仰る通りに詩は下らぬものですー尊敬して止まぬ谷川 俊太郎先生の詩の世界ー
巨大ヘビが54歳女性を“丸飲み” インドネシア (tv-asahi.co.jp)
まさに感覚的、精神的にインパクトのある過激なニュースだ!
キンクミが明かした中学時代、ツアー会場で樋口久子氏に叱られた過去「あなたの目の周り、真っ黒よ」 (msn.com)
四半世紀程前に天白ゴルフセンター ~名古屋市天白区のゴルフ練習場~ (tempaku-golf.co.jp)へ練習に出向くと夕方位にいつもBMWにて子供を連れて来る母ちゃんが居たのである。ー其れもほぼ毎日ー
其の子が成長し金田久美子 - Wikipediaと云う女子プロゴルファーとなった。
此の金田プロは結構やんちゃでもって有名なようだ。
天白ゴルフセンター(名古屋)|名古屋市内ゴルフ「打ちっぱなし練習場」 » とおくへ (tokuhe.com)
だが此処の練習場は瑞穂区内のセレブも通うあくまで良い練習場でもって何より空気が良く其れに静かで兎に角立地環境が良い。-相生山の中にある-
さて本日午前中にたまたま高校講座の國語を視てみたら其処には何とアノ谷川 俊太郎氏が出演されて居たのだった。
NHK高校講座 | ベーシック国語 | 第26回 文学史 ~谷川俊太郎~
さて以前現代詩手帖のとある号「現代詩手帖バックナンバー一覧(shichosha.co.jp)」の方でとある詩人が谷川 俊太郎の詩だけは苦手だとさう述べて居る記事を読んだことがあったが其の折に何となく分からんでもないと自身は思いましたものです。
谷川 俊太郎先生の詩の世界乃至は同氏の哲學の世界は實は著しく偏向しており元元まるで壱般性のあるものでは無いと思われるからだ。
にも関わらず谷川 俊太郎の詩は壱般受けするものであり要するに人気があります。
まずはわたくしには其れが何故さうなるのかと云うことがそも分からない。
つまりはそんな「誤解」の中にこそ谷川 俊太郎氏の詩としての本質部が宿るのではないかとさうも思うのです。
其の「誤解」こそが幻惑であり其れこそ壱種の「騙しの手」なのだが其れを「騙しの手」としてはむしろ詩の作者である本人が意図しては居ないと云う点で谷川 俊太郎はむしろ「向日的」な詩人である。
よって結果としては欺瞞化しかねぬ「向日性」がむしろ読者をしてさうして惹き付けているのです。
だけれども詩は厭世文學とはまた違い基本的には「生への讃歌」であるべきものでせう。
其の「生への讃歌」を謳い切るには其の種の「騙しとしての屈折的な手練手管」のやうなものが何処かにありませんともはや其れが出来なくもなりませう。
「生への讃歌」即ち其のバカっぽい讃美の詩の類が我は基本的に嫌いながら結果としては今我が指向するものとは厭世文學では無く谷川 俊太郎先生のやうな屈折度其のものでの詩の世界です。
つまりはそんな屈折度のある「生への讃歌」のことだ。
但し勘違いをしてはならない。
谷川先生の作品は常に生の両側面に於いて開かれて居ます。
即ち「生への讃歌」を謳い切るには「生への絶望」をもまた謳い切らねばなりません、
「うんこ」谷川俊太郎 | さんにゴリラのらぶれたあ (ameblo.jp)
日々嘉綴 総合 : 谷川俊太郎「なんでもおまんこ」 (mediapicnic.com)
大宇宙の孤独のことのみならずかうして何でも詩の題材としてイク詩人ですので其れこそがまさに天才詩人である由縁である。
つまるところ其の天才にとっては大宇宙とウンコ、マンコがかうしてほぼ同列に認識されて居る訳だ。
其れは丁度かの壱休禅師に取っては愛欲の世界が即悟りの世界に連なる認識のやうなもので要するに概念的な価値分別の上での「区別」などもはやなされて居ないのだ。
まさに其の序列的な価値ヒエラルキー其れ自體を其処に粉砕して居るのである。
でもって僕自身の認識の方向性もまた其の「無分別」的な方向へと何故か次第に傾きつつある。
谷川俊太郎の詩が、意外に哲学的なことを知りました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2750)】 « 榎戸誠の情熱的読書のすすめ (enokidoblog.net)
尚谷川 俊太郎氏の詩がそんな「意外に」哲學的な訳では無くむしろ「徹頭徹尾に」其れは哲學的な詩の世界のものなのです。
「詩はくだらないもの」詩人・谷川俊太郎が切り開いた詩の世界 | DMM英会話ブログ
畢竟「詩」もまた言語表現ですから其処では言語としての限界性を常に突き付けられて居る。
ですので難しげな詩の理論や日常を離れたかのやうな詩的な表現、また其処に展開される絢爛たるイメージによる事物への美化は其れこそ本質的には「下らないもの」であるに過ぎません。
また例えば佛陀の教説なども当初は韻文による詩の形にて表されて居ました。
其の「眞理」としての言葉でさえもが言語内の謂わば矛盾的認識により捉えられるものです。
故に眞の意味での「眞理」とは本質的にはむしろ「語り得ぬ」ものとならざるを得ない。
要するに「~経」を具に學び理解し切ったので佛法の本質部を掴んだと云うものでもまた無い。
だけれども言語表現にもまた壱つの可能性はあるものと思われる。
但し其の可能性は常に事の「両面」を見据えることで拓かれるものではなからうか。
谷川氏の其の言語による意味規定以前での「有」を指向する詩のあり方はまさに「詩」其のものだとさう言えるやうな気が致します。
さうして「詩」は其処に有るのだが其れは分別以前での何か本質的な場に生じており其れを意味分別の世界からみんなは見詰めるのでむしろ其れが分からなくなるのです。
對して詩人はまさに其れを直に感じ取ることが出来る。
まあ其の詩人にもまた色色とありませうが少なくとも「ウンコ」を詩的に表現出来る詩人にとっては其の位のことはむしろ朝飯前のことだ。
では僕が其のウンコの詩を書くかどうかと云うことになればあえて其れはせず何故ならむしろかうして毎回ウンコだ、肥溜めだーと叫んで来て居るので別にあえて詩としての形で書かなくても良いのだと思われるからだ。
でも壱つだけ僕からの意見として言わせて頂きますと、
1.言語は価値ヒエラルキーの構築の場であり、其の価値ヒエラルキーを讃える言葉は本質的には詩では無いこと
2.詩とは言語認識以前での實感でこそあること
などとまた如何にも詩の世界が分かったかのやうなことを其の不完全な言語にて記して置くより他は無い。
尚上にて詩人は「詩は音樂のやうなものだ」とさう述べて居られるが我の場合は其れに加えて「絵画」のやうなものでもまたあるのだと思う。
音樂は流れるものなので時間的な経過が其処にはあるが絵画はもっと瞬間的にパッと分かるものですね。
故に「絵画」のやうな詩がもしも書けたら最高だなと個人的には思います。
其のやうに「詩」は藝術表現の壱手段であり其処はまた小説などとは別箇の領域での言語としての表現形式です。
尤も詩的な散文表現と云うものもまた常に成立し得るものだとは思われるのですが。
さらに谷川氏は「言葉は他者だ」とのまさに意味深な御発言を上にてされて居ります。
其の「他者としての言葉」でもってして「自己表現」が可能なのかどうかは考えてみればまさに矛盾でもってして悩んで仕舞う部分です。
なのですが詩を書こうとする時にイチイチ悩んでは居られないと言いますか其れこそパッと頭に浮かんだものを其の侭に書き留める訳ですのでつまりは詩もまた其の矛盾により突き動かされる=創造物なのだ。
左様に創造の本質とはまさに矛盾です。
其の矛盾からこそ音樂がまた絵画が生まれるが詩もまた其れ等の仲間入りを果たす為にはより純粋化する必要があるのだと個人的には考えます。
即ちむしろ上辺だけの言葉=美辞麗句を「捨て去って」こそまことの言葉が其処に「生まれる」のです。
要するにもっと「感ずる」方向性にて言語領域もまた捉えて行くべきだらう。
但し其れは概念を概念としてやり切った上での概念的「放棄」である。
だから其れは幼稚園児や🐵などの認識とは本質として異なるものだ。
其れも丁度かの壱休禅師が「👩に触るな」と云う戒が佛道修行にはあるにも関わらず「👩に触った」かのやうに。
尚藝術とは其のやうな壱種の離れ業を要求されるものですので個人的にはあくまで其れが万人に向いたものであるなどとはまるで思ってはおりません。
故に藝術とはあくまで其の特殊な精神領域でのものです。
但し其の作品は常に万人に對し開かれたものである。
其の「感ずる」方向性とは感覚をより研ぎ澄ませ其れこそ感覚の次元が昇華されたやうなもので其のことを壱般には「直観」=無分別智と呼びます。
「直観」には価値ヒエラルキーによる価値の序列がそも含まれて居らずよってパッと事の全體像が把握されます。
でも其の能力はおそらくは生まれついてでの部分が大きいことでせう。
もしも常識人がそちらでの認識の方向性を模索するのであれば、むしろ常識により築かれて居る其の堅固な「価値分別」の檻を意図的に崩して行く=脱構築することでしか為し得ないことでせう。
ですのでまさに其のことが藝術の分野であれまた佛法の分野であれ全く同じことなのです。
自分の中に毒を持て|青春出版社 (seishun.co.jp)
さてかって美術の方で大きく活躍された岡本 太郎氏がこんな本を出されて居ますが面白さうですのでまた是非我も読みたいところです。
此の岡本 太郎 - Wikipedia氏こそが典型的な意味での「両極ぶつかり合い型」での藝術家だったのだと個人的には考える。
尤も藝術家の内面はほとんどが其の「両極ぶつかり合い型」であり従って要するに個として其の度合いがより多いか少ないかと云うことです。
其の岡本 太郎氏の藝術は其れこそ其のぶつかり合いが激しくて「爆発」までも至って居た訳だ。
尚わたくしもまた屡小噴火だけは繰り返して居るのですが大爆発は自分でも怖いー事實上こんな意気地なしの弱虫でありーのでむしろやらないやうにして来て居ます。ー其れもやれと言われればやりませう、ソレもドッカア~~~~~ンと。ー
尚岡本 太郎氏の藝術作品は我に取り分かり易くて従って大好きです。
1.藝術とは壱種の価値の脱構築装置のこと
2.藝術的気質とは難解さと平易さ、爆発と平静、美と醜などの対置される概念的分離認識への強い親和性にこそあること
さうして其処では最終的に知性ー理性ーと本能ー感性ーが対置される状況がより拡大された形にて自我に提供される。
理性ー知性ー⇔本能ー感性ー
つまるところは藝術家の内面世界に於いては其の分離する要素が「不即不離」 (jitenon.jp)のものとしてさう實感される。
何だか難しさうな話だなあ。
實際にこと藝術家の内面とは極めて難しいものです。
だから其の難しい部分を、まさに其れが何でそんなんなりますかと云うことを此の尾張の壱詩人がたった今理論的に解明して居るのです。
なる程、さうか。
なので藝術家は壱歩間違うと滅茶苦茶をやり揚句には灯油をかぶり自決したりもまたするのか。
さうなんです、要するにゲージツとキチガイとは常に紙一重なんだ。
でもゲージツは常に美しいですが果たして其れは何ででせう?
まあ其れがまさに文化力、即ち美化能力のことでせう。
ところでかって谷川先生は『鳥羽』の連作でもって其の詩言語による「美化」の無意味性を極限まで暴き出されて居たものでした。
故に『鳥羽』はたとえ詩人であれ合う、合わないがハッキリと別れる作品となった。
ちなみに我の場合は其の合う、合わないは抜きにして凄い作品だとさう思って居ます。
谷川俊太郎「旅」 - My Library (goo.ne.jp)
日本の詩人の作品ではまさに此の頃の谷川 俊太郎氏の作品が最も心に響いたものでした。
さうして書くことが何も無いのに詩人は其処に居る。
さうして私さえもが不要になった詩人は言葉をむしろ邪魔にさえ感ずる。
さうして自然の内側に宿る詩が詩人には其の侭にもはや書けない。
其れも美化としての言語表現が其の美其のものに達することを妨害してさえ居る。
とどのつまりは其の詩人の沈黙の様しかもはや書けない訳だ。
さうして見える通りに感ずるなら美は現前し、見える通りに書けば時は止まると云うのに。
谷川俊太郎の“スゴい”詩7選 - kafuka1953’s diary (hatenadiary.jp)
こちらでの壱番最後のところにデタッチメント - Wikipediaの詩人だと谷川氏御自身が述べて居られる旨が書かれて居ます。
ーデタッチメント(英: Detachment)とは、 ノンアタッチメント(英: Non-attachment)ともされ、ヒトが世界における物事、人物、価値観などへの愛着欲求を克服し、それによってより高い視点を獲得するという概念である。
仏教、ジャイナ教、ストア派、道教などにおいては、デタッチメントは欲望から解放され、それ故に苦しみから解脱するという、重要な原理及び理想として示されている。
これと反対の概念は、アタッチメント(attachment)である。アタッチメントであることは、デタッチメントを実践・包容できない状態であり、これは穏やかで充実した生活を送ることの主な障害と見なされている。
その他多くのスピリチュアルな伝統では、デタッチメントが欠如した状態を、欲求と個人的野心を源とする、絶え間ない心配事と安定の欠如とみなしている。ーデタッチメント - Wikipediaより
即ち其処にて谷川先生による『鳥羽』や『旅』と云った連作でのデタッチメントこそがまずは「表現は美其のものを規定し得ぬこと」=詩としてのウソを書かざるを得ぬこと、と云うまさに根源的に提起されるであらう詩の藝術としての矛盾であり葛藤の部分より齎されたものであったことが明らかになるのであります。
尚谷川 俊太郎先生はまさに其のことを藝術表現としての詩の領域に於いて成し遂げられたのであります。
でも何か谷川 俊太郎の詩がピンと来ない感じを持つ方方は壱般人と詩人の区別が無く居られることかと思う。
其れは何でかと申せば要するに以上のやうに彼が問題提起する詩としての本質的表現其のものの話がまずはややこしいのでまさに詩人であれ其の本質的意味がまるで分からんやうになる訳です。
つまりは難解の方の度が極めて高い詩人なのです。
にも関わらずさうして👩子供にも實は親しまれて居る詩人さんであり要するに詩人としてメジャーな地位を固めた方でありみんなが大丈夫だと思いつつ其の詩に触れるのだが其れもイザ其の詩の意味を深く穿ればもうとんでもなく難解な詩ばかりである。
なので全然大丈夫なのでは無い!!
其れもまあ脱構築 - Wikipediaと言っても良い位に話が難しいのでソコを騙されて気軽に付き合うとむしろ常識人に取りヤバい詩人さんなのだ。
ですが『なんでもおまんこ』風の詩位なら或は自分も書けるのやもしれません。
いやすでに此処でも其れに近い記事を書きましたのです。ー其れも結構読まれて居た記事でしたがー
「なんでもうんこ」と「なんでもあそこ」位の詩ならばむしろ壱番得意な分野の御話なので今から其れを書けと言われるならば我は其の通りに書いても宜しゅう御座る。
でもって其の僕の話の内容に高尚な論理と下品な下ネタが混在すること自體が實は僕が大詩人であることの証左なのだ。
ちなみに其の谷川 俊太郎先生がお持ちになる「天才的」文才は此処尾張の哲學的天才気質が齎したものであることなどもまた明らかなことです。
何故なら谷川 俊太郎先生の父君の谷川 徹三氏はかうして尾張人です。
かうして其の尾張にはまた天才が出易く或は我などもまたさうではないかとさう思われますがでも其れだけはチョット違う可能性もまたあります。
何故ならわたくしはもう其の天才などはどうでも良いから見える通りに感じまた其の通りに何かを書くことで此の世に其れを遺したいだけなのだから。
無論のこと散文の場合もまた其の全てが我が藝術作品でありだからまさか貴方方は其れを読み飛ばして居ては決してならない。
尚此処での内容が壱種おバカ化したのは其の「脱構築」=「デタッチメント」での精神の流れが次第に我が表現に混ざって来たからのことであるに過ぎない。
其れにつけてもはあー、何だか疲れた。
ー藝術を語ることは政治を語ることよりも疲れる、何故なら政治家はバカ、バカとさう言って置けば其れで良いのだがこと藝術はまさに本気での精神的格闘なので其れを論ずるだけでかうしてとても疲れるのだ。ー
其処でもって今夜はチョイと壱杯、では無くチョイとプライム・ヴィデオでのB級SF映画の観賞などでせう。
宝だから 谷川俊太郎
ほんとに大事なものはあるだけでいい
ほんとに大切なヒトはいるだけでいい
何でも誰でもあることいることで始まっている
朝 空がある 曇っていても晴れていても
昼 友だちがいる 気が合っても合わなくても
夜 働く人がいる 君が夢を見ている間に
たまには人間やめてもいいんじゃないか
キノコになって森にいてみる
クラゲになって海にいてみる
コトバになって意味やめてみる
声になってアンナプルナを呼んでみる
自分にもどってぼんやりしてみる
生きてれば毎日毎時が宝だから
目も耳も口も鼻も手足も忙しい
シニカルな大爆笑も宝石みたいに輝いて
さうして有るだけでイイ。
また居るだけでイイ。
そんな境地にこそ確かに至りたいのです。
またさうして朝と夜と昼が交互に訪れるだけでイイ。
そんな境地にこそ確かに至りたいのです。
かうして有るだけでイイ、居るだけでイイ。
だが現存在の社會には何故其の理が壱向に分からぬのだらう?
其の意味の無い今、其の意味の無い言葉の羅列。
まさにそんなものこそが眞の意味での💎なのやもしれない。アンナプルナ - Wikipedia