其れも現在政治思想的には作家の適菜 収氏とほぼ同意見での立場にある。適菜収「それでもバカとは戦え」|日刊ゲンダイDIGITAL (nikkan-gendai.com)
要するに自由民主党は保守政党としての保守政策をやって来て居ないと云う論点にこそ立つ。
其の逆に保守國家としての日本國民への待遇だの誇りだのと云う大事な部分を壊して来て居ると云う見方である。
多幸感に包まれて自画自賛を繰り返す…権力に迎合する「エセ保守」の異常|日刊ゲンダイDIGITAL (nikkan-gendai.com)
例えば此処にて相変らず深い思考を展開されて居られます。
尚保守は合理性を疑うと云うのはまさに仰る通りでのことです。
勿論私もまた其の意味での反合理主義者です。
だけれども其の合理化の面にもまた壱理がある。
合理化⇔非合理領域
本当の意味での理性の意義とは其の両面を同時に理解ししかも履行し得ることなのではないか。
どだい合理化の無い文明などは無くつまりは文明とは合理化の過程其のものです。
文明が合理化の過程である以上まさに此のバランスが崩れがちなのだと思われる。
逆に申せばバランスを保つには合理化の範囲を縮小して行く他は無くまさに其れを行うのがー人文ー理性の働きである。
要するに理性は元來合理領域にのみ住するものには非ず。
さうして理性は理性に捉えられるところでの全體像を把握せんが為のものであるべきだ。
さうしてまずは國があって國民が居るのでは無く、國民が大勢居るからこそ國が出来るのだ。
まさに其処を勘違いししかも米國の革新性に毒され此の封建制國家としての日本に革新政策を布き続けて来た自由民主党の罪はもうどう見ても大きいものがある。
でもってまずは其の部分が壱般の方方にはまるで分かって頂けぬ。
壱般の政治思想のレヴェルとはもし「革命」とでも口にすれば即左翼のレッテルを貼られ「違う人種だ」とさう理解される訳だ。
まあ確かに我もまた半分位は「革命」でもまた良いと思って居るのだが但し其の左と右の論理に落ち着く前にもっともっと大事な「守るべきもの」があるのではなからうか。
まさに其れをこそ死守せねばならぬのではなからうか。
其れは武士道、だとはよもや言わぬが最低限の「日本國民としての誇り」であらう。
其の「日本國民としての誇り」が維持されるのであれば天皇制だらうが革命政権であらうが其れは壱向に構わぬではないか。
でもって其の適菜氏は早稲田の哲學の方を出られて居てむしろバリバリの保守派の方である。
其の保守派の適菜氏がかうしてボロクソに自民党政治を批判して居られる訳だ。
つまりは、
自民党=保守の牙城=日本を守る人達
では無く、
自民党=変革の牙城=日本を壊す人達
なのだ。
まさに残念ながらさうなのだ。
ですが此処までややこしい話を壱般の方方にお伝えすること其れ自體がまた至難の技なのだ。
なのであくまで僕の論理では其れは所謂インテリゲンチャの方方にしか伝わらぬ話となるのである。
また其の分からぬと云うことこそが洗脳を強固に押し進めることの土壌ともなる。
「ではどうしたら良いのか?」
あくまで個人的には左右の思想を同時に見詰めた上でどちらに転んでも良いやうにして置くべきと考える。
と言うよりも其の左右の思想以前に我我日本人が是非學んで置くべきものがある。
まさに其れは日本の國としての歴史過程である。
其の歴史過程の中でも徳川幕藩體制こそが我が國に取り初めて實現した理想的な體制其のものだった。
まあ尾張藩は其れにも関わらず時に其れに逆らったがでも別に将軍家其のものを乗っ取らうとかソコまで反抗して居た訳では無い。
只尾張藩から将軍が壱人も出て居ないことは其れは明らかにオカシイことだらう。ー将軍が壱人でも出れば尾張藩は納得し以降はおそらく大人しくして居た筈だ どだい信長公も秀吉公もまた家康公も全て愛知県人でだから日本の参大都市東京、大阪、名古屋は愛知県人の力にて築かれたのだ だから尾張藩にはしかるべき処遇を与えねばなるまいー
さても「井の中の蛙大海を知らず」なのだらうか?
其れは半分はまさにさうである。
だが徳川幕藩體制はまさに其のことにより統治を「限定」し長きに亘る政権を築いた。
だったら自民党もまさにさうではないか!
其の自民党がやったのはむしろ「限定しない」軍國主義であり全體主義であるに過ぎぬ。
であるが故にむしろ國民の方がさうして疲弊し壊れて行く。
さて後の半分は其れ即ち、
「ただ天の広さを知る」
のである。
つまりは天の広さを知って居て其の知った上であえてさう「限定する」のである。
まさに其れが徳川政権による鎖國主義のやり方である。
つまるところは今後日本の政治が目指すべきところとは戦前の軍國主義を目指すのでは無く徳川幕藩體制をこそ是非御手本として行くべきだらう。
しっかし其れもまた如何にも時代錯誤的な御話ですね。
さには非ず。
少なくとも徳川幕藩體制を學び直すことには大いに意義があらう。
尚少し以前迄我は日本人は「認識其れ自體を変える」べきだとさう考えて居た。
つまりは自律的、能動的に洗脳を解くべきであるとさう考えて居た。
だが今はむしろ「認識を変える」と云うよりも結局「學び」方が足らぬのだとさう思うやうになった。
言うまでも無く「認識を変える」ことよりは「學ぶ」ことの方がよりハードルは低い。
だが其れでも御勉強の癖が付いて居ない壱般の人人に御勉強せよと言うのは結局のところはハードルが高くなることだらう。
だけれどもネット上にはまた幾らでも「學び」の場がある。
まさに學ぼうと思えば幾らでも學べる状態にある。
だから其の状態をまずは前向きに捉えてみる。
其れもネット上でのゲームだの御喋りだのに惑わされず積極的に「學び」の場の内容を具に読みさうして日本の歴史の素晴らしさを再認識してみやうではないか。
また重要なのは日本の歴史が何も天皇制壱本槍なのでは無くさうして武家政権がほぼ理想的な體制を布いた時期がしかとあったことなのだ。
なので其処からしても藩閥政府が定めたやうな天皇の神格化政策はどうも歴史との辻褄が合わない。