露西亜の大文豪の「理想論」ーさう最期は妻の「子宮思考」と闘いし文豪トルストイの生涯ー
愛煙家の森永卓郎氏 がん闘病中も喫煙本数増「心の栄養剤」「やめる気ない」 息子康平氏「好きにして」 (msn.com)
さてワタシも「愛煙家」ですので「喫煙」を止める気には毛頭なれない。
其れもどだい頭を使い生きる人にはとりあえずは其の「ニコチン」が不可欠です。
其れも、
普段の煙草=ハイライト
特別に贅澤時間の煙草=ロングピースか又は両切りピース
です。
共に最強でのニコチン及びタール成分が含有されるだらう最惡の紙巻煙草なのだー。
1泊家族 世界遺産に住む家族SP!白川郷&宮島&屋久島&富士山の仰天生活[字] - 番組表.Gガイド[放送局公式情報満載] (bangumi.org)
つい先程此の番組の「屋久島」での鈴木ファミリーの紹介の部分をTVで視て「感動」して居た。
でも壱番感動したのが何と長嶋 一茂氏のコメントであり、
1.かう云う生活が「異常」で都會の生活が「正常」なのだとは思わぬ方が良くむしろ其の反對の部分を都會人は常に心に持って居るべきだ
2.かう云う生活から生まれる「何かを持ってる子」こそがコノ🗾を變えていけるのではないか?
との御話だった。
アノ一茂氏も年を取りもしや「悟りの境地」に近づいて居られるのやもしれん。
さて連休をする前に壱アマチュア文學者として「文學」のことなどもまた書いて置きます。
最終的にわたくしが世に問いたいのが「人文學を疎かにする勿れ」とのこととなる。
其の「人文學」は生きる上でのどんな足しにもまたならぬものでせう。
ですが其こそが生きる上での本質的意味ー本質的意義ーの部分をこそ問うて行くものとなる。
逆に申せば生きる上での本質的意味ー本質的意義ーの部分を問わぬニンゲンに「人文學」などは不要となる。
ですが生きる上での本質的意味ー本質的意義ーの部分を問わぬ人生に「眞」は無い。
即ち生きる上での本質的意味ー本質的意義ーの部分を問う人生こそが「価値有る」人生となる。
ですが別に何をやらうと「生きる上での本質的意味ー本質的意義ーの部分」を問うことは可能となる。
例えばルンペンさんや洞窟オジサンなどはむしろ其の「眞」にこそ生きる人生となることだらう。
またトランプ氏や麻生氏程に金持ちで且つバカですと其れもまた案外凄い馬鹿人生なのやもしれぬ。
が、概ね壱般大衆の人生はほぼ「社會的洗脳」にて其の人生の全てが決まって仕舞う。
だから僕は其れだけは是非避けたいとさう願い生きて來たが其れもまたふと気付けばこんな「還暦詩人」となって仕舞って居た。
また其の作家や詩人ーまたは藝術家や宗教家ーが日頃問題として感ずるものと壱般大衆が日頃問題として感ずるものはおそらく質的に異なることだらう。
だから彼等作家や詩人ーまたは藝術家や宗教家ーが日頃問題として感ずるものは彼等の作品の中にこそ示されるのですから其れを読み込む他は無い。
其れもズバリ言えば現在僕はこちらの文庫本を読んで居る。トルストイ、原卓也/訳 『クロイツェル・ソナタ 悪魔』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)
でもって『惡魔』と云う作品を今日読み終わったので其の感想を是非述べる。
まずは其の「惡魔」なるものが外部に居る「惡」では無く人間存在が普遍的に心の中に持つ「惡魔」であることを知らねばならぬ。
つまるところ『惡魔』に於ける「惡魔」とは👿では無くむしろ自分自身の「欲望」なのです。
其れも所謂「姦淫」級での欲望のこととなる。
其の「姦淫」級での欲望がクリスト教的な自省心より大きな葛藤を生みやがて其の「罪の意識」に苛まれ主人公である男性が自殺を遂げるとの御話となる。
さうした意味でのまさに「現實的な悲劇」が「性愛」絡みの側で引き起こされるとの壱種「宗教的な次元」での御話ともなる。
特にクリスト教に於いて其の「姦淫」に於ける解釈は厳しい。
また其れは佛教やジャイナ教に於いてもさうなる。
對して所謂「多神教」での世界観では「性に於ける寛容さ」が際立つこととなる。
果たして其れは何故か?
多くの「多神教」では「産めよ、増えよ。」が良いこととなるからです。
ですが多くの「多神教」では必ずしも「人間の救済」を前提とするものでは無い。
所謂「創唱宗教」に於いて「人間の救済」が前提とされるが故に初めて「生命現象としての生殖行動」の部分を「理性的」に見詰めねばならなくなる。
其の「創唱宗教」以前の段階の宗教では「生命現象としての生殖行動」の部分がむしろ「祝い事」のやうにさえ捉えられて行く。
さう其れがまずは「目出度い」。
つまりは豊穣且つ多産だ、其れも「ワッショイ、ワッショイ。」でもってして。
だから夜這いして村の娘を孕ませたりすることなどが昔は多く有ったやうだ。
だけれどもそんな「やり逃げ」でもって良いのだらうか?
いや♂は本來あくまで「やり逃げ」なのです。
其の後に何が此の世に出て來やうが知ったことか。
ですのでまずは其の「生まれて目出度い」のか其れとも「生まれてすみません」のどちらかと云うこととならう。
でもってあくまで「創唱宗教」の側では生殖はむしろ「罪」の方向へと傾いて行く。
とは言え人類は八割方ケモノなのでかうしてドンドン人口は増えて行きますのですが。
生⇔死
性⇔死
「性」とは「生」のエネルギーのことですのでつまりは「死」の反對側での力のことです。
また「性」とは本質的に「欲望」のこととなりしかも「睡眠欲」や「食欲」のやうに「求めざるを得ぬ」欲のこととなる。
また金や力のある者は例えば妾を持つなどして壱般に性的欲望の満足を得る条件に恵まれる傾向が有る。
例えばかのトランプ氏などがまさに其の「👩好き」のタイプとなる。
其の逆に「👩に興味が無い」タイプでのつまりは「理性」が勝るタイプでの男性などがまた居るものだ。ー詩人の誰かのやうにー
でもって簡単に此の物語の筋を纏めると主人公の露西亜の名士の男性が独身時代に女中の如き卑しい👩に手を付け子を産ませて仕舞う。
ところが彼はそんな露國の名士ですので結果として良い縁談に恵まれ妻を得ますが彼女は體が弱く流産したりでなかなか良い家庭を築くに至らない。
さうかうするうちにまた其の卑しい身分の👩が彼の家へ奉公に來ることとなる。
すると次第に「漢の欲望」がムラムラと目覚め最終的に妻を選ぶか其れとも女中👩を選ぶかとの「究極の苦悩」を精神的に背負い其の重荷に耐えかねてピストルにて自決して仕舞うとの話となる。
ー其のラストシーンの他の展開として女中👩を殺し精神異常とされ最終的にはアル中となるものがあったとのことだー
要するに「性欲」こそが「惡魔」として捉えられるであらうなかなか珍しい小説となって居る。
レフ・トルストイ『悪魔』の登場人物、あらすじ、感想 | 文学ブログ (bungakublog.com)
だが此処🗾に於いては「神道」の影響により別に「性欲」は「👿」にはならない。
但し佛教に於ける「性欲」は元來「惡魔」なのですが大乗佛教は其れこそ不純な佛法となるが故に「性欲」其れ自體は必ずしも「👿」にはならない。
要するに此処🗾國では「性欲」は元來むしろ神から与えられた「生きる力」のことでありむしろ其こそが「豊穣」だの「多産」だのつまりは「良い事」とされて仕舞うのです。
が、御釈迦様御自身は所謂「👩嫌い」な方でしたので出家後などは👩の本能性のやうなものを酷い言葉で攻撃などもされて居り全然レデーファーストなどではありませんでした。
後に年を取られてからよりマイルドな見解に落ち着きますのですが兎に角「👩嫌い」な御釈迦様は出來れば「👩の居ない世界」へ行きたいとさう思われつつ「解脱」なされたことでせう。
またイエス様の方は独特に寛容な性愛への解釈をされて居たやうだ。
ー新約聖書においては、「姦淫」に関して矛盾した叙述があり、マタイ書とヨハネ書における以下の相反する記述が、両者ともナザレのイエスの発言とされている。すなわち、マタイ書では、十戒に基づきつつ、新たに配偶者以外の者への性的関心、および自慰行為が、「地獄に堕ちる罪」として絶対的に重視されている。一方で、それに対して福音記者ヨハネは、「ヨハネによる福音書」において、ナザレのイエスが姦淫への寛容を説く逸話を引用している。そこでは、ナザレのイエスはレビ記および申命記にある律法[6][7]を否定して、姦淫の禁止を許される比較的軽微な戒律として相対化し、また死刑を姦淫より大きな罪とみなしている。ー姦淫 - Wikipedia
尚クリスト教にせよまた佛教にせよ「生存」其のものを全否定する=「絶對的に生殖を否定する」ことに及べばそも「宗教」と云う精神的な立場其のものが成り立ちません。
よって共に「生存」其のものを全否定する訳では無い訳です。
ですが其れは多神教でのやうに「目出度い」ことにはあくまでならない。
ナゼナラ「目出度い」のであれば生存=「善」となり其処には「惡」も何も無くなるのです。
ですがクリスト教及び佛教はむしろ「生存」其のものを半分位「惡」だと捉えて行く。
またであるからこそ其れは「救済宗教」となる。
生存=「善」であればもう後は「祭り」ダケだ。
わっしょいわっしょいわっしょいしょい、との。
さて露西亜の文豪レフ・トルストイ - Wikipediaはかってまさに「人道的な思想家」でした。
ートルストイはまた社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。援助資金を調達するために作品を書いたこともある。ーレフ・トルストイ - Wikipediaより
まさに其の「寄付」、「寄贈」の精神こそが大事だらう。
よって麻生氏とトランプ氏は全財産を貧民窟へ是非「寄贈」すべき。
ー以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた[17]。ーレフ・トルストイ - Wikipediaより
トルストイはさう「作家」では無く「社會改革者」だったのではないか。
其れも可成に「潔癖」な精神の流れを有するだらうまさに稀な文人であった。
ー1891年から1892年にかけてのロシア飢饉では、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが[19]、政府側はトルストイを危険人物視し[20]、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった[21]。『神の国は汝らのうちにあり』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。『芸術とは何か』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定した。ーレフ・トルストイ - Wikipediaより
ーただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが[23]、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。ーレフ・トルストイ - Wikipediaより
そんなトルストイは次第に「宗教的」ともなるがまた意外と體制側や教會側からは煙たがられる。
ー 1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判し、特に日本による大韓帝国の保護国化を「日本の政治家は朝鮮を併呑しようと躍起になり、根拠のないことをする狂人だ」と非難した(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記』)。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[26]。 その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[27]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、家出3日後に小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)[map]で下車した[28]。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。ーレフ・トルストイ - Wikipediaより
彼トルストイは根っから眞面目な人なので常に世の中の「惡」やまた内心の「惡」に對しまるで我慢がならない。
要するに誤魔化しが効かず其の考えー思想ーがストレートに現實へと反映する。
ソコはまあ「自閉症スペクトラム障碍者」だったのやもしれません。
でもって何故こんな大文豪なのに妻と決定的に對立したのか?
其れは👩の価値観がほぼ「👿寄り」のものだからなのだらう。
👩=👿
と迄はなかなか言えぬものながらまあ漢の価値観とはほぼ違いませう。
壱つには屡世間にて言われることですが「👨は理想主義」であり「👩は現實主義」とのこととなりませう。
其の根本での価値観の違いが有るが故に互いに理解し合うことはままなりません。
トルストイとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 | 歴史上の人物.com (colorfl.net)
(27) 人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。
~レフ・トルストイ~
(28) 人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだ。
~レフ・トルストイ~
(29) 孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる。
~レフ・トルストイ~
(30) 悔恨がないのは、前進がないからである。
~レフ・トルストイ~
レフ・トルストイの名言30選|心に響く言葉 | LIVE THE WAY (live-the-way.com)より
さう「理性」を欠く生存はニンゲンに取り最も惨めな状況を創り出す。
また「理性」を使う宗教こそが「救済宗教」たり得やう。
だから「生まれて良かった、わっしょいわっしょい。」なんてのは「救済宗教」とはまさか言えないのだ。
そんな「救済宗教」はむしろ壱般大衆の望みとは逆のことを述べる。
「生まれてすみません、大宰はもう死にます。」ー彼大宰 治の基本テーゼー
其の点でおおまさに彼「大宰」と「トルストイ」こそが精神の上での「同類」なのだ。
「理性」を中心に据える生存はさう「ヤルキー」壱遍當には非ず。
「理性」を中心に据える御釈迦様の教えはどう見ても「ヤルキー」が無し。
では金持ちになり「妾」を持つことなどは人生の目的とはならんので?
「妾」どころか「妻」もまた「金」も要らんと云うのが聖人の頭の中身=価値観のことよ。
じゃあ君螽斯詩人はさうして「トルストイ」的な潔癖さと諦念とに寄りかかり最終的には駅舎にて「野垂れ死ぬ」ことをこそ理想として今を生きて居るのですね?
いやワタシは文明の中でなんぞ死にたくは無い。
ワタシはあくまで日本海だとかまた白神山地だとかまたは棚山だとかそんな山奥にて性の幕を閉じたい。
「性」の幕を閉じたい?
アア間違った、さう生の幕を閉じたい。
尚此の『惡魔』と云う作品は私小説なのでもまたあるさうで、實際に彼トルストイはとある百姓👩とケッコン前に付き合って居たのださうな。
また此の作品は當時露西亜にて實際に有った事件を基に書かれても居るとされて居る。
だが其の後彼は性に関する極めてストイックな考えを抱くやうになる。
3.絶對的な純潔としての理想
4.性的欲望こそがニンゲンの元凶
5.「愛」は「性愛」の次元を離れ「神」や「人類」や「祖國」や「學問」や「藝術」への奉仕へと是非昇華されるべき
かうまさに高邁なる「理想論」を展開するに至る。
尚「性的欲望」の強い🚹をかって自分は見たことがある。
其の👨は中学校の後輩であり🏥にて共に働いたのだったが彼はいつも「彼女」が居ることを自慢げに話して居たものだった。
其れも「妻子持ち」なのに其れがバレて娘とは口をきいて貰えぬさうなのだ。
だがあくまで個人的にはさうした性的パワーの強い🚹は「嫌い」である。
「トルストイ」は結果として♀的な「現世利益主義」と精神的にやり合うこととなりああして独り寂しく死ぬることとなった。
だが個人的にはまさに其れが「漢としての壱念」を貫く良い形でのものであったやうに思えてならない。
逆に妻の「子宮思考」に包められ「絶對的な純潔」であるとかそんな尖った精神論が言えぬやうではもはや彼に「思想家」としての価値などは無い。
でもって變な話ながら其の長嶋 一茂氏の「反文明発言」などもまた聴いて居て實に気持ちが良くなる類でのものとなった。
ヤッパシワシはそんな男らしい「漢」の方が👩共などよりも好きかもしれん。
では明日より「大掃除」に入りますのでまさに此れにて御免。
丁度スギ薬局のポイント交換にて何と「パナソニックの掃除機」が配達されたのでもう何処までも掃除がやれさうだ。
さう言いつつなかなかやらんのだらう、其の大掃除を。
はい、忙しくて其れもなかなか。
では皆様左様なら。
もう暫く出て來ませんがちゃんと人文學の「御勉強」の方だけは続けて置くやうに。
皆様への御休み中の宿題の方は「トルストイ」の作品を何でも良いからしかと読むことです。
さすれば露西亜の變人文豪の本心がスッカリと分かることだらう。