目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ。

南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ

 

 

 

 

そして、この時代に誕生した新興宗教の特徴は、現世利益追求型にある。死後、極楽や天国に行けるように功徳を積むというより、むしろ自己開発セミナーに近く、現世の幸福を得るためにどうしたらよいのか、その追求に勤しみ、そこに大量消費社会の浸透が加わって、その対価を支払うことによって、効能を得ようとする。

 

むしろ詐欺的手法が認められるのであれば、そこを明確化して丁寧な言葉で法律に盛り込み、信条の自由とは切り離した議論をすべきはずだ。

さらに問題は詐取する側が宗教法人であるというところにある。これだけ金銭をだまし取られたと声の上がる組織が宗教法人として存立し、国から税制上の優遇を受けていることは、理解しがたい。私も法人格を剥奪する解散命令を急ぐべきだと考える1人だ。ー旧統一教会「マインドコントロール」救済案の危険 オウム真理教の裁判で否定されたものが登場 (msn.com)より

 

其の極楽も天國、また神の國も決して現世利益追求の世界観が形作るものでは無い。

況や「涅槃」に於いては「現世」其のものを手放すと云う現世不利益追求での最たるものだらう。

對する現代の思考は其れとはまさに正反対のものだ。

また其れは株式會社であれ宗教団體であれ👪関係であれもはや何でもさうである。

 

つまりは其の現代と云う時代其のものがこんな形での現世利益追求の世界観を形作って居る。

だがそんなんでは無論のこと地球は助からない。

其の地球を助けんが為に自分はこれからNHK高校講座 | 地学基礎を學ぶつもりである。

ー最近の理系の高校講座はまさにバカにならない。我我還暦世代が高校にて理科系の科目を勉強した其の内容とは大きく隔たりがあるやうに個人的には感ずる。要するに自然科学の各分野が総じて進歩したのである。ー

 

さうして地球が壊れて行くのは現存在自身がさうしてマインドコントロールされて居るからなのだ。

だが現存在自身には自分が洗脳されて居ることなど決して分かりはしない。

現存在はさうして厄介な現象でしか無い者等である。

 

地球を助ける為には實は宗教以上に物理的な限定こそが是非必要である。

物理的な限定⇔精神的な限定

其れも勘違いし易いのは宗教をやっていれば大丈夫かと思って居る人人が多いことかと思われるが其れはさうでは無い。

 

つまりは両面に亘りやらねば地球はもはや助かりはしない。

其れでもって自分は正しいとさう思い込みハロウィンの祭りなどをやるとさうしてみんなが圧し潰されて死ぬのである。

だったらそんな馬鹿騒ぎにホイホイと引き寄せられぬやうな理性を持つべきなのではなからうか。

 

ホイホイ、ホイホイとさうして引き付けられるまるで昆虫ーゴキブリーのやうなまたはケモノの如き人間共が今や巷間に溢れておる。

つまるところそいつらはもう人間じゃねえ。

 

だから例え宗教はやって居ても「疑う」ことを忘れてはならない。

何故なら「疑う」ことこそから「眞理探究」への道筋がまた拓けて来る。

かの岡本 太郎もまたソークラテースソクラテス - Wikipediaも兎に角此の世を疑いに疑いさうして藝術や哲學を構築して行って居る。

 

理性とはまさに其のやうに「疑う」ことだ。

考えに考えた上で其の結果として世の全てを疑う。

だから其れは其れで良い。

 

だが現代社會が抱える問題とはむしろ「考えず」、「疑わぬ」そんな心性を何時の間にかつくり上げて行ったことにこそあるのだ。

何故なら「考えず」、「疑わぬ」とさうしてバカな仮装行列にどうしても出たくなる。

でもって圧死した。

 

まさに其れは自業自得でのことなのだ。

ではみんなはもはや何故其れが分からぬのか?

其れは君等がすでに洗脳されまくって来て居るからなのだ。

 

其れは邪教としての現世利益主義がさうしからしめて居るのだ。

何でそんなことが分からぬのか。

其れも幼稚園児でもあるまいし。

 

君等の頭はすでにオカシイ!

まだしも🐈や🐕の方がずっとまともだ。

 

君等はもう虫になって居る。

或はケモノ其のものになり切って居る。

 

かうしてみんなでもってハロウィンをやり👿にでも化けやう!

いや君自身がむしろ其の👿其のものだらう。

全く人間では無い奴が多くて詩人は實に困る。

 

ああーばからし

もうアホ臭くてやってられないので古い歌でも是非鑑賞したい。

 

 

釈迦といふいたづらものが世にいでておほくの人をまよはすかな

 
編集
 
女をば法の御蔵と云うぞ実に釈迦も達磨もひょいひょいと生む


秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)


釈迦といふいたづらものが世にいでておほくの人をまよはすかな


南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ


世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
 

一休道歌

 
 
 
我にありと思う心を捨てよただ 身の浮雲の風にまかせて
 


世の中はまどろまで見る夢のうち 見てやおどろく人のはかなさ

 
 

何事もみないつわりの世なりけり 死ぬるというもまことならねば

 
 

はじめなく終わりもなきにわが心 生まれ死すると思うべからず



心とて実には心のなきものを 悟るはなにの悟りなるらん

 
 

悟らぬも悟りも同じ迷いなり 悟らぬ先を悟りとぞいう

 
 

覚めぬれば覚めぬ先こそ覚めつるに 覚めぬ心のなど夢ならん

 
 
心をば取ると思うな捨てもすな 取捨のふたつを無分別にて
 
 

生きば生きん死ななば死なんと思えただ その行き先は有無にまかせて     

 

現存在はすでにさうして「思考」其れ自體を自ら手放しつつある。

しかしながら其れはかってホセ・オルテガ・イ・ガセット - Wikipediaがまさにくどい程に述べて居たことだった。

 

其の大衆としての「無思考」と統治者の側での「無思考」がまさに今弐重に重なりつつ人間界を覆い尽くす。

其れは神じゃ佛じゃと云うレヴェルをすでに遥かに超えそもそもの其の現存在の存在理由にまで食い込んで行くことだらう大矛盾としてのあり様だ。

 

其の危険極まりない現存在の素としての姿。

其の餓鬼道の様、修羅道の様。

 

さうしてみんなでもって渡る赤信号の横断歩道程恐ろしいものはまた他には無いことだらう。

 

だが其の歌だけは言わば本物である。

 

 

世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり

生きば生きん死ななば死なんと思えただ その行き先は有無にまかせて

 

個人的には此の弐首が特に気に入りました。

 

世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ。

「世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ」|『一休宗純(一休さん)』の名言・格言|世界の名言・格言集「名コレ」 (meikore.net)より

 

どうやら元歌はこちらのやうだ。

其の糞、つまりはウンコのことを謳い込んだところがまさに素晴らしい。

但し人間は生きて居るうちに理性を磨き込むことだけは可能だ。

 

其の理性とは理系の科学とかそんなことばかりでは無く人文理性と云うものがまたあるのです。

其れを磨き込んで死ぬ人とみんなでもって圧し潰されて死ぬ人とはまた違います。

其れも知的なヒエラルキーのことばかりでは無く心のヒエラルキーのやうなものがまた全然違う。

 

例えば生命としての価値の捉え方などもまた壱義的にでは無く多義的に捉えて行くべきでせう。

要するに盲目性こそが人間の理性を貶める元凶です。

故に盲目的な人間であってはならない。

 

また其れは學問にせよ宗教にせよまたどんな社會関係にせよ全てがさうである。

とどのつまりは「気付いて」居るかどうかである。

「気付く」か又は「目覚める」と至極理性的に生きられるものだ。

 

なんだがまた多くの人間に取っては其の理性的な立場が築けぬものなのだ。

尤も個人的には其処に理性的な立場を築く秘訣がまたあるものと思う。

其れは事象及び事象に對する価値を「多義化」することです。

 

其れは「相対化」と云うことにもまた結果的には繋がるのであるが兎に角価値に對する壱方通行性を意図的に消す方が良い。

現代社會に於ける多くの価値はむしろ其の壱方通行其のものでのものです。

 

確かにかって「文化相対主義」が持て囃され価値観は多様化するかに見えたが結局はむしろ価値観の壱元化が文明により推進されて行く。

其の壱元化こそが文明の危険度をより増して行く訳です。

なのでむしろ其れに与せぬやうに生きることの意義は今後増増高まって行くことだらう。

 

でもってして前回の話では無いが大詩人の思想やかうして壱休禅師の思想を紐解き調べて行くとむしろ思い切りに其れ等は「デタッチメント」されて居る訳だ。

でも其のデタッチメント=脱構築なる概念は理系の科学者などにはおそらく理解されぬことだらう。

但し現在自然科学の最前線では生物學にせよまた天體物理学や宇宙論の分野にせよむしろ其のデタッチメントだらけになりつつあるのだとさう捉えてもあながち間違いではなさそうです。

 

個人的には其れは眞理が学問分野の垣根を越えて交わりつつあるのだとさう捉えて居る。

従ってあくまで個人的には学問分野に於いて「絶望」などはして居りません。

むしろ其処には大きく希望があるのではないだらうか。

 

けれども理系の科学者はくれぐれも「眞っしぐら」にはならぬ方が良いのだと思う。

だけれども地球を救う技術開発などには「眞っしぐら」の部分がどうしても必要であり其処はまさに難しい部分でせう。

 

世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ。

だから此の歌を常に頭の隅にでも置き「眞っしぐら」に技術開発していけば良いのです。

 

尚理系の學問はまた至極面白いものです。

ですので文系の方方は数式と化学式を無視した上で其れ等に是非接して行くべきでせう。

サア、何故かまた學ぶ気力が涌いて参りました。

 

其れでは今夜は高校講座での地學の御勉強がありますので此処らで失礼させて頂きます。

其の地學の御勉強の中では矢張りと言うべきか「岩石」の御勉強の部分が壱番樂しい訳だ。