目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

曹洞禅の弐師 ー違うタイプの禅僧御弐方に學ぶー

 

40.違うタイプの禅僧御弐方に學ぶ

 

 

 

 

今や最高の季節をかうして迎え、即ち世が新緑となりつつあり呼吸器系の調子が絶好調です。

ですが歯と歯茎が悪いので新たに歯科医を探して居り何かと忙しい。

 

こんな風に年を取るとどうも肉體の維持のことに掛かり切りとなるもののやうだ。

 

なんですが、其れでも御勉強の方は止めないわたくしです。

でもほんたうは御勉強では無く自然観察や鉱物採集でもして気を紛らした方が良いのですが體に余裕が無いので其れが出来ないで居ます。

 

さて今我はまた四冊の本を同時に読み進めて居る。

 

弐冊が七五書店で買って来たマルクス・ガブリエル氏の著作で他の弐冊が宗教の本で共に曹洞宗の僧侶が書かれた本です。

より正確には其のうちの壱冊は我が観念の師である南 直哉師とキリスト教の神父さんとの対談本です。

 

禅と福音 - 春秋社 ―考える愉しさを、いつまでも (shunjusha.co.jp)

 

さて此の本ですが、如何にも強力な内容を含む本です。

まさに其れも当たり前で、何故なら早稲田大文学部卒で曹洞禅の論客である南師と東大法学部卒の神父様とのもう此れ以上は望み得ぬ程の観念論議の場となって居るのです。

 

其の観念なんですが御自分がインテリだとさう思われる方は是非此の位の本は読んで置くべきでせう。

結局は僕も其のインテリなんですが、只僕の場合はソコにピピピの直観ー藝術ーの方だとかウソコキー文學ーの方だとか兎に角色々と混入して居る訳ですので別に純粋に學者的インテリなのでも何でも御座りません。

 

まあですが其の學者並に考える力は常に持って居ります。

 

 

其れでもって此の本は参分の弐位を読み進めた状態にありますが其処でまたイキナリ南師の哲學的疑問の部分が暴発して居り其処を読んでもう笑って仕舞いました。

うわあっはっはー、ようやってくれたなー、ヤッパリ南師だけのことはある。

 

左様に流石は南師である。

 

南師は兎に角さうして實存の抱える問題としての根本のところを常に穿って居られる。

なのでまさに其の部分が最終的に普遍的に人間存在として抱え持つであらう言語批判、我執批判へと化し其れが何時の間にか壱神教批判にも連なって行くのである。

 

ところが南師は若かりし頃にキリスト教にも深く興味を抱いて居られた訳で自分の抱え持つ観念的悩みが解決するのであれば其れを信仰しても良いとさう思われて居たさうなのだ。

よってキリスト教に対しても造詣が深く様々な専門書まで読破されて居られるやうだ。

 

ですがあくまで南師は自分の精神的な悩みを解決して呉れるものとは佛陀の教えの方だとさう選択されかの永平寺での長きに亘る修行の世界へと飛び込んで行かれたのだった。

 

 

尚個人的には其の南師の眞理に対し観念的に何処までも食い下がりまるでもって譲らぬ点こそがまさに佛陀の精神ではないかとさうも思うのである。

また曹洞宗の方方にとっての道元禅師の精神其のものなのではないか。

 

尚僕個人は特に曹洞禅に詳しい訳でも何でも無い。

但し学生時代に近所の寺の御住職に曹洞宗に関するとあることに就き教えを乞うた経験があった。

 

我もまた禅宗壱部としての観念的領域の如くに何処までも實存にとっての矛盾や眞理との齟齬を其れもこと細かに追求して止まぬタチなので兎に角学生時代からすでに其の位のことはして居た訳だ。

つまりはさう云う観念の戯れ、眞理との格闘のやうなものがさうして根っから好きなのである。

 

ですが観念はまた危ういものなのでもまたある。

かうして僕はインテリでもって考えることが大好きです、と云った方方にせよ實はソコまで御勉強が進んだ人はなかなか居ないものだ。

 

御勉強が進み過ぎるとさうしてむしろ不幸になるぞ。

でもたまたま頭が良くかうして生まれたので…。

 

 

さうか、では君に取り👩と酒とギャンブルはもはや不要だな。

サア君はコレから壱日拾冊の本を読むのだ。

 

さうして脇目も振らずに御勉強浸けの毎日だ!

御勉強を進めれば進める程に此の世での根本の成り立ち、世界の其の寄って立つところでの仕組みのやうものが次第に見えて来る。

 

まさに其れが見えて来るだけに逆に精神的には辛い。

辛いのだが其の観念の調教、個としての認識の選択こそが最も大事である。

 

だから精神が健全である限りどんな時でも其れに挑んで行くべきだ。

例え肉體が悲鳴を上げて居やうと己が理性に取りやることだけは其処にやって置くべきだ。

 

まずは南師の其の精神の姿勢から我は其のことを學ぶのである。

 

 

南直哉 『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

こちらが其の南師が書かれ第拾七回小林秀雄賞を受賞された著作である。

 

ですがすみません、まだ読めて居ないです。

何せかう読む本が多くては、其れに飯も食わねばならずさらに🐈にエサを与えねばならずおまけに韓国のTVドラマー『馬医』ーも視てしかも万年筆の改造もやらねばなりません。

 

それだけでは無く石も落札せねばならず、嗚呼其れにイーベイの方でファーバーカステルの六角軸の万年筆までもが出て居るではないか。

其ればかりかゴッホのことを書かねばならぬのにまだ書けて居らず、さうかうするうちに鴨居 玲のことが急に気になり出すわで、いや他にも村山 槐多、是非此の人のことを書かずばなるまい。

 

其のやうに常に飽和状態でもあるわたくしは實は薔薇の絵などにハマって居る精神的な余裕などまるで無いのです。

 

 

さて其の南師の著作に批判的なことを述べて居られる曹洞宗の僧侶の方が居られ驚愕したと云う御話を致さう。

 

 

本の紹介:南直哉著『超越と実存』、2018年3月16日 - YouTube

先日たまたま此れを視たが其の批判力や凄まじいものだった。

 

其のネルケ御住職ネルケ無方 - Wikipediaこそがまさにとんでも無い独逸人の僧である。

かうして立派な方で、つまりは凄え洋物の知性の持ち主である。

「禅をきく会」配信版/講師:ネルケ無方 - Bing video

 

ところがネルケ師はキリスト教では無くあくまで佛教を選択された。

佛教でないと自分の精神的な悩みは解決出来ないのだとさうも仰る。

 

でも南師も佛教でないと自分の精神的な悩みは解決出来ないとさう仰る。

翻り我もまた佛教でないと自分の精神的な悩みは決して解決出来ないことだらう。

 

なんですが天國なるものには絶対に行かないとはまだ壱言も申しては居ない。

其処は別にイエス様に救って頂いても良いのである。

 

 

ですが観念が…。

まさに此の観念が釈迦の思想でないとあくまで納得出来ないのである。

 

いやあー流石に西洋の利口の独逸人だな。

言って居る事が全て理路整然として居り僕のやうにギャグに振ったり逃げたりは決してして居ないぞ。

 

兎に角此の方の理性にはほとんど負けて仕舞いました。

流石は独逸人だ。

 

では何故こんな利口の独逸人と東洋の利口の日本人が組んで先の戦争に負けたのでせう?

其れはね、所詮伊太利亜が仲間に入って居たからだらう。

 

そんな伊太利亜人は女好きでしかも酒好きでしかも温泉好きだらう!

つまりは御勉強などちっともして居ないぞ。

 

 

ちなみにネルケ師はかってベルリン自由大学にて哲學を学ばれて居る。

禅宗の僧侶の壱つの側面が其の観念で物事を解釈する力をも持たれて居ることだらう。

 

尤も根本のところでは禅宗はむしろ観念的側面を否定的に見詰める訳だが其の観念の否定の前にかうしてトコトン考えられても居る訳だ。

 

ネルケ師による南師の著作に対する批判はさうした専門的な哲學的知見からの疑問でもまたあったことだらう。

ですが個人的には南師の思考はあくまで純粋な哲學では無く多分に文學的、直観的な側面が入り込んで居るものと思う。

 

其の分論理なり解釈に多少飛躍はあらうが南師の精神の方向性は正しいものとさうあくまで我には感ぜられる。

 

 

仏教の冷たさキリスト教の危うさ | KKベストセラーズ (bestsellers.co.jp)

 

其処でもって此の本をまずは読んでみた。

非常に読み易くしかも知的な内容の本であった。

 

其れもまさに素晴らしい、キリスト教と佛教への理解力である。

良くも此処まで双方が理解出来るものだ。

 

ネルケ師は然しキリスト教よりも佛教だと常にさう仰って居る。

其れはさうだらう、此処まで頭が良い方ならばどうしてもさう思えて来る筈なのだらう。

 

尚、此の本は壱神教と無神論である佛教を根本から比較して論じた非常に優れた本である。

概念的に難解な部分はほとんど無いがまさにすんなりと其の宗教としての違いが明確に理解出来る。

 

 

ちなみに今わたくしが宗教と云う分野に於いて考えて居ることも其の宗教の垣根を越える形での人類の抱える普遍的問題に対する宗教の役割のことである。

まさに今宗教は社會的に利己的では居られぬ状況にありある意味では其処で其れぞれの宗教や宗派に於ける宗教的な意味での眞価が問われつつあるのだと言えやう。

 

要するに宗教自體が其の意義を問われつつあるのだ。

其の意味でも宗教はおそらく現状維持の侭ではイケナイやうに思う。

 

寺や教會の維持や信者の獲得だけにかまけて居ては宗教はむしろ其の意義を失って行くのではないか。

 

其の点では南師の佛教に対する要求は過激である。

南師は常識や権威、また伝統などには屈しない何らかの御考えを常にお持ちでありむしろ其れを軸に佛教を解釈なされて居るので壱種潔癖なまたある意味では過激な佛法解釈を此れ迄なされて来た訳だ。

 

其れを壱言で評せば「より純粋なる佛法解釈」なのだと思われる。

つまりは👩には触らぬまるで少年の如くに無垢なる佛法解釈なのだ。

 

 

対してネルケ師の場合はむしろ👩に触る佛法解釈だ。

事實ネルケ師には日本人の妻と子が居るのである。

 

だが南師の場合は「僕はもう廿年以上👩には触れて居ない。」などと屡仰る。

 

わたくしは其の方向性の違いは観念的なもの以上に大きいとさう見て居る。

無論のこと「👩に触る」僧よりも「👩に触らぬ」僧の方がわたくしには理解し易い訳だ。

 

だが其のことはネルケ師御自身に対する批判なのでは無くして日本の👪主義の佛法解釈に対する批判の部分なのだ。

但しネルケ師もまた『仏教の冷たさキリスト教の危うさ』の後半でまさに宗教や宗派の垣根を越える部分での宗教的な意味での眞価に就き言及されて居られる。

 

故に此の方もまた本当の意味で宗教の意義を現代に問い続けて来られた方なのだ。

ネルケ師の場合を見てもすぐに分かることながら、哲學と宗教の領域は常に近接したものとなる。

 

哲學的思考を好む人は無論のこと宗教に関しても深い洞察や知見を形作ることが可能である。

逆に申せば哲學的思考を好まぬか或は其れが不得意な人は宗教などには縁が薄く常に其れは「なんのこっちゃ?」なのである。

 

 

ーこうした日本的な価値観──「他人の目をなによりも気にかけ、他人に配慮する姿勢を常に周囲に示し続けることが重要」「自分は違和感をおぼえても、甘んじて受け入れる。そうすれば波風は立たない」といった意識に支配されている人間ばかりだから、日本のコロナ騒動は終わらないのだ。ー

他人の目が気になるから…そのためだけに「外を歩くときにマスクをする」という日本人のイヤな空気 (msn.com)より

 

逆に我は今「他人の目はほぼ無視し」且つ「何でも間違ったものは徹底的に批判する」観点から今を生きて居るが逆に意外と他人の価値を尊重して居る積もりでもある。

尤も其れが理に適ったものであるのならば。

 

 

・コロナ騒動で明らかになったのは、「他人に迷惑をかけない」「他人のために自分は我慢をすべき」という日本人に染みついた2つの行動規範である。

・現在、批判の対象としてやり玉に挙げられているのは「コロナを恐れない人」「マスクをしない人」「ワクチンを接種しない人」という3属性。

・コロナに関して多数派とは異なる意見を持つ人々を、容赦なく攻撃する風潮。その背景にあるのは、人間が隠し持っている醜い差別感情である。そこから脱却できないかぎり、日本のコロナ騒動は終わらない。

 

他人の目が気になるから…そのためだけに「外を歩くときにマスクをする」という日本人のイヤな空気 (msn.com)より

 

我はコロナに関しても自己本位を貫いて来た積もりである。

従ってワクチンを接種して居ない。

 

其れは我の免疫力がさう強い方では無いので逆にワクチンが毒になる可能性が高くあるが故だ。

但し自分なりに可成に細かくコロナ感染への防御策を實行して来て居る。

 

1.公共交通機関を利用せず。

2.マスクは感染防止には不十分なのでマスクの下に常にアルコールでベトベトの布かまたはティッシュを仕込んで居る。

3.スーパーや美術館、博物館などへは常に出掛けるわたくしは其れでもウイルスを貰い體調が悪くもなるが其れをアルコール消毒と日光浴にて治して仕舞う。

 

以上の理由からワクチンは打たない。

と申すか僕は常に薬浸けー抗生物質だの催眠剤だのーの人間なので不必要に薬の力に頼るとまさに此の弱めの體が壊れて仕舞う。

 

其の「差別感情」と云う部分に少し考えさせられる、謂わばものをはっきりと述べた良い記事である。

また其の所謂「自分が無い」日本人の根本的な精神の體質のやうなものは日本人の精神其のものに対し實は有害ですらある。

 

僕は以前から「日本人はむしろ精神的に崩れて行く」と云うやうなことを屡述べて来て居る。

其れは日本人の精神に主體性が見い出せぬからなのだ。

 

例えば主體としての自己本位を生きて、其れでもって我がコロナに罹り死んだらまあ其れは仕方が無いことである。

ですがまだちゃんとかうして生きて居るではないですか。

 

其れに此の弱めの體もまた歯と歯茎以外はむしろ絶好調ですよ。

もう毎日がぜっこーちょー、だ!

 

實は今日も御天気が良いので是非山へ行きたいのだ。

ですが其処へ歯医者の予約が!

 

 

尚、南師は御自分でも仰って居るが自己本位での佛法解釈をあえてして居ることを公言されて居ります。

意外と社會性のあるのがむしろネルケ師の方で、其れも御自分でも仰って居るのですがどうも其れは元元キリスト教文化の方から来て居るものなのやもしれません。

 

そんな訳で兎に角今年は此の御二方の禅宗の師に付き従う形にて佛法上の考えを纏めつつあるわたくしなのだ。