核兵器にせよまた人口問題にせよまさに理性をもってして阻止せねばならぬ大問題である
「国民をバカにしている!」山際前経産相の党コロナ本部長就任に怒りの声 小沢一郎氏「もはや喜劇」 (msn.com)
何度も繰り返し申しますが其の「國民をバカにする」政党自由民主党を選んで来たのは國民自身です。
従って其の「バカ」とは日本のみんなであると云うこととなりませう。
わたくしの意見として少なくとも現存在は馬鹿ですと幸福にはなれぬのでたとえイヤでも御勉強を重ねませうとさう言うて来て居ります。
御勉強の癖が付けられぬやうな日本民族では御先はむしろ眞ッ暗だが御勉強を自ら進んでするやうな理性的な人人には自ずと良い選択=意思決定が可能となり未来は明るくなるとさう申して居るのであります。
人生の意義とは其の「御勉強をする」か其れとも「御勉強をしない」かに掛かって居ります。
「御勉強をする」からこそ初めて現存在は現存在たり得る即ち人間たり得るのだ。
尚野党は野党でまた政権担当能力の部分に限りまた問題だらけです。
但し日本の野党の問題点はまた其れ以前での日本の社會構造の特殊性からもまた齎されて居る。
即ち日本とはいまだ封建體制であり其れも👪主義での國家なのだ。
だから天皇や内閣総理大臣などがお父さんであり絶対的権威なのです。
いや其ればかりか社長さんだの学校長だのまた教祖だの、そんな組織ヒエラルキーのトップの人人は特権層であり其れは個とは異なるまさに冒してはならない上部構造で庶民は其の上部構造に跪き奴隷を続けて居なければならない。
だからあんなアベや🐊のアソーなどもまた日本のみんなにとっての御主人様であり其の御主人様が決めたことはたとえどんなに理不尽なことでも必ずや従ってやり遂げねばなりません。
即ちそんな縦系列での価値ヒエラルキー社會ですので其の不平等性はたとえどんなことがあっても解消致しません。
御主人様がお前の給料は拾萬だとさう言えば勿論拾萬しか我我は貰えません。
また御主人様が都合の良いやうに何かを書きかえたりまた例えば妾になれとさう仰れば其の通りに妾にならねばなりません。
其のやうに日本のみんなー大衆としてのみんなーの意志決定に於ける自立性、自律性は元元奪われて居るのです。
「和を以て貴しとなす」
おおまさに其れが或は裏目に出て居る可能性もまた高くあることでせう。
聖徳太子の「和をもって貴(とうと)しとなす」の真意 (tetsu-log.com)
でも「和を以て貴しとなす」の眞意とは此処でも述べられて居るやうに「調和の成就」なのださうだ。
元より其のことは分かりますのですが、でも日本國はまさに今近代文明の先進國家として突っ走って居る訳だ。
其の近代文明の社會を構成する基本的要件とは國や自治體などのデカい組織維持の為の論理と個に於ける基本的人権との闘争過程でせう。
従って其の闘争過程を抜きにしては近現代に於ける時代の基本構造を理解することは不可能となる。
ですので要するにまるで違う思想的土俵に両者は立って居る。
そも其の精神的土俵が違うのにかうして日本國は近代化して来た訳なのでしてよって其処に緒矛盾が蓄積して来るのはむしろ当然なのです。
結論から申せばさうして日本國は矛盾が大きく蓄積して居ることだらう壱種危ない國家です。
また其れは米國や英國よりもまた中國や露西亜などよりもより危ない精神性を有する國家であることだらう。
またつまりは其の日本の國としての思想のピントが外れたところが此処参拾年余りの日本の國力の停滞、いや衰退の様を招いて居ます。
其の部分は勿論自由民主党による壱党支配體制による緒破壊が齎したものでもあらうが實は其ればかりでは無くいや其れ以前に「日本の近代化」の矛盾でありまた精神としての日本が抱え持つ矛盾の様なのです。
故に本質的にはたとえ政権交代が成し遂げられるにせよ其の精神的矛盾を消し去る力などは其処に期待出来ぬことでせう。
ですが兎に角そんな👪主義のバカ政党に日本の舵取りを任すのは良くないことのやうに思われてならない。
其の意味からも今後日本の政治に必要なのは合理性であるつまりは合理化其のものです。
左翼政党もまた問題だらけであり其処は任せ切れぬ部分があるにせよまずは其の「政治に於ける馬鹿」を根絶せしめることこそが近代先進國家としての日本が抱える大命題としての喫緊の課題なのではなからうか。
「和を以て貴しとなす」
此の政治的原理はおそらく封建體制まではむしろ至上の原理として機能するものであったことでせう。
なんですが、時代はすでに廿壱世紀を迎えて居ります。
其の廿壱世紀の時代としての本質部とは「デカい組織維持の論理と個に於ける基本的人権との闘争過程」にこそある。
尤も其れはむしろ廿世紀からずっとさうだったのです。
但し其の「闘争過程」がより複雑化し尚且つより本質的な意味で熾烈なものとなりつつもある。
要するに個としての「生存権」をも脅かす程に其の闘争は熾烈さを増して来ても居る。
しかも其れは先進文明國家としての日本に於いてまさにさうなのだ。
其の「生存権」を守らんが為に我我個としての國民が為すべきことは只壱つ。
其れは「和を以て貴しとなす」封建的思考をあえて封印し自らの頭にて考え判断を下すまさに其の自立的で自律的な意思決定を取り戻す為に政治や宗教、さらに哲學などの分野ーつまりは人文科学、社會科学の分野ーをしこたま御勉強して行くことのみです。
まあ我我日本人は其れで良いにせよ何せかうして世界は広いものですから其れも人口の多い中國や印度やブラジル、またアフリカの緒國などではまた違った意味での社會對個の闘争が繰り広げられて行くのやもしれません。
さて其の「人口増加」の問題は「人口減少」の問題よりもよりタチが悪いです。
「人口減少」は或いは國家を破綻させるのやもしれないが別に其れでもって飯が食えずに皆餓死する訳ではないことでせう。
なんですが「人口増加」即ちウジャウジャと人が無暗に多くなると当然のことですが個としての生存権の確保はより限定的にならざるを得ません。
例えば虫即ち🐜や白🐜また小魚やオタマジャクシ、其れに蠅の幼虫の蛆、さらにダニやら虱やらがああして兎に角ウジャウジャと湧いて来ますが人間もまた實は其れに近いのであります。
でもって決まって生物の♀はのべつまくなしにさうして卵やら赤ん坊やらを此の世に産み落として行くのです。
何故なら其れは生命としての♀の役割なのですから。
なのでまさに其れは本能の為せる業であり理性的にどうかうと云う御話では實はありません。
本能⇔理性
其れ即ち人口問題とはまさに此の對立関係の生き証人のことだ。
其処では其の理性の側の強化が是非必要なのは無論のことです。
何故なら人間は動物とはまた違います。
勿論人間もまた動物ですがより正確には人間は其の半分が動物であるに過ぎない。
なので勿論🐕や🐈やまた🐵とも違うのだ。
なんですがどうも人間=現存在は動物化して来て居るきらいがある。
即ち其の「進歩」をして来たのは自然科学及び科学技術ばかりで實は現存在の頭の中身はむしろ原始退行し即ち動物的にすらなりつつあります。
其れも個人的にはさう見て取れると云う御話に過ぎませんのですが。
其の人類の知能低下に就き論じたものがまさにこちらの書籍です。
知能低下の人類史 - 春秋社 ―考える愉しさを、いつまでも (shunjusha.co.jp)
此れを半分程読んだ感想としてはまさに此の本は壱種凄みのある書籍です。
其れこそ人類史を見据えた上で様様な視点より包括的に述べられた壱種の危機管理本であり文明への警鐘を鳴らす書籍であることは確かなことです。
尚我自身もかねてより人類はむしろおバカ化して来ては居ないかとさう考えて来て居りました。
尤もさう言えば皆は引くことでせうが其れがほんたうのことである可能性は意外と高くあります。
尚感覚を研ぎ澄ませた上での例えば直感や直観の能力などは本能側の盲目的意思決定とは異なるものだと個人的には考える。
但し直感の場合は多分に動物的な側面などもまたあるが直観の方は明らかに其れとは違います。
其処では所謂自然的な感度の良さは直感に繋がり逆に人間的な意味での感度の良さが直観に繋がるのでせう。
直観 - Wikipediaとは智慧にてものを見ることで其れは感覚上の感度の良さとは次元を異とする認識能力のことです。
其の直観はおそらく現存在にしか機能せず直感的なものに限れば其れこそ🐕や🐈や🐵などにも可能なのやもしれません。
いや🐕や🐈や🐵の方が人間の♀などよりも直感力がある可能性すらもがまたある。
尚人間の♂の方がこと直観能力に限れば♀よりもあるものと思われる。
でもってして何を述べて居るのかと言えば其の直観能力がどうも廿世紀以降は特に損なわれて来て居るのではないかと云う点です。
其の直観能力がむしろ原始退行し本能的な何かに変質して来て居ることだらうきらいがある。
其の「原始退行」とはわたくし自身の哲學的な概念であり、主に理性の劣化現象を説明せんが為に考え出した理論的展開のことです。
即ち理性が原始退行すると「名ばかりの理性」と化し要するに偽善化、虚偽化した理性となって仕舞います。
具體的に述べれば例えばかってロバート・オッペンハイマー - Wikipedia博士などはかって米國にて原爆開発に従事し其れを成し遂げました。
ーオッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。ーロバート・オッペンハイマー - Wikipediaより
「我は死神なり、世界の破壊者なり」
まさに此の部分こそが其の科学技術の自己矛盾の様を表現した言葉として有名なものです。
其処にて使われた「科学としての理性」こそがまさに其の「名ばかりの理性」であり「原始退行」を引き起こしたところでの嘘の理性です。
まずは其のやうな「文明の落とし穴」の部分をこそ人文理性はもうクドイ程に見詰めて行かねばなりません。
人文理性とは其の種のマイナスの面からプラスの価値を見詰め且つ其れを本質的に批判することの出来る理性としての領域のことだ。
問題は其の人文理性の機能を最大限に発揮することの其の遥か以前でもって人文理性其れ自體が機能停止するつまりは思考停止に至りまさに∞の如き科学技術の膨張を監視出来なくなって仕舞うことです。
だから其の人文學の學問領域こそが實は現存在の持続可能性を見出して行く上では最も重要な分野となる。
また宗教や藝術の分野も其処に含まれるものと見て置くべきでせう。
其の偽善化、虚偽化した理性ー主に現世利益を追及する理性のあり方ーと闘う為には強靭なる人文理性の力が是非必要である。
尚わたくしはかうして其れを持ち合わせて居ます。
持ち合わせては居ますがまた其れが日日👿の如き本能領域に攻撃され続けて来ても居り正直其の様がしんどいです。
なので我はさうして何故か常に闘わざるを得ない。
むしろ其れが辛いのでどうしたら樂になるかと云うことばかりを追い求めて居たら其の「デタッチメント」なる概念に突き当たったと云う訳です。
尚其の「デタッチメント」なる概念は只の概念かと云えばむしろさうでは無いことでせう。
どだい概念と感覚は相剋し且つ相即する関係性を築き現象するものです。
知性⇔感性
理性⇔感覚
動物其れも🐵以前の動物迄には此の弐項對立での世界観が生じません。
🐵以降其れも現存在のレヴェルともなるとたとえ原始人であるにせよ此の分離認識に基づき行動に於ける意思決定が為されて行くのです。
但し此の弐項對立の認識に基づく世界観を其れ以上に拡張して行けばやがて世界の破壊者其のものとならざるを得ません。
故にむしろ其れを理性の力により「限定」し逆に縮小の方向へと向かわせて行くことこそが望ましい。
其の理性の力とはプラスばかりの価値を生みたがる技術開発文明の力では無くむしろマイナスの価値をも見据える人文理性の側からの申し立てでなくてはならない。
なのですがどうも其の人文理性の力が弱り切るつまりはヘタり込みがちである。
其れもまあ元元ヘタり込み易い人文理性ですのでさうして寝込んでも良いが起きるべき時にはスッと起きてちゃんと仕事をしないとまさに此の世はお先眞っ暗になっちゃうのだ。
だから人文理性は兎に角やらねばなりません、其のプラスの👿共との闘争をこそ。