南師の言説より「禅」としての認識の本質を探るーおそらくは南師の認識こそが90パーセント位正しいー
「アンタらの宗教には死んでも入信しない!」ファミレスで宗教勧誘された男性が激怒した理由 - ライブドアニュース (livedoor.com)
さて個人的には「宗教」が惡いのでは無くあくまで「社會」が惡いとさう捉えます。
其の「社會」を「理想の體制」の側へ持って行ければそも「宗教」が無くても構わない。
されど其れもあくまで現實的には此の文明社會は如何にも御粗末なものだ。
従って「宗教を惡者」にして進む體制を實は事實上築けない訳です。
但し「正教」と「邪教」の違い位は是非判別出來るやうにして置いた方が良い。
自分の場合はなるべく所謂「伝統宗教」の方に近づくことを御勧めしたい。
其れはたとえボロ寺や貧乏教會でも良いから其の新興宗教系の「教祖を祀り上げる教え」からは遠退いて置く方が良い。
つまり御釈迦様やイエス様の教えこそがほんたうの教えなんです。
また其れはどちらかでは無くどちらでも良い。
わたくしは40年余りに於ける厳しい教義解釈より其のやうな認識へとついに至りましたのです。
但し問題は本質的に「宗教」の側よりも「文明」の側にこそある。
故に「宗教」的な見地を取り入れ「文明」を批判し得る位の方がたった今人間としては「まとも」なのです。
また「自然」が好きでそんな自然の側から「文明」を見詰め直す視点などもまた大事でせう。
兎に角本質的な意味での惡とはズバリ申して「近現代文明社會」の方です。
其のことは確りと御勉強しさえすれば誰にでも分かることだ。
でもまさに其の御勉強がみんなは嫌いですので其れは永遠に分からぬこととさうならざるを得ぬ。
兎に角宗教は「苦しいから拝むー頼むー」ものであり「苦しく無ければ要らん」ものであります。
ですが正直今文明は物凄く苦しい筈です。
まあ其れも自業自得でありやりたい放題に文明が此の参百年程やって参りましたのでもう後が無いつまりは時間が無い。
なんですがそも「苦しい」筈ですのにあくまで自分等は正しいとさう言い張りしかも「惡いのは全部宗教だ」ではすでに認識が地獄に堕ちて居ると申すか兎に角洗脳され切り
どうぞ滅んでちょーだいてなものでせう。
つまりはすでに人類に著しく「白痴化」が進んでおる。
また其のことは「直るやうなものでは無く」むしろ今後酷くなる傾向のことだらう。
ではそも何が間違って居るのかと云うに「認識」こそがそも間違ってます。
つまり其の「認識」がそもオカシイので全てがオカシクなって行くのである。
では何が正しい認識なのかと云うにとりあえず自分は「南師の認識」こそが正しいとさう見る訳だ。
ですから其れは「麻原師」でも無くまた「大川師」さらに「池田師」でも無く其の曹洞宗の變態坊主の仰ることこそが何より正しくおお其処は流石に禅宗だなてなところでせうか。
尚かの永平寺での南師の綽名はズバリ「ダースベーダー」だったさうです。
でもって南師の場合は教育者の壱家に生まれ元元頭が良く若い頃に人生其れ自體に大きく疑問を抱き様様に哲學書や宗教書の類を多く読まれたさうですから其れが何処か自分に近い部分もまたあり其の意味でも云わば「脳の相性」のやうなものが個人的には良い。
なので南師流の實存的な意味での哲學談義をしても良いのですがかって南師がネット上で連載されて居られたエッセイ風の記事が余りにも面白く且つ佛法上の要点をも其処に述べられて居ますので其れを読みつつ是非其の感想などを語ってみたいと思います。
ー何度も書いたことだが、死は原理的かつ絶対的にわからない。死ぬときは、それを体験する人がいなくなるからである。とすれば、絶対わからないことの先の話など、なおのことわからないはずだ。
とはいえ、行先不明の道行きに放り出されるのは、人情としてつらい。すると、意識は逆に、生まれる方に飛ぶ。「なぜ生まれてきたのだろう」、という疑問である。
これも絶対にわからない。生まれた後にどんな「理由」を訊かされようと、それは後知恵で、真偽を確かめようがない。真偽不明の説明は普通「理由」にならない。
すると、誕生と死という、始まりと終わりの理由も意味も不明なのだから、その真ん中にある生きている自分の存在理由も、わかるわけはない。切ない話である。
この切なさに耐えきれないから、自分の「死後」を設定して、そこから「生きる目的」を構想したり、さらには「前世」を案出したりして、それによって「生まれてきた理由」を納得しようとする。詮無い話である。ー四、行き先の心配 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
自分もまた以前より此処にて「死」に関し述べて來て居り其れは要するに「人間は観念としての死しか死ねず死其のものを経験出來ない」ことをこそ述べて居たのである。
つまるところ「生死」と云う現象は言わば「観念由來」でのこととならざるを得ぬ。
だから故にどんなに「死」のことを飾り立てて書いたにせよ其れは「フィクション」でのこととなり「死」其のものにはまさか非ず。
即ち基本として「生死」には根拠ー意味ーが無くよって其れが無意味となるので意味が是非欲しい人間は其れではまるで我慢がならぬ。
なので「神」だの「佛」だのまた「近代的価値」だのさうしたものを其れこそ「観念的」に構築し其処に「生死」の無根拠性の部分を投げ込む訳だ。
其処でもって「神」だの「佛」だのに其の「根拠」を求めるのはまだしも良くけれど「近代的価値」に其れを求めるのは極めて危険である。
わたくしの場合は南師とはまた違う立場にて其の「近代的価値」への洗脳の危険性をかうして毎日訴えて居るのである。
でもって南師の「生死」に對する認識は兎に角徹底されて居り要するに其れは「分かりやうがそも無い」=「決められない」との態度を壱貫して述べられて居りつどのつまりまさに其れが御釈迦様による「無記」の認識なのだ。
逆に言えば「死後への価値設定」や「前世での因縁」などを持ち出す宗教的な認識態度は佛法以外の認識即ち「外道」での認識となることをこそ其れは示して居る。
だから自分は「~の生まれ變わりだ」などと良く胡散臭い教祖などが言うものですが勿論其れは誤った認識のこととならざるを得ぬ。
さらには「生きる目的」などもまた本質的には設定出來ぬ。
1.進歩することでより便利でもってより豊かに生きることー近代的価値観ー
2.神を信じることであの世でもって永遠の生を築くことー壱神教的な価値観ー
3.兎に角御勉強して「理性的」に解脱しやう
尚3.は他ならぬ自分の価値観ですが實はコレなどもまた✖だ。
あくまで本質的には✖です。
また1.と2.はむしろ其れ以上に✖。
但し純粋な意味での「佛法」に於いての✖。
では純粋な意味での「佛法」に於いての〇とは何か?
其れは「分かりやうがそも無い」=「決められない」=「無記」=判断しない、とのこととなる。
つまるところ「生死」の問題は観念的にどうかう決めて弄れるやうなものではそも無いのである。
但しまさに其のことに気付く精神的な階梯=認識の段階へと至ることだけは人間に取り可能である。=独覚級か又は菩薩級の認識となることだけは可
ーこの不安の手当てとして手っ取り早いのは、「前世」「死後」を設定する強力な物語に乗ることである。これを普通には、「宗教」と言う。
有能な外科医が今わの際で洗礼を受けたというエピソードを、何かで読んだことがあるが、いくら人体を腑分けしても死が見つからない以上、これも宜なるかなである。
いわゆる「無神論者」の「前世も死後も無い」という断定も、経験不可能な事柄の断定という意味で、立派なイデオロギーだろう。
「人は死ねばゴミとなる」と言った人がいるが、理屈だけで言えば「人が死ねばカミになる」というのと、まったく変わらない。
もう一つの手当ては、自分の存在が不安なら、「不安」ではなく、「自分」を消してしまう技法を手に入れることである。ー四、行き先の心配 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
まさに其の「イデオロギー」其れ自體に「正統な根拠」が欠けて居るのである。
故に社會は其の「根拠無きイデオロギーの對立」より滅茶苦茶になる即ち戦争状態となりブチ壊れる可能性が88パーセント程もあらう。
即ち所謂「眞理領域」に近い認識からすれば「言葉による妄想状態=妄信状態」に人類は洗脳され易いものだから其れをやって居ればまず滅ぶとのことが明白である。
なので「國家神道」だの「クリスト教」だのまた「イスラーム教」もまた「イデオロギー」宗教なのだ。
ですが純粋な意味での佛法はそんな「イデオロギー」宗教では無く要するに単なる「自己」の消去法のことである。
「イデオロギー」宗教からは無論のこと「十字軍」による戦争はまずつきものである。
なのでかの9・11テロはズバリ現代の「十字軍」戦争のことであった。
「人が死ねば観念は消えるか否か」
さて自分は此の事を屡考える。
此れは大變難しい問題ながら最近は考え方がクリスト教化して居て観念に死後の連続性を感じたりもまたして來て居るところである。
兎に角「生死」其れ自體が「理性に取り不安」なのだ。
だが動植物の♀はそんなことはまるでお構いなしに此の世にドンドン命を産み落とす。
ヤッパシ♀には理性なんて金輪際無いぞ。
おおこわ、怖くて怖くてもう👩には指壱本触れられぬわ。
ー彼の飼い猫は、最後にガンらしき病を患い、ついに危篤状態となる。数日前から一切食べ物を受けつけず、最後の日が迫るにつれ、水も飲まなくなったという。
ついに、口元と尻から血が流れ出したとき、その猫はやおら立ち上がり、どこにその力を残していたのかと思うほどに、血痕を残しながら、地面を踏みしめるように歩き出し、ゆっくり裏の雑木林に消えていったという。
「おれは追わなかったよ。そんなことができないほど、ある意味、神々しかったな」
猫には「自己」がない。だから、「前世」も「死」も「死後」もない。生きている間生きて、それで終わるだけである。
これを「神々しい」と言い、それにならいたければ、「自己」は捨てねばならない。その捨て方を教えているのが仏教だと言ったら、また例によって、「お前の偏見だ」と言われるだろう。ー四、行き先の心配 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
だが其の🐱やら🐶やらの最期をわたくしの場合も此れ迄に何度も観て來て居る。
確かに其の折に人間の「想念」が其の死の現場に立ち入る余地などは無い。
まさに其の意味で生物の生死こそは神神しいものだ。
「禅」や「原始佛教」などの純粋な意味での「佛法」は常にさうして「自己」を捨てよとさう宣う。
だが其の「自己」が捨てられたら其れこそこんな苦悩ー苦勞ーは無い。
逆に捨てられないからこそ人間なんだ。
捨てられないからこそ神やら御題目やらまた念佛だのがどうしても必要となる。
でも邪教ダケはダメだ。
邪教とは教祖を御祀りするまさに閉鎖的な宗教のことだ。
弐度とそんな教祖など御祀りするな!
新興宗教の全てに是非「解散請求」を!!
教祖は兎に角欲深くして罪まみれなんだ。
ー「だったら先生、話をぼくに全部任せますか? ぼくは夢だの希望だの、努力は報われるだの、前向きのことは一切言いませんよ。子供の頃、それこそ夢も希望も枯れ果てたような中年オヤジが、卒業式なんかで押しつけがましい訓示を垂れるのに、ホトホト辟易してきた自分です。本当にそうだと思ったことしか言いません。それでよいですか? その後どうなっても、僕は一切責任をとりませんよ」ー七、後ろ向き人生訓 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
まず其の「前向き」とはそも何か?
其れは「断定」し「とある価値ヒエラルキー」に生きることである。
要するに「近代的価値ヒエラルキー」のことだ。
其の「近代的価値ヒエラルキー」が「プロテスタンティズム」より生まれた価値である可能性は高くある。
しかしながら本來のクリスト教はもっともっと後ろ向きのものだった筈。
されどクリスト教は基本として「生きんが為」の価値観である。
即ちとりあえずはあの世での理想世界の實現を目指さんが為の現世的価値のことだ。
故に原初的なクリスト教は別に「前向き」だの「進歩」だのそんなことばかりを言って居た訳では無論のこと無い。
原初的なクリスト教は逆に現世否定主義が徹底され其の点ではむしろ佛教的である。
でもって何故南師はそんな「後ろ向き」の禅僧なのか?
其れは此の世界の「實相」を踏まえた上でものを言われるが故にさう「後ろ向き」とならざるを得ぬ。
「壱切皆苦」
まずは其れこそが釈迦の認識であり同時に佛教の認識なのだ。
だってこんな樂しいことではないか、何より此の世界は。
美味いモンがあり美女が居て御勉強は出来また何でも買えるわでもってして…。
いや其れは単なる「洗脳」だらう。
まあだが半分はむしろ其の侭に「洗脳」されて置きなされ。
何故なら此の世は地獄だ、などと無頼派の作家の先生方並みの認識か又は世紀末詩人級の認識とイザなれば其れはもうズバリ「壱切皆苦」でしか無い。
だが君は幸運にもアホだから「いっつもこんなアホなんでーす!」とか言いながらつまりはヘラヘラと嗤いながら此の世を渡ることこそがまさに御似合いなんだ。
従ってアホであることはむしろ其の天然のアホであることは壱種の「天与であり天啓」其のものなのだ。
アホよ汝は幸いなり、天國はまさに君が為にココに有る。
さてもまずもって此の世では「所有」など出來ぬ。
何故ならどんなコレクターさんも70歳位になると例えばヤフオクでもって蒐集品の整理をし始めるのだ。
まあそんな御品などが今年はまた特に多かったものだ。
但し65歳位迄はまさに其れを狙い蒐集に勤しむことなども事實上可能であり自分はまさに其れを今年やり兎に角とても疲れたのだった。
だから「本質的な所有」はまさか出來ぬが實は「壱時的な所有」はさうして可能である。
でもって其の「壱時的な所有」でもって満足する状態と云うものもまた有り得る。
だが佛教やクリスト教の原理主義的な思考ではあくまで「所有はならん」とさう言うのである。
また佛教やクリスト教の原理主義的な思考では「👩にも触るな」とさう宣うのだ。
しかし事實上此の世の人人は皆👩に触りながら日日を過ごす。
でも壱番問題なのは南師に妻が居たとのことであらう。
其れは何よりもマズくはないですか、幾ら現代人でも。
要するに「理性的」に此の世を見詰めればさうする程に此の世自體が「壱切皆苦」に見えて來必然として生其のものに對し「後ろ向き」での認識とならざるを得ぬ。
だがむしろ其の認識こそが「聖なる方向性」での認識であり同時に知性的、理性的な認識であり且つ「正しい認識」ともまたなるのである。
だけれども佛法もまたより上位レヴェルでの認識では其の「正しさ」の部分をもかなぐり捨てて行くかのやうなのでさう云うのは所詮凡人レヴェルではまるで分かりゃあせん。
いずれにせよ「前向き」重視、積極性重視は近現代社會が我我個に對し課すであらう「洗脳的な価値観」であるに過ぎぬことにまずは壱人壱人が気付くべきだ。
ーしかし、多くの人たちは、喜怒哀楽は様々でも、おそらくは、いろいろなことを背負って、愉快なことよりつらいことが多い日々を生きているだろうと、ぼくは思う。だったら、仏教もそれなりに広く、世の中に必要とされるかもしれない。
そもそも、僕たちは誰も生まれようと決心して生まれてこない。生まれたい時に、生まれたいところに、気に入った親を選んで、生まれたいようには生まれてこない。
問答無用でこの世界に投げ出され、一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる。まさに不本意なまま、既に予め人生は始まってしまっている。これが重荷でなくて何が重荷と言うのか。もう生き始めた最初から、すでに大仕事になっているのだ。
その重荷を投げ出さず、今まで生きてきた事実だけで大したものだ。ぼくは君たちが生きてきて、恐山に来てくれたことに深く感謝する。そして敬意を表したいと思う。ー七、後ろ向き人生訓 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
まさに仰る通りでわたくしなどもそんな實存的苦を日日潜り抜けて居る意味での人間の価値に對し尊敬の眼差しを注いで居る。
だけれども同時にわたくしは「常に他を批判的に見詰める」が故に半分は腹を立てたりもすることが多くつまりはまるで人間が出來て居ない。
しかれどもあらゆる生命の其の實存としての重みに最敬礼しつつ接して居ることもまた確かなことである。
其れと自分の場合は人間とは屡揉めるが自然とは概ね仲が良く揉めないことが多いやうだ。
ー違う。時間はある。「しなければならないこと」に塗り固められて、見えないだけだ。
だいたい、事の初めに「しなければならない」ことなどない。我々は生きる意味や目的や理由を知らない。それを知らされて生まれてこない。それを納得して、生まれたいと思ったわけではない。そして、何かの役に立つために生まれてきたのでもない。生まれてきたら、役に立つこともあるにすぎない。ならば、最初に「生きなければならない」確かな意味も理由もあるわけがない。
これを言い換えれば、我々の人生の土台にあるのは、意味ある時間ではなく、無駄な時間である。役に立たぬ、無駄な自分である。我々はその無駄を発見し、無駄な時間を作るべきなのだ。「〇〇のため」の時間を解凍して、すべての「ため」を流してしまう。そういう「無意味な」時間こそが、我々の「始め」にはあったのだ。
私が尊いと思うのは、その「無駄」を敢えて受け容れる者である。受け容れて、意味を自前で作ろうとする人である。あるはずだと錯覚した「意味」でスケジュールを切り刻んで走り回る人ではなく、そうではなくて、無駄で当たり前だと承知の上で、その人生を持ちこたえるために、あえて意味を創作する人である。無駄を受け容れて、無駄の上に意味をおいて、謙虚に考える人に、僕は強く共感する。ー七、後ろ向き人生訓 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
近現代人はむしろ毎日が「やらねばならんことばかり」である。
つまりは其れを上級レヴェルでの認識から解釈すればむしろ其れを「やらされて」居て其れは其のやうに近現代社會が築かれて居るからなのだ。
つまりはさう社會の側が決めて居るのでありでも事の本質レヴェルでは「やらねばならんことばかり」と云うことではまるで無い。
むしろ其のほとんどが「やりたないのにやらされとる」ことばかりなのだ。
つまりは其の「役立たずでもって無駄」な本來としての自我のやうなものを近現代社會があえて大搾取し「文明の為にやれ」とさう言うのである。
また其れをやらんと結局「村八分」となりつまりは人から相手にされなくなるので皆必死コイて其れを毎日やるのである。
でもつい毎日毎日其れをやっとったら地球が壊れちゃった。
馬鹿者!現代文明死ね!!
であるからまずは其の「やること」と「時間配分」を文明側から自分軸へと移し替える。
イザさうなると「石の観賞」が壱番大事なこととなり「社會の動向」などのことはむしろどーでもエエことでつまりはどーとでもなれ此のアホンダラ!てな感じとなり
またつまりは「眞我」の為の時間の使い方が其処に可能となるのである。
だから「無駄」のやうに見える其の「石の観賞」こそがむしろ壱番大事なこととなる。
おおまさに我が人生を持ち堪えんが為に自分はさうして「生きる意味」を創作した訳なのだ。
故に其処に於いてこそ無駄を受け容れさらに其の上に意味を置き謙虚に全てを考えて居るのである。
ー「適当」は「適う」ことであり「当たる」ことである。ならば、何に「適い」「当たる」べきなのか。
それは、各々の「生きるテーマ」である。「夢」でも「希望」でもない。「テーマ」。
自分は何を大切に、誰を大事に思って生きるのか、それを見つけ出し、はっきりさせることが、「適当に生きる」第一歩だ。
自分の「適当」が分かれば、それ以外の余分は切れる。それまで「しなければならない」と思い込んでいたことの大半は、捨てられる。本来の「無駄な時間」が還ってくる。その時間を安易に塗りつぶしてはならない。埋めることを急いではならない。ー七、後ろ向き人生訓 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
南師は著作中で「夢」や「希望」のことを否定的に扱われる。
自分もまた五年位前からか兎に角「前向き」系の想念である「夢」や「希望」のことに大きく疑問を持ちむしろ其れは要らぬ価値だと云うやうなことを屡述べるやうになった。
では何故さうなったのか?
其れは「夢」や「希望」はそも實現する確率の低いものであり其れを何故社會が良いことだと奨励して居るのかと言えばつまりは近代的な価値を完遂させたいからなのだ。
近代的な価値を完遂する即ち「神人間による進歩文明が地球及び宇宙を征服せんが為」に其れを我我個に持たせることを奨励するのである。
だったらあえて其れは是非捨て去るべきだ。
まあ其処をあえて佛教的に言えば此の不確かな世其のものが倒錯であり迷いの世界其のものでありまさかそんな「夢」だの「希望」だのそんな壱種美化され臭い言葉で御話するやうなものでは金輪際無いからなのだ。
そんな倒錯であり迷いの世界其のものであるにも関わらずかうして文明が突き進むのはおそらくクリスト教などの壱神教の側にもまた問題がありませう。
ですが佛教は兎に角「否定的にニュートラル主義」なのであり要するに「やる」よりは「やらん」価値の方を常に重視して居るかのやうに見受けられる。
ー「仕方がない」は、「過去」と「正解」を捨てる決意なのだ。我々は人生を自分で始めなかった。つまり、「仕方なく」生き始めたのだ。ならば、これからも「仕方なく」生きていけばよいし、「仕方がない」という決心は、我々が生きるための大事なテクニックだ。
受け容れ難いものを受け容れなければならない時、「仕方がない」と呟いて生きよう。それも確かな「勇気」なのである。ー七、後ろ向き人生訓 | お坊さんらしく、ない。 | 南直哉 | 連載 | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)より
結局のところ欧米起源での近現代文明はむしろ「仕方が有る」方の「やるだけやるさ」文明であり故に兎に角何でもやるのである。
だがそんな文明のあり方はハッキリ申せば大迷惑だ。
でもかうなった以上はあくまで其れも「仕方が無い」。
因みに南師は著作中で「資本による所有」や「拝金主義」などは価値倒錯ながらあくまで「仕方が無い」などとも述べられて居ます。
さう佛教は其れもより純粋な佛法ではあくまで近代的価値其のものが謗法的な価値であると認識される。
禅宗は然しクリスト教をまたイスラーム教を受け容れることが可能なのか?
ほんたうはそんなもん無い方が禅宗に取りより望ましいことでせう?
ならば禅宗を武装化して僧兵とかを配備しクリスト教及びイスラーム教と闘っては如何か?
其の折の大将は是非南師にやって頂けば良いことかと存ずる。
いや禅宗はまさか其れはやらんです。
禅宗は兎に角以上のやうに「後ろ向き」なことを許容するであらうまさに良く出來た教えであり教祖を祀り上げるやうな邪教とはまるで認識力が違いますわ。