目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「現世利益」や「偶像崇拝」また「先祖供養」は佛法に取り必要か否か?ー「考える」佛法より其の是非を問うてみるー

創唱宗教」と「自然宗教」の意義を今まさに根本より問うてみるー+カルトな佛像趣味の御話ー

 

 

 

 

“統一教会”「土下座120回」、“エホバの証人”「ムチで子どもを」――宗教2世が会見 信仰強制は「虐待」…法整備求める (msn.com)

 

其の鞭打ちの御仕置きは元よりイカンのだらうが我はまた意外と教育には厳しいので基本的に體罰を否定しないタイプの人間です。

但し理性を築き上げた人間に對してはまずは自分と同等と見做し相手に接します。

 

其の代わりに理性に欠ける奴等はもう何処までも執拗に攻撃致します。

さて『エホバの証人 - Wikipedia』などもまた邪教なのやもしれませんが例の啓蒙小冊誌の方は以前ポストに良く入れてありましたので欠かさず読んで居りました。

 

尚四拾年程前に我は瑞穂競技場ー2026年アジア大会に向け 瑞穂陸上競技場(パロマ瑞穂スタジアム)が改修工事へ│名古屋 栄日記 (yume-sakae.com)ーの横の公園にて捨てられて居た聖書壱式を拾って来て其れを今でも持って居ますがほぼ読んでは居りません。

でも其の「聖書」の類のものはまた妙に魅力的です。

 

また父がカトリックの南山大學南山大学 - Wikipediaの出身者なのでキリスト教とは無関係と云う訳でもまた無い。

だけれども個人的には理論的に佛法の方がより魅力的である。

 

 

エホバの証人の芸能人16名!衝撃の信者リスト一覧! | miima[ミーマ]

 

長嶋 茂雄!

石川 ひとみ!

坂本 龍一!

矢野 顕子!

西田 佐知子!

マイケル・ジャクソン

 

宗教と云うものは「生きる上でのよすが」となり得るものですので其れは其れで良いことですが其の宗教もまた邪教に迄偏向致しますと逆に至極危険な団體となって仕舞う訳です。

個人的に宗教は団體に属すこと無く幅広く學んで置くべきものではないかと今は思う。

 

何故なら社會活動には元元自己矛盾的な要素が組み込まれて居るからだ。

むしろ其の社會活動からは離れ自己の判断の下に宗教を吟味してみれば次第に其の宗教の正邪の区別が自分なりについて来る筈である。

 

よって我が立場はあくまで宗教を「學ぶ」と云うことに尽きて居る。

「信じる」のでは無くさうして其れを「學ぶ」ことこそが理性に取り至極樂しいことなのだからこそ。

 

 

さて今回はまさに其の宗教に於ける観念的理解のことでしかも其の中でも重要な概念だと捉えられる「現世利益」及び「偶像崇拝」に就き考えてみませう。

 

尚結論から申せば、

 

1.あくまで創唱宗教 - Wikipediaに於いては 「現世利益」及び「偶像崇拝」の要素は否定的に扱われるべき

2.あくまで自然宗教 - Wikipediaに於いては 「現世利益」及び「偶像崇拝」の要素は逆に肯定的に扱われるべき

 

ー「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を擬人化、神格化したが登場することから、古くは普遍的であったと思われる。万物に宿る霊魂、精霊を崇拝対象とするアニミズムとも関係が深く、その原初的な形とも捉えられる。しかし自然崇拝では精霊でなく自然物・現象そのものを崇拝対象とする(自然と超自然的存在を区別しない)場合も多く、またしばしば特定の自然物・現象だけを尊重する点で区別される。ー

自然崇拝 - Wikipediaより

 

さうして自然は現存在に取り神たり得るものながら其の自然其のもの若しくは自然から派生したところでの「神」と例えばキリスト教イスラーム教に於ける「神」とはまた別物です。

でもってして最も重要な点は現存在を救う力を有して居るのは創唱宗教の側であると云う点でせう。

 

其れも此処まで複雑化した近現代の文明に浸かり込んだ現存在を救うよすがとなるものは其の創唱宗教の側でしかあり得ない。

ですが文明を全否定し山の中にでも独り籠り其処で「オレは壱animistだ」などと宣言し創唱宗教其れ自體を否定し生きることなどが悪いと云うことでもまたありません。

 

まあわたくしも出来るのであればさうしても良いのですが結局は出来ないので壱佛教徒だとさう名乗って居るのです。

 

 

問題は此の複雑に社會化された文明の只中に生きる現存在に取りどんな宗教が必要かと言えばもはや其れは創唱宗教でしかあり得ません。

要するに此処日本で言えば「神道」の如き壱種の自然崇拝的な宗教が日本人の心のあり方を救えるかと言えば明らかに其処にはそんな力は無いのです。

 

ですので「神道」でもって個個としての生きる上での苦悩が解消される訳では無い。

但し神社の杜などはまた素晴らしい処でありまた「神道」としての日本が歩んで来た道のりもまた否定されるべきものでは元より無い。

 

なんですが其の「神道」にはまた「現世利益」的な側面が大きく拡がって居る。

故に戦後神道では個個による神社詣でが継続されて居るが其処にて願って居ることは「生きる上での苦悩の解決」なのでは無くつまりは「学業成就」であり「縁結び」です。

 

では何故其処では現存在を救済する力には欠けるのかと云うことに就きまた以下にて少し考えてみましたので読んでみて下さい。

 

中田考 - Wikipedia

ウラマー - Wikipedia

ところで此の中田と云う同世代の學者がモロイスラーム主義者でもってかうしてまた色色とカルトチックなことを言うて居ります。ー

 

 

 

さてそも此の悩み多き現存在をむしろ救済しないのが、

 

1.現世利益

2.偶像崇拝

 

との宗教的な立場のことだらう。

 

 

偶像崇拝 - Wikipedia

 

ー元々、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。

また、原始仏教は宗教的側面もあったが、四諦十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的側面の方がより強かったという理由も挙げられる。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。

しかし、釈迦が入滅し時代を経ると、仏の教えを伝えるために図画化していくことになる。

仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹仏舎利など、形がある物を礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹台座などによってその存在が暗示されるのみであった。ー仏像 - Wikipediaより

 

そも其の御釈迦様が説かれた佛法の教えは非常に哲學的要素が色濃く出た要するに哲學的な思想の類であり当初は宗教とはまた違ったものであった可能性が高くある。

さうして御釈迦様は兎に角物事を「深く考える」タイプの方で要するに其の「考えること」ことこそが得意であらせられた可能性が高くある。

 

でもってして我などもまた其の「考えること」だけが得意なのだった。

ですので其の「考えること」のレヴェルはまた違うにせよとりあえず其処では精神の向きがまさに相似形となって居ます。

 

なので何となく分かるのです。

御釈迦様が此の世で壱體何をされたかったのかと云うことが「感じ」として分かります。

 

そこで其の「感じ」の中であえて話を致しますれば「現世利益」や「偶像崇拝」と云った側面はあくまで世俗的感覚に刺し貫かれたものであり無論のこと人間を苦から解放するが為の「眞理」とはまるで関係の無い要素です。

よってつまりは其の「現世利益」や「偶像崇拝」はあくまで「無明」の為せる業なのでありむしろほとんど救済に對し意味を成さぬ俗世界での認識のことであるに過ぎません。

 

さてでは例えば神社にて願を掛けて「高校や大學が受かりますやうに」だとかまた「良縁が授かりますやうに」だとかさらに「仕事が上手く行き部長になれますやうに」などと御利益を期待することは悪いことなのか?

其れは習俗慣習上のこととすればむしろ悪いことでは無いがあくまで佛教徒とすれば意味の無いことでせう。

 

でもわたくしは時折氏神様などに行方不明になった🐈達が安らかに死ねるやうに願を掛けたりも實は致します。

氏神様とは土地の神様のことなので其の不明の🐈の運命なども御存じなのだと思うからだ。

 

 

ですが其のこともまた佛法上はどんな意味も無いことです。

要するに眞理に對してはどんな効力も持ちませんのです。

 

ところが教祖を祀り上げるやうな邪教の中で其の教祖を拝んだりまた自分が幹部となり偉さうにして居ることはもっと其れよりもタチが悪く其れ即ち謗法以外の何ものでも無い。

では果たしてどうすれば良いのでせう?

 

「現世利益」や「偶像崇拝」があくまで「無明」の為せる業であり無意味な行為であるのならば果たして何をすれば良いのでせう?

人により違うかもしれませんが兎に角わたくしの場合は徹底的に哲學や宗教の分野を勉強して参ったことだけは確かなことです。

 

要するに其れは得意だったからさう出来たことでした。

逆にみんなでもってワイワイ樂しくやることが我にとってはまるで樂しくは無いことでした。

 

わたくしには其のやうに内面に沈潜した侭に眞理探究をすることだけが向いて居たのです。

またより正確には文才も無く従って小説家にもなれません。

 

其れに「詩」の方が向いて居て其れならば何とか書けますが其れも難解なものが多いので余り壱般性は無いものと思われる。

 

だけれども四拾を過ぎてからは其の「詩」よりも思想的側面、哲學的な論理構築の側面の方が次第に強くなって参った。

なので要するにソコのみが得意であり従って死ぬ迄ソレだけを此処に書き続けることなどもまた可能である。

 

 

なんですが其れではみんながもうイヤになっちゃいます。

でもって僕自身の頭の偏執度の方もまた進みさうですので是非其れは止めて置くべきでせう。

 

ですので其の「現世利益」や「偶像崇拝」は眞理レヴェルでの精神的探究に取ってはむしろ其れを邪魔をするだけのものです。

要するに現世に對する「願い」が「此の世」に向くこと自體が救済を目的とする宗教としては見合ったものでは無い訳だ。

 

どだい「此の世」が良いのならまだしも理窟的には分かるが其の逆にそも「此の世」が悪いのに何でそんな願掛けなどが出来るのでせう?

其れも氏神様に御参りするレヴェルのことでしたらまだ分かりますが佛法として其れを行うとなればまさに其れは謗法です。

 

要するに其処には其のやうな価値観の上での倒錯がある訳だ。

ですが此の世が全て悪いのなら破壊しちゃえば良いではないか?

 

だからさうして短絡的に其処に向かうのが其れこそ邪教としての論理でせう。

さうでは無く其の基本的に「悪い此の世」の中に「良い此の世」を発見して行くことこそが宗教の意義なのだ。

 

 

すると其の「良い此の世」を発見することに對し「現世利益」や「偶像崇拝」は要らないのですね?

あくまで眞理探究のレヴェルに置いては要りません。

 

じゃあ墓も佛壇もまた御経の類も全部が要らないの?

まあ君が佛陀とまでは言わずとも声聞、縁覚級の知性の持ち主であるならばハッキリ申せば要らぬ筈だ。

 

但し御経はヤッパリ知性に取っては思考の方向性を与えて呉れる偉大なる言語領域です。

尤も御経が無くても其の御経の内容を直観することなどもまた現存在に取り可能なことなのだが。

 

では墓も佛壇も全部捨てても良いと?

まあ眞理探究のレヴェルではまさにさうだ。

 

例えばキリスト教イスラーム教などの壱神教に於いては「現世利益」や「偶像崇拝」は求めて居りませんがとりあえず其れは正しい教えの内容でせう。

でも佛法の場合も原始佛教の段階ではまさにさうだったのです。

 

つまりは其の後其れが不純化して行き「現世利益」や「偶像崇拝」、其れに中國にて儒教に於ける慣習的要素が取り込まれ「先祖供養」が佛法の対象となって行った訳だ。

またキリスト教にせよ特にカトリックはイエス様の像やマリア様の像を拝んだりもするがまあ其処もまた潔癖に言えば不純化の流れでのものでせう。

 

ですが其のカトリックにせよ大乗以前の初期佛教にせよ滅茶苦茶に歴史が長いですから其処はまさにどうにもならんことでもまたあります。

 

 

對してプロテスタントや大乗佛教の立場が絶対に正しいとはまた言えないんです。

個人的には原始佛教と初期のキリスト教の流れは矢張りより潔癖な宗教的思想を持って居るものとさう判断致します。

 

じゃあ壱體何が正しいのですか?

だから其れを判断する為には宗教に関する御勉強を重ね兎に角其れの良いところを見詰めて行く他はありません。

 

要するに現存在が此の世に生んだ宗教其れ自體がまるで不完全なものです。

でも神や佛は完璧な存在なのでせう?

 

其の神や佛が完璧であるのだとしてもかうして濁世にて揉まれてぐちゃぐちゃにされますと次第に違うものになって仕舞う虞を常に此の世は孕んで居ます。

なんだけれども「現世利益」や「偶像崇拝」、また「先祖供養」などはまた眞理探究とは別物だとさう考えて置く方があくまで観念的には宜しからう。

 

じゃあ其れ全部止めてイイの?

まあ君に其の止める勇気及び知性があるのならば。

 

 

でもって宗教詩人さんは壱體何がしたいの、何を此の世に求めてるの?

まあ良い石が欲しくまた良い筆記具が欲しいなあ。

 

まさに其れが「現世利益」ではないか!

まあ御寺や教會でもって像を拝んで来たいなあ。

 

まさに其れが「偶像崇拝」ではないか!!

其れと御墓の掃除を年に壱回は最低やらないとね。

 

まさに其れが「先祖供養」ではないか!!!

そもアンタは壱體何を考えてるのだ、かうして其れがイカンと言いながら何故あえて其れをやるのだ?

 

だからまさに其れが「風狂の禅者」としての境地ですよ。

 

 

なる程、だから宗教詩人さんはいつも神社詣ではするわまた教會の周りもうろつくわ、さらに御寺巡りをしさうして佛像に拝みまくっても居るのだな。

どだい我には現象界はすでに絶対的なものでは無く其の時時での謂わば移ろいゆくものでしかない。

 

かと言って「絶対的」なものを否定してかかる訳でもまた無い。

 

絶対的⇔相対的

 

むしろ此の対立関係を重視して居てまさに其れが人間の認識だとさう肯定するのだ。

 

すると其の人間であることを続けたいの?

いや出来れば植物にでも生まれ変わりたい。

 

要するにもう人間だけはイヤだ。

なる程、すると原始佛法と所謂アニミズムの世界観が混ざったやうなそんな感じなのですか?

 

まあ其れと「風狂の禅者」もまた混じることかと思うのだが…。

 

何だか良く分かんない。

他ならぬ我もまた確かにさう思う、良く分からん。

 

 

 

高野山奥の院 不動明王像

 

尚あえて佛像のことを語れば個人的には密教関係での像が如何にもカルトチックでもって以前から好きである。

要するに其の靑い神の部類の像が好みなのだ。

 

金峯山寺 秘仏 金剛蔵王権現

 

木霊の森 金峯山寺と秘仏、金剛蔵王権現 (fc2.com)

写真がメインのブログです : 吉野山 金峯山寺 蔵王堂 秘仏本尊 特別ご開帳に行って来ました。 (livedoor.jp)

 

兎に角其の靑い像が良いのだ。

此の金剛蔵王権現などもまた是非観てみたい像ではある。

 

印度神画丨Kali 丨雪山神女降魔相 湿婆神妃黑迦梨 - 每日头条 (kknews.cc)

カーリー - Wikipedia

 

印度の神でも此のカーリーなどはまさに過激な靑い👩神である。

其れも此処までグロテスクだともうほとんど恐怖SF映画の域のものだらう。

 

 

だが以前は奈良中宮寺の「菩薩半跏思惟像」が好きで四半世紀前位に奈良を訪れた時にじっくりと向き合って来たがまさに素晴らしい菩薩 - Wikipedia像である。

 

本尊 - 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ (chuguji.jp)

国宝 菩薩半跏思惟像(伝 如意輪観音)=飛鳥時代、7世紀。奈良・中宮寺、撮影・佐々木香輔 写真|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)

中宮寺 國寶- Wikipedia

 

尚我は其の菩薩では無く声聞 - Wikipedia縁覚 - Wikipediaとしての資質が基本的におそらくは強くある。

でも勿論其処まではまた行き切れて居ない。

何故ならかうして常に煩悩まみれなもので…。

 

だが其の思惟すると云うことはまさに「考える」ことだ。

かのオーギュスト・ロダンにもまた考える人 (ロダン) - Wikipediaと云う作品があるが其処は矢張り洋の東西を問わずに現存在は常に考えて居なければバカになるのではないか。

 

宗教は逆に往往にして「思考停止」を齎す虞すらもがまたある。

だが眞の意味での宗教とは必然として其のやうに自分自身にて「考える」ものだ。

 

でもってさうして考えた挙句に「現世利益」や「偶像崇拝」、また「先祖供養」を捨て去るのであればまた其れも壱つの大いなる決断なのだ。

 

 

でもアンタの佛法はどうもオカシイ!

いや君の信ずる佛法こそがそもオカシイ。

 

アンタは結局さうして佛壇も墓も否定しおまけに先祖も敬わずもうどう考えてもお前はキリスト教徒でありイスラーム主義者だらう!!

いや其れともまた違うねえ。

 

僕の佛法はね、畢竟其の「考える」佛法でありむしろ御釈迦様の生まれ持った性質により近いであらう佛法のことだ。

またまた始まったぞ、其れも宗教詩人の悪い癖が。

 

さうして自分を佛陀に並べたな、此の謗法者めが!!

さうじゃあ無い、我はむしろ維摩居士 - Wikipediaのやうな天邪鬼なのさ。

 

 

ーそのときの問答は有名である。文殊が「菩薩云何通達佛道(どうしたら仏道を成ずることができるか)」と問うと、維摩は「若菩薩行於非道、是為通達佛道(非道[注 1]を行ぜよ[注 2])」と答えた。次に文殊が「云何菩薩行於非道(菩薩は非道をどのように行ずるのか)」と問うと、維摩は「若菩薩行五無間而無惱恚(もし菩薩、五無間[注 3]を行ずれども、悩恚[注 4]無し)」「示有妻妾采女而常遠離五欲淤泥(妻妾、采女[注 5]有ることを示せども、常に五欲[注 6]の汚泥を遠離す)」等と答える。彼の真意は「非道を行じているように見えても、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。

大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。ー維摩居士 - Wikipediaより

 

なる程、するとかの壱休禅師は其の維摩詰の考えに大きく影響を受けて居たのだらう。

 

名著66 「維摩経」:100分 de 名著 (nhk.or.jp)

NHKオンデマンド 100分de名著 維摩経 (nhk-ondemand.jp)

 

オンデマンドで探してみたらかうしてアッサリと出て来た。

早速またコレを視ねばなるまい。

尚此の講座でのゲストはかの釈 徹宗 - Wikipedia氏である。

 

 

国訳解説 維摩経 (tubamedou.egoism.jp)

 

其の維摩経は昔本で読んだ覚えがあるが兎に角難解且つ訳の分からぬ論理が其処には展開されて居るのでそも変わった方方には是非御勧めの御経である。

だが常識人が此れを読むと脳細胞が破壊される虞すらもがまたある。

 

常識人はむしろ此れを読まぬ方が良いことだらう。

其の常識人とは、「現世利益」や「偶像崇拝」、また「先祖供養」を大事にしつつ佛法を生きるまさにまっとうな日本の佛教徒の方方のことである。ー勿論皮肉を込めた上でコレを述べて居りますー

 

 

ー佛法は創唱宗教として現存在としての認識のあり方を変えて行かうとする教えのことである。何故其の個個としての認識其れ自體を変える必要があるかと言えば其の認識其れ自體に錯誤(虚妄性と罪障)がそもあるので其の侭の認識では絶対に救われないからなのだ。また其のことは例えば「~経」を學び且つ信じて居るから救われると云うものでもまた無い。あくまで認識其のものを変えないと決して成佛などはしない。また其のことは現存在の認識其れ自體を神の認識に壱致させんが為の壱神教に於ける認識上の変革とある意味では重なることなのだ。

但し不純化した大乗教説では其の認識上の革命を説かずむしろ神の如き佛や神の如き原理との同壱化をまずは図る訳なのでありでも其れは構造的には壱神教化して居りにも関わらず次第次第に「現世利益」や「偶像崇拝」的な要素が高まりさらに中國の儒教文化の影響から「先祖供養」を大事にする佛法へと変わって行った訳だ。但し其処での根本的な問題とは「現存在は認識を変えて行かないと救われない」と云うまさに眞理の部分を反故にして歩む大乗各宗派が其の壱番むしろ肝心な「救済」の部分の本質的意義を見失って仕舞ったことにこそ存して居る。なのでまさに其の意味に於いてはキリスト教イスラーム教はまた壱種過激ともなり得るがあくまで其れは「現存在を救済」せんが為の宗教の形を保つ。

要するに其処では「創唱宗教」が「自然宗教」化などしては金輪際ならぬのである。尚禅宗の認識はかってはさうして壱種過激なものであったが禅僧はとりあえずは良く良く考え抜いた上で其の宗教的な立場を決めて居る訳だ。其れもまた壱休禅師の如き謗法の如き行いも其れは理論的に考え抜かれた上での行為である。でもってして何が悪いかと言えば考えぬ奴ほど悪い奴は現存在には居ない。まさに其れぞ人非人だ。人非人はもういっそのこと死んでお呉れ。いやチョット過激に言い過ぎたな、人非人はもういっそのことキリスト教徒やイスラーム教徒へと宗旨替えすべきだ!サア、みんなでもって是非コレから救われて行かうではないか!!…でも會社が。バカ、會社なんぞは河童の屁だ。サア、みんなでもってコレから會社つまりは社會に反抗したれ!ー

 

でもなんか仰って居ることが極端化して居ますよ。

さう、僕の眞理理解はさうして壱種極端なの、其れも両極端の価値の同時理解と云うことですので至極分かり辛い訳ですね。

 

さて僕は今夜其の「維摩経講座」と大格闘してみます。

何故なら僕に取っての眞理とは社會活動でもまた佛像崇拝でも無くあくまで「論理的理解」か又は「脱論理的理解」にこそあるのだからして。