わりに訳の分からぬ安物の何処やらの透石なる緑色の石を其の後ヤフオクにて求め其れに自分でもって篆刻を施して居る。

 

だが安物の透石なる緑色の石でもまた其れは存外に綺麗である。

 

尚其の印材として用いる石とは基本的に所謂「蝋石」の類のもので従って金属製の尖った物などで容易にソコに名などを彫ることが出來る。

でもって印材はハンコとして使うばかりでは無く観賞石としてまた樂しめよって古くより中國の文人墨客はまさに其れを机上にて鑑賞しつつ書なり画なりをものして行ったのだった。

 

 

そんな印材の価値の上昇は中國と云う國が今や壱等國となりつつあることが大きく関係して居る。

従って中國での印材や硯、また翡翠ー硬玉と軟玉ーなどの価値がまさにうなぎ昇りに上がって居るのである。

 

其のやうに価値とは欧米による価値観壱遍当のものでは無く逆に今後は亜細亜物の価値が欧米の価値を凌ぐ可能性などもまた高く出て來た。

だが🗾人はどちらかと言えば舶來物につまりは西洋物に価値を置き過ぎて居やう。

 

また我も確かにかっては舶來物主義者であったが其れも50過ぎ位からはむしろ🗾の古い萬年筆や日本産の石を中心に集めるやうになった。

 

さて先に述べた「五月に東山植物園の山中にて採取した上物の石英」は見た処其の「田黄」の安物に良く似て居る。

故に其の石もまた自分に取り大事な石となることだらう。

 

 

さて本日の御話のテーマとはまさに其の「黄色い物」である。

 

と云うのも昨日四國の方よりそんな「黄色いボールペン」が届き早速に其れを使って居るところなのだ。

 

銘木のボールペン - 加藤家具ネットショップ (katokagu.com)

 

こちらでの「南天」の軸のボールペンが丁度昨日届いた。

 

其れは此処での画像よりもずっと美しく見える黄色い材のボールペンだ。

 

此処のボールペンは此処数年是非欲しかったのだが其れもなかなかに手が回らずだが先日また此処を覗くと何と「南天」の軸のボールペンが新発売されて居る!

 

だから其れに飛び付かぬ手は無い。

 

 

其の評価

 

1.モロに銘木ペンだ

2.ボールペンとしてシンプルで且つ實に「自然」だ

3.其のスリット入りのキャップが個性的だ

4.値段は少し高めながら兎に角面白い作品だ

 

また其の黄色が兎に角美しいのだ。

さらにとても長いペンで筆記時全長が19センチあり重量が15グラムで重心位置は6ー前ー對4ー後ろーのところにある。

 

芯はペンチなどで挟み抜き取るタイプで要するに原始的な芯の交換法であり且つ芯のサイズもまた壱番小さく要するに長時間筆記にはまるで向かぬ。

だが軸全體が木なのでまさに其処に「自然其のものの息吹」を感じることが出來る。

 

尚自分は銘木ペンの場合「紅木」の物を常に好むのだがあいにく其れはすでに売り切れて居た。

よって今後は其の「紅木」軸の方もまた是非欲しいところである。

 

 

さて自分は基本的に陰性とも言える黑や靑色や緑色を好む人間である。

されど何せかうして守備範囲が常に広いので逆に黄色や赤色のものがまたとても好きなのである。

 

故にそんな陰気ばかりでは元元無いのである。

陰気ばかりでは無くおおまるで太陽の如き陽気な詩人である。

 

だが其れはチョット違うか。

 

そんな太陽の如き陽気な伊太利亜製の万年筆などが實は壱番好きで事實最近は其の評価の高い独逸製の万年筆をほぼ使わなくなった。

だから逆に東京のショップに独逸製の万年筆を高く売りつけ其の金でもってこんな四國からの黄色いボールペンなどを使って御座る。

 

尚今回ペンは多分拾本位は買うのでまだまだ序の口である。

 

 

ありゃ、其の南天と言えばさう言えば先日家の庭より材が出たばかりではないか。

其の南天の材はどうなったのか?

 

嗚呼、ココにあるか、まだまだ半乾きながら。

 

 

さてかうして「欲しい物」には飛び付かぬとまず手に入らない。

だが酒や女やギャンブルや薬物や銃などに靑少年は絶對に飛び付いてはならない。

 

また闇バイトなどにも決して飛び付いてはならない。

 

だが筆記具に飛び付くなと云う学校の先生や父兄は何処にも居ない。

筆記具にはもうどんだけ飛び付かうが壱応は「御勉強」の為の道具とさう見做されるが故に何人も其れを非難したりすることは出來ぬ。

 

だからまさにソコを隠れ蓑として何処までも筆記具で行けるぞよ。

高価な其の万年筆も馬鹿息子や馬鹿娘の偏差値を上げんが為に必ずや汝らの御両親は其の購買を認めて下さる筈である。

 

實際にかうして筆記具を買い込むとつい使ってみたくもなりしかも其れを使うと頭もまた使うが故に結局は御勉強して仕舞うこととなる。

 

サア御勉強するぞ!

此の愛媛製の黄色いボールペンでもって!

 

すでにお前には勉強など要らんから巷へ出てギャンブルでもやって來い。

又は姉ちゃんをさする為にピンサロへでも是非行って來い。

 

ですがまるで其れがやりたくないのです。

其れに御勉強することだけがこんなに樂しいのだ。

 

 

では汝は此の黄色いボールペンでもって何を認めるのか?

其の物質欲に常に捉えられし物欲詩人は其れでもって壱體何を認めるのか?

 

所詮はこんなもんですが…。

とりあえずはお見せします。

 

うわっ、其れもまるで読めんやうな汚ねえ字だな。

さてもお前はそも何の為にそんなに筆記具を買い集めて御座る?

 

 

単なる物欲の完遂の為にのみだ。

だが其の物欲にもな、かうして四國の職人さん達の息吹が其の物作りの魂がしかと込められて居る。

 

嗚呼何て素晴らしい黄色いボールペンなのだ!!

さう其れは此の梅雨時の不快な気分を壱掃するかのやうな光輝く軸のボールペンだった。